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今日こそアセビの花を君に贈ろう

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私は描かなくてはいけない。
この瞬間。この時。君を。

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目次

  • 序.

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    • 誤字、脱字の修正をおこないました。(2018/04/03)
    • 誤字、脱字の修正をおこないました。(2018/03/29)
  • 一.

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    • 内容に影響のない範囲で、一部表現の変更や追記をおこないました。(2018/04/04)
    • 内容に影響のない範囲で、一部表現の変更や追記をおこないました。(2018/04/03)

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序.

 今日はいつになく座り心地が悪かった。

 いや、今までも決して良かったことはない。

 それは決して、椅子の硬さや材質の問題ではなく、裁判という特殊な状況だからこそということも分かっていた。

 それでも今日は、この傍聴席の椅子は、いつになく座り心地が悪かった。

 心なしか、呼吸も鼓動も荒い気がする。

 深呼吸。

 思い立って、鼻から大きく吸い込んだ。

 裁判所の、独特の重苦しい空気で肺を満たして、緊張と一緒に吐き出す。

 少しだけ、落ち着いた気がする。そういうことにしておく。

 いつもどおり鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出し、膝の上に構える。

 内蔵を抜かれた革の鞄が、枯れた音を立てて体勢を崩す。

 慌てて押さえて、その鞄が、もう十年以上前にプレゼントされたものだと気づいて胸が痛んだ。

 あの時の妻の笑顔はとても可愛かった。

 もちろん、その時だけでなく、妻の笑顔はいつでも可愛かったが。

 鞄を丁重に寝かせてやっていると、今回の主役が入廷してきた。

 例に漏れず、腰縄に手錠という痛々しい装備。

 白髪が少し混じった髪をひとつに結び、しかし、顔には年齢を感じさせるような皺は見当たらない。

 被告人は俯くことなく、まっすぐ前を見て歩いてきた。

 ただ、前を見ながら、どこにも焦点が合っていないかのような印象を受けた。

 腕時計を見る。

 これも、妻に贈ってもらったものだ。

 決して経済的に余裕のある家庭ではなかったのに、どうにかやりくりしてコレを贈ってくれた。

 妻は、私に足りないものを見抜くのが得意な女性だったし、そんな私のために尽くしてくれる女性だった。

 そして同様に、私も妻を愛していた。

 妻の贈り物が午前10時を告げようとしていた。

 まもなく開廷時刻。

 まるで自分が裁かれる気分だった。

 正面には裁判官の席、嚥下した唾で喉が痛む。

 ちらりと向けた視線に気づくことなく、被告人は相変わらず真っ直ぐに前を見ていた。

 やがて裁判官が現れ、起立と一礼を促す。

 いつものように、何に恭しくしているのかわからない時間が過ぎ、裁判が始まった。

 被告人、杉原杏子。

 47歳。

 起訴内容、殺人。

 被害者は、私の母、杉原八重子。

 真っ直ぐに虚空を見つめている可愛い女性。

 杉原杏子は、私の妻だった。

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とじる

一.

