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夏の衛星たち ―― サヨナラの意味 ノベライズ―― 完結

歌詞を物語にしよう

更新:2018/10/16

伊藤

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  • 内容に影響のない範囲で、一部表現の変更や追記をおこないました。(2018/09/12)
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合計:37

乃木坂46『サヨナラの意味』MVの小説化。
「棘のある人」と「棘のない人」が共同で行う祭り『棘行祭』、それに参加する少女たちのひと夏。

MVを土台に、他楽曲の歌詞やMVからも引用しています。
(乃木坂46のYouTube公式チャンネルでMVが公開されています https://youtu.be/M3eGhMORIpY )
身近な乃木坂ファンへお薦めしてもらえたら幸いです。

1位の表紙

2位

3位

4位

目次

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第一話 見取町矢倉台

私は世界に向けてハートを開きました。

 繰り返し吹いてくる海からの風が、坂を上る女子高生を右から煽る。髪が眼鏡のフレームに絡まり、立ち止まって眼鏡をはずした。

 輪郭を失った視界で、白波を見るのでも空を見るのでもなく、漠然と風の吹いてきた方に目を向ける。

 眼鏡を鞄にしまい、目頭を指先で揉みほぐし、その手で髪を抑えながら歩き出す。

 夕日を背に、西野七瀬はわずかに湾曲している坂道を上っていた。東の空は青と黒が混ざり始めている。

 伊戸根大橋を渡る列車の――一七時〇二分を知らせる――警笛が小さく聞こえると、七瀬は夕飯の前に犬の散歩を済ませられると計算した。

 坂道の頂上で道は左に折れ、右側には砥辺川が、対岸には遠くまで連なる伊瀬良山脈が見える。眼下の河川敷には名前も知らない雑草が群れていて、底で蠢く虫たちが精一杯の声を上げていた。

 虫の音を気にしていたら日常生活が送りづらくなる。この川沿いの住人すべてが最初に学ぶ処世術を七瀬も自然と身に付けていた。

 伊瀬良の山々がどれほど深い緑色をしていたのか、空にどれだけの雲が浮かんでいたのか、通い慣れた道で七瀬は多くのものを遮断していた。

 その数分後、対岸を行く列車を気にしなかったとしても、決して特別なことではなかった。列車が誰を乗せ、どこに向かうかは七瀬に関係がない。

 列車は「一七時〇二分」と「二二時〇八分」を警笛で知らせるものでしかなかった。

 七瀬は家の玄関先に立つ人影を見た。

 西日は住宅に遮られ、まだ街灯も暗く男の顔が見えない。顔が分かるまで近づいたところで、知らない人物だった。六〇近い男は地図を確認しているのか、手に持った紙を人差し指でなぞっていた。

「すみません」

 七瀬の方から声を掛ける。

「何かご用ですか?」

 振り返った男は七瀬の顔を見たが、さらに動かして川の方を向いた。七瀬もつられて川を見る。

 対岸に列車が見えた。久しぶりに見る列車の姿だった。伊瀬良山脈の底辺を、速度を落として走っている。

 七瀬の方が先に男へ向き直ったが、男はまだ列車を見ていた。

「あなたが、七瀬さんかな」と男は視線を戻しながら言った。

 名前を知られていることに七瀬は驚いたが、その低い声には柔らかさがあり、少しだけ肩の力を抜いた。自分が緊張していたと気付く。

「はい…」

 あまり大人と話す機会のない七瀬は、上手く言葉を繋げられなかった。

「親御さんに用があってね、ちょうどいま来たところで、良ければ呼んでもらえると嬉しいんだけどね」

「お名前は?」

「橋本…江田の橋本です」

 七瀬は『江田』と聞いて抜いたばかりの肩の力を込め直した。

「分かりました」とだけ答え、七瀬はいつもより歩幅を広くして素早く玄関の扉を開けた。

 靴を脱ぎながら母親を大声で呼ぶ。

 部屋から出てきた母親に、小さな声で「江田の人が来てる」と伝えた。

 その瞬間に母親も緊張したのが分かる。

「私、散歩に行ってくるね」

 母親は頷き、再び部屋に入って行った。

 七瀬は急いで二階に上がると鞄を床に放り、薄手のパーカーと携帯電話、財布を持って部屋を出た。なぜかは分からないが、七瀬は家に居ない方が良いと思った。

 廊下から母親が手招きをする。

「ナナ、誰にも見られてないわよね?」

 七瀬は小さく頷いた。

「ナナは庭から出て行ってくれる? 帰って来るときに電話してちょうだい」

 七瀬は母親の指示通りに動いた。

 七瀬は犬のリードと携帯電話と財布を器用に持ち替えながらパーカーを羽織った。昼間の暑さは海からの風で掻き消されている。柴犬の『ジョウタロウ』は七瀬の足元で尻尾だけを動かしていた。

 散歩の幕開けは緊張したものだったが、ジョウタロウを従えて町を歩き始めればいつもと変わらなかった。

 しかし、ビニール袋とティッシュを忘れたことに気付き、七瀬は立ち止まって深呼吸をした。

 七瀬の視界に文字が入り込む。

『棘人注意』

『見取町矢倉台掲示板』に貼られたA4サイズの紙には、体中から棘を生やした人物――表情などはなく、全身が黒く塗られている――が描かれ、その上に『きけん』と赤い文字で大きく書かれている。

 七瀬がいる見取町は、北を上にして俯瞰すると東西に伸びた長方形をしていて、西から東に向かって緩やかに標高が上がっている。南側の底辺は海に面し、東側の短辺は広い川幅を持つ砥辺川に沿っていて、その対岸には伊瀬良山脈が連なっている。

 町の西側には雑木林が広がっていて、そこを抜ける舗装された道は数本しかなく、抜け出たときには見取町から秋津市に変わっていた。

 三方を自然に囲まれた見取町の北側には江田町がある。両町の境は自然に阻まれてはいなかったが、その境界線はとても入り組んでいた。

 見取町公民館の入り口には町の地図が貼り出されているが、それを見た者は作りかけのジグソーパズルのような印象を受けるのが常だった。

 江田町との境に大きな道は無く、新聞に載っている迷路の「正解の線」のように折れ曲った境界線が引かれている。また地図の中には空白の部分が無数にあり、同様に町外にも――正確には町外ではなくなるのだが――無数の飛地が点在していた。飛地がなければ見取町は綺麗な長方形をしているが、最北の飛地まで縮尺に沿って納めようとすると、紙面は正方形になった。

 飛地ばかりの境界線の複雑さは、そのまま両町の歴史、民俗、政治、災害の絡み合いを現していたが、すべては「江田町の住民が棘人である」――もしくは「見取町の住民が棘人ではない」――ことに起因していた。

 七瀬は漠然と棘人についての知識を手繰り寄せていた。全国にいる棘人の九割以上が伊瀬良山脈の集落と江田町に住んでいること、棘人は『人(七瀬たち)』に敵意を持っていること、棘人は棘人であることを隠しながら生活していることを頭の中で繰り返すが、それらをいつ誰から聞いたのかは思い出せなかった。

 そしていつでも、想像する棘人の姿は掲示板に貼られた黒く塗りつぶされた絵の姿だった。

 誰かに言われたわけではないが、棘人と触れ合ってはいけないのが見取町のルールだった。町の掲示板の貼り紙、棘人を話題にしたときの大人の振る舞いなどから、自然と棘人から距離を置いていた。

「誰に注意されるんだろ?」と七瀬は呟いた。

 棘人と出会ったからと言って、自分の親が怒るとは思えなかった。

 七瀬は道の先に、散歩の目的である明りを見た。なるべく長く散歩をしようと、この町にある唯一の古本屋『タンタン』までやって来た。この店は同級生の親が経営している。

「いらっしゃいませ」

 店主が小さな声で言う。

「あぁ、七瀬ちゃん」

「こんばんは、あの、犬を繋いでもいいですか?」

「大丈夫だよ…ごめんね、まだ優里は帰って来てないんだ」

「あ、約束も何もしてないんで、散歩の途中に寄っただけなんです」

「遠くまで散歩に来たね」

 古本屋の店主――同級生の優里の父親――は、だからといって遠くまで散歩に来た理由は尋ねなかった。

 七瀬が店に来るのは久しぶりだった。

 こんな小さな町でどうやって生計を立てているのかさっぱり分からないが、それでも来るたびに新しい本が並んでいる。反対に何年も同じ場所に並んでいる本もあり、懐かしさと新しさが同居していて、七瀬は何を探すというわけでもなく棚を見て回った。

「七瀬ちゃん、珈琲飲む?」

 静かに店主が訊いた。

「ありがとうございます。でもまだ珈琲飲めないんです、すみません」

「そうなんだ。飲みたくなったらいつでも言って」

 店主の座っている帳場の奥にも本が積まれている。店内と同じように帳場にも蛍光灯の明りは届いているが、不規則に積まれた本が無数の影を作り、暗号のようにも見える。その中で店主が何をしているのかは微塵も知れないが、店主はいつもそこで何かをしていた。

 七瀬は前回来たときと変化のないコミックの並んだ棚を見終え、その隣の社会科学の棚を見た。

 木製の棚にぎっしりと本が並べられていて、全てに鉛筆で値段が書かれている。

 七瀬は小さい頃「値段を書き忘れてる本ってあるの?」と店主に訊いたことがあった。そのとき「あると思うよ」と返って来て、二時間かけて値段の書き忘れた本を探したことがある。

 そのときの七瀬は、値段の書いていない本を一冊も見つけることが出来なかった。

 七瀬は床に無造作に積まれた文庫本の中から一冊を引き抜いた。

『棘人とネコ』

 青い表紙に記されたタイトルをどこかで聞いたことがあったが、それ以上に棘人という言葉が七瀬を惹きつけた。

 七瀬は一度その本を戻したが、数分後にまた手にしていた。

 会計をしようと、本を店主に渡す。

「マンガじゃないの珍しいね…」

 つい『優里パパ』と呼びそうになるのを抑え「おじさんは棘人について何か知ってますか?」と訊いた。

 店主は本をカウンターに置き、表紙を眺める。

「七瀬ちゃんは何か知ってる?」

「棘がある…人」とだけ答える。

「その棘を見たことある?」

「ないです」

 棘人のことを口にするのは危険なことだと七瀬は教わっていた。

「棘人ってね、なかなか説明が難しいよね。もし僕がここで七瀬ちゃんに説明してもいいんだけど、七瀬ちゃんの家の人がどう棘人を思ってるのか分からないし」

「お母さんは何も言わないと思う」

 店主は口を閉じて考え込む。

「いま『江田の人』がうちに来てるんです」

「そう」

 店主は驚かなかった。

「そんな季節だね。そうか。今年は七瀬ちゃんも出るんだ」

「あぁ…棘行祭」

「だろうねぇ」

 店主は笑っていた。

 そのときまで七瀬は棘行祭のことをすっかり忘れていた。

 八月の終わり頃『棘行祭』と呼ばれる江田町の祭りがある。江田町と見取町の両方から選ばれた(十六~十九歳の)女性が舞に参加する祭りは、一か月ほど前から稽古が始まる。七瀬の友達でも去年参加した者がいたが、七瀬はあまり興味が無かった。

「見取の人は詳しく話したがらないからね。悪い儀式じゃないよ。僕は好きなんだよね。まぁ由来なりを探って行くと気分の良い物じゃないけど、雰囲気って言うのかな、あの厳かな感じとか」

