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輪廻の蠱毒 ~ある医療詐欺師の不運な日々~

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 大学病院から左遷され、詐欺同然のがん免疫療法に携わることとなった神宮寺樹は殺された。殺されたはずだった。
 だがブラックアウトした視界が開けた瞬間、彼は最初の日に巻き戻っていた。
 そう、この僻地にある青崎総合病院へ赴任したその日に。
 しかしそれは幕開けに過ぎなかった。
 向けられる悪意に翻弄され、何度も何度も殺され続ける樹。
 不可思議で最低極まりないこの輪舞曲は何の仕業なのか、そして彼を殺し続けるものは何者なのか。
 悪意の螺旋に囚われた青年は蠱毒の中で生を叫ぶ。

1位の表紙

2位

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プロローグ

 逃げる、逃げる、逃げる。

 混濁する意識をどうにか維持しながら、少しでも遠くへと這うように歩き続ける。

 霞み続ける視界と押し寄せてくる眠気。

 まるで深夜の救急外来には飛び込んでくる酔っぱらい以上に、今の俺の足取りは乱れに乱れていた。

 でも、そんなことは些細な事だ。

 今は少しでもここから離れることが寛容。

 逃げなければ……そう、絶対に殺されるのだ。

 何の躊躇もなく。

 何の意味もなく。

 病院の一角にある閉鎖された病棟。

 誰もいないその廊下を、俺はただ前に前にと進み続ける。

 ここで意識を睡魔の求めるままに手放せば、間違いなく同じ目に遭うのだろう。

 これまでそうであったように、そして同じ部屋に寝かされていたあの三人のように。

 一歩踏み出すごとにフラッシュバックする記憶。

 俺が目にしたものは、ただ赤一色に染められた病室だった。

 そこは本来ならば、誰も収容されるはずのない閉鎖病棟。

 その一室には、赤い彩りをまとった四名の患者が存在した。

 俺以外の皆は無残なほどに刃物によって切り刻まれた状態で。

 空間に溢れかえっていた異様なまでの死の香り。

 十分すぎるほどの人の生死を目にしてきたこの俺でさえ、こらえきれず胃の中身をそこへとぶちまける。

 未だ口の中に残る嫌な酸味と、わずかに交じる鉄臭い血液。

 おそらく胃の中身を吐き出す際に、食道と十二指腸のつなぎ目が裂けたのだろう。所謂、マロリーワイスと呼ばれる症状だ。

 でも今はそんな最低な事実にさえ感謝する。

 この口と胃に残る嫌悪感と違和感が、今この時も俺の意識をこの現実につなぎとめてくれているのだから。

 俺は自らの白衣の袖で、口から飛び出す唾液混じりの吐物を拭き取る。

 ああ、間違いなくしてやられた。

 奴に嵌められたんだ。

 我ながら偶然や誇大妄想などという人の良い解釈を、よくもまあしていたものだ。

 あの時も、そしてあの時も……俺は嵌められていたのに。

 こみ上げる怒りで、めまいがしそうだ。

 でも、今はダメだ。

 この体に盛られた薬剤が抜けるまで、意識を手放す訳にはいかない。

 この体に入れられた薬物が何かはわからない。

 でも残っていた右手の点滴ルートが、間違いなくその証拠だ。

 唯一のやつの誤算は、俺が目を覚ましたことだろう。

 作用時間の見積もりが甘かったんだ。

 患者にはとても言えないが、この時ばかりは酒浸りになっていたここのところの生活に感謝する。

 人生から逃げるために酒に溺れていなければ、全てが奴の思い通りになっていたのだろうから。

 ――だが。だが、救いといえるものはそれだけだ。

 目が覚めたときには院内PHSも私用のスマートフォンも、既に取り上げられていた。

 更に忌々しいことにこの階の病室には連絡方法がない。

 この病棟は閉鎖が決まって以降、ろくなメンテナンスもされず廃棄されていた。

 そのことは院長から“全く同じ説明を四度”も受けたから間違いはないだろう。

 管理放棄の行き着いた先がこの結果となれば、毒づく権利は十分以上にあるだろう。

 だが今は院長の顔をぶん殴ることよりも、この場をどうするかだ。

 奴の狙いは明確。

 間違いなく、この俺を監禁するつもりだったのだろう。

 殺すことが目的なら、とっくに頭と首は繋がってはいないはずだ。

 とはいえ、監禁するだけなどというお優しい奴ではない。

 短期の監禁は、必要な時に速やかに俺を殺すために……だ。

 忌々しい。

 ああ、忌々しい。

 絶対に、そう、もう絶対に好きにはさせない。

 奴に一泡吹かせてやる。

 だからこそ逃げる。

 今はここから逃げる。

 どんな無様な足取りだろうと、どんな無様な姿であろうと。

 全ては奴の正体を暴き、復讐の時を迎えるためだ。

 何も掴むこと無く、今回も沈むわけには行かない。

「しかし奴は何のために……それに何故、俺なんだ」

 苛立ちと怒りと困惑と恐怖。

 それが入り交じる脳内で、その疑問は何度も何度も浮かび上がってくる。

 そう、薬を盛られた今だけじゃない。

 最初に昨日が始まってから、おそらく“百時間”以上抱き続けている疑問。

 もちろんこんなまどろんだ頭では、答えなど出るわけがない。そんなことは誰よりも俺がわかっている。

 でも、それでも考えずにはいられない。

 一体、この悪夢は一体いつまで――

「い、イヤッ!」

 突然響いた声。

 それは目と鼻の先にある下り階段の方向から発せられた。

 途端に、俺の足はその重さを増す。

 頭で考える前に、体が感じ取ったからだ。

 この先でまさに今、新たな犠牲者が出ているのだと。

 死にたくない。

 もう死に向かうところになど進みたくない。

 でも、それでも間に合うのなら救いたい。

 相反する感情。それが俺の中でせめぎ合う。

 だが僅かばかり冷静な自分は、そっと自分の耳元にこう呟く。

「死と引き換えにしても、奴を目にするチャンスじゃないか?」

 ああ……ついに俺もそんなことを考えるようになったのか。

 確かに理屈の上ではわかる。

 今の自分の命と引き換えに、奴の正体を掴めるのなら安いものだ。

 この悪夢は、おそらく奴の影を掴まない限りは終わらないのだから。

 狂った計算。

 自分の命を天秤にかけるなど、正気の沙汰ではない。

 だが、俺は選んだ。

 前へと進むことを。

「じ、神宮寺……先生……」

 廊下の曲がり角に設置された下り階段。

 その先にある踊り場に、地面を赤く染めながらうずくまる女性の姿が存在した。

「……如月さん!?」

 そこに存在したのはつい昨日、俺のスタッフとなった看護師。