「今度はアセビの花を贈るね」

 朝。もう暖房も付けなくてよくなった、晴れた日。

 いつものようにコーヒーを私に差し出して、妻は言った。

 鼻腔をくすぐる豆の匂いが、一気に脳を覚醒させる。

「どうしたの。予告なんて珍しいじゃない」

 私の言葉に、にひひと笑う。今度はお気に入りの花瓶に水を差しながら。

 何かを企んでる時の笑顔だった。

 妻はサプライズが好きだった。

 毎回、飽きもせず工夫を凝らして私を驚かせた。

 だから、私はそういう時の妻に対して、余計な詮索をしないことにしていた。

 せっかく驚かそうと努力してくれているのだから、あれこれと暴こうとするのは野暮というものだ。

 妻が驚かせて喜ぶ女性なら、私は驚かされて喜ぶ男だった。

 決してMっ気があるわけではない。

 マジックも素直に騙されて、驚かされるのが好きだし。

 そう。これはMっ気ではなく、純粋にそういうことを喜べる性格というだけだ。

「今日は?裁判だっけ?」

「あのねぇ。気軽な犯罪者みたいに言うのはやめてくれないか」

 またも、にひひと笑う。

 妻は私をからかうのが好きなのだ。

 妻の言うとおり、今日は裁判の日だった。

 所謂、法廷画家としての依頼を受けていた。

「あの、テレビでやってたやつよね」

「うん。競争率高いから、もしかしたらすぐ帰ってくるかも知れない」

 話題になった事件だった。

 街で見かけた女子大生に付きまとい行為を行い、ついには殺人に至った事件。

 被害者の数は三人。

 メディアも、他にネタがなかったのか、やたらセンセーショナルに騒ぎたて、被害者のプライバシーが揺り篭から墓場まで、悲劇的に報じられた。

 テレビに映る被害者たちの笑顔に同情するとともに、さっきまで猫の特集ではしゃいでいたコメンテーターの神妙な面持ちには辟易したものだった。

 よくもまあ、そんなにコロコロと表情を変えられるものだ。

 いっそ俳優の方が向いているんじゃないだろうかと、素人考えながら思ったりもした。

 今回の法廷画の依頼は、その初公判のものだった。

 最近までの報道の過熱ぶりから、傍聴席への入場は抽選になるものと思われた。

 当然漏れることもある。

 入れなければお役御免なので、その場で「バラシ」だ。

 自分もセンセーショナルの片棒を担ぐことに、罪悪感がないわけではなかったが、こちらもフリーのイラストレーターだ。

 嫁と母親を食わせるためにも稼がなくてはいけない。

 仕事は仕事。そう割り切る。

「忘れ物はない?」

「君が全部入れてくれたろ。大丈夫だよ」

 玄関まで来て、思わず笑う。

 今、着させてくれようとしているジャケットにハンカチが入っていることも、靴箱の上に置かれた鞄に財布を入れてくれていることも、なんならその財布の中身を確認して千円ほど追加してくれていることも知っていた。

 私が必要最低限のお金しか持ち歩かないのを心配して、妻はいつも少しお金を足すのだ。

 仕事道具は、昨晩自分で確認済みだ。

「抽選の結果、わかったら連絡する」

「うん。待ってます」

 ジャケットを後ろから着せてもらい、靴べらに足を乗せる。

 履きなれた革靴から聞こえる軋んだ音が心地良い。

 そろそろ買い換えたほうがいいと言われたが、お気に入りなので、もう少しだけと懇談して履き続けている。

「しっかり働いてきてください」

 妻の一言に背中を押され、外に出た。

 ドアが閉まる直前、二階から母が騒ぐ声がした。

 妻が「はいはい!」と大きな声を返しながら駆け上がっていくのがドア越しに聞こえた。

 サラリーマン時代にローンで買った中古の一軒家は、二階建ての3LDKだ。

 バリアフリー化はしていない。

 桜の花びらがふわりと降ってきて、少しだけ、心持ちが軽くなった。

 法廷画はスピード勝負だ。

 時間内にラフを何枚も上げ、クライアントが納得する一枚を出さないといけない。

 お気に召すものが提出できなければ、次に呼ばれることもないだろう。

 よしっ、と一人で小さく気合を入れる。

 ちゃんと仕事をしなければ、余計に苦労をかけてしまう。

 運動不足を自覚していた私は、最寄りの駅まで出来るだけ足を上げることを意識して歩いた。

 改札の前には、旅行のパンフレットが色とりどりに飾られていた。

 春色から夏色まで様々。

 そういえば、と。しばらく旅行に行っていないことに気づいた。

 一番最近、二人で旅行に行ったのは、5年前の箱根だったかと思い出した。

 ひたすら温泉と食事を繰り返す三泊四日だったが、とても幸せな時間だったと記憶している。

 いつかタイミングがあれば、また旅行に誘ってみよう。

 たまには私がサプライズするのもいいだろう。

 適当な旅のチラシを何枚か手に取り、電車の中ででも見ようとカバンに入れる。

 傷まないようにスケッチブックの間に挟んだ。

 電車に乗り込むと、空席が目立った。

 平日の昼間、春休みも終わったばかり。当然といえば当然だ。

 座席の角に身を預け、窓の方に目を向ける。

 青い空と、花を題材にした小説の広告が目に入った。

「今度はアセビの花を贈るね」

 妻の意地悪な笑顔を思い出す。

 「あせびの花」とはどんな花なのか。楽しみにしながら、電車に揺られて裁判所に向かった。

 窓から入る陽光が、ぽかぽかと気持ちよかった。

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  • 内容に影響のない範囲で、一部表現の変更や追記をおこないました。(2018/04/04)
  • 内容に影響のない範囲で、一部表現の変更や追記をおこないました。(2018/04/03)

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1

面白かったです。
続きを楽しみにしています。

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作者不詳 様
コメントありがとうございます!
ゆっくりですが続きますので、お付き合いいただければ幸いです

作者:ななな

2018/4/6

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とじる

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