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夕色の日々

歌詞を物語にしよう

更新:2018/6/22

カンリ

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弓道部員の一年生女子・乃村は、人気のない弓道場で一人練習する三年生男子・井上の姿を見つける。

こぶしファクトリー
「残心」より

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目次

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 今日は雲一つない晴れの日だった。使い終えた道具を片付けようと、静まり返った弓道場へ入った私の耳に、小気味良い弦音が響いてくる。

 夕陽の色が濃い道場の中には、井上先輩が一人残っていた。眩しさに目を細めつつ、私は手をかざして先輩の挙動を見守る。先輩はたっぷりの残心の後、薬指と小指で握っていた乙矢をつがえ、再び八節の動作に入った。

 先輩のゆったりとした八節の動きに合わせて形を変える、私の足元まで伸びた黒い影。矢と腕からなる均等な平行四辺形が、弓を引き分けるに従って美しい会を形作っていく。弓の力はかなり強い筈なのに、先輩は微動だにしない。そのうち、『ギリ……ギリ……』という弽(ゆがけ)の音が聞こえてきた。

 (もうすぐ離れだ)

 今までに放たれた矢は、細かな位置のズレはあるが全て的中している。そしてこの一射もまた、中るものと思われた。

 のだが。

「……っくしゅん!」

 私の鼻がムズムズしてからくしゃみに至るまでの時間は、本当にすぐだった。やってしまったと口元を押さえるのと、先輩が矢を放ったのはほぼ同時だった。

 矢は、的枠をかすって僅かに外れている。私の顔は、サッと青くなった。

「……乃村?」

「す、すみません! 私のせいで皆中が……」

 こちらを振り向いた先輩の顔は、逆光でよく分からなかった。先輩はしゅるしゅると弽の緒を外すと、スタスタとこちらへ歩いてくる。

 (怒られる!)

 慌てて頭を下げると、フッと笑う声が聞こえた。

「頭を上げな」

 先輩が横をすり抜けた後に、生暖かい風が体の片側をふわっと撫でていく。弓を掴んだまま足元を見ていると、玄関で靴を履いているらしい先輩の明るい声が聞こえてきた。

「今日はもう帰ろう。安土の方はやっておくから、道場の片付けをお願いできるか?」

 三年生男子の井上先輩は、我が仏宇野高校弓道部の中で、一二を争う程の的中率を誇るエース的存在だ。入学してまもなく行われる部活動紹介で披露された彼の射を見て入部した一年生は数多く、何を隠そう私もその一人である。

 何しろ部員数が四十を超えるので、道場はいつも人でごった返している。しかし今日に限っては、皆早々と帰宅していた。

 明日は、一年に一度開催される最も大規模な大会の日だからだ。

「じゃ、失礼します」

「おう。明日、会場でな!」

 道場の鍵を職員室に返却し終えると、顧問の先生が割り箸片手に声をかけてくる。カップラーメンの匂いがこもった職員室。先生はどうやら残業するらしい。心の中でエールを送りつつ、先輩に続いて廊下へ出ていく。

 玄関で靴を履き替えて外へ向かうと、駐輪場から弓矢を片手に自転車へ跨がる先輩の姿が見えた。距離が離れていても目が合ったのは分かったので頭を下げると、その間に先輩が近付いてくる。

「乃村はバス通か?」

 そんなに親しい方ではないのだが、先輩は気さくに話しかけてくる。私はドギマギしながら答えた。

「はい」

「俺もそこまで通り道なんだ。折角だから、そこまで一緒に帰らないか?」

 一瞬、心がソワソワッと浮き立つ。迷ったが、自分の中ではイエス以外の選択肢はなかった。

 私がこくりと頷くと、先輩は自転車から軽やかに降りる。そして私達は連れ立ってバス停まで歩きだした。

残心……矢を射た後も心身ともに姿勢を保ち、目は矢が当たった場所を見据えること。(Wikipediaより)

