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世界で一番素敵な嘘 完結

切ない恋愛の物語

更新:2018/4/14

富澤南

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大切な人のために、何ができるだろう?
そんな想いに突き動かされた大学生のお話。

人生はいつだって後悔の連続のように思う。
決してやり直せない。
だからこそ面白いんだと、この物語を読んで感じてもらえたら嬉しい。

この「素敵な嘘」が、読んでくれたあなたにも届きますように。

1位の表紙

2位

目次

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序章

序章

「今ここで話しても実感がないかもしれませんが……もし大切な人が亡くなってしまったら、その人のことを語り続けてください。悲しみを恐れず、友人と、家族と、その人のことを語り続け……忘れないようにしてあげてください」

 二百人が収容される巨大な講義室。

 俺は遥か後方の座席で、教授の講義に耳を傾けていた。

「死は誰しもに平等に訪れるものです。いつ身の回りの大切な人がいなくなるかはわかりません」

 隣に座っていた三人グループの男子は机に突っ伏して眠っている。教授の抑揚のない平板なしゃべり方は、眠気を誘うのだ。

「もっとも救われないのは……悲しみの傷を恐れるあまりその人の記憶に蓋をし、忘れてしまうことです」

 まったく、陰気くさい話である。出席点のために来たとはいえ、年度末最後の授業がこんなに薄暗い話題なんて。なんでも、先月この大学で自殺者が出たらしい。なかなか人望があった学生らしく、他学生への影響を懸念してこんな話をしているのだろうが、俺からすれば見知らぬ他人の話である。

「もしも、あなたが大切な人を亡くしてしまったら……その時は恐れずにその人のことを語り、思い出し、いつまでも忘れずにいてください」

 教授は、大半の学生が期待しているであろう来週の試験範囲には触れず、延々とこの話題を繰り返している。「知的財産法」の講義のはずなのに道徳の授業でも受けているような気分だ。

 もちろん、例の自殺した学生と親しい人たちは悲しいことだろう。

 ただ、死ぬというのは運命なのだとも思う。

 自殺にしろ、病気にしろ、事故にしろ、人間の最期は生まれた瞬間から決まっていて、自殺をしたその彼もきっとそういう運命だった。

 死なんて誰にだっていつか必ず訪れることだし、彼は偶然それが早かった。運命には抗えないのだ。きっとそれだけのことなんだろう。

 延々と続く教授の話を聞きながら、そんなことを思った。

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とじる

第一章

第一章

 大学の構内は、春の陽気に包まれていた。天気予報によれば、先週までの肌寒さは影を潜めるとのこと。厚着をしていると、少し汗ばむほどである。

 春。

 春といえば、節目の季節である。新学期、新生活、新社会人……期待に胸を馳せ、新たな環境に身を投じる人は多いはずだ。

 首都圏有数のマンモス校である俺の通う大学でも、ご多分に漏れず、期待と不安を抱えた大勢の新入生が入学してきた。

 入学おめでとう、と祝辞を贈りたいところだが、キャンパスの正門通りは彼らに支配され通り抜けることもままならない。

 そのうえ、彼らをいち早く捕獲したいサークルやら部活動やらの勧誘も苛烈を極めていた。

「マスコミ研究会! ミスコン運営でイケメンや美女と知り合いになろう!」

「グラインダー部! 大空を舞う感覚を君も味わいたくないか?」

 自分にはまったく無関係なのに、妙に耳に入ってきて喧しい。そもそもグラインダー部なんてあったのか。初耳だよ。

 満開を迎えたせっかくの桜並木も、これでは趣も何もあったものではない。

 人混みを押しのけて、なんとかルートを切り開き学食へと急ぐ。今日は中途半端な時間に起きてしまったせいで、まだ何も食べていないんだ。

 

 とにかく、腹が減った。

 

 自動ドアを抜けると、案の定学食の中も新入生で溢れかえっていた。昼どきを過ぎた時刻だというのに、見渡す限り人、人、人。新入生、恐るべしである。

 だから毎年この時季は好きではない。もともと人と群れることが好きではないのだが、それにしてもこの時季は人が多すぎる。

 加えて、みんな一様に清々しい表情をしている。

 四年生ともなるとそういうフレッシュさはもう鬱陶しい。できるだけ彼らとは関わりたくないものだが、ここで過ごしていく以上仕方のないことだ。

 なに、ゴールデンウィークが終わる頃にはこの人数も随分と減る。

 もうしばしの辛抱だ……

 そんなことを考えながら、券売機で三百円の格安肉うどんを購入し、カウンターへと向かう。

「いらっしゃい。鶏と豚、どっちがいい」

「豚マシでお願いします」

「はいよ」

 学食の肉うどんは格安な上、鶏肉か豚肉か選択ができ増量もできる。我々学生にとっては大きな味方だ。俺の体の半分はこの肉うどんでできているといっても過言ではない。

 大盛りになった肉うどんを受け取り、空コップふたつに冷水をなみなみ注いでいつもの席へと向かう。

「おうノリ、遅かったな。三限はサボりか?」

 俺に気づいた敦(あつし)がスマホ片手に話しかけてきた。

「ああ、寝坊しちゃってさ」

 答えながら空いている席へと座る。

 向かいに座っていた兼保(かねやす)にも「よう」と目配せした。調理場裏の決して良い席とはいえない場所だが、ここが俺たちのいつもの場所である。

「敦と兼保は二限終わり?」

「そ、さっき終わったとこ。んで三限は空きで、この後四限五限と連続で授業ですよ」

 兼保が眠そうに欠伸をしながら答える。

「俺も本当は四限あるけど、夜に飲み会あるしサボって帰るよ」

 敦はスマホを眺めながらにやつく。さぞ嬉しいのだろう。

「いいよな経営の連中は。文学部は出席重視だからとてもじゃねえけどサボれねえよ」

 兼保が苦々しい表情で頭を掻いた。

 文学部は文系の学部の中でも特に出席が厳しいと聞く。サボり呆けている俺たちを見れば、それは苛立つだろう。

「ノリは今日このあと授業?」

 不機嫌そうな兼保が俺に尋ねる。そして、一瞬頭が真っ白になった。

「えーと……授業はないんだけど」

「お前、授業ないのに何しに大学来たんだよ」

 敦は置いてあったアイスコーヒーを飲みながら、怪訝な視線を向ける。

「そうだ、絵梨花(えりか)。絵梨花は来てないの?」

 昨晩絵梨花から電話があって、制作途中の絵を見に来ないかと言われていたのだ。どうして一瞬忘れてしまっていたのだろう。

「絵梨花ならここには来てねえよ。いつものアトリエにいるんじゃねえの?」

 スマホから視線を外すことなく敦は淡々と答えた。

「やっぱりそうだよな」

 大盛りになった肉うどんを食べながら、このあとすぐにアトリエへ行こうと思った。半年前から描き続けているというあの絵が、もう完成間近なのかもしれない。

「絵梨花は最近ずっとあそこに籠もってるよな。気が滅入らないのかねぇ」

 気だるそうに首を回しながら兼保もスマホを取り出した。意識はここにあらずといった感じで今にも眠りに落ちてしまいそうだ。これが四年生の風格なのか、見ているこちらまで眠くなってくる。兼保の眠気を飛ばすように俺は大きめの声で答えた。

