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打ち上げ花火、教授と見るか? 准教授とみるか? 完結

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なかなか研究成果がでない大学院生の主人公と、同じ研究室で主人公が仄かに憧れる同期、厳しい教授、優秀で穏やかな准教授――どこにでもある大学生活のなかで起きるドラマを書いています

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 僕たちはどこで間違ったのか――そして、何を間違ったのか。「すべてを失った」、ただそういう後悔によく似た感情だけがはっきりと残っている。

 それでも、これまでと同じように朝は来て、スヌーズの徐々に大きくなる音で無理矢理に頭を叩き起こされても、まだ身体を御する力はなくて、右手をだらりと一人用のパイプベットの下に伸ばす。窓の外はまだ七時だというのにもう車の音でざわざわとしていて、カーテンのほんの少しの隙間から差し込む光はもう暑い。

 やがて右手が何かに触れると、中に花びらを一枚封じこめた薄緑のガラス玉が――小さくカチリと鳴った。

『打ち上げ花火、教授と見るか? 准教授と見るか?』

一、

 夕方七時になっても、実験室には自分とあと数人の研究員たちが残っていて、言葉を交わすことなくマイクロピペットの頭をカチカチと押している。あるいは仕切りのない事務机に置かれたデスクトップパソコンの前でキーボードを叩いている。これが、節電という名目で大学が強制的に灯りを落とす十一時まで続く。

 ――この岩井研で見慣れたいつもの光景だった。

 特に最近は岩井教授が直接指導しているいくつかのグループで論文投稿の時期になっていて、所属している研究員や学生たちが多く残っていた。隣の実験台(ベンチ)でも、長く黒い髪を後ろで束ねた女性が少し追い込まれたような顔をして、実験を続けている。

 まだ論文投稿するまでのデータが揃っていない、准教授の研究グループに所属している自分からしてみれば、忙しそうだとも、少し羨ましいとも思えていた。

「ノリ、何してんの? てか、何ぼーっと見てるん? ……及川(おいかわ)さん?」

「ち、ちがう!」

 慌てて否定する。少しだけ声が上擦っていたかもしれない。

「だよねぇ。あっちは岩井研のエース、一方、典道(のちみち)は修士卒業できるかもわからない“ミスター・ネガティブデータ”だもんね……祐介さん、よく我慢してるわ」

 学部からの同期である和弘(かずひろ)が茶化して笑う。

「……ほっとけよ。嫌味言いに来たのかよ」

 自分の研究の進捗が芳しくないことは、自分が一番よくわかっている。

「まさか、これこれ」

 そういうと和弘が紙っぺらを一枚、よこす。

「……岩井研・安曇研合同納涼会……もうこんな時期なのか」

「そ、今年の幹事が、俺が指導してるB4(学部四年生)の子でさ、『島田先輩に渡してきてください』って頼まれたってわけ。お前、いっつも”ぶすくれ”てるし、後輩ちゃんもしゃべりかけにくいだろ」

 それこそほっとけよとため息と一緒に吐き出す。

「……今年も行くだろ? 今年は打ち上げ花火凄いらしいぞ」

「まだわからん。その日は祐介さんと実験の予定入れてるし」

 同期の和弘や及川さんたちとは違い、俺は安曇准教授の指導で研究を行っていて、正直思うように進んでいない。この夏休み期間でちょっとでも実験を進めておきたいという気持ちもあった。

「……いいのか? これは後輩ちゃんが言っていたことなんだがな、研究室の女子、みんなで相談して浴衣で揃えてくるらしいぞ? ……そして、岩井研のエースである及川さんも当然参加すると言っている。返事は――聞かなくてもよさそうだな」

 この時の僕はきっとわかりやすい顔をしていたに違いない。にやにやと嫌味ったらしい顔で和弘が「じゃぁ人数入れとくから! 遅れるなよ」と去っていく。

 学部の二年生に始まった学生実習で、及川さんと初めて同じ班になってから、僕の視線は自然と彼女を追うようになっていた。

 普段は物静かで目立たなくても、実習の度、白衣に身を包み、長い黒髪を後ろで纏めると、その薄く淡いピンク色の唇からは凛として通る声が発せられて、細く白い指がピペットを掴んでしなやかに動く。