 七瀬はこの祭りが『儀式』と呼ばれることにも違和を感じていた。(見たことはなかったが)どこか陰鬱な印象と共に、子供が遊びに行くような場所ではないと決めつけていた。

 七瀬が始めた棘人の話だが、その着地点を定めてはいなかった。店主に訊けば何か安心できる材料が見つかるのではないかと無意識に頼っていた。

「棘行祭って見たことある?」

「いえ、何か、見に行くきっかけとかないし、親も見に行こうとか言わないし」

「まぁ、そうだよね。どんな儀式かは知ってる?」

「棘人の棘を、人が切るって言うことしか…」

「正解…それを知ってて、七瀬ちゃんはどう思う? ごめんね質問ばかりで」

「なんか、怖いなって」

「棘を切るとかね・・・痛そうだし・・・まぁでも棘人を怖いとかって言う人もいるけど、良い人たちだよ。個人的には棘人の方が本を買ってくれる人は多い気がするし」

「お店にも来るんですか?」

「来るよ。江田には古本屋がないし、向こうの学校の先生とかね、江田とか棘人の民俗とか、郷土史なんかもぽつぽつ売れるよ」

 店主は少しだけ笑い、カウンターに置いた本を慣れた手つきでめくった。

「これね…カバーもないし、一〇〇円で良いよ」

 本には「250」と書かれている。

「ありがとうございます」

 七瀬はいつも安くしてもらっていた。優里と同級生だからだと思っている。それでも必ず「ちょっと書込みがあるね」だとか「この値段はもう何年も前に付けたのだから…今はもっと安いね」だとか、理由を付けて値引きをしてくれた。

 店主は袋に入れるため本を持ち上げ、改めて表紙を眺めた。

「売っておいてなんだけど、あまり親御さんには見られないようにね」

 七瀬は「はい」と返事をした。

「…本当はもっと子供のときから交流させるべきなんだけどね」

 店主はため息をついた。

「その作家さんね、幾つか本を出してるから、もし気に入ったら他のも読んでみると良いよ。いまうちには無いし、こっちじゃなかなか手に入らないけど、読んでおいて損はないと思う」

 七瀬が本を受け取ったとき、表から「ジョーン!」と声がした。「違うよ、ジョウタロウだよ」と優里の声も聞こえる。そして、優里より先に樋口日奈が顔を出し、続いて優里が店内に入って来た。

「七瀬ぇ、久しぶりじゃん、うち来るの」

「しかもジョンと一緒!」

「だからジョウタロウだって」

 優里が帰って来た途端、店内が明るくなった。

「ふたりでいたんだ」

 七瀬が優里に向かって言うと「いいでしょー」と樋口が割り込んで来た。家が近いふたりは幼い頃から一緒にいた。

「どこに行ってたの?」

 店主が樋口に尋ねる。

「あのねぇ、駅前でサンドイッチ食べて、それから本屋さんに行ったでしょ」

「何か良い本あった?」

「んー、あんまりっ!」

「そうかぁ」

「パパ、夏休みにバイトしていい?」

「え? どこで」

「ボーダーライン」

 ボーダーラインは見取町の南、海岸通りにある喫茶店だった。

「ひなちまがね、夏休みバイトするんだって。私も一緒にいい?」

「パパはいいけど、お店の人が雇ってくれる?」

「大丈夫だよ。ひなちまからもお願いしてくれるって言うし」

「日奈ちゃんは優里が一緒でいいの?」

 樋口は笑って頷いた。

「宿題とかちゃんとやるならいいよ」

「よしっ! 実はもう履歴書とか買って、写真も撮ってきちゃった」

 優里は鞄から証明写真を取り出して掲げた。

「そうだ、七瀬ぇ、ジョウタロウがうんちしてるよぉ?」

 写真を覗き込んでいる七瀬に優里は言った。

「わッ!あぁ、ごめんなさい…あぁ、今日ビニール袋とか忘れたんだ」

 優里パパも含め――帳場から出てきた店主は『優里パパ』になっていた――四人でジョウタロウを眺めた後「こっちで片付けておくから、いいよ七瀬ちゃんはもう家に帰りな」と優里パパが笑って言った。

「でも」

「大丈夫、あとは優里がやっておくから」

「ちょっとぉーなんでぇーうそぉー…ひなちま!一緒にやろ?」

 優里が樋口を連れて店の中に入って行くと、その隙を見計らったように優里パパは七瀬に声を掛けた。

「その本に関してだとか、何か気になったらまた来るといいよ。古本屋として資料みたいなものも用意できるから」

 七瀬は頭を下げた。

「じゃぁねぇーなぁちゃーん」

 優里を店の中に置いて一人で出てきた樋口が満面の笑みで手を振った。

「うん、またね」

 七瀬も手を振り、ジョウタロウと一緒に歩き出す。

 もう一度振り返ると、高校生とは思えないほど全身を使って手を振る樋口がいた。七瀬もまた手を振り返し、先の道を曲がった。「あれ? 七瀬がもういない!」という優里の声が七瀬に届いた。

「ちょっと遅くなっちゃったね」

 七瀬は携帯電話を取り出し母親に連絡した。

「ナナ…ごめんね夕飯の支度が出来てないから、どこかでお弁当でも買ってきてくれない?」

「分かった」

 携帯電話をポケットにしまいながら、七瀬は帰る道順を考えていた。

 いつもより遅い夕飯を終えると、母親は一枚の紙を七瀬に差し出した。

   刀舞 及び 棘刀式 における 男役 を 西野七瀬 様にお願い申し上げます。

『本年も無事 棘行祭 が執り行われることとなりました』という文言から始まるA4用紙の『刀舞 及び 棘刀式』と『男役』、そして『西野七瀬』だけが丁寧な毛筆で記されている。

 最後に衣装の採寸のためとして日時と集合場所が書かれていた。

「どうしようかと思ったんだけどね。断るのもなんだか気まずいし」

 母親は弁当のプラスチック容器を洗いながら七瀬に声を掛けた。

「本当は本人の同意が必要だって言われたけど、なんとなくOKしちゃった」

 七瀬は「勝手に決めないで」と抵抗することも出来た。しかし、抵抗する理由がすぐには見つからなかった。

「まさか棘行祭のことだったなんて、お母さんすっかり忘れてた…」

 七瀬は、自分が棘行祭に出ることを母親がどう思っているのか知りたかった。

「そういえば、去年も誰か出てたよね?」

「うん…いくちゃん」

 七瀬は何度も紙に書かれた文字を読み直していた。

「お母さんは、見に来るの?」

「どうしようかな…あんまり江田の方は行ったことがないし、ナナが見に来て欲しいなら行くけど」

「…分かんない」

 七瀬は正直に答えた。

 それからすぐに七瀬は二階へ上がり、ベッドに腰掛け、買って来た本を開いた。

 久しぶりに買った小説は、「読書が苦手」ということを思い出させる。

「変な一日」

 わざと声に出して七瀬はベッドに横になった。

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とじる

第二話 深幸市立図書館

 翌日、学校から帰る七瀬は図書館に寄ろうと考えていた。

 高校の最寄り駅である『徳瀬駅』に着くと、いつもとは反対のホームに向かう。

 見取町から遠ざかるその先には、この辺りで一番の都会『深幸市』がある。

「あれ? なぁちゃんが珍しいね」

「あぁ玲香」

 七瀬の横に並んだのは同級生の桜井玲香だった。

「どうしたの?」

「図書館に行こうと思って」

「へぇ、さらに珍しいんじゃない?」

 桜井は自分が驚いていることを楽しむように声を弾ませた。

「玲香は?」

 桜井の家も見取町にある。

「私は友達と遊ぶ約束してて」

 そう答えながら、桜井は向かいのホームにいる友達に手を振っている。手の動きに合わせ、桜井の真っ直ぐな髪が左右に揺れた。

 時間どおりに電車がホームに着き、扉が開く。

「なぁちゃんってさ棘人の知り合いっている?」

 桜井は周囲の客に聞こえないよう小さな声で訊いた。

「いない」

「そっか…私さぁ今年の棘行祭に出ることになったんだよね」

「あ、私も」

「なぁちゃんも? 何役?」

 少しだけ声が大きくなったことに自分で驚き、桜井は背中を丸めた。

「男役」

「はぁ…なぁちゃんなんだ…私は姫舞」

「姫舞って何する役なの?」

「んん・・・舞うんじゃないかな?」

「玲香ってダンス得意だよね」

「そんなことないよ」

「でも、授業でやるやつとかめっちゃ褒められてたじゃん」

「ああいうのじゃないよね棘行祭のやつって」

「玲香は棘行祭って見たことある?」

「ちゃんとはないんだよね」

「私も…男役ってのもよく分かんなくて」

「去年いくちゃんやってたよね」

「聞いたけど、男役じゃなくて姫舞だったって」

「いくちゃん姫舞だったんだ…今度聞いてみようかな」

 棘行祭の話はそこで途切れ、目的の駅まで七瀬と桜井は他愛もない会話をして過ごした。

 深幸駅で下りた七瀬は、改札で桜井と別れ図書館へと向かった。

 桜井の言った通り、七瀬が図書館に行くのは珍しかった。あまり本を読むのは得意でなく、昨日買った本もなかなか読み進められなかった。気が付くと繰り返し同じ行を読んでしまう七瀬は指を添えながら文字を追うのだが、それが長時間続くと煩わしくなってしまう。それに『棘人とネコ』は方言も多く、慣れない言葉が余計に読書を難しくさせた。

 図書館に着いた七瀬は検索機の前に立った。

『江田町 方言』

『棘人 方言』

 思いつくままに検索ワードを組み合わせ、表示された書名を確認すると『印刷』のボタンを押した。画面横から書名と棚の番号が記された紙が吐き出され、次に館内の案内図と棚の番号を照らし合わせた。

 図書館の奥の茶色い背表紙ばかりの並ぶ棚の前で、視線を動かし、紙に書いてある書名と同じ文字の並びを探した。

 棚から『奥江田の方言と民俗行事』『棘人方言辞典』の二冊を持って棚を離れた。

 椅子に腰掛け、他人から隠れるように本を読み始める。

「奥江田(オクエダ)…江田地区でも特に北の山側に位置する地域を指し、砥辺川を挟んだ旧伊瀬郡中良町と似通った言葉が多い。また奥江田に対して南側を江田ウラと呼ぶこともある」

 七瀬は『江田ウラ』の項目を探した。

「江田ウラ(エダウラ)…現見取町を含めた南部一帯を指す。ウラと呼ばれた理由は諸説ある」

 七瀬は、自分の住んでいる地域が「裏」と記されていることに引っ掛かるものを感じた。気持ちを落ち着かせ、今度は『棘行祭』の項目の『棘刀式』の記載を読む。

「棘刀式(シトウシキ)…棘行祭(シギョウサイ)の式のひとつ。人が男役となり、女役の棘人の棘を神器である刀で切り落とし、その棘を神に奉納する」

 そのとき「西野先輩」と声がして七瀬は顔を上げた。

「お久しぶりです」

 声の主は一つ下の山﨑怜奈だった。

「ザキさん…」

 七瀬はゆっくりと手を動かし、本の題名が見られないようにした。

「なに読んでたんですか?」

 山﨑はゆるくウェーブのかかった髪を耳にかけながら覗き込む。

「あぁ…えっと」

 七瀬が答えあぐねていると、山﨑は青い表紙の文庫本を見つけ「私も読んでましたよ、それ」と『棘人とネコ』を指差した。

「面白いですよね」

「んん…」

「あれ?」

 山﨑は首を傾げて七瀬を見つめた。

「なんか方言が分んなかったりして…ザキさんは問題なく読めた?」

 見取町に住む多くの中学生は、七瀬と同じ徳瀬高校へ進学する者が多かったが、成績が良いと深幸高校を進学先に選ぶ者もいた。目の前の山﨑は深幸高校の制服を着ていて、そのポケットから生徒手帳とハンカチが見えた。

「どうだったかな…よく憶えてないですけど。憶えてないってことは読めてたのかな」

「ザキさんは別かぁ」

「やめてくださいよ。…あぁでも、エディの友達とかに訊いてたのかな」

「エディ?」

 山﨑が恥ずかしそうに笑った。

「すみません…あの、友達とのあいだだけで呼びあってるだけで…えっと、江田の人たちのことをエディって言ってるんですよ…うわ、なんか変な感じ」

 七瀬は本を戻すために椅子から立ち上がり、山﨑と一緒に歩き出した。

「じゃあ、見取のことは?」

「ミトラー…です」

 蚊の鳴くような声で山﨑は答えた。

「『棘人』とか、『江田の人』とか言い難かったりしません?」

 山﨑が懇願するような目をする。

「…分かる…ザキさんはエディの友達がいるんだ」

「はい」

 山﨑は真っ直ぐに答える。

「もし方言とか分からなかったら、友達に訊いてみますよ? その子の両親も棘人だから、いろいろ知ってると思うし…それとも直接会います?」

 山﨑の申し出に七瀬は驚いた。

「会うとか…そんな」

「あれなら、私の家とかでも良いですし」

「親とか何にも言わないの?」

 山﨑はまったく問題ないと首を振る。その反応が七瀬を急に恥ずかしくさせた。

「昔からよく遊んでるし…連絡先教えてもらえれば、その子がうちに来たときに電話しますよ?」

 見取町は小さな町だったが、七瀬はさらに小さな世界しか知らないような気持ちになった。棘人との交流が同年代のあいだで普通に行われていることが衝撃だった。

「やっぱりザキさんは『ザキさん』だね」

 携帯電話を取り出しながら七瀬は言った。

 図書館のロビーに出ると「勉強の途中だったんで、戻りますね」と山﨑が頭を下げた。山﨑が入って行った部屋には机が並んでいて、そこにいる全員が熱心にノートへ何か書き込んでいた。