乙矢(おとや)……矢には甲矢(はや)と乙矢の二種類あり、後に射る方の矢のこと。

八節……射法八節。射法の一連の動作。動作は八つに分かれている。

会……射法八節のうちの六番目。わかりやすく言うと、矢を射る前の的を狙っている状態。

弽……弓を引く時に装着する鹿革の手袋。親指の根元部分には溝がついていて、ここに弦を引っかけて弓を引く。

皆中……四射のうち四射とも中ること。

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とじる

 私が通う仏宇野高校は、小山の中腹あたりに位置している。バス停や町は麓にあるため、登下校時はどうしても急峻な坂の上り下りをしなければならない。

 それでも学校の周りだけは曲がりくねった道が多いので、それほど辛くはない傾斜の道が殆どだった。

「さっきはすみません」

 歩きながらペコリと頭を下げると、隣を歩く井上先輩は頭の上にクエスチョンマークを浮かべているような表情をした。が、すぐに「さっき」のことを思い出したようで、首を振る。

「ああ全然。なんなら明日の方が五月蝿いから、大丈夫」

「……いよいよ明日ですね、大会」

 先輩は頷きながら「ああ」と言うと、どこか遠い目をしながら前方を見つめた。部活帰りらしい学生達が、自転車に乗って先輩の横を通りすぎていく。夕闇に溶け込みかけている、長く伸びた私達の影。遠くに聞こえる車の騒音に、数羽のカラスの鳴き声が紛れて聞こえていた。

「調子はどうだ? 何か心配な事はないか?」

 井上先輩は、独り言でも呟くかのように言う。靴の先を見ていた視線を彼へ向けると、彼もたまたまこちらを見ていたらしい。ほんの少しだけ目が合い、そしてすぐ逸らされた。

「いや……明日は初試合だろうから。分からない事だらけだろうと思って」

 矢筒のベルトに通された、使い古された弦巻が揺れる。心なしか早口で紡がれる先輩の言葉を聞きながら、私は入部したての頃を思い出していた。

──こんな所で、どうしたんだ?

 五月のとある放課後、私は人気のない体育館の裏で一人うずくまっていた。そんな私に声をかけたのが、井上先輩だった。

 井上先輩は部のエースだが、その肩書きは『孤高の』という言葉を付けた方がよく当てはまった。誰よりも早く練習に来て、練習中はお喋りというものを一切せず、決して修練をサボる事は無かった。彼に憧れる人は多かったが、そのストイックさから部内では良くも悪くも浮いた存在で、言葉を交わす機会は挨拶ぐらいだった。

 そんな先輩が何故、練習中に弓道場から離れたこの場所へ来たのかは今でも分からない。驚きつつも私は目元を腕で拭い、背を向けたままブンブンと首を振った。

──泣いていたのか?

 目元を擦ったから、泣いていた事がバレてしまったらしい。自分のいかにも分かりやすい行いを密かに恥じていると、先輩がこちらへ一歩踏み出す気配を感じた。

──ひょっとして……イジメとか。

──ち、違います!

 咄嗟に出た声は、裏返ってしまう。真っ赤になって口元を押さえていると、いつの間にかすぐ傍まで忍び寄って来ていたらしい井上先輩が、真横からニュッと顔を覗かせてきた。私は慌てて顔全体を手で隠したが、先輩は私が一番見られたくない所をバッチリ見たようだ。

──顔を怪我したのか。痛そうだ。

 これは道場の裏で巻藁に向かって矢を放っている時に出来た痣だった。他の一年生はとっくに射場で的に向かっているというのに、そうでない一年生は私一人だけだった。早くその差を埋めたくてがむしゃらに弓を引いていたら、矢を放つ際に元に戻ろうとする弦で頬を払ってしまい、そのあまりの痛みで心が折れたのだ。

 へこたれて泣いたりしている、こんな情けない姿を先輩に見られたのは誤算だった。気まずくて顔を背けていると、先輩が私の名を呼んだ。

──引いてる所見たいんだけど、いいか? 今から。

──えっ……。でも。

──いいから。

 先輩は私の手を強引に引っ張り上げた。そしてそのまま無言で道場裏へと引っ張っていった。

 それからは井上先輩による付きっきりの指導が始まった。外部の指導者に教わる機会が限られている為、私達の部ではこうして生徒同士で教え合うスタイルがとられていた。

──乃村、『離れ』の時に怖がって『勝手』が緩んでる。それが顔を打つ原因だ。

 先輩は私の射を見てそう断言すると、次の射からは私の腕に触れ、具体的に私の射を改善してくれた。それでも何度も頬や腕を払ったし、恐怖心は有り余るほどあった。

 だがそれまで抱いた事の無かった、ある意志が生まれ始めた。上手くなりたい。なんとかしてこの状況を打ち破りたい。他の一年生なんてどうでもいい。私の為に自分の練習をなげうってくれるこの人の為に、なんとしてでも教えられた通りに弓を引けるようになりたい──!