 二十代半ば過ぎと行った印象の彼女は、もともと色素の薄い肌を真っ赤な血液で赤く染め、苦しそうに胸を押さえうずくまっていた。

 俺はふらつく足取りながらも、急ぎ階段を下りていく。

 途端にフラッシュバックする記憶。

 階段から転落死。そして同時に走った背部の幻痛。

 そう、背中に刃物を突き立てられた上に階段から突き落とされ、痛みとともにあの時は視界がブラックアウトしていった。

 その記憶が脳内に流れ込むなり、再び激しい嘔気が込み上げてくる。

 でも、それを必死に飲み込む。

 維持と理性と責任感。

 それがこの足をまっすぐに彼女の下へと歩み寄らせた。

 だが辿り着いた先で、彼女は咳き込むと同時に俺に向かい赤い液体を吐きつける。

「先生……誰かが……急に……」

 そう口にしながら、彼女はすがりつくように、俺に……俺に抱きついてくる。

 あまりに軽く、そして華奢な彼女の体。

 それを受け止めた俺は、迷わず問いかける。

「何があったんだ?」

 軽く彼女を揺さぶりながら、俺はそう問いかけた。

 もはや敬語も何もない。ただ答えだけを彼女に求める。

 だが彼女はわずかに首を左右に振ると、そのまま目を閉じた。

 途端、俺の体は硬直する。

 違う、硬直ではない。動かないのだ。

 手足が動かない、顔も首も動かせない。

 それどころか息もできない。

 何があった。

 何があった。

 何があった。

 周りはどうなっているんだ。

 わからない。

 わからない。

 わからない。

 くる……し……い……

 そして俺は重力に従うまま、彼女にもたれ掛かるようにして倒れる。

 それが五度目となるこの俺の死に方だった。

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とじる

第一話 左遷(9月1日15時00分)

 穏やかな……そう、あまりに穏やかな空気を感じていた。

 これまでの上司が僅かにさえ漂わせたことのない空気、それがこの清廉さを感じさせるやや地味な院長室には存在していた。

「以上が当院の医局規約となります。何かご不明な点はありますか、神宮寺先生」

 目の前の初老の男性は、わずかに心配げな視線をこちらに向けながらそう問いかけてくる。

 その表情はやや緊張感を伴ったものであり、本来ならば部下とも言うべき立場としては、些か申し訳なく感じるものであった。

「いいえ、何も。これからよろしくお願いいたします」

 俺がそう告げると、この青崎総合病院の院長である中澤先生はホッとしたように息を吐き出す。

 そして手にしていた医局規約、つまり医師としての院内での取り決め表を執務机の上に置くと、改めて表情を緩めながらその口を開いた。

「いや、良かったです。実はこの青崎を見て、もしかしたら赴任を取りやめると言われるのではと、そんな心配をしておりましたので」

「取りやめる……ですか。なにかそう思われる理由でも?」

 思わぬ物言いに対し、俺はわずかに首を傾げる。

 もちろん正直なことを言えば、今すぐ辞めたくなる理由は星の数ほど存在している。

 だがそれらは全て、あのクソッタレの教授とのやり取りに起因するものだ。間違っても初対面である人の良さそうなこの院長が原因なわけもないし、俺の抱えている事情を知っているとも思えなかった。

 実際、そんな予測はやはり但しかった。

 なぜならば、完全にピントの外れた答えを眼前に立つ中澤院長は返してきたのだから。

「いや、先生がおられた都心の大学病院周りと違い、ここはあまりに田舎ですからな。たまに当地に実際に来てから、心変わりする者は少なくありませんので」

 それだけ述べると、中澤先生はやや気恥ずかしげに苦笑を浮かべる。

 その見た目とたった今交わしたばかりのやり取りを踏まえ、かなり苦労をされているんだなと気づいた。

 院長に関しては赴任前からまだ五十代後半であると聞いてはいた。

 だがこうして本人を目の当たりにすると、薄くそしてしなだれた彼の白髪のせいか、それとも僅かにやつれた頬のくたびれ具合からか、多少贔屓目に見たとしても実年齢より十歳以上は上に見える。

 ほぼ僻地とも言えるこの場所で、この規模の医療機関を背負って立つという苦労はかなりのものだろう。

 青崎市。

 人口五万人ほどのこぢんまりとした田舎の小都市であり、首都圏はもちろん、

県庁所在地からもこの地は遠く離れていた。

 実際に先程この院長室へと案内してくれた事務員の女性は、初対面にも関わらず自嘲気味に「陸の孤島へようこそ」などという言葉を向けてきた。

 彼女の言葉選びは如何なものかと思うが、実態を表していないのかと言えば嘘だと言えよう。

 昨日引っ越してきたばかりだが、街の中心部にある駅前のシャッター街ですら、夜の二十時を過ぎると全く人通りがなくなっていた。その光景を目にして以来、人口五万人という触れ込みは眉唾ものだと感じている。

 そんな衰退しきった街に存在する唯一の総合医療機関、それがこの青崎総合病院だ。

 現実問題として、過疎地域などの高齢化した人々の有病率は、都会のそれとは比べ物にないほど多い。

 医師不足必至の僻地病院に、病気の高齢者達が毎日のように大挙して受診してくるわけで、俺の目の前に居る責任者の苦労は推して知るべしなのであろう。

 とまあ、まるで他人事のように偉そうな批評を行ったこの俺であるが、本来ならとてもではないが上から目線で評価などできる立場にはない。

 これまで関連病院でさえなかったこの病院へ、大学から厄介払いの体で半強制的に送り込まれてきた立場なのだ。更に恥ずかしいことに、医療倫理や常識とはかけ離れた診療を強いられる形でである。

「それでは先生、これから当院を案内させて頂きます」

 胸のうちにしまいこんでいた苦い記憶が蘇りかけたところで、中澤先生がタイミングよくそう口にされ、俺は意識を現実に引き戻される。

 全ては終わったこと。

 医局内政治での敗者には、このドサ回りがお似合いなのだ。素直に受け入れるべきであろう。

 少なくとも、自分が守らなければならない研究と、そして後進たちのためにも。

 人の良さそうな中澤先生に気づかれぬよう小さく溜め息を吐き出し、俺は思考と気持ちを切り替えると、彼に続く形でこの院長室をあとにした。

「御覧頂いたように、この二階は主に入院用病棟になっています」

 院長室のあった三階に続いて案内された二階病棟を前に、中澤先生はニコリと微笑みながらそう告げられる。

 それを受けて、軽く顎に手を当て考え込んだ俺は、一月になった点を問いただした。

「その、すこし部屋数が少ない気がしますが……」

 病院の三階は医師の詰め所である医局と職員食堂があるのみで、患者のための病室はない。それ故に、この階に入院機能が集中しているとするならば、病室とベッドの数が著しく不足していると思われた。

