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溺れる夏、君と罪にキス 完結

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許されない恋心を抱いた少年少女の青い春。学校中で人気の彼には、ひとつだけ言ってはいけないことがある。
『愛してる、今も』『誰と重ねて見てるの』
彼は花の蜜のように甘美で、けれど毒だった。伝えられない思いの行方は。

1位の表紙

目次

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【偽りの楽園だったとして】

「伊織君」

放課後、教室の窓際でまどろむ少年の名前を呼ぶ。夕焼けに染まるグラウンドからゆっくり時間をかけて、視線を滑らせた。

「なあに、森野さん」

甘くとろりとした蜂蜜みたいな声。でも、それは毒だ。一度その声を聞いてしまえばたちまち虜になる。

伊織君に呼んでもらえると自分の名前が特別なものに思えて、もっと呼んでほしくなるんだ。

「このあと、時間空いてるかな?」

「空いてるよ」

「……屋上、行かない?」

たったこれだけの言葉で意図を汲み取ってくれて、伊織君はほろり、触れると呆気なく崩れそうな柔らかい笑みを浮かべこう言った。

「いいよ」

『いいよ』それが伊織君の口癖だ。友達から何を頼まれても、嫌な顔ひとつしないでいいよと綺麗な唇で肯定の言葉を紡ぐ。

その理由を尋ねると『悲しい顔をさせたくないし、それで喜んでくれるならいいんだ』と答えていたっけ。

だからこの誘いがどういう意味かも分かってるはずなのに、断らない。

「森野さん、行かないの?」

鞄を少しばかり華奢な肩にかけて立ち上がった伊織君に、不思議そうな顔で覗き込まれる。

「ううん。行こ」

―――本来立ち入り禁止の屋上に行ってすることは、とてもじゃないけど他人に自慢できるものじゃない。

友達にも絶対言えない。秘密。

けれど背徳感や罪悪感さえも、享楽と化してしまうのだ。

「伊織君」

錆びれたフェンスに背中を預けた伊織君のネクタイに、指をひっかける。

するりと解けば学校指定の安っぽいネクタイはアスファルトの上に落ちた。

誘われるがまま伊織君の頬を両手で包み込み、赤く熟れたかさつきのない唇に自分のそれを重ね合わせる。

「……っ……」

時折唇の端からこぼれる吐息に眩暈がしそうだ。17歳、大人になりきれてないが故のあどけなさと特有の色気。

「い、おり君」

名前を呼ぶと綺麗な微笑みを見せてくれる。その笑顔に全身が熱くなった。

伊織君のもっとと縋るような視線も今は自分だけに向けられているのだと思うと、優越感に浸れる。

……分かってる、伊織君は誘われたら他の女の子達ともこういうことをしてるって。私は所詮その中の1人。

陳腐で拙い感情だと人は思うかもしれない。それでも。

伊織君に自分を見てもらえてるって実感できるのは、こういうときだけだから。私にとってこの空間が楽園なのだ。

「森野さん?」

伊織君はどうしたの、と首を傾げる。

「何でもないよ。もうすぐ夏だなって、思っただけ」

笑顔を取り繕ってもう一度瞼を閉じる。

―――伊織君を好きになったときのことが、不意に頭を過った。

【オレンジに染まる白い花】

「はーい!今日はこのクラスに新しい仲間が増えます!」

新学期早々、先生のSHRで先生のうるさ……いや、明るく朗らかな声が響いた。進級するこの時期ってことを踏まえると転校生?