──あっ……!

 そしてある時、遂に痛みを感じることなく矢を放つ事が出来た。先輩と私は思わず顔を見合わせた。

──先輩、で、出来ましたぁ……!

 猛烈な嬉しさが全身を駆け巡る。やった、出来た、痛くない!

 じわじわと視界が歪み出す。成功した事は勿論、何より先輩の指導に応えられた事が嬉しい私の涙腺は、自制出来るか出来ないかの瀬戸際だった。

──乃村。

 しゃがみこんで涙を必死に堪えていた私は、先輩の顔を見上げる。所々薄い雲が差す、空色から橙のグラデーション。夢中で練習に取り組んでいる内に、こんな時間になってしまったらしい。先輩の顔は少し影になっていて、はっきりとは見えなかった。

 私は先輩の言葉を待った。先輩は少し迷っているようだったが、やがて口を開いた。

──『動じちゃだめだ、どっしり構えてろ』

──え……?

──いや、……俺が一年の時に尊敬する先輩から言われた言葉なんだ。それがずっと心にずっと残ってて……何だか君にも伝えておきたかった。

 言い終えた先輩が、しかめっ面のような表情をこちらに向けている。口が寝かせた三日月のような形をしていた。どうやらそれが先輩なりの笑顔らしいと判断出来たのは、しばらく後だった。

 変わった笑顔だなあと思いつつ、私の心は何かにわし掴まれていた。先輩とまともに会話をしたのはその日が初めてだったが、笑った所を見たのもこれが初めてだったのだ。

「乃村、急に立ち止まってどうした?」

 思い出に耽っていた私は、先輩の呼び掛けで現実へと引き戻される。無意識にうつ向いていた顔を上げれば、狼狽えた様子で私の周りをうろうろする先輩の顔が目に入った。

 初めて会話をしたその日から、私はずっと井上先輩の事を尊敬の念を込めて見ていた。先輩は一見クールで練習以外の事は興味ないように思えるが、本当は違う。本当は自分に厳しいだけで、優しい人なのだ。ただ少し不器用な所があって、それが周囲に誤解されているだけなのである。

 あの日から、決して長くはない月日が経った。一緒に過ごせる時はあと僅かしかないから、少しでも多くの事を学びたいと思って今日まで過ごしてきた。だが、そんな日々も明日で最後なのだ。

 一緒に過ごせるのは、明日で終わり。

「……乃村?」

 そう思うと、急に心が萎んで寂しさに襲われた。しかし、頭を強く振ってそんな思いを払拭した。

「すみません、何でもないんです」

「本当に大丈夫か?」

「はい。明日、先輩と同じ試合に出られるのがとても楽しみです」

 私達が歩く先にあるバスターミナルに、見慣れたバスが徐行で入っていく。あれを逃したら次は一時間後だ。私は先輩に訳を話すと、早足でバスターミナルへと走っていった。

離れ……射法八節のうちの一つ。矢を放つ時。

勝手……右手。右手は弓を引くとき弦を引いている方。

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とじる

 その日の夜はとりとめのない事ばかり考えてしまい、結局殆ど寝付けなかった。幸いにも天気は雲一つない晴れとなったが、頭はひどくどんよりとしていた。

 今日の大会は全て個人戦だ。各校の出場人数に制限はあるが、他大会に比べて人数の枠数は多い。その為、部内での成績があまり良くない私も、ギリギリ出場出来ることになっていた。

「三年生は笑っても泣いてもこれが最後の大会だからな。悔いが残らないよう頑張ってくれ」

 弓道衣姿の高校生が数多くたむろしている、試合会場横の総合体育館ロビー。我が仏宇野高校は隅の一角を陣取り、皆真剣な面持ちで広瀬部長の声に耳を傾けていた。

 私は目線をずらし、皆から少し離れたところで腕を組んでいる井上先輩を盗み見た。いつも道場で見るような、感情の読み取れない表情。もうすぐ始まる試合に向けて、気持ちを集中させているのだろう。本当にすごいと思う。