 しかしそんな些細な懸念は、中澤先生によってあっさりと笑い飛ばされる。

「はは、入院機能は主に向かいにある新館が担っていますので」

「新館……ですか」

 思わず首を傾げると、中澤先生は小さく首を縦に振り、そして廊下の窓の先を指差してくれた。

「こちらに来られる際にご覧になりませんでしたかな? 窓からも見えるあの建物がそうですよ」

「なるほど、新館というだけあってほとんど新築のようなものですね」

「ええ。もともとこの本館の山手側に入院病棟が別にあったのですが、街の高齢化の影響か些か手狭となりまして。なので、一昨年に入院機能をあちらの新館へと移転したのですよ」

 正直、この赴任にもこの病院にも興味が持てていなかったこともあり、この青崎総合病院へ初めて足を運んだ今朝の段階で、周囲の建物には注意を払っていなかった。

 だからこそはっきりと建物の存在を認識してはいなかったが、言われてみると確かに、この本館の前後に古めかしい建物と真新しい建物が存在していたような気がする。

「ちなみに以前使われていた病棟はどうされているんですか?」

「設備が昭和時代のままでしてね、倉庫代わりくらいにしか使っとらんのです。何しろ壊すのにも、予算と言うものがそれなりにいりまして」

 中澤先生は一階へ向かう階段を下りながら、軽く肩をすくめつつそう述べる。

 そうして一階にたどり着いたところで、目の前には緑の空間が飛び込んできた。

「しかし建物の中央に広い中庭があるのは良いですね」

 ロの字となっている本館の中央に存在するやや大きめの中庭。

 それを目の当たりにして、何気なくそう口にした。

 すると、前を歩く中澤先生は怪訝そうな表情を浮かべながら足を止める。

「そうですか?」

「ええ、前任地では緑らしきものなんてなかなか目に出来なかったですので」

 都市部に存在していた大学病院勤務時代は、患者数や職員数に比べ建物がとにかく手狭だった。

 それに比べれば、以前の旧館をそのままにできるほど土地に余裕があることは、正直に素晴らしいことだと言える。中でも、この目の前にある中庭はそんな緑を取り入れたこの病院の象徴のように思われた。

 しかし感慨深く中庭を眺める俺に対し、院長である中澤先生は何故か困った様子を見せる。

「大学ですと手狭なのはやむを得ませんでしょう。でもここでは自然なんて珍しくはありませんし、この中庭を見て喜ぶ人はあまりいませんよ」

「はぁ、そういうものですか」

 確かに言われてみると、街の周囲を山に囲まれているような土地柄である。俺にとっては率直に物珍しいと感じたところではあるが、見飽きたと言われてみればその通りなのかもしれない。

 俺は小さく頷き、なるほどとばかりに納得をする。

 するとそんな俺に向かい、中澤先生が更に思いもかけぬ発言を続けてきた。

「むしろ中庭が残っているのは、ここは工事をする上で、少し手を付けづらかったことが理由ですので」

「手を付けづらい?」

 真剣な表情で語る中澤先生に対し、俺はそのまま問い返す。

 正直言って、院長の言葉の意味するところがわからなかった。

 すると、中澤先生はわずかに迷った様子を見せながら、再び廊下を歩き始めると背中越しに話し始める。

「……この土地は明治時代までは神社の境内でしてね、その土地を明治政府より医療施設用にと譲り受けて作られたのが、ここの前身となる青島診療所だったのです」

「神社……ですか。それで中庭の一角に小さな稲荷狐と鳥居が残っているのですね」

 そう、先程の階段から下りた角度からは死角となっていたが、中庭のやや奥手には目立たぬ程度のこぢんまりとした鳥居があった。そしてその側には小さな狐の石像がちょこんと鎮座している。

「もともとウカノミタマを祀った神社だったそうです。ですが、旧幕軍をかつての神主が匿ったことで、そのような払い下げが行われたようでして」

「廃仏毀釈なんてものを昔に習った記憶がありますが、神社でも取り潰されたところがあったのですね。いやはや、土地に歴史ありとは言いますが……」

 かつて大学受験の際に日本史をかじった程度の知識しかなかったが、院長の説明は俺の浅い歴史知識を少しばかり刺激するものであった。

 一方、そんな興味深い話を披露した当人は軽く頷いたのみで、そんな歴史的な積み重ねに何か思うところがある風はなかった。それどころか、思いもかけぬことをサラリと述べてくる。

「実は中庭も今度の工事の際に無くす予定にしています。まあそのあたりは少しばかり先生にも関わりますので今度ゆっくりと……ひとまずは先生のスタッフの元へ急ぎましょうか。ちょっと待たせておりますので」

 院長はそれだけを俺に告げると、再びやや早足で俺の前を歩き出す。

 そんな彼の背中を追いかける形で、俺は一階の最奥にある診察室の扉をくぐった。

「遅かったですね、院長先生」

 部屋に入るなり突然向けられた若い女性の声。

 それは部屋の奥に佇んでいた華奢な若い女性の口から発せられた。

 一般的な医療機関における服飾規定ギリギリの長い黒髪、そして透き通るほどに血色の薄い白い肌。

 その二つの色のコントラストが、彼女の透き通るような美貌を周囲と隔絶させるかのように主張する。

 思わず目を奪われてしまった俺に対し僅かに口元を緩めると、ピンク色のナース服に身を包んだ彼女は、そのまま棘の混じった視線を中澤先生へと向けた。

 途端、中澤先生は軽く頭を掻きながら謝罪の言葉を紡ぎ出す。

「すまんね、みのりくん」

「ふふ、冗談です。それよりも、こちらが今回赴任された先生ですか」

 中澤先生からみのりと呼ばれた女性は、肉体労働職としても知られる看護職に不似合いなほど細い四肢を伸ばし、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。

 その体型から僅かな心配を一瞬覚える、

 だが血色の薄い彼女の手の甲には、その白い肌に直接マジックで少なからぬメモが書き込まれており、やや強い彼女の視線も相まって少なくとも仕事ができないという印象を抱くことはなかった。

 もっとも、せっかくの透き通るような肌をマジック痕で汚すのは些かもったいないとは思ったが。

「神宮寺樹です」

 俺は軽く頭を下げ、それだけを述べる。

 すると、目の前の彼女は意味ありげに右の口角を吊り上げ、そして自らの名を口にした。

「如月みのりです。大学からせっかく来ていただいたと言うのに、当面は先生のスタッフは私だけらしいです。色々とご迷惑をおかけするかもしれませんがお手柔らかにお願いしますね」