「今年の八月に地元で大切なコンクールがあるって言ってただろ? 多分その絵の追い込みをしてるんだと思う」

「へえ、コンクールねえ」

 兼保は目に涙をうかべた間抜け面で頭を掻いた。眠いのはしょうがないが、絵梨花の話をしているというのにここまで無関心なのも良い気はしない。

「コンクールっていっても、『紫玉絵画展(しぎょくかいがてん)』っていう四年に一度のすっげー大切なものらしいぜ」

 絵梨花の肩を持つわけではないが、俺は説明を付け加えた。

 だが兼保は「んぉー」とうめき声をあげるばかりで、ちゃんと反応したのは敦の方だった。

「四年に一度ってことは前回開催した時、絵梨花は高校生だよな?」

「まあ、そうなるとは思うけど……」

 敦からの予想外の質問に、思わず言葉が詰まった。

「じゃあ絵梨花は高校の時もそのコンクールに絵を出したのか?」

「さあ、知らないけど……どうしたんだよ急に」

「いや、絵梨花ってめっちゃ絵上手いだろ? 高校生の時から上手かったのかなって純粋に気になったからさ」

 敦の言いたいことはなんとなくわかった。

 絵梨花は学生ながら稀に個展なども開催し、絵が買い取られるほど熱心なファンもいるらしい。そんな絵梨花が高校生の時どんな絵を描いていたのかは、俺も気になった。

 だが、絵梨花はまったく自分の身の上話をしようとはしなかった。俺たちは、絵梨花が高校生の頃どのように過ごしていたかよく知らないし、どういう経緯で絵を描き始めたのかも知らない。

 もっと言えば、将来は何になりたいのかとか、好きな人がいるのかとか、そういう話も一切聞いたことがなかった。というより、俺や敦、兼保の男連中が絵梨花に質問をしても、いつもうまい具合にはぐらかされてしまうのだ。

 そんなわけもあって、三年以上ものあいだいつも一緒にいるが、俺たちは絵梨花のことをほとんど知らなかった。わかるのは、絵を描くのが大好きで明るい、教育学部美術科の女の子ということだ。

「考えてみたら、俺たちって絵梨花のことあんまり知らないのかもな」

 俺がそう言うと、敦も「だろぉ。俺は前々から思ってたぜ」と同調した。

 その様子を見て兼保はわかりやすく眉間に皺を寄せた。

「んだよお前ら。そんなこと気にしてんのか」

「だって実際よー、なんか寂しくない?」

 敦が不満を漏らすと、兼保は「馬鹿だね」と一蹴した。

「絵梨花にだって言えないことはあるでしょ。言わないってことは何かあるんだろ? それにアイツだって、楽しいから俺らと一緒にいるんだろ。それでいいじゃねえか」

 兼保は言い終えると、「んん!」と力強く伸びをした。相当強い眠気と奮闘しているようだ。

「まあ、兼保の言いたいことはわかるし俺もそれでいいけどさ」

 敦はどこか腑に落ちないようで、目の前のアイスコーヒーのストローを指で弄っている。

「ならそれでいいじゃん。いつか絵梨花から話してくれるって」

 所在なげにそう言うと、兼保はまたひとつ欠伸をした。

 調理場の方から、ジュワアと景気の良い音が響いた。きっとこれは人気メニューの回鍋肉定食を作っているに違いない。香ばしい炒め物の香りが漂ってくる。

「いかん。こんな所にいたら、眠いし腹が減るしで二重苦だ。俺、四限いくわ」

 そう言い残し、兼保はそそくさと席を立って次の授業へと向かっていった。

 

 学食の片隅、辺鄙な席に俺と敦のふたりだけが残った。

「とは言っても、だよなぁ。こっちにはのっぴきならねえ事情があるんだから」

 敦はトントンと小気味よく指でテーブルを叩いた。

「兼保だってノリの気持ちを知ってるくせに、つれねえよな」

「兼保は、そういうことちゃんと考えてるんだろ」

 俺がそう言うと、敦は口をへの字に曲げておどけた表情をした。こういう時の敦はすこし面倒臭い。

「それじゃまるで、俺がちゃんと考えてないみたいじゃないか」

「そうは言ってないだろ」

 敦は「ふーん」と平板な相槌を打つと、ストローでアイスコーヒーを飲み干した。

「お前、絵梨花と最近どうなんだ」

 真剣な面持ちで、敦が出し抜けに質問をしてきた。

 思わずむせてしまい頬張っていたうどんを吐き出しそうになる。すぐには気の利いた返答が思いつかず、言葉に詰まってしまう。

「どうなんだ?」

 敦の追求は止まらない。

 こっちは今肉うどんを食べている最中なんだ。ちょっとは空気を読んでほしい。俺はうどんを水で勢い良く流し込み、敦の質問に答えた。

「どうも何も。今までとなんら変化はないよ」

「そっか。そらそうだよな」

 はあ、と大きくため息をついてから、敦はまたスマホとにらめっこを始めた。そっちから訊いておいてその態度はどうなんだと思ったが、仕方のないことだ。

 俺と敦はもう二年以上にわたってこのやりとりを続けている。もはや様式美の域なのだ。

「絵梨花って、好きな人とか彼氏とかいねえのかな。俺にはアイツがさっぱり分かんねえ」

 スマホを右手に構えたまま、目だけをこちらに向ける敦。何か答えろ、と言われている気がしたので渋々言葉を絞り出す。

「そんなこと、俺が一番知りたいっての」

 自分で発した声なのに、思った以上に諦めの色が滲み出ている気がした。

「お前も大変だなぁ。きっと報われねえぞ」

「いいんだよ。別にそれでも」

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とじる

第二章

第二章

大学の敷地の隅……と言えば聞こえはいいが、敷地の中でもわかりやすく辺境の校舎へと俺は来ていた。

 先ほどまでいた学食からは、正反対の位置に当たる校舎である。

 建て替えが進み、真新しい建物が並ぶ大学内に不気味なほど古ぼけた一角があるのだが、それが教育学部の校舎群だった。

 ピカピカの建物が並ぶキャンパス内でこの一帯は異様な雰囲気を放っている。良くいえばアンティーク、悪くいえば廃墟……そんなところだ。

 おぼつかない足取りで俺はその校舎の一つへと入っていく。人影はなく誰ともすれ違うこともない。教育学部の連中は授業が終わったのだろうか。

 採光性の低い窓が並ぶ薄暗い廊下を歩いていく。まだ昼間だというのに不気味だ。何回来てもこの雰囲気に慣れることはない。

 教育学部の連中がいつも「自分たちだけ牢獄にいるような気分だ」と冗談混じりに不平を鳴らすのも納得できる。法学部棟もこんなホラー映画みたいな校舎だったら、授業をストライキするところだ。

