2

従者は誓う

ポイント
63
感情ボタン
  • 4
  • 0
  • 2
  • 0
  • 0

合計:6

とある国の、とある王宮。
とある姫君と、とある従者の物語。

1位の表紙

目次

すべてのコメントを非表示

姫と

 いつか、姫が言った。

 王宮の中庭の、一流の庭師が手入れした見事な花壇を、肩を並べて眺めながら。

「こんな日がいつまでも続いたらいいのに」

 私は「そうですね」などと、無難な返事をしたような気がするけど、その言葉が口をついて出るのは、この〝いつまでも〟を失ってしまう予感があるからだということを、薄々勘づいていた。

 中庭を歩きながら、花壇を眺める姫のとても楽しそうな笑顔が、その言葉を口にした後、不意に寂しげな切なさを覗かせたのを、私は今でも憶えている。

 とても、忘れられなかった。

「わたし、もしかしたら貴女が髪を下ろしたところを見たことがない気がするわ」

 とある春の日の朝、背後から髪を梳かす私に、姫は突然そんなことを言った。

 朝、目を覚ました姫の髪を私が梳かし整えるのは日課となっていた。自然と背筋をぴんと張って座る姫の細い背中を見下ろしながら、私は首を傾げた。

「そうでしたか?」

「ええ、そうよ」

「姫、振り向くと髪を梳かせません」

 姫のさらさらとした美しい髪に毎朝触れることができるのは、私だけの特権だった。もしかしたら変質的な価値観かもしれないが、このひと時はきっと私のような人間には余りある幸福なのではないかと、髪を梳かす仕事ですら誇りに思うことがある。

 この仕事は間違いなく私の誇りで、きっとどんな美しい宝石よりも尊い時間だった。

「見たことがないわ。一度もない」

「まあ、目にしたとしてもどうということはないでしょう」

「そんなことないわ」

「姫に得があるとは思えないのですが」

 姫は呆れたようにため息を吐いた。

「あなたのそういったところが、自分の魅力を欠いているといつも言っているでしょう?」

「魅力、ですか」

 髪を梳かす手を緩めた隙を突いては、姫はこちらを振り返ろうとする。

「あなたも折角女の子なんだから、髪を美しく見せる努力をしてもいいのではなくて? ただ長く伸ばすだけでは宝の持ち腐れだわ」

「姫、前を向いて下さい」

 私が髪を伸ばすのには理由があるのだが、姫にそう言われてしまっては確かにその通りな気もしてくる。たしかに長いだけでは意味がないのかもしれない。

 業務に差し支えるからといつも一つに束ねているが、それでも思い返せば少し邪魔な気もしなくはなかった。

「………」

「どうしたの?」

「……切りますか」

「……っ!? だめよ!」

 姫が慌てた様子で振り返った。

 私は目をぱちくりさせた。

「姫の髪をではありませんよ。そんなことをしては、その、色んな方々に殺されます」

「そんなことわかっているわ。あなたはあなたの髪を切ろうと言ったんでしょう」

「左様です」

「それはだめよ!」

 私はちょっと怒った顔をしている姫を眺めながら、暫し考えた。

「……何故でしょう?」

「それは、その、あれよ」

 きっと私を睨んで姫は言った。

「髪は女の命だからよ!」

「……はぁ」

「だからそのいい匂いのする髪を切ってはだめよ、勿体ない」

「ではその女の命を大切にするために、前を向いて大人しく髪を手入れさせてはくれませんか? 姫」

 姿勢を戻しながら、姫はふふんと得意げに笑った。

「素直に私の髪を触りたいと言えばいいのに」

「言わずとも毎朝触れておりますので」

 入浴を済ませ、姫が朝食を取っているあいだ、私は食卓を離れ王宮の外を眺めていた。待機中はよくこうして王宮内外を監視している。姫の世話よりも、どちらかと言えばこっちの方が私の本業に近かった。

(おや……)

 王宮の門が開くのが、遠くに見えた。

 王宮に招かれた者が、案内人に連れられてこちらへ近づいて来ていた。私は目を凝らして訪問者をよく観察してみた。

(あれは異国からの遣いだな……荷物が少ないところを見ると、隣国あたりか。あの格好は伝書鳩の代わりとみていいだろう)

 王宮内から訪問者のことを狙い撃つことすら考えていた私は、警備兵たちが訪問者を快く通すのを見て安心した。

 その隣国の訪問者が運んできた物は、文書という名の手紙であり、それが姫宛てであったことは屋敷内のメイドたちの噂話を立ち聞きして知った。

 その日の夜、姫は珍しく私を寝室に呼んだ。朝に訪れるのはいつものことだが、夜に姫の寝室に招かれることはあまりなかった。

 夜に姫に呼び出しを受けることはよくあるが、場所はいつも中庭か、中庭が良く見える窓の大きな部屋で、姫がなかなか寝付けないか、その日にまだ話し足りないことがあったかのどちらかだった。