 見取町へ帰る電車を待っているあいだ、七瀬は携帯電話に登録されたばかりの山﨑へメッセージを送った。

《今日はありがと。またね》

《来週にでも友達が来ると思うので、そのとき連絡しますね!》

 すぐに返って来たメッセージを確認し、七瀬は電車の到着を知らせるアナウンスを聞いた。

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とじる

第三話 江田町、橋本家

 夏休み初日、七瀬は自転車に乗って家を出た。

 川沿いの道を北上し、カーブを勢いよく曲がり商店街へ向かう。

 土日くらいしか聞くことのない「十一時二七分」の警笛が川の奥から響いて来る。警笛は砥辺川の上流に掛かる伊戸根大橋を列車が渡る際に鳴らすもので、見取町からは何キロも離れているが、反響板となる伊瀬良山脈によって見取町の隅々にまで聞こえていた。

 商店街に入り、昔は酒屋だった場所を開放して無料の休憩所にしている『はるじおん』の前に自転車を停める。

「七瀬っ」

『はるじおん』から声を掛けたのは生田絵梨花だった。屋内に置かれたベンチに高山一実もいる。

 七瀬はふたりと対面するように丸椅子へ腰掛けた。

「なぁちゃんって、ずっとその眼鏡だよね」

 高山が自分の鞄を探りながら言った。

「今日も暑いね」

 七瀬の答えを待たずに高山が続ける。

「昨日よりかはだんぜん涼しいよ」

 生田が反応した。

「うそ、昨日と同じくらいじゃない? だって天気予報だと同じだって」

「天気予報は予報でしょ? それに雨降るとか言ってなかった?」

 生田は立ち上がって窓に近寄った。コンクリートの床には、壁に沿って鉢植えの観葉植物が並んでいる。誰が世話をしているのか分からないが、いつ来てもちゃんと緑色の葉を広げていた。

「いくちゃん、夏休み部活は?」

 そう訊きながら、高山は鞄から小さな鏡を取り出して前髪をいじり始めた。

「鏡もっと大きいの買いなよ」

「だってこれで見えるし、大きい鏡って邪魔じゃんか」

「お昼どうする? 何か買って来る?」

「もう出ないと間に合わないんじゃない?」

「時間ないかぁ」

「行く途中にどっか寄ろうよ」

 生田と高山の会話を七瀬は静かに聞いている。

「部活はもうないよ」

 思い出したように生田が答えた。

「え? なんで?」

「先週の日曜のが最後。もう三年は引退」

 弓道部に所属していた生田は、窓から空に向かって矢をつがえる真似をした。

「雲だらけ…かずみんは?」

「うちは来週が多分最後…なぁちゃんは? 部活まだある?」

 七瀬は首を振った。

「受験とかする?」

 誰に向けるでもなく高山が言った。

 生田はつがえた矢を向かいの建物に放った。

「しゅるるるるるるるるる……」

 生田は風を切る音を真似しながら、あまりにもぎこちない擬音に生田は笑い出した。

「しゅるるるるるる」

 改めて音真似だけをしてみるが、上手く舌が回らない。

「しゅるるッ しうっ…すッ」

 生田の真似をした高山はさらにぎこちない音を出す。それを見て七瀬と生田は笑いが止まらなくなった。

「かずみん…もう一回、もう一回やって」

 七瀬が楽しそうに要求し、高山も「待ってね…よし!」と気合いを入れたが、やはり上手く発音できず「あぁッ、わたし駄目だ、無理。これ無理だわ」と天を仰いだ。

「どうする? 歩いて行く?」

 笑いながら生田が訊く。

「歩いて行けるの?」

 七瀬もまだ笑っている。

「行けるよ。ちょっと遠いけど。自転車だと途中から足場悪くなってもっと遠回りになるし」

 歩いて行くことに決まり、三人は『はるじおん』を出た。

 商店街を外れ江田町に向かう。舗装されていない細い道を抜け、生田を先頭に所有者の分からない小さな荒れ地に沿って進む。

 三人はまだ「しゅるるるるるる」と声を出し合っていた。

「やっぱ無理だ…サ行とル行は無理!」

 高山が嘆く。

「ル行って何よ!」

 今日一番の大声で生田は笑った。

 七瀬は紙に書かれた住所と壁に掲げられた番地を確認した。

 そこは棘行祭の衣装の採寸をするために指定された場所だった。

「広い」

 敷地をぐるりと囲む塀の長さに七瀬は驚く。

「かずみんも初めてだっけ?」

「うん」

 七瀬の問い掛けに高山が頷く。

 生田は門の前まで来ると、少し低い位置にあるインターホンを押した。

   『橋本』

 七瀬は表札を見ていた。

 格子の門扉から先には手入れの行き届いた庭が見え、縁側から伸びる飛び石は、庭の奥の小さな池まで続いていた。

「どうぞお入りください」とインターホンから女性の声がした。

 庭を抜けて行き、生田が玄関を開けて「お邪魔します」と言った。

 薄暗い廊下から姿を現したのは、七瀬たちと同い年くらいの小柄な女性だった。

「どうぞ…他の方たちももういらっしゃってますので」

 案内された部屋に入ると、桜井と秋元真夏、伊藤万理華がソファーに腰掛けお茶を飲んでいた。

「なぁちゃん…かずみんも!」

 桜井は相変わらず楽しそうだった。

「そうそうそう、そうなのよ」

 高山が答えながらソファーに座る。

 七瀬たちがいる応接間は明りが点いていてもどこか暗く、壁も家具も濃い茶色に統一されていて、万理華が「おばあちゃんちみたい」と言うと全員が頷いた。

 万理華も見取町出身で、この中では唯一の年下だった。七瀬が私服姿の万理華を見るのは中学以来だった。青色のワンピースの左側、裾から脇腹にかけて草花の刺繍が施されている。その上から茶色の(これにも刺繍が細かく入っている)ショールを羽織っていた。

 その隣に座っている桜井は細身のジーンズに、丈の長い淡い緑のニットを着ている。ふたりとも自分の身体に合った服だと七瀬は思う。

「真夏も選ばれたんだ」

 生田はお茶を運んで来た女性に「ありがとうございます」と告げた後で秋元に言った。

「歌…じゃないよね?」

 いたずらっぽく訊くと、秋元は笑って否定した。

「私が歌なわけないじゃん」

「踊りできるの?」

「自信は無いけど、やってみなきゃ分かんないじゃん」

 秋元は中学二年のときに見取町へ転入してきた。親がもともと見取町出身で、秋元の社交性の高さもあり町に順応するのは早かった。

 秋元の服装は七瀬の好みとは違ったが、自身の魅力を最大限に引き出していると感心する。ソファーに深く腰掛けた秋元の短パンから下着が見えてしまうのではないかと思い、七瀬は生田に目を移す。部屋の中で目に見えた物をそのまま気にせず着たような服装はどこかちぐはぐな印象もあったが、それが生田らしくもあった。シャツの袖にスリットが入っていて、清潔感のあるほっそりとした腕が伸び、テーブルの上のお茶を掴んだ。

「男役がなぁちゃんで、私が姫舞なんだよね」

 桜井は自分に送られてきた紙を見ながら呟いた。

「私は留役と棘歌」

「リュウヤクって?」

 秋元が生田に訊いた。

 生田は、唇に残ったお茶のしずくを親指の腹で拭い「『リュウヤク』は留守番の『留』に『役』」と説明する。

「私も同じ」

 そう言ったのは高山だった。

 藍染したような裾の広がったパンツに白いシャツ、その上に風通しの良さそうな上着を羽織っている。

「留役ってあれでしょ? 棘刀式のときに周りにいる人」

 七瀬は順繰りに全員の服装を確認し、何の気なしに窓を見た。

「雨が降って来たね」

 向かいに座っている万理華が言った。

 厚い雲が窓の奥からこちらへと動いている。

 窓の外に注がれていた全員の視線は、戸の開く音に引き寄せられた。

「それでは、まずは西野さんから採寸しますので、こちらへお越しください」

 応接間よりも薄暗い廊下を、案内役の女性の後ろについて進む。

 折れ曲った廊下の先の一室に通されると、室内で待っていた三人の女性にお辞儀をされた。

「申し遅れました、私は伊藤かりんです」

 案内役の女性が言った。

「そして、『和田まあや』と『渡辺みり愛』、いちばん奥が『寺田蘭世』です」

 どれも特徴的な名前だと七瀬は思い、しかし今日中には覚えられないと諦める。

「失礼します」と、三人がそれぞれに七瀬の身体を測って行く。

 腕を上げたり下げたりしながら、七瀬なりに採寸の助けになるよう動いていると、かりんが一枚の紙を七瀬の眼の前に広げた。

「こんな感じの服になります…ちょっと写真のせいで色が分かり難いんですが、この色よりは鮮やかな青です」

 それを見せられても、七瀬には「はい」と言う他なかった。何度か見たことがある弓道部の道着に似ていて、青色が基調となっている。実際の棘行祭の写真らしく、真剣な表情をした男役が刀を上段に構えていた。

 その女性は七瀬が見ても格好良く、自分が同じ役になるとは思えなかった。

「採寸が終わっても、少しだけ西野さんには残ってもらいます。簡単な儀式があるので…すみません」

「儀式?」

「本当にちょっとした儀式なので、準備するものもありませんし…あと、お酒は大丈夫ですか?」

 七瀬は言葉が出なかった。

「まぁ未成年なので駄目なのは当然なんですけど」

 かりんが笑って言った。初めて見る笑顔は親しみのあるものだった。

「あの、お酒が用意されてるんですけど、一口だけ、口にあてるだけで良いので、お願いします」

「分かりました…じゃあ、他の子たちは?」

 帰りがいつになるのか、生田の後に付いて来ただけの七瀬はひとりで帰れる自信が無かった。

「それぞれ役の説明などするので、だいたい同じくらいの時間にみなさん終わると思います。早く終わったら応接間も空けておきますので、雨も降ってますし、そちらでお待ちいただいても大丈夫です」

 丁寧さと親しみの同居した言葉のリズムに七瀬の緊張は解けて行った。かりんが説明しているあいだも七瀬の周囲をくるくると動き回る三人は数字を伝えたり、何かを間違えて慌てたり、その様子も可笑しかった。

「それではこちらに」

 採寸が終わると、別室に案内された。

 畳の敷かれた部屋の隅に低い机が寄せられていて、その上に何枚もの切紙が置いてあった。

 用意された座布団の横に鞄を置くと、七瀬は「これ、見ても良いですか?」と訊いた。

「どうぞ」と言ってかりんが部屋から出て行く。

 机の上の白い紙は折紙よりも一回り大きく、無数の切り跡が幾何学模様を作り出していた。折り跡を辿って小さくすると、どういった切り込みを入れて作ってあるのかが分かった。天井からの明りが生む影を眺めていると万華鏡のようで面白かった。