 そんなくだらない事を考えながら「美術科アトリエ」と書かれた方へと向かっていく。薄暗い廊下に一つの部屋から灯りが漏れていた。

 あそこだ。きっとあそこに絵梨花がいる。

 そう確信を持って俺の足ははやまり、胸の鼓動が高鳴った。

 ノックをすることもなくドアを開け、俺は「うぃーす」とわざとらしく気だるげに声を出した。

「よっ」と返事が返ってきた。無数の絵の具が飛び散った淡い桃色のエプロンを着た女の子。絵梨花が親しげな眼差しで俺を見つめていた。

「今日も元気に制作ですかい」

「ま、そんなとこだ。もう時間もないしね」

 アトリエの中は画材や資料などがあちこちに散らばっていた。飲みかけのコーヒーカップや食べかけのお菓子なんかもある。

 そのせいもあってか、室内はなんともいえない匂いに包まれていた。高校の時の美術室とはまた性質を異にする匂いだ……

 西日の光の筋のあいだに、埃がちらちらと舞っているのが目に入った。

「まったく、少しは整頓しないのかよ。ほら、これ」

 俺はそう言いながら、絵梨花に買ってきたジュースを手渡した。

「なにこれ?」

「制作に没頭してるようだし、差し入れだよ。おごりだから」

「え、まじー? ありがとう」

 絵梨花は楽しそうにペットボトルの蓋を開け、ごくごくと飲み始めた。その様子を眺めながら俺も飲みかけの水を口にした。

「ここって絵梨花だけの場所じゃないんだろ。こんなに散らかってていいのかよ」

「ああ、おいしい! まだ春だけど炭酸が美味いねぇ」

 絵梨花は俺の言葉にまったく耳を貸そうとしない。

「おいしいのはいいけどさぁ」

「ん? 散らかってていいんだよ。みーんなガサツだからさ」

「そんなもんなのか、やっぱり」

「みんな自分の制作のことしか頭にないってぇ」

 アトリエの中を見渡してみた。

 乱雑ながらも広い室内には、あちこちにイーゼルが置いてあり、描きかけの絵がたくさんあった。デッサン用の首の塑像が床に転がっていたりもする。

「マイペースな人が多いんだなぁ……」

 ぼそっと呟くと、「美術科なんてそんなもんだよ」と絵梨花に笑われた。

「それより」

 絵梨花が俺の顔を見て大きく手招きのような仕草をした。こっちへ来いということなのだろう。その若干オーバーなところが可笑しくて、俺は笑いそうになった。

「なに?」

「ねえ、見てよ」

 絵梨花に促されて描きかけの絵に目をやると、キャンバスの半分以上がすでに彩られていた。思わず「おお」と声が出てしまった。以前見た時は——三ヶ月以上前になるが——キャンバスはほぼ真っ白だった。

 なんだろう。大きな空と……果樹園のような畑が描かれている。雄大な自然だ。どこの景色かはわからないが、明媚で素敵な風景だ。

「これね、ぶどう畑」

「なるほど、ぶどうか。どうりで房みたいのがいっぱいあるわけだ」

 ここまで言って疑問が生じた。

「でもなんで、ぶどう畑?」

 そう訊くと、絵梨花は待ってましたと言わんばかりににっこりと笑みを浮かべた。

「私の故郷なんだ。綺麗でしょ、ぶどうの丘」

「へえ、ぶどうの丘かぁ……」

 田舎というものにあまり馴染みのない俺は、妙に心惹かれるような気がした。

「教科書とかで見たことない? 扇状地ってやつ」

「んー? なんか聞いたことあるようなないような」

 絵梨花は「ま、そうだよね」と苦笑いしつつ話を続けた。

「なんにもないところだけどね、夏になると町中が緑でいっぱいになる。焦げたような独特な匂いがして、その中を自転車でくだっていくの。思いきり風を受けて。それが忘れられなくてさぁ」

 一生懸命に話す絵梨花の言葉には熱が篭っていた。それはどこかいたいけな、純粋な熱気のように思われた。

「じゃあ、この絵は絵梨花の思い出ってわけだ」

「そうなるかも」

 絵梨花は嬉しそうに笑みを浮かべて、キャンバスを眺めていた。

 見たこともない景色。感じたこともないような風。きっとそこには、そういうものがあるんだろうな。どんな匂いがするんだろう。どんな音が聴こえるんだろう。どんな人がいるんだろう。絵梨花の絵を見て、俺もなんだかそこへ行きたくなってきた。

 絵梨花の生まれ育った町。

 ぶどう畑の広がる、ぶどうの丘——

 彼女の実家が山梨だということは前々から聞いていたが、ここまで感情を込めて郷里の話を聞いたのは初めてだった。絵に描くくらいだ。きっと、いいところなんだろうな。

 ふと我に返ると、キャンバスの右下には余白が残っていることに気づいた。

「その右下の空いてるところには何を描くの?」

 そう尋ねると絵梨花は何を言うでもなく俺の顔を一瞥した。そしてすこしだけ間をおいてから、

「今……だよ」

 とだけ言った。

「今? どういうことだ?」

 俺には彼女が何を言っているのかよくわからなかった。絵梨花は眉を八の字にし笑みともとれない含みげな表情をした。

「分かんないかー。今って言ったら今しかないじゃん」

「今……? っていうと、今か?」

 そう尋ねながら、なんとはなしに地面を指差してみた。

「そ、せいかい。ここには、大学のことを描くんだ」

 得意げな顔つきで絵梨花はキャンバスをぽんと叩いた。俺は合点がいって「わかったぞ」と呟いた。

「一つの絵の中に、思い出の景色と今の景色を合わせて表現するんだな?」

 俺が得意げに言うと、「それじゃあまんまじゃん」と笑われた。

「でも、そういうことだよね。今の私を形成してくれたものを描こうと思ってるの」

「やっぱりそうか。うん、俺もそれが言いたかった」

「嘘ばっかり」

 くだらないやり取りをして、二人して笑ってしまう。

 

 絵梨花とはいつもこんな調子だ。

 二人で話していると楽しいし、とても心が朗らかになっていく。大学で知り合ってからもう三年近くが経っている、気の知れた仲ゆえなのだろう。そしてひとしきり笑ったあと、絵梨花がぽろっと口にした。

「でもこの絵は、報告でもあるんだよね」

「報告? なんの……?」

「それは……」

 絵梨花は少し考えたあと、首を横に振った。

「別に気にしないで。早く完成するといいなって話」

 彼女は少し低い声でそう言うと、近くにあったスナック菓子に手を伸ばした。なんだか意識的に話を逸らされたような気がした。

 絵梨花は何を言ってるんだろう? 俺には皆目見当がつかなかった。でも、そこまで深追いするようなことでもないと思い、これ以上詮索するのはやめて話題を変えた。

「絵梨花は、この後なにか予定あんの?」

「なんも。予定ナーシ」

 スナック菓子をかじりながら、気だるげに答えた。

「でも、暗くなるまでは描いていこうかなって思ってる」

「オーケー。じゃあそれまで待ってるわ」

 俺がそう言うと、「あら、暇なんだねぇ」と憎まれ口を叩かれた。

「なんだよ。そもそもお前が来いって言うからわざわざ来たのに」

「いや、その暇な時間を少しでも私にわけてほしいなぁと思って」

「その言われよう、いい気はしないぜ」

「嘘だって! ごめんごめん」

 そう言って謝る絵梨花は、屈託のない笑顔だった。

 ずるいな、と思ってしまう。

 どんな悪ふざけをされたって、この笑顔を見せられたら、全てチャラだ。

「ま、いいけどさ。暇人なのは事実だしな」

「へへ、さすがノリ。話が分かるねぇ」

「調子の良いやつ……」

 すっかり絵梨花のペースに巻き込まれてしまった。でも、絵梨花の言うとおり俺は確かに暇人だった。俺だけではない、俺たち——大学生は、大抵がみんな暇人なのだ。ただ、他の人はみんな思い思いの「何か大切なもの」にこの時間をつぎ込む。それは就活だったり、部活だったり、バイトだったり、研究だったり……答えはない。何を選択しようが、どう過ごそうか、自由なのだ。

