桜の樹の下には死体が埋まっていると、そう書いたのは梶井基次郎だったか。故に、桜はあれ程美しく咲くのだと。
なかなかに興味深い推察だと思った。宛ら世界の真理であるような気さえしてくる。咲き誇る桜と腐りゆく死体。生と死は表裏一体だと思わせられる。
閑話休題、桜の樹の下には確かに死体が埋まっている。尤も、それは我が家の庭の桜の話だが。
他の場所の桜がどうであるかはわからない。わからないがもしかしたらそうなのかもしれない。
文豪が態々そう書き残すくらいなのだから。
そも、死体、とは何だろうか。それは肉の器のみを指すのだろうか。私はそうは思わない。
私の家の庭の桜の樹。その下には何通もの手紙が埋まっている。一桁ではない、否二桁でも足りない量のそれは、私がある人に宛てて書いたものだ。
最初は只の葉書だった。年賀状だった。大きな干支の絵の横に、一筆今年も宜しくとだけ書いたものだ。
その葉書は出せないまま、ずっと机の抽斗に納めていた。
元よりその葉書を出す気は無かった。ただ書いて、自らの想いを確認したかっただけなのだろうと思う。
たかが年賀状くらいしれっと出してしまえば良かったのに、とは今更だ。けれどあの時の私にはどうしても出来なかった。書いた文字から想いが滲んでしまうのではないかと怖かった。
それからというもの、私は暇を見ては手紙を書いていた。出すつもりが無くとも、想いを形にするのは案外楽しいことだった。
最初の頃は葉書だった。真っ白な面に一言二言書くだけだった。
それが次第に書く量が増えて、便箋に書くようになった。宛名の無い封筒にそれを入れ、きっちりと封をした。行き場の無い想いに、漸く当てが出来たような、そんな気分だった。
そうしてまた筆を執り、想いを綴り、封筒に納める。何度もそれを繰り返し、気付けば私の想いは箱一杯になっていた。
どうしたものか、と処遇に頭を捻り、ふと視界に入ったのは窓の外の桜の樹だった。
その下は春に花見をすることもあって、何も無い。他の所には母が丈の低い花や何かを植えているのだが、桜の下だけは平らな地面だった。
夜半、私は鍬を手に庭に出た。ざくりざくりと地面を掘り、箱をひっくり返す。ばさばさと幾つもの封筒が落ちてゆく。
妙な、気分になった。大昔の死体の処理はこういう風ではなかっただろうか。弔うわけでもなく、ただただ埋めるだけの「処理」。
それに気付くと真っ白な封筒は死に装束のようにも見えた。これから埋められる、「死体」だ。
土をかけ、「死体」を埋める。元のように地面を平らに均す。
ふぅ、と一息ついた私を見下ろしていたのは三日月だった。まるで、笑っているかのような、想いを伝えられない私を腑抜けと嘲笑っているかのような、そんな、綺麗な三日月だった。
桜の樹の下には、「死体」が埋まっている。「私の恋心」という名の死体が。
だからあの桜はあんなにも美しく咲くのだ。
私の恋心を糧に美しく花開き、そうして儚く散っていくのだ。
そんなものがあの場所に埋まっていることなんて誰もしらない。
了.
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