 切紙を畳の上に並べたまま、七瀬は鞄から本を取り出す。

 かりんの言葉の中には、この本で見る方言は含まれていなかったと思い出す。

 読むというよりも眺めるように文字を見ていると、後ろの襖が開き、生田と高山が入って来た。

「それ何?」

 高山が身を乗り出して畳に置いてある紙を見た。

「あ、切紙…私好きなんだよね」

 生田も続いて紙を手に取ると、天井の明りに透かした。

「なんかさ、あれあるじゃん…あの雑誌とかのグラビアで、ハート形とか、円状に明りを当てて瞳に映ってるやつ」

「何それ?」

「あの、カメラのレンズの周りとかに細かいライト付いてて…アイドルとかがカメラを見ると、そのライトが目に映るの…知らない?」

「知らない…言ってる意味がよく分かんない」

「これで出来ないかな…こうやって、模様越しに…私の目に映ったりしないかな」

「見せて見せて」

 生田が一生懸命顔の前で紙を動かし、それを高山が凝視している。

「どう?」

「すごい…わぁ」

 取って付けたような高山の言葉に「もういいよ」と生田は紙を下ろした。

「…無い方がいい…無い方がキラキラしてる」

 率直な高山の言葉に生田は苦笑いする。

「ねぇ、その本いっつも読んでるよね」

「うん」

 西野は生田の視線を辿り、手元に置いていた本を見た。

『棘人とネコ』

 高山が手を伸ばして本を取り、じっとタイトルを見つめたあとで「とげじん」と言った。

「しじん」

 七瀬と生田が同時に訂正する。

「えぇ、ずっと『とげじん』って読んでた」

「嘘でしょ」

 七瀬は驚きながらも、自分が棘人を「しじん」だといつ知ったのか思い出せなかった。

「七瀬が男役かぁ」

 生田は両手で切紙を持ち上げると、細かな隙間から七瀬を見た。七瀬の側からは、切紙の奥の生田がどこを見ているのか、目を開けているのかも分からなかった。

「いや…」

 七瀬は先ほど見せられた写真を思い出し、あの役が務まるのかと不安になっていた。

「すごいじゃん…今年は私選ばれると思ってたんだけどなぁ」

 高山が首を傾げる。

「ないないないないない」

 生田の言葉が止まったのは、障子に隔てられた隣の部屋から足音が聞こえたからだった。

「誰かいるのかな…」

 木の軋む音が途中で止まる。じっと耳を澄ませながら、生田は笑顔を見せた。

「ちょっと見よ」

 七瀬は抵抗しようとしたが、生田と高山はもう立ち上がっていた。

 障子の前で屈み込んだふたりは、障子を少しだけ開けた。

 三人がいる部屋と同じ造りの部屋があり、さらに奥には板敷の廊下らしき場所も見える。

 真正面、その廊下に設けられた木枠の窓は開け放たれていて、外には樹木が生い茂り、その葉に降り注ぐ無数の雨が音を出していた。

 七瀬は部屋の造りや雨の音を無視していた。その窓枠に腰掛けているひとりの女性に見とれていた。

 朱色のワンピースの上に茜色の上着を羽織っているその女性は、窓枠に両足を乗せている。座り慣れているのか、その姿勢に不自然さはなく、片膝を立てているせいで太腿まで露わになっていたが気にする様子もなかった。

 三人が見ていることに気が付いておらず、手にしている紙飛行機を見つめている。

 さっきまで三人が見ていたのと同じ切紙で折られた紙飛行機を目線の高さまで上げると、その女性は小さく息を吐いた。

 瞬間、女性が視線を感じて顔を動かすのと同時に、生田は障子を閉めた。

「初めてあんな近くで見た…なんかやばい」

 高山は障子から距離を置き、声を潜めた。

「そんなこと言ったら可哀想だよ」

 生田がたしなめる。

 七瀬は障子の前から動けずにいた。背中で聞いたふたりの会話に違和感を覚えながらも、それが何に起因するものなのか判断できなかった。

「かずみんだって普段すれ違ったりしてるよ」

「そうかなぁ」

 高山の反応は普通のことだった。それが見取町で育つということだった。見取町を歩いているとき、すれ違った相手が棘人だとは少しも思わない。隣の町に住む棘人とは一生出会わないと漠然と思い込んでいる。棘人についての知識が曖昧なままでも誰も不思議に思わず、正面から棘人を見ようとはしていなかった。

「可哀想…」

 七瀬はふたりに聞こえないよう呟いた。違和感の正体を突き止めようとしていた。障子の向こうに見た美しい顔と、その肢体に、「可哀想」という言葉はあまりにも縁遠く感じた。

「失礼します」

 廊下から声がすると襖が開き、かりんが姿を現した。少し後ろに下がり道を開け、桜井と秋元を部屋に通す。

「西野さん、こちらにお願いします。生田さんと高山さん、それから桜井さんと秋元さんは、あとで別の者が案内に来ますのでもうしばらくお待ちください」

 七瀬は鞄を持ち、かりんの指示に従って部屋を出た。

 この家には無数の部屋があるようだった。どの部屋とどの部屋が繋がっているのか分からなかったが、七瀬が案内された部屋の正面に見える襖絵から、その先の部屋が最奥だろうと思わせた。

 かりんは、七瀬が立ち止まっていることに気が付いて襖を開けようとした手を止めた。七瀬は四枚の襖に描かれた絵を眺めていた。

「右が人、左が棘人です」

 右側上段から刀を構えた人が、青葉の茂った太い枝の上に立つように描かれている。それに対して、左側に描かれた棘人は枯れた枝の上にいる。鮮やかな赤い衣をはためかせ人に対峙し、その手の甲から生える鋭い棘が人に向けられている。

 襖絵についての知識など七瀬は持ち合わせていなかったが、魅力的な絵だと思う。時間が許すのであれば、もっと近くでじっくりと見たかった。

「こちらで先生と奈々未さんがお待ちです…失礼します」

 かりんが襖を開ける。

 七瀬が入った部屋では、先週家に訪ねて来た男が中央奥に正座していた。そして、七瀬に用意された座布団と対面するように、窓枠に腰掛けていた美しい女性が座っていた。

 七瀬は何をするのかも分からず、用意された座布団の上で正座をして目を伏せた。

「これから西野さんと奈々未にやってもらう儀式は、かつてこの村で争っていた私たち棘人と、人が、共に生きて行くことを誓ったその契りを忘れぬための儀式です」

 男がふたりに言い聞かせるように語る。そのあいだに、七瀬と奈々未の前には酒が用意された。

 奈々未が先に小さな酒盃を手にして一口飲んだ。男が七瀬を見て頷き、七瀬も同じように口をつけた。強い辛味が舌先を刺激する。

「棘行祭が無事に行われるには、それまでの稽古期間も気を抜かないようにお願いしたい。西野さんの男役は刀を使い舞う場面がある。模造刀を使用するが、稽古のときから本番だと思って緊張感を保って欲しい。奈々未も同様、模造刀だろうと扱いを間違えれば命に関わる。それぞれ心得ておくように」

 七瀬は言葉を聞きながら『ナナミ』と下の名前で呼ぶということは親子だろうかと考えていた。

「そして、今後棘行祭に関しては私が稽古の指導を行う。そのあいだは呼び難いかもしれないが『先生』と呼ぶように」

 その言葉を受けて七瀬は奈々未を見たが、変化を読み取れなかった。

「細かいことは、あとで書面にしたものを渡す」

 男はわずかに背筋を伸ばし「では、握り手を」と言った。

 七瀬は突然のことで視点が定まらなかった。七瀬の動揺をよそに、奈々未が右手を差し出す。

 たった一日のあいだに棘人と間近で対面し、その手に触れるとは思ってもいなかった。

 目の前に見える奈々未の手には棘など見当たらない。それでも何故か七瀬の右手は重く、奈々未の手が遠く思えた。

 七瀬はやっと腕を上げ、奈々未の手を握ろうとした。

「奈々未!」

 七瀬の覚悟を待たず、奈々未は右手を引っ込め躊躇いなく立ち上がると、男の呼び掛けにも反応せずあっという間に部屋を出て行ってしまった。

「お姉ちゃん?」

 奈々未と廊下ですれ違った少女が反射的に声を上げた。

「すまない。こちらの儀式に呼んでおきながら無礼を働いてしまい、それに父親としても申し訳ない」

 七瀬は首を振った。

 相手の無礼よりも、自分がこれほど棘人に抵抗があったことに驚いていた。

「飛鳥、かりんを呼んできなさい」

 廊下に立ち尽くしていた少女は「はい」と答えて去って行った。飛鳥と呼ばれた少女が着ている制服から、深幸高校に通っていると分かった。

 それからすぐ、かりんが部屋に入って来る。

「西野さんに式次第やその他の資料をお渡しして、玄関までご案内しなさい。…それと、あとでこの部屋の片付けも」

 かりんは「はい」と答えると、七瀬に笑顔を向けて会釈した。

 七瀬は静かに立ち上がり「失礼します」と部屋を出た。

「あの…この絵を少し見せてもらって良いですか?」

 七瀬は心を落ち着かせたかった。握り手と言われ素直に手が出なかった自分が嫌だったし、赤い服の女性の態度が心苦しかった。

「えぇ、どうぞ…他の皆さんが応接間で待ってらっしゃいますけど」

「すみません、先に帰っても大丈夫だと伝えてもらえますか」

 自然とそう言っていた。落ち着くために時間が欲しかったし、この襖絵もよく見たかった。

 七瀬は襖絵の前に立ち、そこに描かれた棘人の、少女とも少年とも言えない中性的な顔立ちを眺めた。

 かりんは部屋を出るとき、何も言わずに明りを点けて行った。

 七瀬は細かな部分まで照らされた襖絵をじっと見つめた。

 襖絵全体が見える場所まで下がり、七瀬は畳の上に座る。鞄から『棘人とネコ』を取り出すと、最初の頁にシャーペンを走らせた。

「『争い』『契り』…『刀』」

 七瀬は図書館で読んだ記述も思い出そうとしていた。

「『ウラ江田』…『奥江田』…」

 七瀬は最後に『ナナミ』と記した。

 どれくらい経ったのか分からなかったが、七瀬の視界にかりんの姿が見えた。

「待っててくれたんですか?」

「いえ…たまたまですよ。通ったらまだいらっしゃって、ちょうど声を掛けようと思ったところです」

 それが本当でも嘘でも、七瀬は嬉しかった。

 玄関に続く廊下まで来ると、応接間から騒がしい声がした。まだ高山たちが残っているのだろうかと部屋を覗くと、知らない女性たちが談笑していた。そのうちの一人と目が合い、会釈をする。相手は満面の笑みで手を振った。

「棘行祭の江田からの参加者ですよ」

 かりんが説明した。七瀬が戸の先に見た女性たちは全員が(形はバラバラだったが)白を基調とした服を着ていた。

「有難うございました」

 七瀬は礼を言った。

「あ、あの…ナナミさんって、名前はどんな字を書かれるんですか?」

「えっと…これです」

 かりんは玄関の隅に立て掛けられていた傘を指差した。いつ頃書かれたものなのか、小学生くらいの子が持つような赤い傘の柄に『奈々未』と記されていた。

「それでは、これからよろしくお願いしますね」

 スマートな会話の切り上げ方に、七瀬は自然と笑顔になってお辞儀をした。

 雨は止んでいた。携帯電話を取り出して時計を見ると三時になろうとしていた。

「あぁ」

 七瀬は声を出して後悔する。

 帰り道がさっぱり分からなかった。

 行きの景色を思い出しながら、見当をつけて歩き出す。しかし、どう視点を変えても初めて見る景色に思えた。遠くに伊瀬良山脈が見えたが、いま立っている道がカーブを描いているせいでどうしても位置関係をイメージ出来なかった。

 携帯電話の地図機能を思い出したとき、目の前から見覚えのある少女が歩いて来るのが見えた。

「あの…」

 採寸のときに独楽のように動き回っていた三人の内のひとりだった。

「えぇっと」

 名前を思い出せずにいると「渡辺みり愛です!」と返って来た。

「西野さん…でしたよね? どうしました?」

「そうだみり愛ちゃん。えっと…帰り道が分からなくなっちゃって…」

「わあ…」

 素直な驚きを示したみり愛は「あっちです」と道に面した家の壁を指差した。

「え?」

「ああっと、方角です。見取町はあっちなんですけど…見取町のどの辺ですか?」

「…砥辺川沿いなんだけど」

「そしたら、あっちですね」

 少しだけ指は左にずれたが、やはり家の壁を指差している。

「うん…道はどう行けば」

「ですよねぇ…ちょっと待ってくださいねぇ」

 みり愛は携帯電話で誰かに連絡した。

「えっと、私はこれから西野さんの道案内をするので、そっちの採寸はよろしくお願いします。…大丈夫ですよ。まあやさんなら完璧です。私も完璧ですから。心配しないでください。かりんちゃんにも伝えておいてください。…はい。…はい、完璧なんで」