 時間だけはある。

 それが大学生に与えられた唯一の特権であり、代償だ。

 俺は——

 バイトもしていなければ、部活もしていない。就活だって、この期に及んで未だに始めてすらいない。内定なんて夢のまた夢だ。でも正直そんなことはどうでもいいし、ただ気の合う仲間と楽しくやれていればいい。それが今の俺の率直な気持ちで、こうしてたまに絵梨花に会って、笑顔が見れればそれでいい。

 俺はきっと、怠惰な大学生そのものなんだろう。

「日が暮れるまでだろうがなんだろうが、待ってるよ」

「ありがとう。じゃ、気合い入れて描こうかな」

 絵梨花は嬉しそうに笑って、側にあった筆を手に取った。

 これでいいんだ。俺の時間の使い方は、俺が決めるんだから。

 大学生活という限られた時間。

 その真っ只中に俺は今確かにいて、こうして過ごしている。何を成すでもなく、何を求めるでもなく、ただ漫然と。

 そんな暮らしをしていると、時間が無限にあるような気がしてくるが、いつかは大学生活も終わりを告げる。こんなモラトリアムに満ちた日々は、永遠ではないんだ。

 黙々と筆を走らせる絵梨花の横で、節操なく散らかったアトリエを眺めながら、そんなことを思っていた。なんだか急に寂しさが押し寄せてきて、俺は絵梨花に話しかけずにはいられなかった。

「なあ、絵梨花」

「なーにー」

 絵に意識が向いているため、その返答は力が抜けている。

「随分と集中して描いてるんだね」

「絵を描く時はいつだって真剣だよ」

「そうはいっても、何か鬼気迫るっていうかさ」

 いつもは完成するまで絵を見せない絵梨花が、今回に限っては途中経過を見せてきた。それは他でもなく、気合いが入っているという証拠なのだろう。地元のコンクールに出すから、というのはわかるがそれにしても珍しいなと思っていた。

「この絵は、私にとって特別なんだよね」

「やっぱり地元のコンクールに出すから?」

 そう尋ねると、絵梨花は「うーん」と唸って首を傾げた。

「それもあるけど、それだけじゃない」

「なんだそれ」

 はっきりとしない答えに、焦れったさを覚えた。そんな風に言われると、やっぱり気になってしまう。

「じゃあ、なんで特別なの?」

 回りくどいのも面倒なので、直球で訊いてみる。

 すると絵梨花は「待って」と呟き、何本か持っていた筆を濁った水の中に投げ入れた。そのまま窓際まで歩いていき、半分閉じていたカーテンを思い切り開けた。傾いた春の西日が室内に満遍なく降り注ぎ、思わず目を細めてしまう。

「まぶしいな」

「今日は良い天気だね」

外は見事な晴れ模様で、春というには少し暑い、そんな天気だった。

「カーテン開けちゃっていいのかよ。描きにくくなるんじゃないの」

「たまにはこうして開けないと。気持ち悪くなっちゃうから」

 そう言うと絵梨花は、窓の前で日光を浴びながら大きく伸びをした。その姿が逆光となって、くっきりシルエットが浮かび上がる。まるで綺麗な影絵を見ているようだな、と思った。絵梨花はその影絵のまま、俺に語り始めた。

「この絵をね、見せたい人がいるの」

「見せたい人か」

 その言葉を聞いて、俺の心臓がぐっと締めつけられた。そして次第に、鼓動が速まっていく。

「さっきも言ったけどさ、この絵は今の私を形成してるすべてなの。それを……見せたい、報告したい人がいるから」

 逆光のせいで影絵となった絵梨花の表情はよく見えない。

 嫌な予感がした。

 きっと絵梨花は、俺の知らない表情をしているだろう。見えないけれど、そんな気がしたのだ。

「それでそんなに一生懸命なのか」

「そんなとこだね」

 そう言うと、絵梨花は窓際から再びキャンバスの前へと戻ってきた。

 絵梨花のしゃべり方はどこかたどたどしいものだった。俺はそれに違和感を覚えた。わざとそう振舞っているように思えたのだ。何かきまりの悪そうな……歯切れの悪い受け答え。だから俺は、訊かずにはいられなかったのだ。

「それは……どんな人なんだ?」

 絵梨花は少しだけ笑みを浮かべて、もったいぶるように話し始めた。

「どんな人か……そうだね。ひらたく言えば……私の大切な人だね」

 瞬間、心臓から全身に冷水が染み出していくような感覚に襲われた。

 一体どういうことなんだ。

 突然のことで頭が真っ白になり、何と言うべきなのかも分からない。極力平静を装って、慎重に質問を続ける。

「それは、つまり、絵梨花の好きな人、ということ?」

「そうだね。片想いかもしれないけど」

「そっか……そうなのか」

 自分でも信じられないくらいに焦っているのが分かった。冷静さなんてどこかに立ち消え、声が震えている。それも当たり前だ。

 絵梨花と大学で出会ってからこの三年間、彼女の口から誰かを「好き」だなんてこと、初めて聞いたのだ。そんな色恋沙汰になんて、全く興味がないと勝手に思い込んでいたのだ。