 ちらりと院長に視線を向けながら述べられたその言葉。

 それを受けて、これは意外と手強い仕事相手かもしれないと心の中で軽く警鈴を鳴らす。

 だがそんな俺の内心など露も知らぬ中澤先生は、隣から慌てて言葉を挟んできた。

「いや、その、神宮寺先生。勘違いして頂きたくないのですが、理事長にも既に掛け合っておりまして、スタッフは早期に増員させるつもりです。ただ何分立ち上げなので、最初は患者数も少ないでしょうし……」

「確かにそうでしょうね。理解していますので、大丈夫です」

 院長職にある経営側の人間としてはもっともな判断だと思い、俺は軽く首を縦に振る。

 すると如月という若い看護師は、こちらに向かい意味ありげな笑みを浮かべてみせた。

「ダメですよ、こういう時はもう少し強く言っておいた方が良いですよ。じゃないと、先生が忙しくなった時にも、上の人たちは増員を見送るかもしれませんから」

「本音は君が楽をしたいだけじゃないかね?」

「あ、わかりました」

 僅かに棘の混じった中澤先生の指摘に対し、如月さんはイタズラのバレた子供のような表情を浮かべる。

 そんな彼女を目の当たりにして、中澤先生は小さく頭を振りながら俺の方へと向き直った。

「ともかく彼女とは別に、受付事務をこちらに一名待機してもらうつもりです。ただ事務職員に関しては、申し訳ないですが最初は日替わりとなるかと思います」

「別に構いません。私もスタッフも少しずつ慣れていければと思いますし」

 これまでに存在しない全くの新規部署を立ち上げるのである。全てが計算通り行くはずがない。

 となれば、ひとまず運用を開始してみて、少しずつ微修正を加えていくのが最善だろうと思われる。

 しかしながら、そんな意図を含んだ発言に対し、意外な反応を示した人がいた。

 そう、うちの科の担当看護師となった如月さんである。 

「ふぅん……なるほど」

「どうかされましたか?」

 顎に手を当てながら意外そうな表情を浮かべる彼女に対し、少なからぬ違和感を覚えながらそう問いかける。

 すると、いつの間にか如月さんはその口元に意味ありげな笑みを浮かべていた。

「水素水とか高濃度ビタミンとかが連日ここに運び込まれてて、やることは詐欺まがいといわくつきの“がん免疫療法”でしょ。どんな方が来られるかと思いましたけど……ふふ、たぶん先生となら上手くやっていけそうです」

 配慮や遠慮などとは無縁のその言葉。

 それが発せられるなり、隣に立っていた院長は薄くなった頭をくしゃくしゃと掻きむしる。

 そう、これから手を染めるのは俺自身詐欺にも等しいと考えるがん治療。

 不十分な根拠と怪しげなエビデンスで癌患者を食い物とする、がん免疫療法という名を借りた悪辣な集金ビジネスに他ならなかった。

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キャラが持つ闇みたいのを感じる会話がそそりますね。

sacman

2017/11/20

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とじる

第2話 医局会(9月1日17時00分)

 がん免疫療法。

 科学的根拠の乏しいがん治療を、元々俺は疑似科学療法や詐欺療法などと揶揄してきた。

 そんな俺が責任者としてこの青崎総合病院に赴任してきたのだ。俺自身が散々揶揄してきた怪しげながん免疫療法を行うために。

 これから自分が進む道を直視しかねるほどに、保険の利かない全額患者負担のこの治療法に対して、俺自身深い嫌悪を覚えている。

 もちろん免疫療法の中にも抗PD-1抗体薬などという科学的にも効果の明らかな本物は存在する。だがこの施設で俺達が使う予定の……いや、使わせられる予定の薬は、そんな効果がはっきりとわかっているものではない。

 効くという科学的裏付けがほとんどないものの、そして何より効かないという科学的裏付けがないことから、宗教に近い形で世の中に蔓延した代物なのだ。

 自分の感情だけに従って生きられるのならば、赴任した今日限りですぐに辞表を出したい。それが紛れもないこの俺の本心だ。

 ではそんな怪しげな治療を何故俺がすることになったのか。

 それは教授からの圧力、医局政治の結果、長期的な研究資金の確保、正直言って理由をあげればキリがない。

 だが最大のものは、この青崎市からの莫大な寄付金に他ならなかった。

 市内で唯一の病院であるこの青崎総合病院が寄付講座を大学に設置したのはつい先日のことだ。

 もちろん過疎地域に関して言えば、医師派遣のために大学の医局に寄付金を送る自治体は少なくはない。

 実際にこの提案を画策したのは選挙を控えた青崎市長と言う話ではあるが、何れにせようちの医局にとっては寄付講座の存在は魅力的であり、青崎総合病院にとってもがん免疫療法の収益は魅力的といえた。

 そんないけ好かない裏事情が垣間見えた故、もちろん俺はこの赴任を一度は断っている。そう、二年後の人事的な配慮など幾つかの飴を提示されてもだ。

 しかしながら携わっていた臨床研究への圧力と、そして俺の祖父も入院している地元病院の医師引き上げに繋がることを示唆された時、ついに俺は首を横に振ることはできなくなった。

 俺の下にいた院生や研究者たち、そして故郷の人々。

 彼らとこの地のがん患者とを俺は天秤に載せたのだ。

 そして俺は――

「どうぞ先生、コーヒーです」

「……ありがとう。如月さん」

 暗い思考を遮ってくれる形で、免疫療法室の担当となった如月看護師は、俺に向かい湯気の立つコーヒーカップを手渡してくれる。

 そう、既に出した結論は今更変わらない。

 ならば、できる範囲の中でこの人達とやるしか無い。

 そう開き直った俺は、コーヒーカップを鼻下へと近づけると、その薄い香気を軽く感じ取り、小さく息を吐き出した。

「期待されていたら申し訳ないですけど、ただのインスタントです」

 口元ではなくまず鼻下にコーヒーカップを近づけた俺の姿を目にして、如月さんは苦笑混じりにそう口にする。

 既に院長は立ち去り、免疫療法室と言う真新しいプレートを掲げられたこのカビ臭い部屋には、この俺と担当看護師となる如月さんだけが残されていた。

 そんなたった二人となった部屋の中で、俺は僅かな気恥ずかしさを感じると、空いた手で慌てて軽く頭を掻いた。

「ああ、いや、これは癖みたいなものでして」

 インスタントでも特別に焙煎された豆でも、全てその香りを楽しんでから口へと運ぶ。いわゆるコーヒー通などでは無い俺ではあるが、それは唯一と言っていい自分の中でのコーヒーを楽しむルールであった。