 七瀬はとても申し訳なく会話を聞いていた。

「大丈夫です。西野さん。ご案内します」

「なんか、ごめんね」

「大丈夫ですよぉ」

 七瀬とみり愛は横に並んで歩き始めた。

「みり愛ちゃんは幾つ?」

「十五です」

「中が」

「高一ですぅ」

 小柄で幼い顔立ちに、もっと年下かと思っていた七瀬は改めてみり愛を見つめた。

「年齢の話題は止めておきましょう」

 みり愛は笑って七瀬を見た。

「こっちの人達って、白い服着てる人が多いね」

 七瀬は気になっていたことを口にした。年下で愛嬌があるみり愛には自然と質問することができた。

「私が着てるのは礼服的なものですかねぇ」

 みり愛は、Tシャツとジーンズを覆うように着ている長羽織(のようなもの)の襟をつまんで見せた。それは麻でできた飾り気の無いものだった。

「棘行祭の本番はもっと変わるんですけど、準備とか一応これを着てればオッケーっていうか…あの、神さまに関わることは普段着じゃ駄目なんですけど、清めるのは面倒臭いんで、とりあえずこれを着てる人は『清められた』ってことにしてるみたいです」

「私たち普段着で来ちゃったけど」

「あぁ、それは良いんですよ。全然気にしないでください。私たち午前中に切紙やってたんで、それでです。本番に使える物も出来るかもしれないんで一応着てただけで。式の稽古も普段着とかで大丈夫ですよ。神さまに見せるわけじゃないんで」

 みり愛が説明しているのは棘人にとって常識なのだろうかと七瀬は感心する。

「じゃあ、あの応接間にいた人たちも白い服だったけど…同じ理由? 麻の、そういうのじゃなかったけど」

「先輩たちですか?…なんですかねぇ。何となく普段でも白い服を着たい気持ちは分かります。私もそうですし。気が付いたら白い服が多いって言うか…あぁ、でも奈々未さんは赤アピール強いかもですねぇ」

「へぇ」

「奈々未さんは良いんですよ。どんな服でも似合うし、赤着ても浮かないって言うか…私とか、赤着ると着せられてる感って言うか、白以外で何買えば良いのか分かんなくなるんですよね。白だと慣れてるって言うか」

「…あの、奈々未さんってどんな人?」

「奈々未さん?…綺麗で優しくて、ちょっと意地悪で、笑いのツボが変で、妹思いで、聞き上手で、ちょっとミステリアスで、肌がすべすべで、泣いてるところは見たことなくて、時々病気で寝込んだりしてて、薬とか病気の対処法に妙に詳しくて、目が綺麗で、バンドが好きで、バスケが好きで」

 その説明だけで七瀬は十分だった。ふたりがどこまで親しいのかは知らないが、ここまでスラスラと言えるのは、みり愛はもちろん、奈々未の人の良さなのだろうと思った。

「あっ、あと」

 みり愛は七瀬を仰ぎ見た。

「すっごい辛い食べ物が好きです」

「そんなに?」

「そんなにです。これはすごいです」

 七瀬は声を出して笑った。

「すごいんですよ。このあいだ坦々麺食べてるとこ…あぁ、ラーメンも好きです。このあいだひとりでラーメン屋さんに行ってるとこ見ました。ラーメン好きです」

「ラーメンが好きで、辛い物が好きなのね…みり愛ちゃんは、奈々未さんのこと」

「大好きです」

 即答だった。

「そして、こっちです」

 みり愛は四つ角に来ると右方向を指差した。その道はなんとなく七瀬にも見覚えがあった。

「この道をずっと行くと見取に出ますし、左に曲がると砥辺川もすぐですよ」

「ありがとう」

 七瀬は改めて礼を言った。

「いいえぇ、楽しかったです」

 みり愛は手を振って七瀬を見送った。

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棘人という不思議な存在を巡り、地方の普通の女の子の日常がちょっと不思議なファンタジーになる。
そして丁寧に描かれるキャラクター同士の関係、炭酸の泡がはじけるような快い新鮮さ。
とても雰囲気の良いお話であり、読ませるなと思いました(*´`*)

大久保珠恵

2018/8/11

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とじる

第四話 ミツジ

 夏休みが始まって数日、七瀬はぼうっとして過ごすことが多かった。部活もなければ塾にも通わない生活は、自身も驚くほどすることがなかった。希望する進学先への学力は十分に備わっていたし、寝食を忘れるほど熱中できる趣味も持っていなかった。

 一学期に行われた進路相談で、担任に「看護学校へ行く」と告げていた。大学進学ならば「もっと上を目指せる」だとかの言葉が交わされるのだろうが、七瀬の進路希望に誰も何も言うことが無かった。

 一〇年後に何をしているのかは思い描けないが、一年後には看護学校に通っているだろうと思っている。入学したいと思っている学校は家から通える距離にあり、七瀬の前に大きな壁は今のところ見当たらなかった。

 七瀬は漠然と「こういう時期もある」と捉え、暇な時間をそれなりに楽しんでいた。

 昼過ぎ、七瀬が居間で寝転びながらテレビを見ていると携帯電話が鳴った。

『山﨑』の表示を見て、通話ボタンを押す。

「先輩いま大丈夫ですか?」

「うん」

「このあいだ言ってた友達が今日来るんですけど、先輩もいらっしゃいます?」

「えっと…」

 断る理由もなかったが、突然棘人の話に触れるのは慣れなかった。

「その友達がタンタンに行きたいって言ってるんですけど、もし良かったらそこで落ち合って、そっからうちに来ませんか?」

「ザキさんもタンタン行くの?」

「はい」

「何時頃かな」

「えっとですね、いまが一時なんで…二時頃ですかね」

「分かった」

 七瀬は電話を切り、探したい本もあったのですぐに出掛ける準備を始めた。

 洗面台の前に立ち、青いヘアゴムで髪をポニーテールにまとめ上げる。顔を左右に振って留め位置を確認し、ヘアゴムを取ると少し低い位置にしてもう一度結わえた。

「どっか行くの?」

 廊下にいる母親が訊いた。

「うん…友達のとこ」

「そう。今日お母さん出掛けるから。夕飯は自分で用意してね」

「分かった」

 ほとんど化粧をしない七瀬は、唇にだけ淡い色を足して洗面台を後にした。

『タンタン』の立て看板の横に自転車を停め、七瀬は「こんにちは」と店主に声を掛けた。

「いらっしゃい」

 小さな声が返ってくる。七瀬が店内を見渡すと、まだ山﨑は来ていなかった。

「あの…江田の方言とか載ってる本ってありますか?」

「江田の方言だけってのは無いかな…江田の方言って、川向こうの『伊瀬良』の言葉なんだよね。でも、方言ってのは…」

 店主が帳場から出て来て、棚の上の方にある分厚い本を取り出した。

「棘人の中心地って伊瀬良の山なんだよね。総本山的な感じ。方言だけじゃなくて、文化をまとめてる本なんだけど」

 店主に手渡された『伊瀬良民俗事典』には、冒頭のカラーページに多くの写真が載っていた。

 その中に先日見た襖絵の写真もあった。

『刀に棘図(別称:刀人棘人図)』

「その絵見てみたいんだよね」

 店主の言葉に「この前、実物見ました」と七瀬は答えた。

「うそ…そうか、羨ましいな」

 七瀬は携帯電話を取り出すと、そこに保存された一枚の写真を店主に見せた。

「ほんとだ…うわぁ…良いなぁ」

 七瀬はなぜだか誇らしかった。そのとき、入口から音がすると「お、ザキさん」と店主が声を掛けた。

「お邪魔します」

 入口には制服姿の山﨑が立っていた。

「先輩も来てたんですね…あ、絢音も来てたんだ」

 七瀬が気付かないあいだに店内にはもうひとり女性が入って来ていて、山﨑と手を振り合っていた。

「先輩、紹介します『鈴木絢音』です」

「どうも」

「こちらは中学のときの先輩で『西野七瀬』さん」

 七瀬は軽く会釈をした。

「あれ? 三人で会う約束してたの?」

 店主は感心したように眺めている。

「面白いね…いつもみんなひとりで来てたけど、そうやって繋がるんだ」

「何? 絢音もよく来るの?」

 山﨑が驚いて訊いた。

「よくって言うか、まぁ、来るよ」

「今まで会ったことないよね」

「うん。だってザキさん見つけたら入るの止めてたもん」

「何でよ」

 山﨑は鈴木の肩を叩くフリをして笑った。

 三人はタンタンから出ると北に――江田町へと近づくように歩いていた。

 七瀬は自転車を押しながらふたりの会話を聞いていた。

「絢音は家から?」

「そうだよ」

「着替えて?」

「何が?」

「あれ? 今日学校行ってないの?」

 制服姿の山﨑は夏期講習の帰りだった。

「だって、まだ二年じゃん。夏期講習とか三年になったらで良いよ」

「そっかぁ、夏休みどうせ暇だからと思って夏期講習入れたけど…家で何してんの?」

「別に…宿題やって、本読んでるくらい」

「先輩は何やってるんですか?」

 山﨑が振り返る。

「私も別に…明日から棘行祭の練習が始まるくらいかなぁ」

「先輩棘行祭に出るんですか?」

「うん」

「へぇ」

「ただ、何をどうやるのか知らされてないから、よく分かんないんだけどね」

「それでかぁ」

 山﨑は何か合点がいったようだった。

「このあいだも話したけど、『棘人とネコ』によく分かんない方言があるから教えてほしいんだけど」

 山﨑が鈴木に話し掛けた。

「うーん、でもあの方言を使う人あんまりいないし、私もよく分かんないよ」

「読んだの?」

 七瀬が訊く。

「はい…あまり憶えてないですけど、確かに方言はちょっと強いなって思いましたね」

「絢音はどんな本読むの?」

 山﨑が訊く。

「えぇ、何でも読むよ…うん。小説も読むし…このあいだはチェーホフ読んだ」

 三人は『学校通り』と呼んでいる小学校沿いの道を歩いている。昔は小さな用水路があり、夏はいつも小学生がカエルやザリガニを採っていた。何年か前に用水路の上に蓋がされ、そのおかげで車の行き来は楽になったが、遊び場が減ることを寂しがる者もいた。

