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せめて祈るくらいは(あるいはM-BOX提案書) 完結

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おめでとう、ありがとう、さようなら、そういった気持ちとともに音楽を贈るのが主流の世の中だったら。
何もできないから、せめて祈る。
この曲を、餞にして。

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「サワ!時間!」

 下階から母親に呼ばれた女性は「わかってる!」と大声で返事を返しながら、まだ自室に留まったままだ。

 すっかり片付けが済んで静まり返った部屋を一瞥した彼女は薄くほほ笑むと、茶色いボストンバックを手にして階段を駆け下りた。

 

 駅のホームに電車が滑り込んでくる。

 

 家族はそれぞれに仕事や学校があるので、ここからは一人だ。

 

 むしろそのほうが良かったかもしれない。育った地と覚悟を決めて決別できる。

 

 いつも遠出する時に乗っていた銀色の鈍行が今日ばかりは見知らぬ乗り物に見えた。

 

 電車と駅のホームのほんの数センチの隙間がまるで境界線のようだ。

 

 佐知は小さな、大いなる一歩を踏み出してついにその境界を踏み越えた。

 

 『サワ、これ』

 

 そう言って言葉少なに差し出された女の子のシルエットをかたどったキーホルダー。

 

 黒いシルエットからでもワンピースの裾がはためいているのがわかる。

 

 家が近所の幼馴染からもらったもので、初めて打ち明けた時から彼は佐知の夢を変わらず応援してくれていた。

 

 佐知はポケットから取り出したキーホルダーを眺める。

 

 『お守りに』とくれたが、どういう意味だろう。

 

 そんなこと考えている間にも車窓からの景色はどんどん過ぎ去っていき、早々には戻れない旅路に踏み込んでしまったことを彼女にありありと感じさせた。

 

 ふと、キーホルダーを弄んでいるうちに佐知はあることに気がついた。

 

 女の子のスカートに差し込み口があるのだ。

 

 よく見てみると、見れば見るほどイヤフォンの差し込み口に見えてくる。

 

 もしかして。

 

 彼女は手持ちのイヤフォンを取り出してはめ込んでみる。

 差し込み口の隣にはまるで佐知が気付くのを待っていたように、小さなボタンがあり、気が付いた時にはそのボタンに触れていた。

 やがて、イヤフォンを通して、厳かにドラムのビートと転がるようなギターの音色が響く。

 

 続いてハスキーな女性の声が歌い出す。

 

 一瞬、風が吹いたような気がした。新鮮で涼やかな風が。

 

 その時、ふいに佐知の目の前に一人の少女が現れた。

 

 赤いワンピースに赤茶色の髪を肩まで垂らしている。切れ長の目が鋭い。

 

 可愛らしいというよりはクールで美しい凛とした佇まいの少女だ。

 

 彼女は何も言わずに佐知の隣に腰かけた。

 

 旅立ちに不安いっぱいの佐知の隣で、彼女は涼しい顔をして座っている。

 

 足なんか組んで、電車の中には風などないはずなのに、彼女の髪は美しくなびいていた。

 

 

 それ以来、彼女はずっと佐知の傍にいた。

 

 異国の地で言葉がわからず右往左往する佐知の横で、ワンピースの裾をはためかせながら悠然と歩く彼女。

 

 なんとか見つけたアルバイト先でも失敗続きの中、狭い部屋で突っ伏して眠る佐知の隣で、ベッドに腰掛けて足をぶらぶらさせている彼女。

 

 机にかじりついて勉強する佐和の手元を興味深そうに覗き込む彼女。

 

 所在なくカフェの一席で頬杖を付く佐和の差し向かいで気ままに歌う彼女。

 

 やがて打ち解けた友人たちと笑い合う佐和の傍で薄い笑みを浮かべる彼女。

 

 いつも彼女の周りには自由な風が吹いていた。

 

 誰にもコントロールされない。誰に否定されても見失わない意志の強さを彼女から感じる。

 

 彼女の周りで拭く涼やかな風に佐知は焦がれた。

 なりたい自分の姿を彼女に重ねていた。

 

 右往左往した挙句に、突っ伏して眠った後に、憂鬱に頬杖を付いた後に、いつも彼女の存在が佐知を鼓舞した。

 

 彼女のように涼やかに、私は私を見失わないでいようと。

 

 

 一年後、銀色の鈍行が田舎の駅に滑り込む。

 

 降り立ったのは茶色いボストンバックを片手に下げた水色のワンピースを纏った女性。

 