 姫が夜に私を寝室に招くのは、決まって姫が不安や恐怖を感じた時だった。朝に王宮を訪れたあの隣国の遣いのせいだな、と私は察した。

 手紙のことを知らないふりをして、私は姫の部屋をノックした。

「ただいま参りました。姫」

 姫は窓際に椅子を置いて、夜空に浮かぶ月を見つめるように座っていた。姫の向かいにはもう一つ、椅子が置かれていた。

 部屋には明かりがついていなかった。室内を照らすのは、窓から微かに差し込む怪しく光る月明かりと、敷地内に点在する外灯の輝きのみだった。

 私は姫の傍らに立って、尋ねた。

「何用でございますか?」

 姫は向かいの椅子を指して言った。私の顔を見上げたその目が、とても寂しそうだった。

「そこに座って」

「よろしいのですか?」

「許すわ。今夜は、特別。私が特別な気分だから」

 私は姫の要望通り、椅子に腰を下ろした。私と姫の目線の高さが、ほぼ同じになった。

 姫が夜空を見ていたので、顔を見られたくないのだと思い、私も窓の外を向いた。

 しばらく、そうして2人何も話さずにただ窓から夜を見つめていた。時折入り込む風が、涼しくて心地よかった。

「わたし――」

 姫が、夜を眺めたまま口を開いた。

「わたし、この部屋は好きだけれど、中庭がよく見えないのが、唯一の不満だわ」

 だから、姫は良く中庭のよく見える、窓の大きな部屋でひと時を過ごす。

 姫はあの部屋が大好きだった。

私はあの部屋というよりも、姫とともにあの部屋で過ごす静かな時間が好きだった。

「でも、ここから見えなくて安心することもあるの」

 月の光が、水晶のような姫の瞳に青白く反射していた。

「もしここからよく庭が見えたら、毎晩庭を眺めて眠れなくなってしまう気がするの」

 私は夜の闇に目を向けて言った。

「それは、困りますね」

「もし、庭のよく見える部屋に寝室が移ったら、その時は夜通しわたしに付き合ってくれる?」

 私は姫の顔を見た。姫は夜を見つめていた。

 私は静寂に障らない声で言った。

「そうなれば、姫が寝付くまで、ずっとお傍にいますよ」

 姫が窓の外から、目を離し、私の方を向いた。月明かりに照らされた姫の顔が、物憂げにほほ笑むのが薄闇に見えた。

「あなたなら、そう言うと思っていたの」

 少しのあいだ私と目を合わせてから、姫は夜空でも私の顔でもなく、俯くように下を向いた。

 私は何と声をかけるかを迷った。私が迷うそのうちに、姫がぽつりとこぼすように、話し出した。

「今日ね、手紙が来たの」

 私は知らないふりを貫くことにした。

 姫は続けた。

「隣国の王子からの手紙だったわ。求婚の、お誘いだったの」

 姫がまた顔を上げて、なんとも寂しそうな目で月を見上げた。どうしてこんなに寂しそうなんだろうと思った。

 私はその時初めて、夜に浮かぶ月が、満月より僅かばかり欠けている不完全な月であることに気づいた。

「それは……」

 私は慎重に言葉を選ぼうとしたが、私の立場で口にする言葉など、既に決まっていた。

「それは、素敵なことですね、姫。おめでとうございます」

「………」

 姫は何も言わずに、月から目を落とした。

 私は気丈な声で尋ねた。

「陛下はなんと?」

 姫は答えた。

「お受けしなさい、と。とても光栄なことだとおっしゃっていたわ。とてもお喜びになっていた。母上も嬉しそうだったわ」

 私は強く頷いた。

「そうですね。隣国の王子といえば、学業や武道ともにとても優秀だと聞いています。聡明で、正義感が強いと。じきに隣国の王となられるお方です」

 姫は何も言わずに夜を見つめた。

「そんな素敵な王子にお選びいただけるとは、さすが姫様です」

 私は姫が浮かない顔をしていることに気づいていた。そのことに気づかないふりをしている自分がいることに、気づいていた。

「王子の見る目は確かなようですね。それだけ、姫には魅力があるということです」

 私は、心からそう思って、その言葉を口にしていた。

「とても光栄なことですよ、姫」

 姫が、もう一度私のことを見た。

 姫の瞳が、何かに怯える小さな子どものように揺れていた。

 何かを求めるように私を見つめた後、姫は悲しそうに揺らぐ目を伏せた。

「……そうね」

 俯いたまま、姫は言った。

「わたしももう16だし、これくらい当然のことよね」

 15歳の私と姫が迎える年齢の重みはまるで違った。私は何歳になってもこのまま従者の身であり続けるし、そうでなくなれば軍に戻るだけだし、女性として誉れある生き方が約束された姫と私は、性別は同じでも種族が違うと言って過言でなかった。

 それは人と家来の違いだ。

 ふと私は思った。

 いずれ姫が隣国の王子に嫁いだとき、

――私はどこにいるのだろう?