 学校通りから細い横道に入ると、舗装されていない長屋の並ぶ一帯に出る。そこをさらに抜け、道なのか家の敷地なのか判別できない場所を過ぎて山﨑の家に着いた。

「先輩ってうち来るの初めてでしたっけ?」

「うん」

「すみません、うちじゃなくて別の所にすれば良かったかな」

「私ザキさんの家好き」

 鈴木の言葉を聞きながら、七瀬は自転車を壁沿いに置き山﨑の家に入る。

 細い廊下の左右に戸や襖が並んでいる。

「ここが私の部屋です」

 山﨑が一番奥の戸を開けた。

「ちょっとお茶用意してきますね」

 山﨑の部屋にある唯一の窓は、すぐ隣の家の壁が迫っていて日は射して来ない。

 窓の下に白いカラーボックスが三つあり、どれにも本が詰まっている。

 部屋の角にある勉強机は綺麗に整頓されていて、小さな置時計が秒針の音を部屋に響かせていた。

 水色のローテーブルを囲うように鈴木と七瀬は腰を下ろし、山﨑を待った。

「友達の家に行って、別学年の人がいるなんて小学校以来です」

 鈴木が笑った。

「私も」

 お盆にお茶を乗せて戻って来た山﨑に「ザキさんは変な人だね」と鈴木が呟いた。

「何が?」

「何でもないよ」

「うん、何でもない」

「先輩まで…なに話してたの?」

「別にぃ」

 鈴木は一気にお茶を飲み干す。

「ちょっと着替えていいですか?」

 答えを聞く前に山﨑はグレーのベストをハンガーに掛けている。

「この季節に暑くないの?」

 七瀬の質問に「暑いですよ」と山﨑が答えた。

「ブラウスだけでも良いんですけど、ベストもあるとポッケが増えるし」

「何を入れるの?」

 そう訊いたのは鈴木だった。

「えぇ、ちょっとした、何か、色々」

「ザキさんは用意周到だからねぇ…絆創膏とかも入ってる?」

「うん。絆創膏は生徒手帳に挟んである」

 鈴木は声を出さず笑った。

「普通入れるじゃん。ねぇ、ほら、私は着替えてるから、絢音は西野さんの質問に答えて!」

 七瀬は鞄から『棘人とネコ』を取り出し、頁を捲った。

「そうだ…江田の人って、見取町のことを『江田ウラ』とかって言うの?」

 七瀬はシャーペンを取り出しながら訊いた。

「えぇっと、実際に聞いたことは無いです。今ではほとんど聞かれない言い方ですし、分かる人も若い人じゃ少ないと思いますよ…」

「そうなんだ」

「あぁ、でも『ウラ』って、多分『オモテ/ウラ』の裏じゃないと思いますけどね」

 鈴木はテーブルの上で掌をひっくり返しながら言った。

「私も前に調べたことあるんですよ。中学のときに『地元の詩を読もう』とかって言う授業で、つまらない詩を読まされたりしたんですけど」

「どんな詩?」

 Tシャツに腕を通しながら山﨑が訊いた。すでにスカートは短パンに履き変わっている。

「えぇ、もう憶えてないよ…棘人の暮らしとか懐かしんでるようなダサいやつ」

「ダサいんだ」

「超ダサい…で、その中に『らば』だったかな、平仮名の『ら』に場所の『場』で『ら場』って言うのが出て来て調べたんですよ」

「聞いたことない」

「私も初めて聞いたから調べたんだけど…そしたら『日のあたる場所』とか『いま日が射している所』とか、確かそんなんで」

「へぇ」

 七瀬と山﨑が同時に感心した。

「あの伊瀬良山脈って、北の方に『伊瀬山』ってあるじゃないですか」

「伊瀬良山じゃないっけ?」

 山﨑が遮る。

「それね…よく間違えるやつ。『伊瀬良』は地域一体の総称で、山の名前は『伊瀬山』…で、そこより南側の山の方が日が当たるじゃない」

 山﨑が勉強机の端から小学生のときに使っていた地図帳を取り出して広げた。

「すごい…ザキさんまだ持ってるんだ、それ」

「え? 便利ですよ?」

「…うん」

「あ、本当だ。『伊瀬山』ってある。伊瀬良山だと思ってた」

「…だから、伊瀬山より南の山がみんな『伊瀬良』って呼ばれてたらしくて、山脈の名前として『伊瀬良山脈』って」

 七瀬はただただ感心していた。

「でも『ら』と『うら』じゃ」

 山﨑に倣い七瀬も気が付いたことをすぐ口にした。

「そうなんですよね。ただ昔、おばあちゃんが洗濯物干すときに『うら場に干してくる』とか言ってて、『ら場』じゃなかったんですよね」

「はぁ…」

 山﨑がため息のような声を出した。

「『江田ウラ』って、江田よりも南側ってことなんじゃないかと思いますよ。『江田南』みたいな…あくまでも私個人の推測ですけど」

「それだよ」

 確証もなく山﨑が支持する。

「すごいね…よく知ってるね。私、自分が住んでる見取町のことも全然知らないよ」

 七瀬はノートの端にいま鈴木に教わったことを記した。

「いえ、ただこんな私の推測なので、ちゃんと調べた方が良いと思いますけど」

 その後も、七瀬は小説の中に出てくる言葉の意味を知って行った。

 そのうちに鈴木は、七瀬に対して少しずつ敬語を取り払い、山﨑の少し抜けた行動にふたりで笑い合い、徐々に距離を近づけて行った。

「絢音ちゃん今日夕飯どうする? 食べてく?」

「あぁ、どうしようかな、よばれようかな」

「先輩もどうです?」

「…良いのかな」

「全然大丈夫ですよ。作るの私なんで」

「ザキさんが作るの?」

「はい。ちなみに今日は餃子です」

「じゃあ、私ちょっとお母さんに伝えて来る。ついでに本も持って来たいし」

 鈴木が立ち上がる。

「じゃあ私も甘えようかな。作るの手伝うよ」

 鈴木を見送った七瀬は、エプロンを借りて台所に立った。

「餃子パーティーですね」

 山﨑が満面の笑みを見せた。

 七瀬と山﨑が台所で準備をしていると、鈴木が帰って来た。

「早いね」

 七瀬は驚いて言った。

「近くなんですよ。歩いても五分かかんないくらい」

「あれ? ここって江田なの? 見取なの?」

「大きく見ると、江田ですね」

 山﨑の家は見取町の飛地だった。

「ここの地主さんが昔から見取の人で、すっごい前の統合だ何だってときも頑なに反対したらしいです。ここアスファルトじゃないじゃないですか。何か舗装工事だとか、水道工事だとか、色々面倒らしくて、町も面倒がって動いてくれないんですよ」

 餃子のタネを作りながら山﨑が説明する。

「絢音ちゃんちは何処になるの?」

「私の所はザキさんと反対ですね。見取の中の、江田の飛地です。ここら辺は飛地が多くて、ぐっちゃぐちゃでよく分かんないですね」

「そうなんだ…ここからだと駅は…江田の方が近い?」

「ですね…だから時々遅刻しそうなときは江田駅を使いますよ」

『深幸駅』から南下する鉄道はふたつあった。

 国営鉄道は『深幸』→『徳瀬』→『見取』

 矢來線は『矢來深幸』→『矢來徳瀬』→『江田』

 高校受験の際に見取町の者は国営鉄道で通える高校、江田町の者は『矢來線』で通える高校で選ぶというのが一般的だった。

 七瀬と同じ見取町出身と言っても、飛地の入り組んだ場所で育ち、『江田駅』も利用する山﨑の環境は随分違っていた。鈴木の境遇も山﨑と似通っていて、この中では七瀬の方がひとり違う環境に置かれていた。

 大皿に餃子が並び、三人は席に着いて食べ始めた。

「ザキさん、今日親は?」

 七瀬が箸を動かしながら訊いた。

「母はお仕事行ってます。帰って来るのは夜中ですかね」

「お父さんは?」

「秋津市で漁師やってます」

「うちも…遠洋?」

「沖合ですね。イカ捕ってます。先輩の方は遠洋ですか?」

「うん」

「大変ですね」

「どれくらい行くんですか?」

「距離?」

「時間…日数」

 皿の上で餃子を半分に割りながら鈴木が訊いた。

「長いときで一年ってのがあった」

 餃子を口に含んだまま鈴木が「おぉ…」と声を出した。

「そういえば、棘行祭って何の役なんです?」

 山﨑が訊く。

「男役」

「すごい…」

「んん…ただ選ばれただけだから。私は何にもしてないけど」

 鈴木が大皿を眺めて次にどの餃子を取ろうか見定めながら口を開いた。

「あれって、学校とかも関わってるって聞きますよね」

「え?」

「ん?」

 鈴木と七瀬が見つめ合う。

「なんか、部活動とか、学校の行事とかと照らし合わせて参加可能な人を選んでるって聞きましたよ…少なくとも棘人の方はそうしてるはずです」

「へぇ」

「すごい影響力あるんだね…」

 山﨑も棘人の棘行祭に掛ける思いに感心していた。

「だから、棘人の方は高校卒業した人とかも多いんじゃないですかね」

「そうなんだ…」

 七瀬は、採寸の帰りに覗いた応接間の女性たちを思い出していた。

「ついでに…これ、西野さんの役に立つかは分からないんですけど、家から持って来た本です」

 鈴木は床に置いていた鞄から本を取り出した。

『江田町誌』

「こんな本が家にあるの?」

 山﨑は函に入ったその本をじっと眺めた。

「父の本棚から借りて来ました」

「お父さんは何をされてる人なの?」

 七瀬が訊く。

「学校の先生です。小学校の」

 七瀬は本を受け取り、頁を捲った。

 細かな文字がぎっしりと並んでいる。

「あ、無理にじゃないんですけど、貸すことはできるんで」

「うん」

 七瀬は文字を追いながら読めない漢字の多さに面食らった。

「難しそう」

「そうなんですよね。もっとフランクな言葉で書いてあれば良いんですけど、そういうのって文章が硬いんですよね」

「絢音ちゃんはこれ読んだの?」

 鈴木が首を振る。

「調べ物しててちょこちょことは見ましたけど…もしあれなら後で一緒に見ます? 附箋とか付けて、帰ってからじっくり見るとかでも良いですし」

 七瀬は急に、どうしてこんな本を自分が持っているのかよく分からなくなった。これまで一度も触ったことが無い類の本が目の前にあることが不思議だった。

 夕飯の片づけを三人で済ませ、山﨑の部屋で一冊の本を囲む。

「この辺りは…」

 七瀬は目次に並ぶ地名を追った。

「ミツジですね」

 山﨑が答える。

「見取の?」

「江田についての本なので…漢字の三に、交差点の…漢数字の十に二点しんにょう…」

「あ、これか…江田にもミツジってあるんだ」

 指定されたページを開いて七瀬は『三辻』の説明書きを読む。

「飛地ばかりだから、大きく『ミツジ』っていう…ほぼ地域名ですよね。江田町三辻と、見取町三次と…だから、正確に言うとこの家は江田の飛地なので三に次の『三次』で、周辺の家は今調べてるこっちの『三辻』です…音だけだと紛らわしいんで、『サンツジ』と『サンツギ』って言ってますね」

「住んでる人はほとんど『ミツジ』って使わないかな」

 鈴木が本を見ながら言った。

「ごっちゃになりそう…そっか、見取のことは、この本みたいな見取についてのを見ないと分かんないんだ」

「ですね…先輩のとこの字は?」

「アザ?」

「江田町三辻とかの『三辻』の部分…見取町の何って」

「うちは『ヤグラ』…弓矢の矢に、倉庫の倉」

「火の見櫓とかあったんですかね」

 山﨑が何気なく言うと「本当に弓矢を放つ場所だったかもよ」と鈴木が反応した。

「西野さんが今度やる棘行祭って、棘人と人…こっちでは刀の人って言って『刀人(トウジン)』って呼んでるんですけど、その争いっていうか、戦争っていうか、そういうのを題材にした舞もあるんですよ」

「…あぁ、争ってたっていうのは聞いたけど」

「争いがどんなのだったかっていうのは全然資料がなくて、言っちゃえば棘行祭が唯一の資料みたいなものらしいんですけど、舞だし、分からないことだらけなんですけどね。…だから『矢倉』って言っても当て字で漢字つけてる場合もあるし、矢を放ってたのか、ザキさんが言ったみたいに本当に火の見櫓かあったのかもしれないし」

「絢音ちゃんは、そういう知識って調べたの?」

「父との会話とかで断片的に知ってるだけで、詳しいことは全然」

「…でもすごいね」

 七瀬はいままで一度も家族で地名の話などしたことがなかった。鈴木の言葉に感心すると同時に、自分の家の建つ地名が矢を放つ場所ではなく『火の見櫓』であって欲しいと思った。

「そういえば」

 七瀬は夕飯時の鈴木の言葉を思い出した。

「棘人の人達は高校卒業した人が多いとか言ってたけど…何か理由があるの?」

「棘人って、体力の平均値とか高いらしいんですよね。それで部活とか入ってると良いとこまで行っちゃうんですよ…一応、学業優先ってことで棘行祭は諦めるんですよね」

「そうなんだ」

「ただ棘人って全国大会までは出れないんで、行けても県大会までで、あとは同行するだけとか、マネージャーみたいな仕事するとかなんですけどね」

「出れないって?」

「出場が制限されてるんです…科学的にとかは分かんないですけど、いわゆる高校野球とか高校総体とか…中学でも同じらしいんですけど、そういうののルールで決められてるって…父が言ってました…ていうか、見取の学校もそのはずだけど…」