 ただいずれにせよ、インスタントの弱い香気以上のものはもちろん感じ取れるわけでもなく、俺は苦笑交じりにコーヒーを口へと運ぶ。

 うん、極めて普通。

 そしてだから良い。

「先生って、インスタント好きなんですか?」

「……どうだろう。ただコーヒーに限らず、余りこだわりは無い方だと思うがね」

 如月さんの問いかけを受け、少し自分の趣味を見つめ返しながらそう述べる。

 少し迷うところではあるが、こだわりなどと呼べそうな趣味は些か乏しい自覚はあった。

 もちろん人並みにスポーツを嗜んだこともあるし、人並みに音楽に手を伸ばしたこともある。

 ただ買ってもらったサッカーボールは川に落としたきり行方がわからなくなったし、バイト代をはたいて購入したギターは一度弦が切れたきり触らなくなった。それ以外にも手を伸ばそうとした趣味はいくつかあったが、現在まで続いているものなどろくに無いのが正直なところである。

「へぇ、そうなんですね。でもこだわりがないと言われる割には、インスタントコーヒーを飲む姿が堂に入っていましたけど。それに先生は部屋とか建物も新築が好きなんですよね」

「新築が好き? どういうことかな」

 何気ない形で発せられた如月さんの言葉。

 それに違和感を覚えた俺は、すぐさま聞き返す。

「え……中庭を潰して、新しいがん免疫療法室を建てる。それが先生の出された赴任条件と聞きましたけど」

「いや、知らない話なのだが……」

「ちょっと来て下さい」

 眉間にしわを寄せた如月さんはその言葉と同時に俺の手をつかむと、先程中澤先生が見せてくれた中庭へと案内してくれる。

 そこで俺が目にしたものは、廊下からでは気づかぬ位置に打ち込まれた測量様の杭であった。

「先生の赴任が決まった時点から、準備が始まっているんですよ。何しろ新築の専用部屋を作らないと赴任しないってごねてたと伺ってましたので」

「別に治療に当たる部屋になんて、こだわりなんて無いんですが……いや、もしかすると」

 俺の脳裏に初老の男性の顔が横切った。

 久世隆弘。

 我が愛すべき上司にして第三内科教授にして、やり手である彼ならば何らかの条件を突きつけていたとしても違和感はない。

 むしろ俺のこの病院への派遣に教授だけではなく、選挙を控えるこの街の市長が関わっていることから、この土地の土建業者などと何らかの密約があったとしても驚きはしないだろう。

 そして政治屋などとも揶揄されるうちの久世教授ならば、まず間違いなくそのあたりの案件に一枚噛んでいるだろう。むしろ関わっていない方が違和感を覚えるところだ。その上で俺からの赴任条件ではなく、うちの医局から出した赴任条件が専用の診療スペースの建設なのだとするならば、一つ筋が通る。

「先生、どうかされました?」

 顎に手を当てながら考え込んでいた俺に向かい、如月さんが顔を覗き込むように首を傾げる。

 この仮説にはそれなりに確信はある。

 ただ何らの物証もないし、仮にこの仮説が事実だったとして何ら意味はなかった。

 だからこそ、如月さんに軽々とこの予測を口にすることは憚られた。とはいえ、このまま教授たちの便利道具扱いされるのも些か癪に障る。

 となれば……

「確かここは元々神社だったんですよね」

 そう口にした俺は小さな鳥居の側に立つ稲荷像へと視線を向ける。

 九つの石の宝玉を咥えた稲荷像。

 それはあまりに何の変哲もないものであったが、俺の中では一つの役割をそこに見出していた。

「え、ええ。そうらしいですが、それが何か?」

「いや、院長先生にも言ったのですが、せっかく歴史ある中庭なんです。些かもったいないなと思いまして」

 そう述べたところで、俺の意図が掴めないからか、如月さんはやや困惑気味の気配を漂わせる。

 一方、そんな彼女のに向かい、俺はいたずらっ子のような笑みを見せ再び口を開いた。

「ですので、患者さんの前に一つこのお稲荷様を守ってみようかと思うんです。壊すのは簡単でも、もとに戻すのは難しい。それは人間のでも、土地の歴史でも同じですから」

 俺がそう口にした瞬間、鳥居の横に据えられた稲荷像の目が、光の反射からかわずかに鈍く輝いたような気がした。

「……どういうことですかな、神宮寺先生」

 夕方より行われた医局会。

 月に一度、院内の医師が全員出席する形で開かれるこの会議において、今日の主役はこの俺であった。

 もちろんそれは、赴任してきたばかりの俺の紹介というのが本来の理由である。

 しかしながら挨拶時に付け加えた一つの提案によって、主役というその言葉の意味は大きく変わってしまっていた。

「中澤先生。だから先程申しましたとおり、中庭に新しい診療室の建設は不要という話ですよ」

「不要? ……ちょっと待ってや」

 静まり返った会議室内において、俺の発言を受けて最初に反論をのべんとしたのは、無精髭を生やした一人の男。

 山田誠二。

 俺は彼のことを知っていた。

 何故ならば彼は、かつて机をともにしたことのある唯一の顔なじみなのだから。

「どうかしましたか?」

「どうかしましたかちゃうわ。お前の依頼で工事は進んでいたはずやで。やからうちの新しい内視鏡導入は送られたんや」

「山田くん、それとこれは別件だろう。うちも新規の高周波手術装置の導入依頼を控えたんだぞ」

 内視鏡医である山田の発言を受け、外科に所属する本城という名の眼鏡姿の男は不快そうにそう告げる。途端、場の空気が凍りつくと、彼ら二人は互いに睨み合った。

 一種即発の空気。

 それを崩すような形で最初に声を発したのは、院長である中澤先生のとなりに座っていた恰幅の良い中年の男性であった。

「山田先生も本城先生も落ち着いてくださいな。そのあたりの話は医局会ではなく、来月の機材購入委員会ででもやってもらえませんかね」

「ですが、山下先生……」

「本城先生。今日は大学から新しい先生が赴任されて来た日ですよ。別に工事がどうこうを決定する場でもないですし、意見の一つとして聞かせてもたったらいいじゃないですか。もちろん先生達の機材の話も、意見の一つということではありますが」

 確か医局長を努めていると紹介された麻酔科の山下は、掴みどころのない笑みを浮かべながら、窘めるような口調でそう告げる。

 すると、これまで一切発言をすることがなかった体格のいい整形外科の妹尾副院長が、ぐるりと周りを見回した後に言葉を挟んできた。

「しかし都会から来られた先生は、きっぱりと意見を言われて気持ちいいものですな。なかなか地方勤務が長くなると、どうにも口が重くなりがちですから」

 それだけを述べると、飯尾はカラカラと笑う。

 そしてその笑い声が落ち着いたところで、医局長の山下が再び俺へと視線を向けてきた。

「まあ何れにせよ、今日のところはうちの病院へよろしくと言うところですな。では本日はこれまででいいですかな、中澤院長」

 そう口にすると、山下先生は中澤先生へと話を振る。

 そこには戸惑いながらも苦く頷く院長先生の姿があった。

「神宮寺、ちょっとええか」

 医局会が終わり、新館の二階にある会議室から医師たちが次々と退室していく中、俺は突然背後から声を向けられる。

 振り返った俺が目にした人物。

 それは先程、この病院唯一の内視鏡医であり、そしてかつての同級生である消化器内科医の山田だった。

「……何かな?」

「うちの病院は今日からやろ? 実はこの近くにええ飲み屋があるんや。ちょっと面貸せや」

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とじる

第3話 旧友(9月1日23時00分)