 「可愛い」や「綺麗」ではない、何故か僕が彼女に思う感情はいつも「頼もしい」で、事実、たったの数年で修士二年生になった及川さんは三報の学術論文を海外誌に発表して、今度はトップジャーナルと呼ばれているなかなか採録(アクセプト)されない雑誌への投稿を控えていて、まさに“エース”となっていた。

「来週の金曜日、か……」

 僕はいつの間にか誰もいなくなった実験室でぽつりとつぶやいた。

二、

「納涼会? ……ああ、しまった今日だったのか……」

 動物実験施設のなかにある手術室から一緒に出てきた安曇准教授がぼさぼさの頭を掻きながらいう。安曇祐介――博士号を取ってからすぐにアメリカに渡り、そこでいくつもの業績をあげ、たった6年でこの大学の准教授として着任した優秀な研究者であるにも関わらず、気さくな性格で、歳も近いこともあって僕たちは「祐介さん」と呼んでいた。

「これから行こうと思ってるんですけど……行ってもいいですかね? 実験も一段落しましたし」

 僕は普段通り、特に気負うこともなく尋ねる。さすがに実験中でないなら祐介さんも何も言わないだろう、とどこかで思っていたのかもしれない。

「…………ノリ、大事な話がある。すまんが、納涼会に行くのはキャンセルできないか?」

「えっ!?」

 いつになく真剣な表情でそういう祐介さんに戸惑って、僕はそれ以上の言葉を失ってしまう。それくらいに予想外だった。

「…………詳しい話はここでは離せない。後で詳しく話すつもりだが、俺はこの研究室を……大学を離れるつもりだ。出来ればお前も一緒に連れて行きたいと思ってる。駅前のいつものおでん屋に来てくれないか? ……すまん、待ってるぞ」

 祐介さんはその真剣な表情のまま、無言で自分の准教授室に戻っていく。何かはわからないものの、異常事態であることだけはすぐにわかる。

 タイミングよくスマートフォンが鳴る。

『ノリ、何してるんだよ。教授ももう来て待ってるぞ! 及川さんのScience投稿お祝いも兼ねてるのに……って言って、ちょっと怒ってる!』

 画面に表示されたメッセージをみた僕は財布とスマートフォンだけを持って、立ち上がる。

打ち上げ花火、

→教授と見るか?

 准教授と見るか?

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  • 誤字、脱字の修正をおこないました。(2018/08/09)

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→ 教授と見る

「ノリ、遅い!! もう教授の挨拶終わっちゃったぞ」

 電話口の和弘の声も焦っているのがわかる。そのくらい岩井教授は時間に厳しい。

「すまん、もうすぐ駅だ……あと五分で着く……じゃぁ、後で。何とかごまかしておいて」

 祐介さんの真剣な表情は気になったものの、結局、僕は先約であった教授たちとの納涼会に参加するために会場である駅ビルの13階の店を目指していた。

 もう少しで打ち上げ花火があがる時間のせいか、人が多い。エレベーターホールの前には大混雑が発生していて、ちょっとやそっとでは上の階に上がれそうもなかった。かといって、ロビーから吹き抜けを上に上がるエスカレーターも人であふれていて、なかなか進めないでいた。

 ――――どこかで、カチリと何かが鳴る音が聞こえた気がした。

 やっとの思いで6階から7階に繋がっているエスカレーターを降りた瞬間、一人の少女がこちらをじっと見ていることに気づいた。14歳か15歳くらいの、白い透けるような肌と夜の闇を溶かし込んだような真っ暗な髪と瞳でこちらを睨んでいる。それでいて、どこか悲しそうにも見える。

「ドンッ――――!!」

 一発目の比較的小さな花火が上がった音と振動で、ハッとわれを取り戻した僕は「あの……何か?」とこちらを睨んでいる少女に問いかける。

 返事はない。

「ああ、わかった。ひょっとして、ラボの誰かの知り合いかな? 岩井先生はお子さんは男の子だったはずだから……」

 僕がぶつぶつと続けていると、少女がうつむいて口を開く。

「……どうして……どうして”こっち”に居るのよ……もう、間に合わない。巻き込まれて――――」

『きゃぁぁぁぁぁ――――!!!!』

 下の階から突然叫び声が上がる。

 最初の一人が叫んだそのすぐ後で、次々と叫び声が連鎖していき、あたりが騒然となっていく。何故か、皆、一様に北側のガラス越しに隣のビルを指さしている。

「何だ!? 何が……隣のビル? こっからじゃよく見えないな……とりあえず、和弘と合流しないと……」

 胸騒ぎを感じながら、僕は立ち止まっている人混みをかき分けて上へ上へと昇っていく。

「和弘ッ!!」

 13階にたどり着いた時にはもう全員が北側のガラス窓に張り付くようにして、隣のビルを心配そうに、時々うめき声を上げながら見ている。その間にもドンッドンッと花火が上がる音が響くのだが、誰一人としてそちらを見ようとしていない。