「とても」

 姫が言った。

「とても素敵なことだと、わかっているわ。自分が幸せ者なことも、承知しているつもり」

 姫がじっと、私の膝に置いた手を見つめていた。

「手を」

 姫が私に言った。

「手を、いいかしら」

「……?」

 私が手を伸ばそうとすると、姫が両手で、私の手を握った。

「姫……」

 姫が私の手を握る力は強くはなかったが、ぎゅっと私の手を掴んで離さなかった。

 私がそれを振りほどくはずはなかった。

「もしもわたしが――」

 薄闇に霞んだ瞳で、姫は自分と私の手を見下ろした。

「もしもわたしが、王子の妃になることを嫌だと言ったら、わがままかしら?」

 姫は私の顔を見ずに、訊いた。

「あなたは、わがままだと思う?」

 私は、特に意識もせずに答えていた。

「―――いいえ」

 私の手を挟むようにして握っていた姫は、そっと力を抜いてすくい上げるように、私の手を取った。

「あなたにだけ話すわ。ほんとうは誰にも言えないことなのだけれど、聞いてくれる?」

 私は姫と同じように、姫に握られる手を見つめた。

「はい。姫がよろしければ」

「わたしね、好きな人がいるの。王子以外に」

 姫は静かながらも、微かに声をほころばせた。

「その人はね、いつもわたしの傍にいてくれて、わたしのことを守ってくれるの。わたしのことをよくわかってくれていて、よく話を聞いてくれて、勝手を聞いてくれることもあるけど、ちゃんと大事な時には嗜めてくれる……とても、とても素敵な人なの」

 私はできるだけ優しい声が出るように努めた。

「……そうなんですか」

 姫は俯いたまま、ほほ笑んだ。

「うん。その人は、とても若いのに、頑張り屋さんでね。昔軍にいて、辛い経験も酷い経験も沢山してきたはずなのに、弱音を吐くことがなくて、いつも誰かのことを気にかけていて、とても優しい人なの」

「それは、素敵な人ですね」

「でも、時々心配になるの。その人は自分が傷ついたり、損をしたりすることには無頓着だから。どんな時でも、自分が傷ついてでも誰かを守ろうとする人だから。だから、わたしはこの人の傍にいて、この人が負う傷を少しでも分け合うことができたらいいなって、そう思うの」

「……姫は、優しいですね」

「自分のその想いに気づいた時に、もしかしたらこれは恋なのかなって、思ったの。それに気がついたとき、そのとき――」

 顔を上げた姫が、悲しそうに、寂しそうに私にほほ笑みかけた。

「とても、嬉しかったの」

 強く掴むことを我慢するかのように、姫はぎゅっと私の手を握った。

「ねぇ――」

 私は姫の、その寂しげな顔を目に焼き付けた。

「わたしが、王子との婚約を断ったら」

 姫は、握った手を見たまま言った。

「その時は、あなたがわたしのことを攫って、どこかへ連れて行ってくれる?」

 私は返す言葉を見つけられなかった。

 探すまでもなく答えのある返事を、

 私は口にしなかった。

「ねえ」

 姫が優しく笑った、その顔が。

「あなたはわたしを、攫ってくれる?」

 私はずっと、忘れることができない。

  • 2拍手
  • 0笑い
  • 1
  • 0怖い
  • 0惚れた

1

ちょっとだけ続きます。あと3話を加えた、4部作くらいで考えています。

作者:水月

2018/6/12

2

切ない……(´;ω;`)ウッ…
でも、これは波乱の予感、ですね。
隣国の王子さん、評判がいい人って、評判がいいだけってこともありますしね……(;´・ω・)