「で、どういうつもりなんや?」

 初めて足を運んだ狭いバーの中で、やや低く探るような声が俺へと向けられる。

 独逸屋。

 この青崎市においては知る人ぞ知る名店らしい。もっとも隣でムッツリとした表情を浮かべる山田の言葉が正しいならばだが。

「どういうつもりも何も、自分の希望でここに来たわけじゃないさ。君とは違ってね」

「そういうことを聞いているんやない」

 それだけを口にすると、かつての級友たる内視鏡医は、ムスッとした表情を浮かべマティーニをあおる。

 すると、そんな彼の反応を目にして、隣で静かにシャーリーテンプルを楽しんでいた女性が微笑を浮かべその口を開いた。

「山田先生の気持ちもわかる気がします。何しろずっと内視鏡室の拡充を言われていたんですから」

「内視鏡室の拡充……か」

 山田に誘われる形で同席してきた如月さんの言葉を受け、俺はそのまま隣の男の顔を覗き込む。

 すると彼は、軽く舌打ちをしてみせた。

「この街にはここしかまともな内視鏡センターがないんや。道具がないからってよそに押し付ける前に、自分でどうにかできるようせなあかんやろ」

「なるほど。いや、言ってることはわかる。だけど、俺に言われてもな」

 それだけを述べると、俺は軽く肩をすくめる。

 正直に言えば、医局会での発言も踏まえ、彼の言い分はわからなくもない。どうも彼の内視鏡室設備の拡充や、外科の器具の導入は、俺のこの病院への赴任を理由に却下された節があるからだ。

 だからといって、その愚痴を向けられたところで何かできるわけではない。むしろ中庭の工事予算を蹴ろうとしていることを受け、少しくらいは褒めてほしいくらいだ。

「ふん、お前の魂胆はわかっとる。詐欺の片棒を担がされるから、その負い目から中庭の工事に反対した。そうやろ?」

「別に罪の意識があるわけじゃない。詐欺の親戚だとは思っているがね」

 それだけを口にすると、俺は自嘲気味に薄く笑う。

 別に工事に反対したことに高尚な理由はない。ただ教授が描こうとしている絵を壊してみたかっただけだ。

 何しろここに赴任しろとは命じられたが、工事に反対するなとは言われていないのだから。

「ともかく、やめへんか、あんな治療に手え出すん。あんなん、金に困った奴がモラルと美学を売り渡してやることやで」

「そう言われても、宮仕えの悲しいところでね」

「なんちゅうか、お前にも色々あるんやろけど、わざわざ経歴を汚す必要はないやろ」

「いや経歴をって意味なら……」

 俺はそこまで口にしたところで、慌てて口をつぐむ。

 その先に続く言葉は、決して目の前の人物に向けるべきではない。少なくとも自分より先にこの街に来ることになった山田には。

 だがそんな俺の気遣いを察したのか、目の前の無精髭の男は軽く舌打ちをする。

「わいはええんや。もともとここが地元やからな。やから今更経歴なんか関係ない。やけどお前は違うやろ」

 それだけを口にすると、山田は俺の方を軽く小突いてきた。

 グラスが傾き中の液体がこぼれかけたため、俺は慌てて口元へと運ぶ。

 一方、そんな俺の所作を気にすること無く、山田は真正面のウイスキー棚を眺めながら再びその口を開いた。

 

「お前だけは大学で上にいける思とったんや。それは地方で燻っとる他の同期もおんなじやで」

「……ただ外に出る勇気がなかっただけだよ」

「じゃあ今回は勇気が出たからや言うんか? 違うやろ」

 俺たち三人以外誰も客がいないバー。

 その中に山田の強い声が響き渡った。

 一瞬訪れた沈黙。

 それを破られたのは、グラスを最初に空にした如月さんだった。

「ともかく、神宮寺先生。うちの科は色々睨まれてます。気をつけてくださいね」

「睨まれてる……か」

「ええ。山田先生は心配して睨んでいるだけですけど、他の科の部長さんたちは違いますから」

 如月さんは苦笑交じりに俺に向かってそう述べる。

 なるほど、確かに道理だろう。

 突然やってきた胡散臭いがん治療をやる部門が、病院の来季の費用の多くを持っていくわけだ。その予算が殿上人たちの暗躍によって生み出されたものだと理解されているにしても、愉快な気分でいられないのは無理もないだろう。

「……ご忠告感謝します」

「いいえ、気にしないでください。全部先生のせいにして、私は知らぬ存ぜぬで通してきましたから」

 彼女がそう口にした瞬間、俺は思わず手にしていたグラスを取り落としそうになる。

 すると、そんな俺の姿を目にして、彼女はいたずらっ子のように軽く笑った。

「ふふ、嘘です。いえ、話を誤魔化していたのは本当ですけどね」

「如月ちゃんは別に好きでがん免疫療法科に配属されたわけちゃうやろ。かまへんかまへん、上が何を言ってたとしても、こいつを出汁にしとけばええんや」

 如月さんの発言を受け、山田は不満げに口を尖らせながらそう言ってくる。

 それを受けて、俺は軽く頭を掻くと、小さく溜め息を吐き出した。

「まああの人達の立場で考えれば、曰く付きの新参者を好きにはなれないわな。とりあえずはなるようにしかならないか」

「なるように……か。なあ、神宮寺。実際に来る前からお前のことを色々言うとる奴は結構おるけど、中でも外科と麻酔科だけには注意しとき」

「外科と麻酔科? 確か本城先生と山下先生だったか」

 真剣な口調で発せられた警告に対し、俺は医局会で目にした二人の男性の顔を思い浮かべる。

「ああ。あの連中には、この街の議会が……要するに反市長派がついとる。ちなみに、あの中庭は手術室拡張工事の対象っていう話が前からあったんや。言いたいことはわかるな?」

「この街の議会事情なんて知らないけど、とりあえずめんどくさいということは十分にわかったよ」

 今回の俺の赴任に市長が大きく関わっていることを踏まえれば、反市長派が院内に根を張っていても不思議ではない。何しろ民間病院と言えども、青崎総合病院はこの街唯一の病院であるからだ。