「ほんと?」

 山﨑が目を丸くする。

「何だっけな…『棘人法』とかそんなで、伊瀬良郡と江田と見取の小中学校は全国大会の出場が制限されてますよ…高校になると学校の参加は出来て棘人だけは駄目とか、そんなんで」

「あぁ…そういうことだったんだ」

 七瀬が記憶を辿る。

「私のお兄ちゃんも、秋津市でお父さんの実家から向こうの中学校行ってた」

「ですよね…江田でも棘人じゃない人は秋津や深幸の中学で寮生活してたり」

「勝手に、お父さんが寂しいから一緒に向こうに行ったと思ってたけど、考えたらほとんどお父さん帰って来ないし…」

「先輩って、結構適当に生きてます?」

 山﨑が可笑しそうに訊く。

「ね、何だろうね。全然、自分の家のことなのに考えたことなかった…小さいときはお兄ちゃんはそういうもんだって言われて、そっから聞き直したことなかった…」

「その法令だかが邪魔して、徳瀬市とか秋津市との合併とかも上手くいかなかったらしいですよ」

「でも、出場が制限されるってそれ不公平じゃない?」

 山﨑が口をとがらせる。

「最近は聞かないけど、昔は棘人ってことを隠して参加させてたりしたみたいだけどね」

「へぇ…」

「棘人は痛みに強いって言われますし…知らないですけど、ボクシングとかだと差がつき易いんじゃないかな」

 七瀬は鈴木の説明を聞きながら、無意識に自分の手を見ていた。

「…絢音ちゃん…このあいだね」

 微妙に変化した空気を読み取って、鈴木は七瀬を見た。

「棘行祭の衣装を作るために橋本さんってお宅に行ったんだけど」

「はい」

「そこで、ちょっとした儀式があって棘人の人と握手しろって言われたんだけど、手が出せなかったんだよね」

「…はい」

 鈴木は七瀬の言葉をしっかりと聞いていた。

「棘人の人がどういう風に『棘』を出すのか知らなくて…握手しても大丈夫なんだろうけど」

「見ます?」

 鈴木はそう言うとテーブルの上に右手を置いた。

「え?」

「棘が出るとこ…いま出しましょうか?」

「ここで? 今すぐ?」

「説明するより見た方が早いですよ」

 七瀬が答える前に鈴木が手に力を入れる。

 手の甲と指先に赤い斑点が浮かび上がったあと、長さ5センチほどの何本もの棘が生えて来た。

「え? え?」

 七瀬がじっと鈴木の手を見つめる。

「こんな感じです」

 鈴木の言葉は特別さを少しも感じさせなかった。

「ちょっと触って良い?」

「はい」

 先端に触れた七瀬の指に小さな痛みが走る。

「久しぶりに見た」

 山﨑が七瀬の隣から覗き込んでいる。

「これを棘刀式で切るんだよね」

 七瀬は顔を上げて鈴木に訊いた。

「切るって言っても、多分イメージしてるのとは違うと思いますよ…何て言うのかな、薔薇とかの棘って、繋ぎ目みたいなところからポロッと落ちるじゃないですか。そんな感じで、切るって言うより落とす感じですね」

 鈴木は「ちょっとすみません」と言って、七瀬の後ろのカラーボックスからティッシュを一枚取るとテーブルに敷き、その上に棘の生えた右手を持って来た。他の指から離すように小指を伸ばし、左手で「でこぴん」の形を作ると、指先の棘を力いっぱい弾いた。

 ティッシュの上に一本の棘が落ちる。

「痛い」と口にしたのは七瀬だった。

「西野さんが思ってるほど痛くは無いんですけど、それも痛みに強いからなのか、西野さんにとってどれくらいの痛みなのか分からないんですよね」

 右手に残った棘は静かに皮膚の下へと埋もれて行き、何事も無かったかのように鈴木は左手でさすった。ただ、棘の落ちた小指の先だけは赤く皮が剥げていた。

「ありがと…ごめんね、痛いのに」

「いいえ。気にしないでください」

 鈴木は笑顔で応えた。

「あと、握手くらいは問題なくできますよ。こうやって棘が出るのは、意識的にやるか、あとは危険が迫ったりとかですから。普段の生活で他の人に棘が刺さるなんてそんな無いと思いますよ」

「うん…ほんと、ありがと」

 七瀬は何故だか涙が出そうになった。

「そんな良いことじゃないんですけど、棘人も握手を拒まれるとかよくあるんで、慣れてると思います。フォローになってるか分かんないですけど」

 七瀬は右手を出し、鈴木の手に添えていた。

「ねぇ、これはどうすれば良いの?」

 山﨑がティッシュの上に転がっている棘を見て言った。

「ゴミ箱にでも捨てておいて」

「もらって良い?」

 七瀬が反射的に言った。

「止めといた方が良いですよ。生ものなんで、時間が経つと腐っちゃいますから」

「あぁ、そうなんだ」

「じゃあゴミ箱にそのままじゃなくて、袋に包むとかしておいた方が良い?」

「どっちでも良いよ。嫌なら私が持って帰るから」

「嫌じゃないよ。ただ腐るっていうから」

「そんなすぐは腐んないよ。そう何日もゴミ出さないとか無いでしょ」

「だって」

「もう…これだからザキさんはぁ」

 鈴木の呆れたような言い方が可笑しく、七瀬は笑った。

「先輩はどう思います? 腐るって言われたら」

「いや、そんな気にしない…かな」

「うるさいなぁ…ザキさん、しつこいよ!」

 笑いながら鈴木はたしなめるが、山﨑は納得がいかないようだった。

「うん、ザキさんちょっとしつこい」

 七瀬が同意すると、山﨑は「先輩までぇ」と悲しそうな声を出した。

「あぁ別のとこやればよかった。絆創膏が貼り難い」

 鈴木の言葉を聞いた途端に「指先用の絆創膏! あるよ!」と山﨑が笑顔で立ち上がった。

 そのとき微かに警笛が聞こえ、七瀬は時計を見た。

「もうこんな時間…帰らなきゃ」

 七瀬は立ち上がった。

「じゃあ途中まで一緒に行きますよ」

 鈴木もゆっくりと立ち上がる。

「私の家から学校通りまですぐですし、せっかくなんで」

「ありがとう。なんか色々迷惑かけちゃって」

「気にしないでください。どうせ暇なんで」

 玄関先で見送る山﨑に手を振り、七瀬は自転車を押しながら鈴木と並んで歩いた。

 鈴木は「あの」と言って、わずかな間を置いた。

「なんか、西野さんって良いですね」

「ん?」

 七瀬は街灯に照らされている鈴木の横顔を見る。

「ザキさんはちょっと変なんで数に入れないですけど、見取町の人って棘人について知ろうとする人が少ない気がしてて」

「…私も同じだよ。まだ全然知らないことばっかだし」

「年下の私が言うことじゃないんですけど、棘人の人と握手できなかったからって気にしないでください。それよりも、そのことを棘人の私に話してくれたことの方が、嬉しかったです」

 七瀬は思いがけない言葉に上手く反応できなかった。

「じゃあ、私の家はこっちなんで…このまま行けば学校通りに出ますから」

「ありがと」

「それじゃあ、おやすみなさい」

「おやすみ」

 七瀬は鈴木が家に入って行くまで見届け、自転車にまたがった。自転車のかごには、鈴木から借りた本が入っている。

 静かな住宅街にチェーンの音を響かせ、七瀬は見取町を走った。この時間になると車もほとんど走っておらず、車道に出て全力でペダルをこいだ。自転車の上で受ける夜風は久しぶりで、七瀬は嬉しくなった。

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地名の由来などが精密に書き込まれていて、本物っぽさがあります。
本当に七瀬さんたちと一緒にその地名の由来や土地の来歴を聞いているような。
「棘人」って本当にこういうことなんですね。
法律まで作って差別してるというのは、正直びっくりです(;´・ω・)

大久保珠恵

2018/8/11

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とじる

第五話 江田町立体育館

 それから平日のほぼ毎日棘行祭の練習が行われた。棘人は橋本の家の広間や庭を使って舞の練習を行い、見取町の人(刀人)は江田町立体育館を使っていた。

 七瀬は初めて経験する体育会系の部活のようで、午前中から稽古のときは朝起きるのが辛かったが、みんなと会えば楽しかった。

 体育館の端からは生田と高山の歌声が聞こえる。指導に来ている棘人の能條愛未と斎藤ちはるに合わせて、(音楽に詳しくない七瀬にはその難しさが分からなかったが)聴き慣れない響きを生成していた。

「短二度でずっと歌うなんて」

「いくちゃん…多分楽譜で考えない方が良いよ、これ」

 生田と高山は歌詞の書かれた紙の余白にペンを走らせながら思考錯誤している。幼少期からピアノを習っていた生田は、西洋音楽に慣れ親しんだからこそ棘人の歌に苦労していた。

 能條が刀人、斎藤が棘人のパートに分かれて手本を聞かせ、次に斎藤の棘人のパートに合わせて生田と高山が刀人側を歌う。間違えるとすぐに能條が訂正し、同じ節を繰り返す。

 旋律が交差し、高低が入れ替わる。拍子のない独特な間を置いて紡がれる言葉は方言が多くあり、言葉と意味を一致させるのが難しかった。

 別の端では秋元と桜井が舞の練習をしている。

 こちらには棘人の中田花奈と川村真洋が指導にあたっていた。

「なんでやろ…色気が足りひん」

 関西弁を話す川村は、そう呟いて秋元の舞を見ている。古いCDラジカセから音楽(それは名前のないただ『楽』と呼ばれるもの)を繰り返し流していた。

「ちゃうやん。腰をもっと落として、左足軸にして、あれ、コンパスみたいに右足をスーッと、そう、スーッと…なんで回されへんの。そっちの足は動かさんでええって」

 川村は熱が入るほど関西弁が強くなった。関西弁に慣れていない秋元にとっては、普通のことでも時折怒られているような気になった。そして実際に関西弁で怒られると、秋元は余計に委縮した。

「なんで分からんかな、もっぺん」

 川村に対して中田は、文字通り手取り足取り懇切丁寧に教えていた。桜井が腕を伸ばすと、その先にまで神経が行き届くように桜井の指先をつまんで糸を引くような仕草をする。そして「腰は正面」と言うと同時に、後ろに回り込んだ中田が桜井の腰を両手で固めた。中田の指導は実際に桜井の動きをしなやかに、そして美しく仕上げて行った。

「視線はこっち」

 そう言った中田は、桜井が見るべき場所に立ち真面目な顔で指示したが、何故か桜井はその中田の顔を見て笑ってしまった。

 その反応に目を丸くした中田に「ごめんなさい」と桜井は謝ったが、何が笑いのツボに入ったのか、なかなか桜井の笑い声は収まらなかった。

 一日に一回はそういった桜井の姿を見ることがあり、あるときは桜井の笑い声と同時に川村に怒られた秋元が泣き始め、さらに生田と高山の歌声が響きわたり体育館の中が奇妙な雰囲気にもなった。

 一方、七瀬と万理華は一緒に『刀舞』を練習していた。指導するのは先生とみり愛だった。と言っても、みり愛は舞を教えるのではなく棘人側の舞を担当し、七瀬や万理華の舞を受けていた。

 稽古中、ほとんどみり愛が喋り、先生は話すというよりも単語で指導することが多かった。

 先生が「足」と言えば、みり愛はその視線を確かめて七瀬のつま先の向きを変え、「腰」と言えばその高さを調整した。

「みり愛ちゃんって、舞ったことあるの?」

 休憩時間に万理華が訊いた。端的な指示から正確に動きを修正するみり愛に感心していた。

「いいえぇ、出来るとしても早くて来年か、まぁ再来年には舞いたいですねぇ。好きでずっと見てたし、真似ごとはしてましたけど」

 七瀬は同じ姿勢が続いて緊張したふくらはぎをマッサージしている。

「『刀舞』って刀を持つのかと思ってた」

「この舞は、前半は自身が刀になって動くんですよ。だから七瀬さんが太刀で、万理華さんが脇差とか、そんな感じです」

「これ前半なの?」

「はい!」

 万理華と七瀬は顔を見合わせた。

「後半はそれぞれ太刀を持って動いて、そこでも棘人とのやり取りがあって、すごいカッコイイですよ」

「あぁ」

「七瀬さんがこう動いて、そこに白石さんが回って来て、で…」

 みり愛はこの数日の間に七瀬を『西野さん』と呼ばなくなった。周囲がみんな『なぁちゃん』や『七瀬』と呼んでいるのに感化されて、自然と『七瀬さん』と呼ぶようになっていた。