「ノリッ!! お前、何してたんだよ!!」

「何があったんだ!? 皆、隣のテックビル見てる――」

 僕の言葉が終わるのを待たずに和弘が指さす。その先にはテックビルの屋上と、その安全柵の外側に人影が一つ。

「人!? まさか、自殺!? 何で!!」

 初めてみた光景にパニックになる僕の前で和弘が頭をぶんぶんと左右に振り、言葉を詰まらせながら叫ぶ。

「ノリ!! 大事なのはそこじゃない、よく……よく見てみろ!!」

 暗い闇の中に目を凝らして、その儚げな白い浴衣姿の女性を捉えようとする。

「…………あの浴衣……昨日……嘘だろ……? お、及川さん!? 何で!」

「顔ははっきり見えないけど、女子たちが柄を確認した。それに……ここには及川さんは来てない」

「何で!? 何で及川さんが!!」

「知るかよ! 俺たちだって、何がどうなってるのか」

「警察! 救急車か? もう呼んだのか!」

 和弘は僕の勢いに気圧されるように「岩井教授が――」と指をさす。そこにいた教授は、ちょうど耳に当てていた携帯電話をだらりと下ろしたところだった。

 僕はその時はっきりと――――はっきりと口元に微かな笑みを浮かべて、「これでいい」と動いた唇を見たんだ。

『きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』

 さっきまでよりもひときわ大きな声が上がる。それと同時にテックビルの上から白い影がふわりと暗い海に飛び込む。

 そこから先はもうほとんど何も覚えていない。自分の心臓の音しかしない世界で、目を覆って立ちすくだけの群衆を手で押しのけながら、今度は下へ下へと走っていく。

 血まみれになった路上の、その中心にほんの一時間前まで憧れていた人の形をしていた塊が横たわっている。そのどこか非現実の光景のなかで近づいてくる救急車のサイレンが、僕を現実に引き戻す。

 腰から下に力が入らず右膝がぶるぶると震えたと思った瞬間、両方の足が意志とは関係なく折れ曲がり、地面に伏せたような恰好になると、アスファルトに僕の眼から零れ落ちた涙が一つ、また一つとシミを作っていく。

 僕は声にならない嗚咽を漏らしながら、あの少女の言葉を思い出していた。

『どうして”こっち”に居るのよ』

 僕がここに来なければ及川さんは死んでいなかった? あの時、僕が祐介さんのところに行っていたらこうはならなかった――? どうしようもない考えが頭蓋の中をぐるぐると廻る。

「じゃぁ、試してみる?」

 その凛とした声に驚いて頭を上げた視線の先にはあの少女が立っていて、

 また、どこかでビー玉がカチリと鳴る音がした――――

打ち上げ花火、

 教授と見るか?

→准教授と見るか?

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→ 准教授と見る

一、

「……花火、始まったみたいだな」

 祐介さんが御猪口の中の酒を煽りながら静かにつぶやく。

 僕は結局、和弘に『用事ができたから、納涼会に行けない。教授にもそう言っといてくれ』とメッセージを送り――その後で和弘やその他のラボのメンバーから怒濤のメッセージラッシュがあったのだが――納涼会の会場とは駅を挟んで反対側の行きつけのおでん屋に居た。

「それで、お前に話しておきたいことなんだが――」

 タイミング良く、あるいは悪くなのかもしれないが、和弘から及川さんの浴衣姿の写真が送られてくる。続けて隣のテーブルからだろうか、どこか懐かしいようなガラス玉がカチリと音を立てる。

 いつもなら和弘ほどではないにしても、僕の及川さんへの一方的な片思いを茶化してくるはずの祐介さんの顔が暗い。それも、スマフォに映し出された及川さんの写真を見たと同時に、さらに険しくなったようにも思えた。