「長い付き合いなのに、そんな人がいるなんて初めて聞いたぞ」

「言ってなくてごめん。とても大切なことだったからさ……隠すつもりもなかったんだけど」

 俺は、ふうっと一つ長めに深呼吸をした。一旦、落ち着かないと。あまりに畳み掛けて、絵梨花を嫌な気持ちにさせてしまってはいけない。

「最近知り合ったのか?」

「違うよ。高校の時に知り合った人で——大学に来てからは一度も会ってない」

「それはまた……随分と一途だな」

 俺の頭の至るところで、思考がぐるぐると巡る。

 ということは、絵梨花は出会った瞬間から心に決めていた人がいたのか……

「中学とか高校の友達?」

「ううん、違うの。学校は関係ない」

 予想外の返答を受けて、俺の頭の中はさらにぐるぐると回った。

「片想いかもって言ってたけど、告白とかは……しないの?」

 そう尋ねると、絵梨花は「うーん」と納得のいかない様子である。

「告白というか……この絵が完成して、紫玉絵画展に入選したらもう一度会おうって約束してるの」

「なんだぁそれ、随分とロマンチックだな」

「うん、言いたいことは分かるよ」

 そう言うと絵梨花はきまり悪そうに苦笑いした。

「こんな約束、馬鹿馬鹿しいよね。現実的じゃないと思う。でも私は伝えたいの。この絵を見せて……今でも貴方が好きですって」

 俺を見つめる絵梨花の瞳には、寸分の曇りもなかった。今日の晴れ空のように、澄み切っている。絵梨花の気持ちは本物で、それでいて真っ直ぐだということを察した。

 その約束の人が本当に好きで、そのためにこの絵も一生懸命描いているんだろう。そう思うと一気に脱力して、何も考えられなくなった。

 俺の入り込む隙なんて、少しもないじゃないか。絵梨花に、そんな心に決めた人がいたなんて——

 そう思って打ちひしがれながら、一つ疑問に感じたことがあった。

「でも、その話だとさ。入選しないと会わないんだろ? 別に入選しなくたって、いいんじゃないか?」

 そう尋ねると、絵梨花は頬を緩めて宙を仰いだ。絵梨花の考え事をする時の癖だ。

 ひとしきり「えっとねー」と考えたあと、絵梨花は答える。

「入選しないと、会えないんだよ」

「だからどうして。会うならそんなことにこだわらなくても……」

 絵梨花は大げさな仕草でかぶりを振った。

「そういう約束だから。紫玉絵画展に入選して、私の絵が展示されたら……もう一度会おうって約束してるの」

「へえ……」

 聞きたいことは山ほどあった。

 一体相手はどんな人なんだとか、どうしてそんな不思議な約束をしたのか、とか。

 でももう、言葉にすることもできなかった。

 絵梨花には好きな人がいた。ただその事実だけが俺を打ちのめした。会話を組み立てる余裕もなくなり、俺は黙って頷くことしかできなかった。

 俺はこれから、どうするんだろう……

 今まで通り絵梨花と一緒にいられるだろうか。この際、もう関係を断ってしまった方がいいのかもしれない。

 そんなことを悶々と考えていると、出し抜けに絵梨花が言った。

「ノリ、ありがとね」

「え? 急にどうしたのさ」

 突然お礼を言われたので、焦ってちぐはぐな返事になってしまう。絵梨花は「ふふ」と笑ってから話を続けた。

「ノリと敦と兼保に会えてさ、大学本当に楽しかったんだよね」

「なんだよそれ。まだ卒業するわけでもないのに」

「だって本当に楽しかったからさ。大学に来るまでは、東京で知らない人とやっていくの、本当に不安だった。それが、学部もサークルも違うノリたちと会って、仲良くなって、本当に良かった」

「そう思ってくれているなら、俺も嬉しいよ」

「ノリたちといると自然体でいられるっていうかさ。私にとってのホームみたいな場所なんだよね」

 熱を込めて話す絵梨花の表情は、好きなことを夢中で語る小学生のように純粋で、あどけなく見えた。

「だからね、それも伝えたい。私は今、すっごく楽しいところにいるんだって——」

「例の、約束の人に?」

「もちろん」

 やはり絵梨花の顔つきは晴れやかだった。その約束の人に会う日を夢見て、今と向き合っているんだろう。

 結局、全てはそこに行き着くんだな。俺たちと過ごした大学生活も、俺が見てきた沢山の笑顔も、全てはその約束の人に向かっていたんだな。絵梨花とは対照的に、俺の心には分厚い暗雲が立ち込めていた。今にも雨が降り出しそうで、太陽はすっかり見えなくなってしまった。

 黙りこむ俺はよそに、絵梨花が調子を変えず話しかけてくる。

「だからさ、ノリ。これからもよろしくね」

 そう言うと、にっこりと歯を見せて笑った。その笑顔は文字通り輝きを放って見え、俺の心臓を鋭く突いた。曇りきった心に、一瞬で陽が射すのを感じた。

 なんて卑怯なんだ。やっぱり絵梨花はずるい。そんな素敵な笑顔を向けられて、俺は一体どうすればいいんだ。

 でも、そんなずるい絵梨花だから——俺は心の底から惹かれていたのだろう。その向かう所敵なしの明るさや、他人の心をほどく天衣無縫の人柄に、俺は何度も救われたのだろう。

 決して報われることがないと分かった今でさえ——

 報われることがないとしても、絵梨花に出会えて良かったのだ。

 それだけは、はっきりと言い切れる。

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1

初めまして。富澤さんの作品は2chのまとめサイト等で拝見しました。
しかし、どの作品を見返しても初見のような感情移入、ドキドキ感、わくわくが薄れてしまっていました。
他の方の作品を読んでいても富澤さんが書いた小説を読んでいる時の感情とは全く別のものでした。
なので、また富澤さんの作品を初見で読めることに喜びを感じています。現在、大学受験生ということもあり、更新を楽しみに日々頑張りたいと思います。

ななし

2017/10/30

2

はじめまして。僕も物語を描く人間なのですが富澤さんのゲーセンで出会った〜を読んで。物語と現実はまったく遠うように見えて実はその差は決して大きなものではないのだと感じ、なら僕も自分の世界を作ってみたいと思ったのが小説を書き始めたきっかけの一つです。
富澤さんの話には毎回「そうだよ、こういうのが読みたいんだよ」と一瞬で惹き込まれてしまいます。
今回は特にヒロインが凄く好きです。続き楽しみにしています。

唯希 響

2017/10/31

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とじる

第三章

第三章

 二○○九年五月——

 大学に入学して間もなかった俺は、キャンパス内で孤立していた。

 人と群れることが得意ではなかったので、サークルに入ることもできず、学部内で友人を作ることもできなかった。新しい環境に翻弄され、為す術もなく棒立ちするように日々を過ごしていたら、あっという間に一人になっていた。

 ある日、在籍している法学部の英語の授業のあと、クラスの親睦を深めるため皆でカラオケに行こうという話が上がった。ピアスを開けたり、髪の毛を明るく染め上げたクラスの中心メンバーによって企画されたものだ。

 彼らのことは好きではなかったが、女子も含めクラスのほぼ全員が参加するということなので、声をかけられるのを心待ちにしていた。ここで打ち解けて、友人を作るチャンスが来るかもしれないと思ったのだ。

「おい、あいつどうすんだよ」

「あー、そういや声かけてねえな」

 授業後、例の中心メンバーが俺の方を見て話しているのが聞こえた。

「別に良くねえ? 絡んだこともねえし、男子のが人数多いしよ」

「だな。そもそもあいつ名前なんて言ったっけ?」

「名前も知らん奴呼ばなくていいだろ」

「そりゃそうだよな!」

 どっと笑いが起きたのが分かった。ずっと一人でいる俺を話のネタにして、笑いものにしていたのだ。

 そしてクラスメイトの一団は、俺を一人残して慌ただしく教室から出て行った。

 やっぱり、誘われなかったか。

 どうってことないと思っていたが、帰り道は視界がぼやけた。悔しくて、目に涙が滲んだ。惨めで情けなくて、歯を食いしばって大学からアパートへと帰った。

 高校までは、何もしなくてもただ教室にいるだけで話し相手ができた。自然と友達ができて、何も無理せず楽しい毎日を送ることができた。しかし、それは大学では許されないのだ。

 大学で楽しくやっていくためには自分を取り繕い、必死に営業して輪の中に入っていかなければならない。楽しくもない話題で笑ったり、どうでもいい流行に詳しくなったり、行きたくもない飲み会に付き合わなければならない。

 ぼやぼやしている奴は、置いて行かれる。

 

 俺はただ自然体でいたいだけだった。

 自然に笑って、興味のあるものだけ追いかけて、自由に過ごしていたい。そう思っていたら、俺の周りからは人が消えた。

 それの何がいけなかったというのだろう。

 無理して作る関係性なんて、そこに何の意味があるというのだろう。

 そんなことを一丁前に考えながら、俺はしばらく一人だった。一向に誰にも心を開けず、授業はいつでも一人きりだった。

 次第に、大学へ通うことにも嫌気が差してきた。どうせ大学へ来ても話す相手すらおらず、一人きりなのだ。こんなもの、誰だって嫌になって当然だ。興味があったはずの学部の講義だって、ちっとも面白いと思えない。

 いっそのこと、辞めてしまおうか——

 そんなことまで考え始めたある日、俺は全学部共通の一般教養の講義に出席していた。健康医学と名を冠したその講義は、癌のリスクや食生活の重要性などを学ぶものだった。

 一般教養の講義は内容もくだけたもので簡単に単位がとれるということで、どの講義も人でいっぱいなのだが、この講義に限っては内容の退屈さも相まってか、閑散としていた。

 その日も誰も寄り付かない一番後ろの隅に陣取り、一人で講義を受けようとしていた。この阿呆みたいに退屈な授業を乗り切ったら、さっさと帰ってしまおう。そんなことをぼんやりと考えていたら、俺の近くに一人の女の子が座って話しかけてきた。