「一年生は初めての試合だな。色々思い通りにいかないと思うが、決してめげるなよ」

 私はと言えば、先ほどから変な汗が止まらないでいる。武者震いとは違う震えも感じる。ちゃんと中るのか、スマートに振る舞えるのか。そんな初めての試合への不安で、押し潰されてしまいそうだった。

「では各自解散! 一年生はもうすぐ出番だから、待機場所へ向かうように」

 広瀬部長の張りのある声で、私はハッと我に返った。慌てて周りに倣って頭を下げると、自分の道具を持ち、同級生達と待機場所へ向かった。

 試合会場の道場は、学校の道場なんて比べ物にならない程広い道場だ。学校の道場は五人も立てばかなり狭苦しくなってしまうが、この道場は二十人が立ってもまだ広さに余裕がある。

 とうとう自分の番になり、私は今まで練習してきた通りに道場へ入場した。本当は足元の三メートル程先を見てなければならないのだが、つい好奇心にかられてギャラリーをチラ見する。そして遠いながらも井上先輩の姿を発見し、慌てて視線を元に戻した。

(先輩が見てる。ちゃんとやらないと)

 皆同じ角度で頭を下げ、自分が弓を引く場所へ進む。的への距離はどこも同じ長さだが、自分の的はいやに小さく、そして遠く思えた。

 不自然に静まり返った道場。外からこちらを見ているギャラリーのヒソヒソ声が、道場の中にいる自分にまで聞こえてくる。誰かが放った矢が的に中る音が、緊張でどこか呆けていた頭を現実へと引き戻した。

「よしっ!!」

 ギャラリーが発する大声。弓道はスポーツといえど武道であるので、一般のスポーツのように応援してはならない決まりがある。だが応援する者が的に中った時だけこのように声を出して良い事になっていた。

 ギャラリーからの『よし』は、次々とわき起こる。私も早く引かなければ。焦りはいけないと思いつつも矢をつがえ、私は的へと顔を向けた。

(中るかな。中ってほしい……)

 弓を引いていくに従って、私の心には邪な思いが生まれ始める。平常心を保とうとする自分は急速に膨れ上がった邪な思いに易々と負けてしまい、最初の一射は訳も分からぬままに終わってしまった。勿論、矢は的から大きく外れた一時の方向へ飛んでいく。

(どうしよう、外した)

 焦りが思わず顔に出てしまう。四本あるうちの一本目。しかもこの立が終わっても、後程また四射引くことになっているのでまだまだ中るチャンスはあるのだが、このような状況下では「あと三射しかない」と追い詰められた考えしか出来ない。

 一本も中らなかったらどうしようという不安が、異常な手汗となって現れる。震える手足。

 狼狽えた私は遂に、誤って自分の弓を取り落としてしまった。

「あっ!」

 ガランガランと、この場には似つかわしくない音が響き渡る。僅かにどよめくギャラリー。私の顔は一瞬真っ青になり、すぐに真っ赤になった。

 弓道では『体配』と言う、決まった動作の元に弓を引くことになっている。入退場は勿論、弓を引く動作も決まっているし、勿論試合中に弦が切れた時も決まった動作で処理をしなければならない事になっているのだ。

 しかし、弓を落とした時はどのようにしたら良いのかがどうしても思い出せない。弦が切れた時に準じて弓を拾えばいいのか、はたまた他の動作があるのか。

「よしっ!!」

 私の周りでは、淡々と試合が進行していく。既に弓を引き終えて退場している人もいるようだ。私だけ時間が止まったかのように、真っ赤な顔をして突っ立っている。

「君。いいから、そのまま拾いなさい」

 見るにみかねたらしい係員の一声。その声で呪縛のような硬直が解けた私は、素早く弓を拾い上げた。

 後はその審判員が指示するままに残りの三射を引いたのだが、正直どのようにして引いたのかはあまり思い出せない。気付いたら矢は全て外れていて、ギャラリーからの無言の視線が心臓をキリキリと締め上げているのがわかった。