「……ラボを移るって話、でしたよね。祐介さん」

「…………ああ。今度は東都大学に教授として行く」

「東都大学! 凄いじゃないですか!! しかも、教授? PI!? いよいよ自分の研究室を持つんですね! おめでとうございます!!」

 「ああ、そうだな。ありがとう」という祐介さんの顔は明らかに喜んでいるようには思えない様子で、何かを迷っているようにも思えた。

 少しの間、沈黙が続く。

「……ノリ、お前はどこまで知ってる?」

「えっ!? "どこまで"とは!?」

 暗い顔のまま祐介さんから、突然の理解不能な質問が来たことに驚いて、声がうわずる。

「岩井先生と…………もう一人、及川さんの仕事についてだ」

「及川さんの仕事? 何のことです? iPS細胞からのオルガノイド形成とかそういう――」

「いや、研究内容そのものの話じゃない。もっと"別の"ことだ。 …………いや、"知らない"ならいい。そうだな、"知らなくてもいいこと"なんだ……すまん」

 そういうと祐介さんは僕と自分の杯にゆっくりと次の酒を注ぐ。そしてもう一度、まるで何かを自分自身に言い聞かせるように「そうだよな、お前は無理に知らなくてもいいことなんだ」とつぶやく。

二、

 ――それから六ヵ月が過ぎた。

 街では雪が舞うことも多くなってきていた。

 実務としては、意外ともたついていた大学院の移籍手続きが先週の木曜日にようやく終わり、岩井研から運んできた引っ越し荷物もあらかた東都大学の新しい実験台の上に設置することができた。

 最初はどうなることかと思っていた――というより、地方大からの移籍者について、意地悪をされたり、冷たくされたりするのではないかと思ってたりもしていたのだが――周りの研究室のスタッフや大学院生たちは、意外にも親切で、引っ越しの手伝いや自分の実験内容の相談など、むしろ前の大学のときよりも環境はいいのかもしれない。

「あ、おーい、"ノリ"! ノリのいた大学がテレビに出てるぞ」

 隣の研究室との境にある休憩スペースから、ここでも同じように呼ばれることになっていた僕のあだ名を呼ぶ声がする。

「……あれ? これ、マジでノリの元ラボじゃね?」

 「何?」と、僕も休憩スペースに移動し、隅に設置してあったテレビに目をやる。休憩スペースにいた4名の学生たちがざわざわとしている。画面には、確かに見慣れた白髪交じりの男性が映っている。

「えっ……ね……捏造……!?」

 画面の下に衝撃的なテロップが出ている。大学のたぶん教養棟の一室だろうか、長机の中央に岩井教授とその隣には副学長、そして見たこともない広報担当事務の初老の男性と弁護士だという年配の女性が並んでいる。

『……この度は、私どもの研究室において、このよう研究不正が起きたという事実について、とても言葉に言い表せられないほどの後悔と反省をしています。また、この研究の大部分が科研費という税金を原資とする資金で行われていることを考えますと、多くの国民の皆様に深くお詫びいたします』

 岩井教授はテレビの向こう側で、深刻な顔をしながら、でもどこか淡々と、時折手元の原稿に目をやりながら続けていく。

『"彼女"の当該論文――昨年度および本年3月に発表された3報の論文において、18ヶ所の研究不正が確認されました。すでに一部報道機関で報道されていますように、"彼女"は、複数の実験データを改竄し、あるいは実際には行っていない実験結果を捏造して論文に載せておりました……私は、研究室の代表者としてこのような不正を事前に見抜けなかったことに対して、非常に無力感を感じております』

("彼女"!? ……そんな、まさか……)

 突然、腰から下に力が入らなくなり、後ろに数歩よろけると、誰かにぶつかり、慌てて振り返る――そこには、険しい顔をしていた祐介さんが立っていた。

「ゆ、祐介さん……これって」

 やっとの思いで絞り出した言葉に、祐介さんは無言で小さくうなずく。

「そんな……なんで……及川さんが…………」

 その疑問には祐介さんは答えなかった。ただ無言のまま、じっと僕の方を見ている。

『……本人につきましては、当人の意向もあり先月末付けで本学を退学しており……』

 会見は続いていたが、いつの間にか集まってきていた同じ学科の教授たちが、祐介さんに一言二言声をかけて自分の研究室の学生に研究室に戻るように告げて去っていく。

「安曇先生、ご苦労さまでした。長くかかりましたね」

「ヒアリングや証拠提出、お疲れさまでした。これでようやく始められますね」

 そういう内容の言葉をかけていた気がする。

 やがて、休憩スペースが僕らだけになると、祐介さんはポツリポツリと話始めた。

三、

 祐介さんが及川さんと岩井先生の実験データがおかしいと気づいたのは一年前で、きっかけは意外にも僕の実験データからだった。

 僕が実験を繰り返していたそのデータは、結果としては論文には使えないようなネガティブデータだったのだが、二ヵ月くらい経ったある日、岩井教授に呼ばれて、及川さんを含めた三人でのクローズドミーティングがあった。