 そしてそんな事実を目の当たりにして、面倒な院内政治がここでもつきまとってくることに俺はげっそりとする。

 すると、如月さんはわずかに遠い目をしながら、ボソリと呟いた。

「色々とあるんです。慢性的に赤字を出していて、市から予算が割かれている状況だと」

「そうそう、病院の黒字化の切り札として、怪しげな免疫療法を初めないと行けないほどにはな」

 如月さんに続く形で、山田は苦笑交じりにそう言葉を差し挟んでくる。

 それを受け、俺は思わず小さく頭を振った。

「わかりたくはないけど、なんとなく事情は見えてきたよ。何故俺がここに赴任させられたかもな」

 それだけ述べると、俺は改めて深い溜め息を吐き出す。そしてそのまま、僅かな苛立ちを沈めるかのように、グラスに残っていた液体を一気にあおる。

 一瞬で空となるショートグラス。

 それを眺めながら、俺は隣の男性に向かい確認の問いを放った。

「で、医局会で突っかかってきたのは、君も反市長派だというわけかな?」

「んなわけあるかい。誰のために、絡んだった思とんや」

 疲れた口調のまま、山田は視線さえ向けてくることなくそう言い放つ。

 俺はその言葉の意味がわからず、眉間にしわを寄せた。

 すると、如月さんが苦笑交じりにその口を開く。

「たぶんですけど、先生のためでしょ」

「俺のため?」

「最初に拳を振り上げた者が、不承不承ながら拳を振り下ろすと、空気的にそれ以上何も言えなくなりますから」

 何があったのか聞かされていたのか、如月さんは山田に向かい意味ありげな笑みを向けながらそう述べる。

 途端、山田は軽く舌打ちして明後日の方向に視線を向けた。

「一応、同期のよしみいうやつや。赴任してくるのに連絡一つよこさん奴が相手でもな」

「すまないな」

 確かに彼がここにいることは予めわかっていた。

 にも関わらず、状況に流されるままに何一つ行動を取らなかったのは攻められて当然だろう。

 自分のみっともなさと故に、連絡する気分になれなかったことがその理由だとしてもだ。

「別にええで。これ持ってくれたら勘弁したるわ」

 そう口にすると、山田は口ひげを生やしたマスターから受け取った一枚の紙を押し付けてくる

 ……まあ今日ばかりは受け入れるとしよう。

 そうして俺はそこに記されていた三人分となる金額を、マスターへと支払った。

 今を思うと、これが最後だった。

 未来も過去も知らぬまま、純粋に笑うことができたのは。

 店を三人で出たときには、すでにスマートフォンに浮かび上がる日付は変わっていた。

 それは新たな一日の始まり。

 そして同時に最後の一日の始まりを示していた。

 そう、この日、俺は初めて……死んだ。

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1

いよいよ始まるんですね。

sacman

2017/11/20

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とじる

第4話 踏み絵(9月1日11時00分)

「お薬の飲み忘れはないように。あとうがいは忘れないでくださいね」

「ええ、ええ。わかりましたよ。それでは失礼しますね」

 そう口にすると、本日十五人目の患者である老婆が杖を片手にゆっくりと診察室を出ていく。

 それを見送った俺は小さく溜め息を吐き出した。

「十人目の風邪……と。これじゃあ、内科の新患外来だな」

「新館の内科外来は高齢者の方だらけです。少しくらい手伝ってもバチは当たりませんよ」

「いや、それはそうかもしれないけどね」

 後ろに控えていた如月さんに向かい、一応は同意の言葉を告げる。だが正直言って、突然置かれたこの状況に戸惑いを隠すことはできなかった。

『神宮寺先生。申し訳ないのだが、がん免疫外来が本格的に稼働するまで、少しばかり内科を手伝ってもらえないだろうか?』

 出勤して本館の外れにあるこの診療室に足を運んだ俺は、内科部長を名乗る川辺と言う男に突然の依頼を受けた。

 本来ならば保険診療をやるつもりはない。

 いや、暴利を貪る言い値のがん免疫療法よりは、通常の医学的治療である保険診療を遥かに好ましいと内心では思ってはいる。だが全額患者負担の自費診療を行っていく以上、そのあたりの住み分けが必要なのではないかと考えていた。

 しかし赴任当日でなんら仕事の目処も立っていない以上、無為徒食の身でもある。それ故に、内科部長の依頼を無下に断ることもできず、曖昧な許諾をした結果がこの残念な有様である。

「はい。先生、これをどうぞ」

「……どうもありがとう」

 やや不満げな俺の反応に気づいたためか、如月さんは俺に向かい湯気の立つコーヒーカップを準備してくれていた。

 たった一日の付き合いではあったものの、既に嗜好を把握されているようで思わず苦笑を浮かべる。そして敵わないなあという思いとともに、俺は受け取ったカップを鼻元へと近づけた。

「うん、悪くない」

「昨日と同じ、ただのインスタントですけどね」

 如月さんはニンマリとした笑みを浮かべながらそう述べてきた。

 そんな彼女の表情を横目に見ながら、俺はコーヒーを口元へと運ぶ。そしてそのまま口をつけようとした瞬間、パタパタとした足音が廊下から飛び込んできた。

「神宮寺先生、紹介状が来ているんですが……」

 それは今朝挨拶を受けたばかりの医療事務の坂木さんだった。

 まだ二十代前半と行った印象のショートカットの彼女は、やや申し訳なさそうな仕草を見せながら、俺へと一通の手紙を渡してくる。

「紹介ってことは風邪ではないよね。肺炎か何かかな?」

 いよいよ開業医からの入院依頼まで回されてきたのかと疑い、俺はややげっそりした表情を浮かべながらそう問いかける。

 すると、坂木さんはすぐに首を二度横に振り、思わぬことをその口にした。

「いえ、その……大学から免疫療法の紹介でして」

 彼女がそう口にした瞬間、俺は手紙の差出人欄を目にする。

 そこに記されていたのは久世……そう、我らがゴッドファーザにして教授殿である久世隆弘の名に他ならなかった。

「……なるほど。とりあえず、ここに回してくれるかな」

「西島……です」

 事務の坂木さんに案内されて診察室に入ってきたのは、目の前の四十代半ばの男性。

 彼は進めた丸椅子に腰掛けると落ち、着かなそうにその視線を診察室のあちこちへと移しながら、軽い貧乏ゆすりを始める。

 神経質そうなその仕草を目にして、治療が必要となるならば、少し過剰なくらいに説明したほうが良さそうだと俺は思った。

 一般的に診察というものは、患者が部屋に入ってくるその時から始まっている。歩き方やその表情、そしてその身なりさえ診察の上で重要な情報だ。

 その上で、短時間ではあったものの西島氏の所作から得られた情報を勘案しつつ、俺は無難な会話から面談を開始した。

「西島さんですね。紹介状は読ませて頂きました」

「そうですか。ならおわかりですよね、もう先生しかお願いできる方はいないんです!」

 先程までもやや挙動不審だった彼は、俺に詰め寄らんばかりの勢いで前のめりの姿勢となり、強い口調でそう告げてくる。

 俺は慌てて片手で彼を制すると、一度落ち着かせることにした。

「ええ、まずはできる限りお力になりたいと思っています。その上で、まずは先に確認させて頂きたいことがあるのですが構いませんか?」

 落ち着かせる様に敢えてゆっくりとした口調で、まずはそう告げた。

 それに対し、西島氏は一つ頷いて改めて椅子に座りなおすと、再び貧乏ゆすりを開始する。その振動で、机の上に置いていた紹介状の紙が僅かに揺れた。

 決して多くはないが、珍しいというほどではない。

 一人でいると無意識にしてしまう者から、何らかのストレスが掛かると抑制が効かなくなる者まで、貧乏ゆすりをするものは様々だ。そして今回は、紹介状に書かれた内容を見る限り、おそらくは後者なのではないかと思われた。