「その子は――っじゃん!春子ちゃんだ」

そして先生が紹介したのは転校生の女の子――ではなく、背中に隠しもっていた小さな植木鉢だった。その中心では蕾からちょっとだけ白い花びらが覗いていた。

「は!?ただの花かよ」

「人間の可愛い春子ちゃん連れてこいって」

「この教室、あんまり物がなくて寂しいだろ?だから花があったらいいんじゃないかと思って持ってきたんだ!」

分かりやすい生徒の反応を見ても先生はめげずにテンションを上げて喋る。

物が少ないのは当たり前だ。1つ上の学年になってからまだちょっとしか経っていない。

だから教室も、入学式やクラス替えが行われる前に大掃除したときの綺麗な状態のまま。

「春子ちゃんのこと、皆大切にしてやってくれ!日直が水やり当番ってことで」

先生が春子ちゃんと名づけたそれは、小さくて可愛らしい白のマーガレット。

確かマーガレットが咲くのは春から夏にかけてだから、時期的にも今がちょうどだ。でも今の季節が春だから春子ちゃんって、単純だなぁ。

「水やりとかめんどくさい仕事増やすなよ」

「わざわざやんないし。枯れなきゃいいっしょ」

私も同じ考えだった。毎日水をあげなくても枯れない程度に世話すれば大丈夫と。でもそうはいかなかった。

先生が日差しをたっぷり浴びせたいからと春子ちゃんを窓側の日差しがあたる場所に置いたんだけど。

そこは私の席の隣だったのだ。日直が水やりをするようにと言っていたけど、やはり皆がそんなことするわけもなく日々が過ぎていく。

「春子ちゃん」

授業中、白い花を見つめる。さすがに、そろそろお世話してあげないと綺麗に咲けないよね。というか、このまま枯らせてしまったらもったいない。

「あとでお水、あげるね」

———————

——……

全ての授業が終わり、放課後に春子ちゃん用のミニジョウロに水を入れて、土にかけてやった。

放っておいてごめんね。小さな罪悪感が胸をついた。この日から定期的に春子ちゃんに水やりをするようになって。

蕾だった部分も、今では綺麗に白い花びらを広げている。綺麗に咲いてくれて嬉しい。

「春子ちゃん、お水ですよ」

放課後は皆帰っていて自分1人なのをいいことに、春子ちゃんに話しかける。春子ちゃんの後ろには散り始めている桜。

「春子ちゃんはせめて夏の終わりまで咲いててね」

「これ、そんなに長い間咲くんだ?」

「っえ!?」

急に声をかけられたせいで、カツンとジョウロを床に落としてしまう。

「あ、ごめん。いきなりびっくりさせたよな」

ドクドク、不規則に脈打つ心臓は落ち着きそうにない。『はい、どうぞ』と屈んで私が落としたジョウロを拾い、流麗な笑顔を向けてくれたのは。

「い、伊織君」

夕焼けの茜色のせいかミルクティーの髪が淡く橙色に染まっている。綺麗な色に目を奪われていたけど、そうじゃなくて。何故伊織君が。

「この花、誰も水あげてないのによく咲いてんなって思ってたら、森野さんが世話してくれてたんだ」

「う、うん。元気に咲いてくれると嬉しくて」

伊織君はへぇ、と呟いてマーガレットを興味深そうに観察する。

「これ、何て名前の花?本当に夏の終わりまで咲く?」

大きな瞳を好奇心であふれさせている。なんだかその瞳が眩しくて思わず視線をそらした。

「マーガレットの春子ちゃんだよ。丁寧にお世話すればそのくらいまで咲いてくれ るはず」

伊織君とちゃんと話すのはこれが初めてだから落ち着けない。1年の時からクラスは一緒だけど、伊織君はいつも皆に取り囲まれているような存在。

このままろくに話すこともなければ、名前すら呼んでもらうことはないんじゃないかと思っていたから。

「森野さんのおかげだな、春子ちゃんが元気なの」

「水あげる以外は特に何もしてないんだけどね」

「大切なことじゃん。水やり」

伊織君が動く度にシトラスが鼻腔を掠める。

「あ!伊織、まだ教室にいたのかよ」

ふわふわと体が浮いている感覚から、一気に現実に引き戻された。途端に視界がクリアになり、周りの音も鮮明に聞こえてくる。