 そこで、及川さんが出してきたデータが、僕が数ヵ月試してもうまく行かなかった実験の"あまりにも綺麗な"データで、祐介さんは『どこかおかしい』と思うようになったらしい。

 その後も及川さんの疑わしい実験データについて、自分で再実験をしたり、そして時には僕に実験を支持していた――そういうことらしい。いわば、僕は自分の研究テーマをやりつつ、それと同時に、"僕には全く関係のない"及川さんの疑わしい実験データの確認実験までやらされていたことになり、それについては今でも腹立たしい。

「それについては本当に申し訳ない。学生の進捗を犠牲にするなんて、正直、最低の指導者だと思ってる。本当にすまない」

 実際に祐介さんもそう言って何度も謝っていた。

 その後、教員公募でこの東都大学での教授職の内定を得た祐介さんは、思い切って大学の相談窓口に相談し、調査が開始されることになった。

 その際に、この調査を仕切っていた研究担当の副学長自ら、『東都大学側にも事前に説明する必要がある』と赴き、それがさっきの教授たちの反応につながっているのだろう。

 そして、教授たちそれぞれの幕引きが終わったころには、及川さんの姿はもうあの街にはなかった。

 和弘の話では、地元である雪国の小さな街に戻って、母親のやっている喫茶店を手伝っているらしい。とは言っても、和弘自身も又聞きの又聞きで、本当のところは誰もしらない。

 ――そう、誰も"彼女"がその後どうなったのかは知らない。

 和弘はスマートフォンのアプリ越しに続けて、『岩井先生としては、及川さんの論文を根拠にして獲得した大型研究費がどうなるか心配だったみたいだけど、無事、継続が決まったと岩井先生が安心してたよ。でも、何だかな……』そう綴る。

 本当にこれで良かったのか?

 もちろん、仮に僕が事前にこの事実を知ったとしても、僕には何もできないことはわかっている。事実、僕はその言葉すらも和弘に返信できずに、ただスマートフォンの画面をぼんやりと眺めているだけだ。

「――本当にこの結末でいいの?」

 その凛とした、それでいてどこかで聞いたことのあるような懐かしい声に驚いて、視線をスマートフォンから外す。

 そこには少女が一人、立っていた。

 白い透けるような肌と夜の闇を溶かし込んだような真っ暗な髪と瞳。少女は苦しそうな表情を浮かべ、ブラウスの胸のあたりをぎゅっと右手でつかんでいる。

「ちょっと、君、大丈夫?」

 僕が思わず手を差し伸べると、少女はその真っ白な左手でそれをつかみ、僕の身体を自分に引き寄せる。

「このままでいいの!? こんなの、こんなの誰も幸せになんかならないじゃない!」

 僕はその左手を振り払って、少女に向かって叫ぶ。

「だからといって、どうすればいいんだよ!! "あっちも"ダメだったじゃないか! "こっち"なら少なくとも及川さんは生きてる、そうだ、彼女は生きてるんだよ!! ――――えっ!? 俺、何言ってるんだ!? ちょっと、何だよこれ!」

 これまでに感じたこともない頭の中の違和感から、僕は両手で頭を抱える。そんな僕の様子を見て、少女の瞳から涙が流れる。

「大丈夫だよ。君は今度はどこに行けばいいのか――もう知ってる。大丈夫」

 少女は、そのどこか及川さんに似たその少女はそう言うと、弱々しく微笑んだ。

打ち上げ花火、

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 准教授と見るか?

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打ち上げ花火、

 教授と見るか?

 准教授と見るか?