 私は逃げるように退場すると、そのまま誰の顔も見ないようにして控え室へと走って帰った。

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とじる

 控え室となっている総合体育館内の柔道場には、閑散とした雰囲気が漂っていた。壁にもたれ掛かって携帯電話を見ている者。顔を本で隠して寝ている者。それぞれが自分の時間を、ゆったりと過ごしている。

 私は弓や弽を自分の荷物の側に置くと、壁を背にして座り込んだ。膝小僧を抱き締めて顔を伏せる。

 時折聞こえてくるギャラリーの雄叫び。あんなにかいていた筈の汗はいつの間にか乾ききっていて、少し寒く感じた。瞼の裏で、学校の道場裏の風景と、自分の部屋の風景を思い描く。

 ひどく惨めな気持ちだった。

「乃村」

 体がピクリと反応する。顔を見なくても声をかけたのが誰か、すぐに分かった。そのまま何も喋らずにいると、近くでジャラジャラという音が聞こえてきた。

「矢、回収しておいた」

「……ありがとうございます」

 井上先輩は、そのまま私の隣に腰を下ろした。何か言われるのでないかと密かに身構えたが、先輩も私も何か言葉を口にすることはなく、ただゆったりと時間だけが流れていく。

 居眠りをしている生徒の鼾。顔をそっと上げて隣を見ると、立て膝でどこか遠くを見ているような井上先輩の横顔が目に入った。その顔を見ていると、何故かこれまでは出ることのなかった涙がこみ上がってくるのを感じた。

「情けないですよね」

 思わず喋り出していた。冷たくなった手先を握りしめて、私はうつむいた。

「折角出場出来たのに、結果を残すどころかあんな事になって」

「……」

「本当に恥ずかしいです。皆はちゃんとやっているのに、私はまともに四射する事すら出来なかった……」

 そう自嘲する私の言葉に対する井上先輩の返答は無かった。だが、無言ながらもちゃんと聞いてくれているであろう事はひしひしと伝わってきた。

 しかし言ってしまってから、私はひどく後悔した。どうして私はこんなくだらない話なんか聞かせてしまったのだろう。誰かに聞いて欲しかったのは確かだが、よりによって尊敬している先輩に聞かせる話ではなかった筈だ。

「……あのさ」

 私が自己嫌悪に陥っていると、先輩がのろのろと言葉を紡ぎ始めた。ブブブ、と携帯電話のアラームが鳴る。そろそろ二回目の集合時間だ。

「他の奴なんかどうでもいい。君は君でいろよ」

「え……?」

「これから先、大会に出ていると自分より上手い奴をワンサカ見ることになると思う。その度に『自分なんか』って落ち込む事はよくある。でも大事なのは他人と自分を比べる事じゃない。勿論沢山中る事でもない」

 井上先輩は立ち上がりながら私へ手を差し出した。おずおずと自分のそれを重ねると、体がぐいっと引っ張られた。

「もうすぐ二立目だろ? 決勝に進まない限り、今日最後の四射だ」

「……は、はい」

 またちゃんと出来なかったらどうしよう。そう思うと内臓が冷や汗をかいて、キュッと絞られているような心地になってくる。

 先輩は自分の身支度を整えると、立ったまま俯いている私の背をポンポンと撫で、歩くよう促した。

「不安か?」

 待機場所へ近付くにつれて、人が多くなってくる。同じ学校の子を見つけた私は、その方向から顔を逸らして頷いた。

 係員の指示により、整列が始まる。道場内へと歩を進めた私は、用意されている丸椅子へと腰かけた。

 射場では、一つ前のグループが弓を引き始めている。いよいよという気がしてきて、私の体からは冷や汗が吹き出た。

「乃村」

 すぐ近くで待機していた先輩が、自分の列を抜け出して私のもとへとやって来る。彼の姿を見て少しホッとした部分もあったが、それはすぐに緊張で打ち消された。

「大丈夫か、顔真っ青だぞ」

「せ、先輩……」

 ガタガタと震えている私の事を、先輩は少し目を見開いてしげしげと眺めた。すると、丸めていた背中に温かいものが置かれる。先輩は私の背に左手をそっと乗せると、顔を私の耳元へ近付けてきた。