「一緒に帰るって約束したのに何やってんだ」

「待ち合わせ玄関か。教室だと思ってた」

そっか、柚月君と待ち合わせをしていたからまだ校内に残っていたのか。

「早く帰るぞー」

「類、ごめんって」

「お前ほんとマイペースな」

騒ぐ柚月君の背中を押して教室を出ていこうとする伊織君。

もう帰っちゃうの、と言いそうになった自分に何考えてるんだと叱咤する。

「森野さん」

凛とした、それでいて甘い声で名前を呼ばれ、弾かれたように顔をあげた。

「じゃあね」

「うん。ばいばい」

返事をすると、にっこり微笑んで柚月君と共に教室を出ていってしまった。

バニラの香りを、置き去りにして。

——————

——……

伊織君はよく放課後教室に残るようになった。マーガレットの水やりを見るために。

でもそれは気まぐれで、来ない日が続くこともあればたまに友達を連れてくることもある。

「今日は暑かったから水多めにあげた方がいいんじゃない」

「そうだね、土も乾いちゃってるし。春子ちゃんお水ですよー」

今日もいつも通り机に突っ伏しながら私が水をあげる様子を眺めている。伊織君は自分で水やりをやろうとしない。

加減が分からないから苦手らしい。伊織君にも不器用なところがあるんだ。

「はーるー子ちゃん」

窓際にするり、しなやかな動きで春子ちゃんに寄り添い目を細める。

伊織君は花が好きってわけじゃないけど、春子ちゃんには特別愛着を感じているようで。

私にとっても一緒に過ごせる時間が増えて嬉しいし、春子ちゃんには感謝だ。

「春子ちゃん、森野さんに感謝しろよ」

言いつつ指先で白い花びらに触れる。そのちょっとした仕草ですら様になるからすごい。

「たまには伊織君も水やりやってみようよ」

「やめておく。春子ちゃんが可哀想」

そうかな、春子ちゃんも格好いい男の子に水やりされた方が喜ぶかもしれないよ。ゆったりとしたこの時間を密かに楽しんでいると。

「伊織~?」

伊織君とは違う種類の甘ったるい声がした。振り向くと他のクラスの女の子が教室の扉に寄りかかっていて。

「今日はうちに来るって約束でしょ?」

「分かってる。今行く」

待って、あと少しだけ。行かないで。その言葉を口にすることは出来ずに舌の上で転がして終わる。手を伸ばしたくても、伸ばせない。

「じゃあね、森野さん」

黒い感情が胸のなかで疼く。ああ、私もあの蜂蜜を垂らしたような綺麗な双眸にもっと映してもらいたい。

もし特別な関係になれたら。私が知らなかった彼の顔も、もっと知ることができるんじゃないか。

——多分このときだ。伊織君を意識したのは。ただのクラスメイトから抜け出したいと、思ったのは。

【溺れる夏】

そこから今の関係に至る。気づけば夏が終わる手前まできていた。歪んだ恋だってことは分かってても、引き返せなくて。

とん、とん。屋上へ続く階段を下り、短く息を吐く。

「まったく」

伊織君ってば。屋上で会おうと約束していたのに、行ってみたら彼の姿は見当たらなくて。

となれば教室にいる可能性が高い。マイペースだけど約束を簡単に破る人じゃないから心配になる。

教室を目指し扉を開けようとして――がらり。勢いよく開けられた扉から出てきたのは、涙目で悲しみに歪む顔をした女の子だった。

お互い気まずくなって目を逸らす。女の子は昇降口の方へ行ってしまった。

もしかしなくてもこれは。ふられた?誰にって、教室の机の上に浅く腰かけている、伊織君。

伊織君は殆どのことに対していいよと言うが1つだけノーと言うものがある。

それが女の子から『好き』と言われることに対してだ。

だから女子の間で暗黙の了解みたいなものがある。気持ちを伝えてしまったら全ての関係が終わるから好きだと言わない方がいいと。

でも伊織君への好きが積もった時、伝えずにはいられなくなる子が多い。言ってしまったら、残るは残酷な現実のみ。

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とじる

2.