 ――――幾通り、幾千通りの夢を見ていた。

 夢は「どういう選択肢」を選べば「どういう結果」がまっているかというもので、それ一つ一つが仮説と実験結果のようでもあった。そして、いつもその結果の中心にいるのは、長い黒髪を後ろで纏めた、どこか儚げな白い顔の女の子で、やっぱりいつもその結果は悲劇と呼ばれるものになっていた。

 短いものでは数日、そして長いものでは二十年もの「実験」。

 一つの実験結果(未来)では、及川さんは研究データのねつ造を思い悩み自殺してしまい、別の未来では、事件発覚後に大学を退学していて、また別の未来ではある日突然行方不明になっていた。

 僕はその幾千通りの"未来"のなかで、必死に及川さんを助けようともがき続けたのだけれど、その結果はやはり「悲劇」でしかなかった。

一、

 僕が何度かの時間遡上を繰り返した後で、変化が現れた。

 時間をさかのぼった僕自身の"生物としての"記憶は、さかのぼった"その時点"での記憶担当細胞の状態に規定され、「前の実験結果」を知らないまま、次の「実験」を進めていく。そうやって途方もない時間――それをそう呼んでいいものかどうかわからないけど――が過ぎたあとで、別の人間がその場にいることに気付いた。

 その姿は及川さんによく似ていて、彼女は自分自身を「選ばれなかった未来」での及川さんが抱いていた後悔や悲しみ――それに憎しみという強い感情から生まれた『存在』だと語った。

「あなたの手助けがしたい」

 その『存在』は僕に向かってそう言った。僕はその時、本当に疲れていて吐き捨てるように答えた。

「たとえ時間を逆行したとしても、『その時の』僕は時間を逆行していること自体を覚えていない。この場所に還って来たときだけ、僕は『すべてを思い出して』、ただ絶望に暮れるだけだ。だから、君が何者であれ、このただ繰り返されるだけの無意味な実験には何もできやしない」

 それでも彼女は嫌な顔ひとつすることなく、座り込む僕に近寄り、手を握る。

「…………これは?」

 手のひらに一つの薄緑色のガラス玉が握らされていた。中には、花びらが一枚封じこめてある。

「覚えて…………ないかな、やっぱり」

 及川さんの姿をしたそれは少しだけ寂しそうな顔をする。

「それは君と"及川なずな"との『絆』。そして、それぞれの未来の"私"が最後に思い出した夢のひと欠片。君がこの場所のことを思い出すきっかけになってくれるはず…………ねえ、覚えていて欲しい。君と"私"は――――」

 何度繰り返しても、その最後の言葉だけが聞き取れない。そうして僕はまた、この場所に還ってきた。また、"最悪な"実験結果を携えて。

「…………また、ダメだったんだ……もうどうしようもないんだろうな」

 僕の言葉に、少女は夜の闇を溶かし込んだような黒い瞳に涙を浮かべ、にっこりと微笑む。

「まだ…………まだ大丈夫だよ、ノリミチ君。"さっきの"世界で、ちゃんと君は"私のこと"を思い出してくれた。救おうとしてくれた」

「…………でも結局ダメだったじゃないか。いくら過程が良くても、結果が――」

 そういう僕の言葉をさえぎって、少女が続ける。

「ねぇ、覚えてる? あのガラス玉。"私"たち、最初に出会ったのは『大学の入学式』じゃ……ない…………」

 また肝心のところで声が遠くなって行く。いつもこうやって、僕は何も知らないまま無意味に繰り返される実験に放り込まれてしまう。僕はそれに抗うように、声を振り絞る。

「何だよ!? 聞こえない!! 僕たちはどこで会ったんだ!! 教えてくれ! どうすれば――」

 そう言うと、及川さんと同じ姿をした彼女は弱々しく笑い、応える。

「大丈夫だよ。君は今度はどこに行けばいいのか――もう知ってる。大丈夫」

最終話 『僕たちは二人だけで打ち上げ花火を見たかった』

 夕方七時になっても、実験室には数人の研究員たちが残っていて、言葉を交わすことなくマイクロピペットの頭をカチカチと押しているか、あるいは仕切りのない事務机に置かれたデスクトップパソコンの前でキーボードを叩いている。これが、節電という名目で大学が強制的に灯りを落とす夜の十一時まで続く。