「乃村、力で弓を引こうとするんじゃない。心で矢を放つんだ」

「心……?」

 その時、係員からの入場の指示が響き渡った。私達が立ち上がると、先輩は素早く自分の待機場所へと戻っていく。

 私は振り返って先輩を見た。強気な眼差しで私を見つめる先輩は、目が合うと力強く頷いてみせる。

「君、早く入場しないか」

 係員に促され、私は慌てて前を向いた。私は震える足を一歩、道場へと踏み出した。

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とじる

 いざ射場に入って矢をつがえていても、私の心は未だ不安と緊張に苛まれていた。先輩からかけられた言葉は鮮明に思い出せるのだが、それらは当てはまる箇所のないパズルのピースのように、ただ頭の中をぐるぐると駆け巡っているだけなのであった。

「よしっ」

「よし!!」

 周りでは前半同様の光景が広がっていた。私はどんよりとした気持ちのまま構えて、弓を打ち起こした。

 弓を引き進め、矢が口割の位置にまで降りてくる。こんな時になってまで心のどこかで「中れ」と思っている自分に気付いて、とことん嫌になった。

 当然、一射目は外れた。

(やっぱり……)

 再び暗い感情に苛まれていく。

 弓道とは、的あてゲームではない。正しく弓を引いた結果、矢が的中するのだ。たとえ沢山的中したとはいえ、その射形がおかしなものであれば、胸を張れる結果ではない。ましてや中ってほしい欲にとらわれていては、正しい射が出来る筈もない。

 とはいえ試合なのだから、多少はそのような欲を持たなければならないのは理解している。だが技術が未熟な自分がそのような欲を持つことは、とてつもなくおこがましいような気がしてしてならないのだ。

 二本目の矢をつがえ、的を見る。弓を打ち起こし、引き分け、そして矢を放った時の事だった。再び事件は起こった。

「痛っ!!」

 誰かに思いっきり叩かれたような痛みが頬にはしる。この感覚は覚えがあった。弦で頬を払ったのだ。

 あまりの痛みに、涙が溢れてくる。深呼吸をして必死に自分を落ち着かせようとしたが、手足はガクガクと震え、とてつもない絶望感に襲われた。

(痛い。もうダメだ、帰りたい……)

 平静を装おうとする体は矢をつがえていたが、また顔を払うのではという恐怖がそれ以上の動作を押し止めていた。

 誰かが皆中したらしい。時折拍手がわき起こり、一人、また一人と退場していく。それに対して、自分はなんと惨めで無様なのか。そうして両目に溜まっていた涙がポトリと落ちた時、視線に気付いた私は的とは反対方向に顔を向けた。そして息をのむ。

 そこには、入場してきた井上先輩が立っていた。

──乃村、『離れ』の時に怖がって『勝手』が緩んでる。それが顔を打つ原因だ。

 先輩の顔を見た瞬間、走馬灯のように先輩と過ごしてきた日々が脳内を駆け巡った。そして初めて付きっきりの指導を受けた時、先輩から受けたアドバイスを思い出した。

(怖がって……勝手が緩んでる)

 顔を手元に戻し、自分の構えを確認する。入部してから今日まで教わってきた事を一つ一つ確認し、私は的の方へ顔を向けた。四肢に多少震えは残っていたが、心は不思議と凪いでいた。

 深呼吸を一つ。私は弓を引き始めた。途中、先程打った頬に矢が触れ、恐怖心が蘇る。その為か、思ったより早く矢を放ってしまった。

 矢は的枠をかすって外れる。ギャラリーが少しどよめいたが、私が驚いたのはそこではなかった。

 今度は、顔を打たなかったのだ。

(やった……)

 心の中には、えも言われぬ感情が広がっていた。私はもう一度、先輩の顔を見る。

 先輩も私の事を見ていたらしい。目が合い、そして力強く頷いてくれた。

「六十番! 早くしなさい!」

 係員から注意が入る。気付けば退場していないのは私だけだ。誰もが自分に注目しているこの状況に一瞬焦りかけたが、すぐに気を取り直して的へ目を向けた。

(心で矢を放つ……。自分は自分……)

 跳ねる心臓の鼓動を感じながら、ゆっくりと弓を打ち起こす。いつか見た先輩の射を思い描きながら弓を引き分け、狙いを定めた。

 周囲のざわめきは、一切聞こえなかった。

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