大久保珠恵

2018/6/12

コメントを書く

とじる

友と

 姫が隣国の王子から、婚約の誘いを受けてから初めての休日だった。

 私は町のはずれまで出て、さびれた射撃場に足を運んだ。

 射撃場に入ると、客を見張れる位置でライフルの手入れをしていた管理人の女性が、私を見て「おっ」と声を上げた。

 管理人は私に声をかけてきた。

「珍しいね、あんたがここに顔出すなんて」

「休みの日でもこんなとこには、ゴロツキしか足を運ばない」

 ツンと言ってのけて、私は料金を管理人に投げ渡した。

「残念、一枚足りない。値上がりしたんだ」

 私は最後のワンコインを親指で弾いた。

 コインをキャッチしながら、管理人は言った。

「それならなんで来たの?」

「遠慮なく撃てるのがここしかないからだ」

 私は開いていた射撃スペースに入り、備え置きのライフルを手に取った。周囲で鳴る銃声を聞きながら、集中を研ぎ澄ませて人型の的に狙いを定めた。

 引き金を絞ると、人型の的が木端微塵に弾けた。

 管理人が口笛を吹いた。

「相変わらず上手いな」

 私は用意された的を立て続けに撃ち抜いていった。次々と人型の的が粉々になっていく。

「さすがだな。いつでも前線に立てる」

 管理人は義足の右足を引きずりながら、私の背後に立った。

 次弾装填しながら私は言った。

「銃身が曲がっている。手入れが悪い」

「手厳しいな」

 管理人は手入れしていたライフルを杖の代わりにして立っていた。なるほど銃身が曲がるわけである。

 私の射撃を眺めながら、合間に「ヒット」時々「ハズレ」という掛け声を挟みつつ、管理人は言った。

「わたしらが前線にいた2年前には、もっとひどい銃を扱っていただろう。銃床が引っこ抜けたやつとかな。銃身がぶれて仕方なかった」

「あの頃は残ってる弾が少なかったから、銃剣で戦ってた。あの銃でまだ撃とうだなんて思うのはお前くらいだったよ」

 全弾を撃ち尽くし、私はライフルを置いて管理人を振り返った。

「ちょっと、独り言に付き合ってくれるか?」

 管理人は眉を上げた。

「いいよ」

 私は管理人とともに、射撃場を一望できる監視塔に移動した。塔に入ると、管理人は古びた椅子に腰を下ろし、ため息を吐きながら義足をさすった。彼女はライフルを完全に杖として扱っている。

 私は彼女の隣で壁に背を付けて腕を組み、ともに射撃場を見下ろした。

「これは私の知り合いの話なんだが」

 私は隣の管理人に聞こえる程度の声で話した。

「うん」

「相槌は打たなくていいよ、あくまで独り言だ」

「うん。まあ、たまにしか聞いてやれないから返事くらいさせてくれよ」

 射撃場で若い男がライフル銃をパァンと鳴らした。いくつもの銃声は監視塔のてっぺんまでよく聴こえた。

「私の知り合いは……そいつはある人に仕えているんだが……仕事にはやりがいを感じているし、その主のためなら命を投げうってもいいと、本気で思っている」

 管理人は監視塔の外を見ながら返事をした。

「うん」

 私は続けた。

「でも最近そいつには悩みがあってな。正直、自分がどうしたらいいのかも、どうしたいのかもわからないみたいなんだ」

「まあ、そういうこともあるよね」

「………」

 私は外に目を向けたまま言った。

「その知り合いの主は、そいつのことが好きみたいなんだ。そのことに勘づいてしまって、今とても悩んでいる。あくまで主従関係なうえに、その主には婚約の話が来ている」

 管理人は椅子の背凭れに寄りかかり、「ほおー」と声を上げた。

「それはなんというか、大変だな」

「ああ、きっと大変だと思う。気持ちの整理をどうつけたらいいかわからない」

「まるで自分のことみたいに話すね」

「知人の話だよ」

 管理人は軽薄な口調で言った。

「まあ、それはそれでいいんじゃないかな?」

「……いいことなんだろうか?」

「その知り合いがどう思ってるのかは知らないけど、きっと幸せなことだと思うよ。大事な人に、大事に想ってもらえるっていうのは」

 視界の隅で、管理人が床に立てたライフルの銃床に顎を乗せた。

「悩むのは、それが嫌じゃないからだ。むしろ嬉しいから、悩んじゃうんじゃないかな。選択の余地がないなら、最初から考えたりしないはずだよ」

 私は目を細めた。

「選択の余地はないと、知人は思ってる」

「そう思わなきゃいけないと、思い込んでいるだけさ」

「………」

 パァンと、外で乾いた銃声が鳴った。

「そいつは主に、攫って欲しいと言われた。その想いに答えることが、本当に主の幸せになるのかわからない。どうしてやるのが本当に主のためになるかの、判断がつかない。主の言う通り攫うことが、きっと正しくはないということだけはわかる。でもどれが正しくて、どれが主のためになるのかがわからない。とても恐くてどう触れていいかがわからない――それくらい、大事なんだ」