「本番は私じゃなくて、白石さんと松村さんがやるんですよ。身長とか全然違うんで、そういうものとして見てくださいね」

 みり愛は、座り込んだ七瀬と万理華の前で身体を動かしながら舞がどれほどカッコイイかを説明し続ける。

「こう白石さんが背を向けて…そこに万理華さんがさっと後ろについて」

 みり愛がこれほど熱心に説明するのだから、よほど良い舞だろうと七瀬は思い、みり愛のためにも、しっかりと舞を憶えようと思った。

「学校行ってた方が楽かも」

 ある日のお昼、体育館近くの食堂『鈴め屋』で高山が言った。鈴め屋は棘行祭に参加する者には割引サービスをしていて、刀人は稽古のある日は毎日のように通っていた。

「なんか、部活みたいで楽しいけどな」

「ねぇ、玲香あんときなんで笑ってたの?」

「いや、真夏がさぁ『そこ転ぶ?』ってとこで足引っ掛けちゃって…川村さんにがっつり抱きついてんのよ」

「真夏、泣いてないで食べな」

「もう泣いてないよ」

「万理華、なんか腕太くなった?」

「そう、刀持ったとき全然動けなくて、最近筋トレしてるの」

「すごい」

「七瀬さん、今日の腕の動きなんですけど、衣装着るとまた感覚が違うんで気を付けてくださいね。裾がけっこう引っ掛かるんですよね」

 年下のみり愛は、棘人同士で昼食に出ることもあれば、七瀬について刀人たちと一緒に食べることもあった。

「ただいまぁ」

 出前から戻った新内眞衣が店に入って来る。新内は鈴め屋の娘で、大学が夏休みのあいだ家の手伝いをしていた。

「みんな来てたんだ」

 毎日のように通って来る刀人全員の名前を新内はすぐに憶え、外で会えば挨拶を交わす仲になっていた。

「歌、上手くなったねぇ」

「ありがとうございます」

「この時期になるとさぁ、体育館から歌が聞こえて来て、だんだん上手くなって行くのが楽しいんだよね」

 カウンター越しに空いたコップへ水を注ぎながら、新内は誰に言うでもなく呟いた。

「新内さんは舞ったことあるんですか?」

 桜井が訊いた。

「もちろん。二年前かな。あのときはかりんちゃんとか、今年も舞うまっちゅん(松村)とか、まいやん(白石)もまだ高二とかだっけ?」

「新内さんの舞も綺麗でしたよ」

「あら、みり愛ちゃんありがと…もっと褒めて良いよ」

「でも、一度足を滑らしましたよね?」

「あぁ、そこは憶えてなくて良いかなぁ」

「そういえば白石さんと新内さんって名前一緒ですよね、姫舞とかから取ったんですか?」

 生田が訊く。

「うん。漢字は違うけどね。やっぱりこっちの人にとって棘行祭って大事なもので、特に私たちの世代には何人か『マイ』って名前の子がいたよ」

「深川さんもそうでしたよね」

 みり愛が言った。

「新内さんの世代に『マイ』が多くて、だから私たちの生まれたときは、お母さんとかは逆に『マイ』は避けようとか思ったらしいです」

「ほんとに? それは申し訳ない…で、午後はまた稽古?」

 新内の問い掛けに高山が首を振る。

「今日はもう終わりです。土日挟んで月曜に…月曜は夕方から」

「大変だねぇ。棘人の方は何度も出てる子とかいるから慣れてるけど…でも、生田さんは去年も出てたよね」

「はい…ただ去年は舞だけで、今年は歌なんで、ほぼ初めてみたいな感じです」

「お疲れさまだねぇ」

 お盆明け、棘人と刀人の合同練習が始まって数日、体育館の入り口に三人の女子高校生が現れた。

 先生が全員を呼ぶ。

「深幸高校の生徒さんだ。学校の授業で郷土研究をするらしく、この棘行祭を調べるそうだ…まず自己紹介を」

「はい」

 最初に前へ出たのは、肩まで真っ直ぐに下ろした黒髪に、力強い目を持った子だった。

「堀未央奈です。よろしくお願いします」

「北野日奈子です」

「星野みなみです」

 緊張した面持ちで三人が自己紹介を終えると、先生は「稽古の邪魔だけはしないように言ってある。それと、録音機器などはこちらが許可しない限り使用は避けてもらうので、もしみんなの方で邪魔になったりしたら、私に申し出てくれれば対応する」と言った。

「何か質問は?」

「何年生?」

 白石が訊いた。

「二年生です」

「拙いとこは見せられないね」

 白石にそう声を掛けたのは衛藤だった。

「まっちゅんならいつでも撮って良いよー」

 ひとり楽しそうに松村が手を上げてアピールする。

 棘人側はみな余裕があった。

 対照的に刀人側は静かだった。誰もが女子高生に構っていられなかった。合同練習で迷惑を掛けないように自分の舞を頭の中で復習していた。

「明日は、屋外で通し稽古をやる」

 朝一番に先生から言われた言葉でみんな焦りを感じていた。最後に行う『棘刀式』の舞を昨日教わったばかりだった。

「完璧にやれなんて無理は言わない。舞台の広さ、立ち位置、そこから見える景色などを把握するためで、綺麗に揃えるだとかは二の次で良い」

 そう言われても、合同練習でミスをするのはいつも刀人の誰かだった。

 七瀬は特に緊張していた。それぞれが練習を始めたとき、ひとり呼ばれて「明日は実際に奈々未の棘に刀を振り下ろす」そう言われていた。

「やらなきゃ駄目ですか?」

「一度は経験しておく必要がある。それに、この時期にやらないと本番までに奈々未の方の傷も癒えないから」

 七瀬は、近くで舞の練習を再開した奈々未を見た。合同練習が始まっても、七瀬は奈々未に声を掛けられなかった。

 三人の女子高生がビデオカメラを回す中、体育館の舞台の前で『棘刀式』の練習が始まった。

 中央に立つ奈々未。その後方で高山、白石、秋元、衛藤、井上、万理華、松村、生田が入れ替わり立ち替わり、ひとりで、または対になり舞を披露する。間違えると「やり直し」の声が掛かり、みり愛が修正点を簡潔に伝え「始め」の一言で再開する。

 舞も終盤に差し掛かり、奈々未が蝶のように両腕を広げ前方へ動かすと、後方にいた全員がゆっくりと進み出て、また奈々未が腕を動かすと、流れるような動きで元の位置に戻る。

 奈々未は静かに膝をつき、何かを抱え込むように顔の前へ両手を出すと、左右の中指の先だけを触れ合わせた。少しの間を置いてから触れた指先を離し、両手の棘が伸びても当たらないだろう位置まで動かした。

 本番では、その何もない空間に奈々未の棘がある。

 じっと真正面から舞を見ていた七瀬は、刀を両手に持ち、奈々未を見下ろすように立つ。

 奈々未は目を閉じている。

 この刀を振り下ろし、棘を切り落とせば奈々未は前かがみに崩れ、落ちた棘を拾い白石に渡す――そのイメージが七瀬には出来なかった。

 深呼吸をし、両手に力を込める。

「失礼します! 衣装が出来ました」

 かりんの声に続いて「そこまで!」と先生の声がした。

 その一言で全員の緊張が解ける。

 七瀬は刀を下ろし、ため息をついた。

 かりんを先頭に、採寸のときにいた少女たちが段ボール箱を抱えて体育館に入って来る。

「まっちゅんが最初に着る!」

 舞の稽古を放り出して松村が走って行くと、それにつられて白石や衛藤も走り出した。七瀬は視界の端で奈々未が動いたのを確認し、刀を鞘に戻して壁際に寝かせた。

「それぞれ着替えて、ちゃんと出来上がっているか確認しなさい。それから深幸高校の君たちも、もう今日は終わりだから、帰りなさい」

 先生が片づけについてかりんに指示し体育館から出て行く。

 七瀬はひとり壁にもたれ掛っていた。

 各々が着替え始め、体育館が一気に騒がしくなる。

 七瀬の所へみり愛が衣装を抱えて走って来た。

「良い色ですよ!」

 鮮やかな水色と紺色の衣装が揺れている。

「ありがと」

 衣装を受け取り、目の前に広げる。その向こうではみり愛が笑顔を向けている。

「えっと、じゃあ手伝ってくれる?」

「はい!」

 汗をかいていたのでTシャツはそのままに、上から水色の長襦袢を羽織る。

「次はこれです。そのまま着ちゃってください」

 渡された紺色の上着を羽織り「右前です…そうそっちです」とみり愛の言葉に従う。

「それから袴です」

「弓道着とかみたい」

「そうですね。似てますけど、これ帯が面倒なんですよね。あとこの袴も」

 水色の布は腰から足首まで隠れる長さがあり、それとは別に、襞の付けられた帯とも何とも言えない二種類の布があった。どう組み合わさっているのか分からないが、何箇所かで繋がっていて、みり愛は器用に揃えて七瀬に片側を持つように言った。

「まず広い方の端を腰の右側にあててください」

 そのままみり愛が袴を持って七瀬を中心に周る。

「この紐を結んで留めます」

 袴が腰に安定する。

「で、次にこっち…『飾り袴』って私たちは呼んでます。正式名称は知らないです」

 そう言って、またみり愛が襞の付いた布を持って七瀬の周りを歩く。すると、燕尾服のように『飾り袴』が垂れ下がった。

「ここにスリットがあるので、そこをひっかけるようにこの紐で結んで…」

 七瀬には『飾り袴』の仕組みがどうなっているのかよく分からないが、みり愛は淀みなく仕上げて行った。

「よし」

 みり愛が少し離れた所から七瀬を眺める。

 七瀬の腰の両側に無数の帯が垂れ下がっている(ように見える)『飾り袴』と呼ばれるに相応しい飾りが出来上がっていた。

「それで、この細い帯でたすき掛けにするんです」

 背中側に回ったみり愛が、帯の結び目に最後の力を込めたとき、七瀬は気の引き締まる思いがした。

「良い! 良いですよ七瀬さん!」

 みり愛が声を上げる。

 遠くから「なぁちゃん似合ってる!」と声が聞こえた。

「ありがと…ひとりで着られるかな」

「いつでも手伝いますよ」

 みり愛が色々な角度から七瀬を眺める。

「七瀬さん、ちょっと眼鏡を取ってもらって良いですか?」

 七瀬は眼鏡を外し、みり愛を見た。

「うぉあ…写真撮りたい…」

「やめてよ」

 七瀬は眼鏡を掛け直し、遠くで着替えているみんなを見た。

 その中に、ひときわ鮮やかな赤い衣装を纏っている奈々未が見えた。奈々未は金色の頭飾りも付けていて、手には切紙を持っていた。

「奈々未さん綺麗ですよね…あの切紙を、頭の飾りの角の部分に引っ掛けるんですよ」

「へぇ…」

 七瀬は切紙の使い方に驚いた。

「奈々未さーん! 綺麗ですよー!」

 みり愛が大声で伝える。

 その声に反応して奈々未はみり愛の方に身体を向け、持っていた切紙を角に引っ掛けた。

 耳の少し上から突き出た角から吊り下げられた切紙は、奈々未の顔のほとんどを隠す。七瀬はその姿が少し怖かった。

 奈々未はみり愛を見ているはずだったが、切紙に隠れた目が本当にみり愛を見ているのか分からない。七瀬の前にいたみり愛は、すでに奈々未から視線を外し、今は白石に向かって何か喋っている。

 それでも、奈々未は向きを変えずに七瀬の方を向いていた。

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いよいよ舞の練習に入りましたね。
伝統行事に駆り出される若い人の描写が本当に厳しい部活みたいで微笑ましいです。
そして一貫して流れる「棘人」という不思議な存在、そしてこの舞の意味を考えさせられます(*´`*)

大久保珠恵

2018/8/13

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