伊織君は窓際の机に浅く腰掛けて、春子ちゃんを見つめている。

「……伊織君」

控えめに声をかけると、特に驚いた様子もなく振り向いた。

「森野さん。ごめんね、約束してたのに。柚月に用事頼まれちゃってさ」

今連絡しようと思ってたところ、なんて。申し訳なさそうに眉を下げる。

私もさっき見聞きしたことは隠して『じゃあしょうがないよ、お疲れ様』と言っておく。

「春子ちゃん、枯れてきてるんだ」

伊織君が憂いを帯びた瞳に白い花を映す。

「うーん。葉っぱのところが色変わってきてるね」

ちゃんとお世話してもやはり限界があるのか。葉は少し茶色に変化していて花びらも数枚散ってしまっている。

「もう、綺麗に咲かない?」

伊織君は焦燥感で塗りたくった声で言う。

「そろそろ寿命かもね。むしろよくここまで咲き続けたなっていうくらい」

「……そっか」

始めは花の種類がマーガレットだってことも春子ちゃんって名前も知らなかったのに、私が思うより気に入っていたみたいだ。

「これからもちゃんとお世話することくらいしか私達にはしてあげられないから」

「そうだな」

水のあげ方や肥料を変えたらどうにかなるのかな?調べてみないと。

「森野さん」

「ん?……っ」

伊織君に顔を向けると、どちらかが少しでも動けば唇が触れる距離に。

伊織君の指が私の髪を梳いて、それから輪郭をなぞる。

その仕草に目を細めると、柔らかい唇がふってきた。でも、いつもの口づけとは何かが違う。

目を開けて伊織君を見るとどこか寂し気な顔をしていて。

その顔、知ってる。前にも一度こういう表情の伊織君を見た。私の気のせいかもしれない、勘違いだと思いたいけど。

伊織君は私じゃない誰かをその瞳に映してる感じがして。でも深く考えるのが怖くて、ひたすら蜂蜜のような甘さを享受した。

――――――

――…

古びたドアを開ければ、燃える紅と夜の訪れを告げる藍色がグランドや校舎を侵食してる光景が飛び込んできた。

息を飲むほど、美しい。何か考え事をしたいときはここに来ると落ち着く。

「静かだなぁ」

当たり前だ、屋上は立ち入り禁止。でも、来てしまう。頭に浮かぶのは数日前の伊織君の表情。私を見ているようで見ていない、瞳。

多分その理由を聞くと、ボーダーラインを越えることになる。

けど、いつまで伊織君とこの関係を続けるのか。

自分の気持ちに蓋をし続ければいいんだろう。私は―――。

「あれ、先客がいた」

はっとして振り返ると、そこには伊織君がいて。

「森野さん、どうした?考え事?」

「そんな感じ。伊織君も?」

「俺は、夕焼けが綺麗だなーって」

確かに、綺麗な景色を見たいなら校内でここが一番だ。蜂蜜色の瞳で藍の彩を映す。

この圧倒される景色に伊織君が飲み込まれるんじゃないかと思ってしまうくらい、溶け込んでいた。

その表情がふっと変わる。あの時と同じ切な気な顔。やっぱり勘違いじゃない。伊織君は今、誰かのことを考えてる。

憂い気な、それでいてどこか愛おしさを滲ませている。愛する人を、思い出しているかのような。

「森野さん?」

私の視線に気づいてかパッとこちらを向いた。さっきまでの表情ではなく、いつもと同じ笑顔で。

「伊織君は、さ」

やめておけ、踏み込むなと脳内で警報が鳴る。私さえ言わなければ今まで通りの関係でいられる。

「誰を、想ってるの?」

言うな、伊織君という甘美な毒に自ら溺れたんだから、そのままでいいじゃないか。

「キスするとき、それ以上のことするとき……今だって」

パンドラの箱は、開けてはいけないのに。

「誰と重ねて見てたの?」

聞いてしまった。ついに、核心に触れるようなことを。伊織君は視線をさ迷わせた後『どういう意味?』努めて普段通りに話そうとする。

でも瞳の奥で感情が揺らいでいるのが分かった。

「そのままの意味だよ」

「森野さん、面白いこと言うね」

「冗談で言ってるんじゃないよ」

「……だよな」

伊織君は笑顔を徐々に崩して、困ったように眉を下げる。きっとこういうことを聞いたのは、私が初めてなんじゃないかな。

「それは」

伊織君、違うって言って。私の勘違いだよって、ほら。……どうして、何も言ってくれないんだ。心臓を針で刺されたような痛みに、唇を噛みしめる。

「伊織君」

呼ぶと、やけにゆっくりした動きで顔をあげ、何かを決意した表情で口を開く。

「森野さんの、言う通り」

それは、つまり。本当に、私と誰かを重ね合わせていたと。じゃあ。

私は本当の意味で伊織君の綺麗な瞳には映っていなくて。繋がりが確かにあると思っていたのも私だけで。

幸せだと感じていたこの刹那の時間は。特別になれるんじゃないかと錯覚することが出来た楽園は。

何の、意味も……なかった?今までの記憶が音を立てて崩れていくのが分かった。