「ねえねえ、ここ誰か来る? 座っていいかな」

 突然のことで、俺は口を開けたまま何も応答することができなかった。

「いきなりごめんね。私前回休んじゃってさぁ。良かったらノート見せてくれない?」

「ノート? いいけど……」

 なんて言ったらいいのか分からず、しどろもどろになってしまう。

 人と話すこと自体久しぶりなのに、まさか女の子と話すことになるなんて、夢にも思っていなかった。

「うわ! 綺麗にノート書いてるんだね。すごいなぁ」

「ま、まあ、後で見返す時に見やすいじゃん」

「そっかーなるほどね。えーと……何くん、かな」

 そう言って俺を捉えた彼女の瞳は、きらきらと輝いていた。

 雲ひとつない、地面いっぱいに日光を注ぐ青空のように澄んでいた。

「俺は伊坂憲明。法学部だよ」

「そっか、憲明くんって言うんだ。私は川原絵梨花。教育の美術科だよ。よろしくね」

 自己紹介をすると、彼女はまた無邪気にしゃべり出した。

「にしても憲明くんって字上手いね。ノートとかこれもう、売れるレベルだって!」

「そんな大げさな。ちゃんと書いとくと後で楽できるじゃん。結局サボリ性なだけだよ」

「いやいやー、私にはマネできない。無理だよ。書道とかやってたの?」

「まあ、小学生の時にちょっとだけ」

「やっぱりなぁ、そうだと思った。字の上手い憲明くん、覚えたよ」

 そう言うと、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべた。なんだか照れくさくて、俺は唇を噛んでそれとなく頷いてみせた。

「あ、ごめんね。ソッコーで写しちゃうからさ」

「別に。ゆっくりで構わないよ」

「そうはいかないよ。もう授業始まっちゃうし」

「そっか」

 本当に申し訳ないと思ったのか、彼女は眉間に皺を寄せ、集中した様子でノートを写し始めた。その姿を横目に見ながら、丁寧にノートを取っておいて良かったな、と思った。ちゃんと出席してノートを取っていたから、彼女とも話すことができた。少しだけ心が弾み、嬉しい気持ちになった。

「憲明くんさ、いっつもこの席に座ってるよね」

 彼女は熱心にペンを走らせながら、話しかけてきた。

「そうだけど……どうして?」

「だっていつも一番後ろに座ってるからさぁ。なんとなく、覚えてたんだよね」

 急に体が熱くなってきて、拍動が乱れ始めた。

 どうして突然、そんなことを訊いてきたんだろう。いつも隅っこに一人でいるみっともない奴とでも思われていたんだろうか。もしかして俺、この授業でも笑いものにされていた? 彼女の顔を直視できなくなってしまい、俯いた。

「いつも真剣にノート取っててさ、偉いなぁって思ってたよ。だから今回も、ちょっと頼りにしちゃったわけだけど……」

「え? それだけ?」

「うん、それだけ。どうかした?」

「別に……なんでもないよ」

 拍子抜けだった。

 というか、俺の被害妄想甚だしいじゃないか。

 彼女は、俺の考えるようなそんな好奇な目でまわりを見ていたわけではないようだ。この時初めて、自分の考え方にも少し過ちがあったことに気付かされた。人を避け続けて、仲間たちに融和していくことを嫌って、卑屈になっていたのは俺の方ではなかったのか。彼女のまっすぐな態度は、にわかに俺の心にそんな思考を芽生えさせた。

「はい、写し終わった! ありがとう」

「いえいえ」

 彼女は俺にノートを手渡すと、鞄の中からいくつかのノートらしきものを取り出した。

「そっちも授業ノートなの?」

「これはね、クロッキー帳って言って絵を描くやつなの。授業中暇だからさ、落書きでもしようかなって」

 そう言うと、彼女は頬を緩めて宙を仰いだ。

「何描こうかな」と呟き、楽しそうに体を前後に揺らしている。

「そっか、川原さんは美術科だったもんね」

「そうです、絵を描くのが本業だからね。それと、川原さんじゃなくて絵梨花でいいよ?」

「いきなり名前でいいの? でも……」

「いいのいいの。そのほうが私も楽だからさ」

「わかった。じゃあそうするよ」

 不思議と、彼女とは楽に会話ができた。

 英語のクラスメイトの連中といる時に感じる、窮屈さみたいなものがなかった。俺がそのまま俺で、自然体でいられる気がした。

 気づけば教室の前方に教員が来て授業が始まっていたが、淡々と進むだけで特に何があるわけでもない。

「この授業は退屈だからさ、落書きもはかどるんだよねぇ」

 彼女はさも楽しそうに口角を上げ、熱心にペンを走らせる。

「絵梨花は……絵を描くのが好きなんだね」

 名前を呼ぶことが面映ゆくて、少しだけ言い淀んでしまった。なんとなくだけど、絵梨花って名前、彼女にぴったりだなぁと思った。

「大好きだよ。楽しいからね」

「美術科に来たってことは昔からずっと描くのが好きだったんだ」

 そう尋ねると、彼女は伏し目がちに「そういうわけでもないよ」と言った。

「高校生の時なんだけど、死ぬほど絵が嫌いになったことがあったよ。でもね、とある人のお陰で——また絵を描くのが大好きになった」

 意外だな、と思った。

 こんなに楽しそうに無邪気に描いているのに、嫌いになったことがあるのか。何か一つのことに打ち込んだ経験のない俺には、少し想像し難いことだった。

「じゃあ、その人には感謝だね。好きなことが続けられて良かった」

「そうだね。すごく感謝してるよ」

 どうしてそんなに好きな絵を嫌いになったのかとか、それはいつ頃の話なのかとか、

気になることはあったけれど、初対面で詮索するのも悪いと思って、俺は心に留めた。それにこの話題になってから、彼女は少し辛そうにしていた。

 きっと訊かれたくないこともあるだろう、そう思って俺は話題を変えることにした。

「そろそろ2ヶ月くらい経つけど、大学には慣れた?」

「いやー、それが全然。まだまだ馴染めてない」

「わかるわかる。俺も全然馴染めないんだよ」

 話が噛み合ったことが嬉しくて、俺は調子に乗って会話を続けた。そしてうっかり、口を滑らせてしまったのだ。

「俺なんか全然友達できなくてさ、いまだに一人きりだよ」

 しまったな、と思った。

 さすがの彼女でも、これは軽蔑することだろう。大学が始まって五月も半ばだというのに、いまだに一人の落伍者なんてそうそういない。これまでか、と思ったその時。

「本当に? それ、私もほとんど一緒だ」

 彼女は嬉しそうに声を弾ませた。どういうことだ? まさか、こんなに明るい彼女も一人きりだっていうのだろうか?