「膵臓がんに対してフォルフィリノックスと呼ばれる抗がん剤治療を、大学で受けておられた。ただその効果が悪くなってきているので、今はその次の治療を考えている段階。それで間違いありませんね?」

「そうです。今こうしている間にも、癌が大きくなっているかもしれません。なので、すぐに治療をお願いしたいんです」

 俺の問いかけを肯定すると、西島さんは間髪入れず治療開始を求めてくる。

 そのあまりに前のめりな姿勢に、一瞬どうしたものかと迷いを覚えた。

 何故ならば、標準治療とも言うべき本来の治療が、まだ彼に残されているからだ。

「西島さん、この紹介状にはまだセカンドライン……えっと、別の抗がん剤での治療ができる可能性が残されていると書いてあります。それは大学でも説明を受けられていますよね」

「聞いてます。でも……もう嫌なんです」

 その言葉は重く、そして決して翻すつもりがないという意思が込められていた。

「それは何か理由があったのですか?」

「理由というか、あんなしんどい目に合うとは思っていませんでした。いや、あなた方は副作用の説明をしたと言われますよね。同意書にもサインしたと。でも、でも、ぜんぜん違うんです」

 西島さんはそう口にすると、これまでかぶっていたニット帽を外し、そしてまだ秋口にも関わらず来ていた長袖のシャツを腕まくりする。

 その光景を目にして、僕はひと目でわかった。

 脱毛と色素沈着。

 また短時間で落ち着き無く手を握ったり閉じたりしていることを踏まえると、手足症候群による感覚障害も軽度はあるのかもしれないと予測する。

 なるほど、表面上で見受けられるものがこれだけあるのならば、他の代表的な副作用も出ていたのかもしれない。

「薬を二週間ごとに入れられて、その度に気分は悪くなるし、下痢は続くし……色々と予防の薬を入れてもらって少しましにはなりましたけど、これだけ苦労しても年は越せないかもしれないなんて言われたんですよ。じゃあ、こんな思いをしてまでして俺は何のためにやってるのかって」

 西島さんは感情を押さえきれないと言った様子で、初対面の俺に内心を吐き出し始める。

「娘が……娘がいるんです。六歳の。その子がこの頭のことを笑うんです。もちろん、髪が抜けるかもしれないとは聞いていました。吐き気も、食欲が落ちることも、この皮膚のシミも。でもいくら説明されていても、このしんどいさはわかるわけがない。ねえ、先生。うちの娘が大きくなるまで、まだ俺は死ねないんですよ。大人になるまでなんて言いません。でも、まだ今はダメなんです。だからなんとかして下さい。お願いします。あの子のために、先生が俺を生かせて下さいよ。抗がん剤以外の方法でできるなら、何だってしますから」

 胸の中に溜まっていた思いを一気にぶちまけ、西島さんは深々と頭を下げてくる。

 正直に言えば、彼は特別ではない。

 癌で苦しみ、副作用に苦しむまだ若い父親なんて無数に存在する。

 そんな彼らに対し、世界的に行われている治療だというエビデンスを盾にして、これまでの俺は決断を迫り続けてきた。

 だが今の俺が手にするのは、何の根拠も無い治療。

 それもおそらく毒にも薬にもならないものであり、ただ目の前の人から一時的な副作用の開放と引き換えに、少なからぬ資産を巻き上げるような悪辣なものだった。

 なるほど、これは踏み絵なのだ。

 自分たちの治療に不信と不満をいだいているこの必死な父親に対し、お前が標準治療以外となるがん免疫療法を成せるのかと。

 あの教授のやりそうなことだ。

 フォルフィリノックスの次の治療に疑問を持っていた患者を見つけた時点で、きっとあの男は意図的にこの状況を作り出したのだろう。

 俺はどうすればいい。

 自分の中で効かないと考えているビタミン剤や免疫療法をこの人に行うのか?

 本当に倫理的に本当にそんなことが許されるのか?

 はっきりとわかった。

 状況に流されてきた自分には、全く覚悟ができていなかったのだということを。

 だからこそ俺が行い得る選択肢は……

「西島さん、顔を上げて下さい」

 俺の言葉に、西島さんはすがるような表情のまま顔をあげる。

 そんな彼に向かい、俺は小さく頷きながらまさに灰色とも言える提案を口にした。

「元々お住まいは大学のお近くなのですよね。ならこうしませんか、普段は大学で副作用が比較的少ない抗癌剤を使う」

「待って下さい」

「いえ、話を最後まで聞いて下さい。先程行ったように普段は大学で治療をして、週に一回はここでビタミン点滴と水素温熱免疫療法を行う。つまり両方の良いとこ取りをするんです」

 俺は努めて穏やかな笑みを作りながら、柔らかい声でそう告げる。

 はは、良いとこ取り?

 嘘だ。

 ビタミンや水素温熱免疫療法が何になる?

 でも今のこの人を説得する言葉は俺にはない。

 それに俺の立場はそこにはない。

 だとしたら、役に立つであろう標準治療の薬を大学で使ってもらい、本人の納得のためにおそらく役に立たない高額ながん免疫をここでしてもらう。

 つまり最低極まりないことに、西島さんではなく”俺にとって”良いとこどりである治療を、たった今この俺は提案したのだ。

 だがそんな玉虫色の説明の効果は、まさに劇的なものだった。

「そんなことできるんですか。そうすると、俺は生きれるんですか?」

「もちろん医療に絶対はありません。ですが、普通に抗がん剤だけをするよりも可能性は高くなる……貴方はそうだと思いませんか?」

 なんて卑怯な言い回し。

 自分の言葉に自己嫌悪しそうになる。

 だけどもそんな悪魔の言葉に、幼い子供を持つ父親は大きく頷く。

「……それで少しでも可能性が上がるのなら、うまくいく可能性があるのなら是非お願いします」

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