 灯の消えた研究室で、実験台のうえに設置された小さな蛍光灯をたよりに、黒い影が一つ、実験を続けている。さすがに他には誰も居残ってはいない。

「大丈夫……私は大丈夫…………」

 そう、ぶつぶつと呟きながら、黒い髪を後ろに纏めた女がPCRサンプルをゲルに流す。電圧をかけ、電気泳動槽の端からぶくぶくと泡が立つのを、虚ろな黒い瞳で見つめている。その下には心なしか隈も見えていて、着ている白衣もところどころ汚れている。

 影はもう一度「大丈夫だから」と呟いて、サンプルが入っていて1.5mLチューブをすべて捨てようとする。

 ――――その瞬間、何者かがサンプルチューブを持っていた女の手を掴む。

 驚きのあまり落としそうになったサンプルチューブをもう片方の手で受け止め、こちらの顔をじっと見つめるその男の顔には見覚えがある。

「――――島田君!? な、何を!」

 及川の問いかけに、典道は何も答えずに手元のサンプルと及川の書いた実験ノートを見ている。それを慌てて閉じようとする及川を、掴んだままの手に力を込めて制止する。

 典道は目線を及川に戻して、ゆっくりと顔を左右に振る。

「な……なんなの、島田君…………人を呼ぶよ?」

「…………及川さん……さっき電気泳動に流したサンプル、実験ノートの記述とサンプルチューブの名前が違うようだけど」

 及川は驚いたように痩せこけた目を見開く。

「――――ッ!! そ、それは…………ち、違う。ちょっと間違っただけで」

 典道はもう一度、首を横に振る。それを見た及川が「ひッ」と小さく悲鳴を上げる。

「…………及川さん、もう祐介さんが――安曇先生が気づいて調査を始めてる。この実験のことだけ誤魔化したりしても、何も変わらない」

「ち、ちがッ!! 私は何も! これは教授が――――」

 及川は取り乱して叫び、その場に座り込んでしまう。典道は及川の手を離し、サンプルチューブの名前と実験ノートをスマートフォンで撮影する。及川は両手で顔を覆い、か細い声ですすり泣いている。

「…………教授から奨学金の成績優秀者返済免除の話があったの」

 床に座り込んで下を向いたまま、及川さんは僕に伝える――というよりも、誰かにすべてを話して自分が背負ったものを軽くしたいというようにぽつり、ぽつりと話し始める。

 彼女の話はシンプルだった。本当に、そして悲しいまでに。

 小学校の頃に両親が離婚して、母親に引き取られた彼女は秋田の小さな田舎町でひっそりと暮らしていた。学業の成績の良かった彼女が、高校を卒業して大学に入学する段になって、今度は母親の体調が悪化する。

 それでも娘の将来を思う母親は「娘のために」とわずかに蓄えていた貯金を切り崩して娘に渡し、自分は無理を押して働きに出た。及川さんが学部を卒業して、修士に入る頃には今度は逆に彼女が母親を支えるようになっていた。

 そこに岩井教授が金の話をする。

 もちろん困っている学生を助けるために、様々な制度を紹介するのは指導教員としては適切な行為だろう。ただ、彼はその後で『一つだけ』条件を彼女に付ける。

 

 それが、あの捏造・改ざん事件の本当の原因だった。

 でも、僕がこれまでに見てきた幾千もの悲しい結末を迎える『未来』では知りえなかったことだった。そう、知らなかったんだ僕は――――――

 "なずな"が僕たちと別れたあの後で、ひとりぼっちで、こんなにも辛い、悲しい生活を送っていたなんてことは!

「…………小学校5年生の夏、"賭け"をしただろ? 学期末のテスト、どっちが勝つかって」

「えっ!?」

「負けた方は買った方のいうことを何でも一つだけ聞く。結果は"なずな"が5点差で勝って、夏祭りの花火を見に行った。紺色の紫陽花柄の浴衣――俺の姉ちゃんの浴衣を借りて、一緒に電車に乗って隣街の海浜花火大会。お前の望みは『二人だけで』だったのに、俺は恥ずかしくてみんなを呼んでしまった」

 なずながハッと何かを思い出したようにこちらを見上げる。

「"このままどこか遠くに行きたい"…………あの時、なずなが言ったことの本当の意味、俺にはわからなかった。今の今まで……ごめんな」

 なずなはまたうつむいて、小さすぎる声で「もう遅いよ」とだけ呟いたように聞こえた。

 本当に何もかもが遅かったのかもしれない。すでになずなは捏造や改ざんに手を染めて、いくつかの論文を海外誌に発表してしまっている。でも、まだ間に合うことはある。そう、"あの世界"であったあの頃と同じ姿の"なずな"が教えてくれた。