「私さ、四月に風邪こじらせて肺炎になって、入院しちゃってさぁ。三週間くらい大学来れなかったら、もうグループができちゃってて。途方に暮れてたんだよね」

「入院? それは大変だったね」

 どうやら彼女、俺とは違って深刻な事情があったようだ。俺なんてぴんぴんして大学に来ていたのに、一人だったのだから。そんなことを考えて若干自己嫌悪になりながらも、俺は彼女の話に耳を傾けた。

「だから学部の友達が全然できなくてさ。いまだに苦労してるよ」

「それはつらいよね。休んでもノート見せてもらえないし、代返とかも頼めないし……」

「そうなんだよ。でもなかなか馴染めなくてさ、大変なんだこれが」

 深くため息をついて机に突っ伏す彼女が、微笑ましく見えた。

「絵梨花ならすぐに友達ができると思うよ」

 俺がそう言うと、彼女は思い出したように「あ、でもね!」と勢い良く体を起こした。

「この授業で会った人と、友達になったんだよ」

「この授業で? じゃあ、他学部の人と仲良くなったんだ」

「もうグループができちゃってるところより、気楽だからさ」

 確かに言われてみればそうかもな、と思った。変なしがらみがない分、気軽に声をかけられるかもしれない。

「それにもう」

 彼女はそう前置くと、俺の顔を見て破顔した。まるで、庭先で小さな向日葵が風に揺れるような、自然体で健気な笑顔だった。

「憲明くんだって、友達みたいなもんじゃんか」

「あ……」

自分でもびっくりするほど、心臓が大きな音をたてた。友達という言葉にひどく狼狽えて、俺は言葉を失った。

「だって私もう覚えたもん。字が上手くて真面目な憲明くん、じゃん」

「ありがとう。でも俺なんか……」

 そう言いかけた時に、彼女の向こう側から声が聞こえて、二人の男子がやって来た。

「おっす絵梨花。ワリイ遅れちゃった」

「まだ出席取ってないよなぁ?」

 そう言って二人の男子は、彼女の横の席に慌ただしく荷物を置いた。

 一人は長身ですらっとしている。灰色のジレをお洒落に着こなしていた。

 もう一人は俺より少し背が低いくらいで、くりっと丸い目が特徴的だった。

 二人とも素朴な印象で、大学一年生にありがちなどこかぎらつくような雰囲気はまったくなかった。

「もう、敦も兼保も遅いよ。おかげで他の人にノート見せてもらったんだから」

「そうなの? そりゃ悪かった」

 長身の男子は俺の方を指差し、小声で(この人?)と彼女に訊いているようだった。

すると彼女は何度か頷き、俺の方を向き直って「紹介するね」と言った。

「この授業で知り合った——敦と、兼保だよ」

 すると二人は軽く手を上げ、「よろしく」と親しげに挨拶をした。

「タッパがある方が敦で、経営の人。そっちが文学部の兼保」

「お前、タッパって! 今時それは死語だろぉ」

 敦がくっくっと体を震わせて笑った。

「え、嘘? 言わないかなぁ。地元だと普通に言ってたんだけど」

「いやいや、華の女子大生がタッパはまずいでしょう」

 そう言っていたずらっぽく笑みを浮かべている兼保。

 そのやり取りを見ていたら、俺も自然と笑顔になっていた。不思議と、安心した気持ちになった。

「それで、君は?」

「俺は、法学部の伊坂憲明。そうだな——ノリって呼んでよ」

 三人はお互い顔を見合わせて、頷いていた。

「よろしく、ノリ」

 絵梨花と、敦と、兼保。

 三人の温かな視線が俺に向けられていた。

 絵梨花に出会ったことで、俺の暗闇でもがき続けるような大学生活は終わりを告げた。突然差し込んだ一筋の光の先には、絵梨花と、敦と、兼保が待っていた。

 もし三年前のこの日、退屈な健康医学の講義で絵梨花に出会わなかったら——

 

 俺の大学生活はどうなっていただろう。辞めてしまっていただろうか。それとも、真っ暗な毎日をただただ過ごしていただろうか。どちらにせよ、俺は確かにこの日、絵梨花に救われたんだと思う。

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とじる

第四章

第四章

少し逸れてしまったが……

話は現在、二○一二年の五月に戻る。

「それじゃあ、乾杯といきますか」

 敦が運ばれてきた生ビールを嬉しそうにみんなへ配る。

 大学近くの小さな商店街。

 いつから立っているのかも分からない「ようこそもみじ商店街へ」と書かれた古ぼけたのぼり旗が整然と並んでいる。昼間はいつも閑散としているのだが、今くらいの宵の口の時間帯になると、それなりに人通りを目にする。その一角の、これまたレトロな木造家屋のお好み焼き屋「さんちゃん」に俺たちはいた。

 絵梨花のコンクール用の絵が遂に完成したということで、お祝いに来ているのだ。

「それじゃあ、絵梨花の頑張りを讃えて……乾杯!」

 敦の綽々とした乾杯の音頭とともに、俺たちはグラスを突き合わせた。

「おつかれー」

 カチンカチンと、硝子の小気味良い音が響く。俺はそのままグラスの半分ほどのビールを体に流し込んだ。最近蒸し暑い日が続いていたから、格別に美味しく感じた。

「それにしても、随分早く仕上がったんじゃない」

 兼保がお通しの枝豆をかじりながら、絵梨花に話しかけた。今はゴールデンウィークも終わった五月の下旬である。提出の締め切りは七月とのことだったから、確かに絵梨花は相当前倒しで絵を仕上げたことになる。

 絵梨花も、枝豆を手に取りながら答える。

「ぎりぎりになって焦るとろくなものが仕上がらないからね。ゴールデンウィークのうちにたくさん進めたの」

「それなら提出しちゃう前に、見せてくれれば良かったのにさー」

 敦が、メニューとにらめっこしながら口をとがらせた。

「ごめん。焦っててつい急いで提出しちゃった。もし入選できたら、みんなで紫玉絵画展見に来てよ」

 絵梨花はそう言うと、敦に「私明太もちチーズね」と手を振った。

 言われてみれば俺も、四月に絵梨花のアトリエに行ってから一度も絵を見ていない。あの右下の空白に、どんな「今」が描かれているのかは、とても気になった。絵梨花の目に、俺たちとの今はどんな風に映っているのだろう。俺たちとの日々は、どれだけ楽しいのだろう。

 結局、あの日アトリエで聞いた絵梨花の「約束」のことは、敦にも兼保にも話せていなかった。俺はただただ一人途方もない無力感に襲われ、一週間ほど大学にも行かず色々と考えてみた。

 絵梨花と出会ってからの今までの日々はなんだったのか。俺はこれから三人とどう付き合っていけばいいのだろうか。

 一週間ずっと考えた結果、俺は気付いた。

 絵梨花と敦と兼保、三人と一緒にいるとやっぱり落ち着く。絵梨花の気持ちがどこを向いていようと、俺はやっぱり絵梨花の笑顔が見たい。なら別に、今まで通りでいいんじゃないだろうか。絵梨花に気持ちを伝えてふられたわけでもなく、絵梨花に嫌われたわけでもない。

 今までどおり、この心地良い関係を何も考えずに続けていればいいんじゃないだろうか。

 それに絵梨花の約束だって、そんな大昔のこと上手くいくとも限らないし、絵梨花が気持ちを伝えたところで何も起きない可能性だってある。

 願わくば、絵梨花の想いが叶いませんように。その約束の人に拒絶されて、俺に振り向いてくれますように。

 このように都合よく考えて、なんとか立ち直ることができた。

 自分でも、嫌な性格をしているなと思った。

 もっと真っ直ぐな人間だったら、絵梨花に正々堂々と気持ちを伝えて、ダメだったら関係を断つくらいのことはしただろう。でも俺には、とてもそんな真似はできない。今の関係性を壊すことなんて出来ないし、絵梨花に嫌われることだって怖い。