「……それはその知人が、誰の従者でいるかと、従者のままでいるつもりなのかによるな」

 私は管理人の横顔を見た。

「……というと?」

「攫ってくれと言われたなら、攫ってしまえばいいじゃないか。どんな奴かは知らないが、きっとそいつにならそれができるよ。攫って遠くに逃げてしまえばいい。婚約相手が追い付けないくらい遠くにな」

 ほほ笑みながら、管理人は私と目を合わせた。

「主だけに従うなら、言われた通り攫ってあげたらいいよ。でも主に仕える仕事が目的なら、どっかの誰かと結婚させてあげなよ。きっとその方が〝正しい〟。でも、本当に〝正しい〟だけが幸せなのかな? 清らかであることだけが、幸福の理由にはならないよ」

 管理人はライフルに顎を乗せたまま、また射撃場の方を向いた。

「ねえ、その主と知人が望むものは、別の物なのかな?」

「………」

 私は言った。

「……知人は、正しくあるべきだと思っている」

「あるべきと思ってるだけさ。ありたいのとは別の話だ」

 管理人は体を起こし、ライフルで床をコンコンと叩いた。

「わたしの知り合いの話もしてやろう。これも独り言だよ。相槌はセルフだ」

「………」

「わたしの知り合いのそいつは、ちょっと気難しいところがあってめんどうくさい。もっと自分に素直になれと言ってやりたいが、自分自身の気持ちをそいつが一番理解していない。体を動かすばかりが取り柄のくせに、無駄なことばかり考える厄介者だ。たまには考えなしに突っ走ってもいいんじゃないかと、わたしはアドバイスしてやりたい」

 私は少し迷ってから、言った。

「その知人はたぶん、間違えたくないんだ」

「考えなしに走ったとしても、たぶん後悔しないよ。体が先走るのは正直な気持ちのおかげだから。本望なら悔やむはずがない」

 管理人は義足をライフルの銃身でつついた。

「そいつには助けられた。わたしが戦場で足を失くしたときに、小さい体でわたしのことを背負って銃弾の雨のなかを逃げ延びた。ボロボロになりながら、血まみれになりながらね。いつもは前しか向かないそいつが、振り返ってわたしの所に引き返してくれた。嬉しかったよ。とても感謝している。……そいつは、とても優しいやつなんだ。そしてきっと、本当に大切なものが何かわかってる」

 彼女は、苦笑いした。

「自覚がないだけなんだ」

 手で義足と生身のつなぎ目のあたりをさすって、彼女は言った。

「わたしの知り合いと、お前の言うそいつが同じ人間かはわからないけど、きっとあいつが同じ立場で、私を背負って走ってくれたあの時のままだったとしたら――同じように主を背負って、走って攫ってやるんじゃないかな。わたしは、そんな気がするよ」

 昔を懐かしむように、彼女は笑った。

「まだガキのくせに、わたしの知り合いのそいつは、強いから。攫ってしまっても主のことを守り通せるさ」

 私は顔を背けた。

「……そいつと私の知り合いは、同じ人間とは限らない」

「そうさ。でも、何故だか似ている気がするよ」

「………」

 私は目を伏せて考えた。

(そいつにとっての幸せは……)

 答えは導けなかった。

(誰の幸せで、どんな形をしているんだろう)

 帰り際、彼女が私を呼び止めた。

「今夜うちに泊まってかないかい? 久しぶりに」

 私はかぶりを振った。

「悪いけど遠慮するよ。明日は仕事だ」

 彼女はライフルを杖にして寄りかかりながら、苦笑した。

「つれないな。お前が隣にいてくれる時が、一番よく眠れるんだけど。忙しそうで何よりだよ」

 私は手を振って射撃場を去った。

「体、大事にしろよ。もうお前を背負って走りたくはないから」

 結局答えを出すことはできなかった。

 でもなぜか、胸がすこし軽くなった気がした。

  • 2拍手
  • 0笑い
  • 1
  • 0怖い
  • 0惚れた

1

おお……こちらの管理人さんにこんな事情が……!!
いいですね。
「知り合いの話だ」といって、お互いについての話をし合う、なんだかかっこよくて、それでいて妙に切ないです……(´;ω;`)ウッ…
軍人さんならなおさら、「正しく」しなければって思いでしょうね……どちらの考えも理解できるけどい、でも……という(´;ω;`)

大久保珠恵

2018/6/14

コメントを書く

とじる

このページの内容について報告する

送信中

送信しました

文字数の上限を超えています。