「だったら、いっそのこと……嫌いって。嫌いって言ってくれたら」

自らボーダーラインを超えてパンドラの箱を開けた代償は、大きすぎた。

「……じゃあ、誰と重ねてたの?」

自分でも情けないくらい、貧弱な声だった。

伊織君とは付き合ってるわけでもないから自分を振ってくれ、とも言えなくて。その現実にまた胸を突き刺される。

「俺の」

虚しさに溢れた表情と声だった。

「――姉さん」

伊織君の、お姉さん?どういうことだと疑問が押し寄せた。

「俺には1つ上の姉さん、亜紀がいた。本気で愛してた。亜紀も俺のことを男として愛してるって言ってくれてて」

伊織君にはもう、大切な人がいたんだ。

「亜紀は、何でも受け入れる人だった。ちゃんと人のことを受け止めた上で人のために何かしてあげようって、いつも行動する」

ぽつり、ぽつりと語られる、伊織君の内側の話。

伊織君の殆どのことに「いいよ」と言う性格は、お姉さんの影響が少なからずあったのか。

「そんな亜紀のことが、いつの間にか好きになってて。守ってやりたいって思ってた。自分の気持ちをぶつけた時も、からかわないで真剣に受け止めて応えを出してくれた」

本来ならタブー。分かったうえでお姉さんも応えた。

「楽しくて毎日笑ってた。でも、亜紀は事故に、あっちゃったんだ。俺が中2の時。救急車で運ばれて入院」

伊織君の顔がくしゃり、崩れて哀しみの色に変わる。伊織君の傷は、今でもまだ癒えてないんだろう。

「事故の後遺症のせいで寝たきりの生活だったけど、調子がよかったら少し話せた」

もう少しで、夕焼けの茜色が完全に藍色にのみ込まれる。

「そのとき『私は伊織のことずっと愛してる。いつまでも、何があっても愛してるよ』って言って」

生温かかった風が、冷たくなっていた。

「でもそれが、最後の言葉だった。次の日容態が急変して、頑張って治療したけど亜紀は……、いなくなっちゃった」

私が伊織君の立場なら、その事実を受け入れるのにいったいどれだけの時間を要するのだろう。

「だから俺も。ずっと亜紀のこと愛し続ける。誰かに好きって言われても、応えられない」

告白を断る理由は、これだった。それは揺るぎない誓いのようで。私じゃ敵わない。愛する人に触れることすらできない寂しさを埋めるために、誰かと熱を共有する。

「森野さんが言った通りだよ。つい思い出すんだ。亜紀のこと」

「息苦しくならない?」

「ならない」

ああ、そうか。私のちっぽけな世界が伊織君中心で廻っているように。伊織君の世界もまた、お姉さん中心で廻っているのだ。

「伊織君は、こっちの気持ちを受け取ってくれないんだね。ありったけの想いがあっても、受け取ってくれない」

どれほどの愛を捧げようと、伊織君にはいらないもので。

「受け取れないよ」

心臓が引きちぎられるほど苦しい。私には、お姉さんに嫉妬する資格すらないのかもしれない。

でも、伊織君の中で永遠になったお姉さんが憎い。今伊織君の前にいるのは、私なのに。

「伊織君、泣いてる」

「森野さんもじゃん」

水の膜が張り、景色が歪んで見える。ぽたぽたと手の甲に涙が落ちた。

「2人で泣いてさ、ばかみたいだな」

「でも止まらないよ」

「どうしようか」

私達はどうしたって無力な子供だ。それが歯痒くて仕方がない。伊織君には心に誓った相手がいる。

だけど、それでもなおどうにかなりそうなほど熱くて甘みを含む感情は、心に染み付いて離れない。

どう足掻いたって、正論を頭で理解したって。

狂おしいほどの想いに、理性なんて通用しないのだ。涙をぐいっと手でぬぐい、目の前の彼に向かい合う。

涙で濡れたからか、一層綺麗で澄んだ伊織君の瞳。

伊織君の頬に涙の跡を作るそれをほんの少し指先で触れて、掬ってやった。

「ねえ、伊織君」

「なあに」

「キスして」

「……いいよ」

世界をシャットアウトするように、2人で瞳を閉じた。

マーガレットの花言は葉純愛、または誠愛。

誰もいない教室の窓際で、夕日が沈みきる瞬間マーガレットの最後の花びらが夏の終わりに散ってしまったことを、私達はまだ知らない。

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まず表紙がインパクトありますねー。
偽りの楽園だったとして 
この一文も好きですね。
描写が、美しく、青春の尊さを感じます。
伊織くん…

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とじる

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とじる

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