 だから俺は、表面上は今までどおりに振る舞い、ただただ絵梨花が恋敗れることを願っているのだ。

 俺は最低な人間だろうか。

 大切な友人が、辛い想いをすることを願っている——

「それで、ノリは? どうすんの」

「ごめん、聞いてなかった。何が?」

 物思いに耽ってしまったせいで、会話から置いていかれたようだ。

「お好み焼だよ。何にすんの?」

 絵梨花が小首を傾げて俺の方を見ていた。

「ああ、注文か。それなら、豚玉で」

「えー、俺と一緒じゃんよ」

 兼保が煙草に火をつけながら不満げな声を出した。彼はなぜかいつも注文が被るのを嫌う。よくわからないが。

「どうせならみんなで違うの頼んで分けた方がお得だよな」と敦も加勢したので、「それなら」とメニューを指差し「トマトチーズってやつにしてみようかな」と言った。

「それ私も気になる! ちょうだいね」

 横に座る絵梨花が、俺の顔を見て口元だけで微笑んだ。その笑顔が俺の心を重くした。まるで心臓に鉛でも括りつけられているような気分だ。

 あのアトリエでの一件以来、なんとなく絵梨花に対して後ろめたい気持ちが消えない。

 でも、俺にはどうすることもできないんだ。

 絵梨花には、失敗してもらわないと、困る——

「コンクール……いや、紫玉絵画展の結果発表っていつなんだ?」

 敦がビールを飲み干し、絵梨花に尋ねた。

「多分、八月の中旬くらいだと思う。なんかね、ウェブサイトでも発表されるんだって」

「そうなのか。入選するといいよなぁ。楽しみだわ」

 そう言って、敦の表情が綻びる。目が線のようになり、とても優しく見えた。

「絵梨花ならきっと入選するでしょ」

 兼保も煙草をくわえながら笑顔になり、自分のことのように嬉しそうにしている。

 きっとこの二人は、絵梨花が入選することを心から願っている。絵梨花のことを本当に応援している。

「ノリだってそう思うだろ?」

「だって最後に絵を見たんだもんな」

 敦と兼保が俺に水を向けた。何も言うことができず、俺は黙ってしまう。当然、「絶対入選すると思うよ」と答えてしかるべきなのだろう。敦と兼保だって疑いなく俺がそう言うと思っているはずだ。

 だからか、黙りこくる俺を怪訝な顔つきで見つめていた。

 俺だって、ずっと頑張ってきた絵梨花を知っているから当然入選して欲しい。誰よりも今回のコンクールに絵梨花が真剣に臨んでいたことを知っている。でも、俺は本当に絵梨花に入選して欲しいのだろうか。

 あの絵が、入選してしまっていいのだろうか——

 入選したら、絵梨花は約束の人に——

「ノリ、どうかした? 顔色悪いけど」

 気づくと、絵梨花が不安げな表情で俺を見つめていた。

「お前どうしたんだよ。急に黙っちまうから——」

 敦と兼保も、深刻な様子で俺の顔色を窺っていた。

「ああ——大丈夫、考え事してて」

「具合でも悪いの?」

「そういうわけじゃないんだ。けど、少し酔いがまわったみたいで」

「そうは言ってもまだビールしか飲んでないだろ……」

 敦が眉をひそめた。俺は酒に強く、普段からこれしきの量で酔ってしまうことはそうない。敦が違和感を持つのも無理はない。

「じゃあやっぱり体調悪いんじゃ……」

 絵梨花が消え入りそうな声で呟く。その表情は影が落ちたように暗い。こんな顔の絵梨花は滅多に見ることがない。本気で心配しているのだ。絵梨花だけではない。敦も兼保も優しいから、きっと本気で心配している。いつも一緒にいるから、少しの変化でもすぐに気がつくんだ。

 俺はそんなみんなの様子を目の当たりにして、段々と申し訳なくなってきた。なので無理にでも気持ちを切り替えようと思った。

「本当になんでもないんだ……ぼーっとしてただけ。それより、絵が完成して良かった。絵梨花、お疲れ様。乾杯!」

 そう言って、手元にあったビールのグラスを宙に掲げた。

 敦と兼保はそれにつられて、「うぇーい!」とグラスを突き合わせたが、絵梨花だけは猜疑心が消えないようで、じっと俺を見つめたままだった。

 俺は飲み会が終わるまで一度も「入選したらいいね」と絵梨花を応援することはできなかった。

 嘘はつけないのだ。

 自分がそれを願っていないのなら、たとえ絵梨花のためとはいえ——心にもないことは言えなかった。結局俺は、自分のことしか考えていなかったんだろう。

 二十三時を過ぎ、さんちゃんの閉店時間になったので宴会はおひらきになった。兼保は明日朝からバイトがあると早々に立ち去り、敦も反対方向なので一人で帰っていった。

 俺と絵梨花は、二人きりで夜道を歩いていた。

 この時間になると商店街の店はほとんど閉まって静まり返り、仕事帰りのサラリーマンくらいしか歩いていない。

 まばらな街灯の灯りが頼りなく歩く先を照らしていた。暗闇に浮かぶ「ようこそ」と書かれたのぼり旗は、なんだかしょんぼりして見えた。

 話すことも思い浮かばす、俺はしばらく夜空を見上げるふりをした。星なんて何一つとして見えず、ただ真っ黒な空があるだけだった。

 この暗黒の先に、星なんてあるのだろうか。

 なんだか信じられない。生まれてこのかた、一度も綺麗な星空なんて見たことがない。見たことがないものは信じられない。

 もしこの空の向こうに星の瞬きがあるとしても——俺に見えないのなら、ないのと同じだ。

「ねえノリ、今日は久々にみんなで飲めて楽しかったね」

 ぼーっとよしなしごとを考えていたら、絵梨花に話しかけられた。

「そうだねぇ。いつも一緒にいるけど、こうやってちゃんと四人で集まったのは久しぶりだったかもしれない」

「やっぱりみんながそろうと、楽しいなぁ」

 絵梨花は上機嫌で、スキップをするように軽やかに歩いていた。

「コンクールに出した絵、ノリにも絶対見てほしいな」

「俺に?」

「そうだよ。もし入選したら絶対見に来てよね」

 絵梨花ははじけるような笑顔だったが、どこまでが本当なんだろうと思った。そんなこと言って、心の中では——俺ではなく、あの人に見せたいんだろう。

 眩しかったはずの笑顔を、まっすぐに受け止められない自分。

 悲しいなと思った。

「私はね、大切なものしか絵に描かないって決めてるの」

 絵梨花は立ち止まり、急に真剣な表情になった。

「どうしたの、いきなり」

「ノリはわからないかもしれないけどね。絵を描くのって、すごく大変なんだよ。時間も労力も、途方もないくらい必要で」

「……うん」

「だったらさ、自分にとって大切なものしか描きたくないじゃん。でしょ?」

 絵梨花はうっすらと笑みを浮かべて、俺を見つめていた。

「言いたいことはなんとなくわかるけど……なんで急にそんなことを?」

 絵梨花は俺から視線を外すと、夜空でもない——どこか遠くを見上げた。

「きっといつかわかるよ」

 それだけつぶやき、走りだしてしまった。

「おい、俺をおいて行く気か」

 呼び止めると、絵梨花は振り返って「ふふふ」と無邪気に笑った。

「ノリ、また今度学校の課題の絵を描こうと思ってるの。だからまたアトリエに見に来てよ」

「仕方ない、わかったよ」

 俺はそう答えると、小走りで絵梨花を追いかけた。

 俺はきっと難しく考えすぎなだけなんだ。このゆるやかな日常は、きっとまだまだ続いていく。今はそれだけでいいんだ。

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