「行こう、なずな。これまでの捏造や改ざんの証拠を集めて、祐介さんのところに。全部、正直に話すんだ」

「……でも、私…………」

 僕はなずなの手をとる。そして、その手にあのガラス玉を握らせる。

「これは……?」

「覚えてないか……俺もつい最近まで忘れてた。あの時、俺がなずなのために買った細工入りのビー玉。でも、みんなに見つかってなずなは俺に突っ返しちゃっただろ?」

 ふらふらと立ち上がったなずなが、「あっ」と声を上げる。

「…………思い出した。私、本当はうれしかったはずなのに」

 なずなはガラス玉をぎゅっと強く握る。

「行こう。もしかしたら、これで大学は退学になるかもしれない。でも、"今度は"俺も一緒に行く。なずなを一人にはさせない」

「でも、"ノリ君"…………」

 僕はなずなにむけて微笑む。"彼女"が僕に向けてそうしたように。

「祐介さんが言ってた。『科学の世界はバトンをつないでいく永遠に続くリレーみたいなものだ』って。誰かの論文を参考にして始めた俺たちの実験結果は、まだ見たこともない誰かのアイデアにつながっていく。それが延々と続いて一つの答えに近づいていく。

 もちろん、その時点ではわからなかった間違いが紛れ込むことはある。その時は転びながらも、誰かの支えを得ながら、それでも正しい方向に進んでいこうとする。誰か一人だけではなく、みんなで。

 …………だから、悪意や故意をもって『嘘』を混ぜ込むのは世界中を巻き込んでしまう。

 

 その悪意や故意の『嘘』で、膨大な時間と研究費、それに時には関わった学生やポスドクたちの運命さえも変えてしまう。捏造や改ざん、研究不正は絶対にあってはならないことなんだ」

 なずなはうつむいて「ごめんなさい」と肩を震わせている。

「大丈夫。まだ間に合うよ…………それに、こんなことを言ったら、なずなは信じないかもしれないけど、こことは違う世界で、俺は何度も何度もなずなを助けようとしたんだ。全部失敗したんだけど。でも、どの世界でも、毎回、なずなは方法は全部間違っていたけど、自分のやったことを後悔して、罪を償おうとしていたんだ。だから……根拠はないけど、なずなは『大丈夫』。それに今回は俺も一緒にいる」

 僕はそう言って、もう一度、なずなの手をとる。なずなは涙を零しながら、無言で今度は力強くうなずく。

 僕となずなが祐介さんに提出した証拠類は、彼自身が進めていた岩井教授の告発を後押しし、決定的な証拠として、これまでのどの世界でも逃げ切ったはずの岩井教授を捕らえた。まだ処分が決まる前の出勤停止期間であるものの、重い処分は免れないだろうというのが祐介さんの意見だった。

 それはもちろん、実際に不正を行ったなずなに対しても。

 僕は「お前自身がやったことじゃない」と何度も引き留められたものの、それを断って大学院を辞めた。幸い両親の古い知り合いがやっている実家近くの中堅企業で働けることになって、なずなも近くでパート先を見つけることができた。

 母親も姉も十年ぶりにあったなずなに驚いて、そして彼女の境遇を自分の家族のことのように大泣きした。こんな家族だから、大学院を辞めたということ自体については、それほど深くは追及されなかった。

 こんな家族だがら、僕はもしかしたら、またいつか大学院に行きたいと思うかもしれない。

「……どうしたの?」

 隣に居たなずなが僕の顔を覗き込む。彼女の長い黒髪が潮風で煽られて舞っている。僕たちは実家から車で数十分のあの花火大会があった砂浜に来ていた。夕日が遠くに沈みかけていて、かすかに打ち上げ開始時刻を告げるアナウンスが聞こえる。

「…………もしかして、後悔してる?」

 なずなは心配そうにこちらを見ている。「いや、まさか。それに――」と彼女を自分の方に抱き寄せる。胸元には加工して首飾りにしたあのガラス玉が光っている。

「…………それに、俺もあの時『二人だけで打ち上げ花火を見たかった』って思ってたんだ」

 そう言った瞬間、夜空に鮮やかな花びらが舞う。それを見上げて僕たちは「来年も、再来年も、その次もまた一緒に」と唇を重ねた。

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