 「サワ」

 

 彼女の姿にホームの先で手を振るのは一人の青年だった。

 

 佐知は彼の元に駆け寄ると、晴れやかな笑顔でポケットから何かを取り出す。

 

 「これ、ありがとう」

 

 佐知が取り出したのはやや色あせた女の子の黒いシルエット。

 

 「ずっと、傍にいてくれたの」

 

 彼女はそう言ってほほ笑む。

 

 『大切な人の傍に。M―BOX』

 

 

 「わー。やっぱ刹那ちゃんかわいー」

 

 店頭の液晶画面で流れていたCMが終わると同時に、後方から弾けるような明るい声が耳に飛び込んでくる。

 

 思わず声がしたほうに視線をやると、女子高生が二人で楽しげに笑っている。

 

 CMに出ていた気鋭のモデルを褒め称えている様子だ。

 

 彗星のごとく現れたミステリアスな雰囲気が人気の埜崎刹那である。

 

 やはり彼女を「音楽」に見立てる演出が正解だったらしい。

 

 BOXから流れてきた音符が埜崎刹那に成り代わり、一人異国の地で奮闘する女性の傍に寄り添うというストーリー展開のCMになっている。

 今回のプロモーション映像は特に内外から評価が高く、シリーズ化しようという動きがあるくらいだ。

 

 彼が再びCMを流し始めた液晶画面を眺める傍で、一頻りそのモデルを褒めちぎった女子高生2人はそのまま「M―BOXバー」の店内に足を踏み入れていった。

 

 M―BOXとは、掌サイズほどの小型音楽再生ケースに収めた楽曲をどこでも自由に再生できるという代物である。

 

 収める楽曲はユーザーが自由に選ぶことができるため、贈り物に添えるのがちょっとしたブームになっている。

 専用の再生ケースに収められるのは1曲のみだが、『思いの丈を一曲に』というコンセプトの元、若い女性を中心にプレゼントに添えて贈るのが流行し、数年前から専用の店舗が構えられるようになった。

 

 元々、誕生日や結婚式などのお祝い事に、お礼や激励の気持ちを好きな曲に託して相手に渡すという使い方が主流として始まったサービスだが、最近では新進気鋭の若手女優がM―BOXを手渡して好きな男の子に告白するというCMが放映され、以来ユーザーによって使い方は多様化している。

 女子高生2人が足を踏み入れたのは駅の中にあるショップなので、通路からそのまま店内に足を踏み入れることができる仕様だ。

 

 店内には他に二組ほどが、液晶画面と連動したイヤフォンで曲を選んだり、曲を収めるボックスを吟味したりしていた。

 

 特に何がというわけではないが、彼は思わずその女子高生の後に吸い込まれるように店内に足を踏み入れていた。

 

 スタッフは既に接客中だ。平日の昼間だからか他のスタッフはいないようで、店内に入ったからといって誰も声をかけてはこない。

 

 とくに見るともなしにあらゆる形のボックスを眺める。

 

 店の真ん中に円柱があり、その周り三方向に液晶画面に加えて画面と連動したイヤフォン・ヘッドフォンが設えてあり、自由に曲を視聴できるようになっている。

 

 店の壁には大小様々な形・大きさの曲を収めるための所謂ボックスがあり、その中から好きな物を選ぶ仕組みだ。

 

 卒業シーズンには桜の花弁を模したもの、ウェディングには華やかな花束を模した物、誕生日用にケーキやろうそくを模した形のものなど、定番は様々あるが、その時々で流行があり、商品は定期的に入れ替えられる。

 

 店中央の液晶画面が空いていることに気が付いて、彼はそちらに歩み寄った。

 

 せっかくなので何かの曲を試聴してみようと思うが、試聴機器の機材が最近になって一新されたばかりで少々手間取る。

 

 少し前までは試聴機器が一律イヤフォンに統一されていたのだが、最近はユーザーの好みでヘッドフォンとイヤフォンを選択できるようになったのだ。

 

 「ここだよ。ここ押すの」

 

 操作がスムーズに行かずに首を左右に振っていると、隣のブースから溌剌とした声が降りかかってきた。

 

 視線をやると先ほど店先で話をしていた女子高生の2人組である。

 

 曲を決めている最中らしく、二人で窮屈そうに、かつ楽しげに試聴用ブースに身体を押し込めている。

 

 頭の高いところで艶やかな黒髪をポニーテールにした女の子が指さしで手順を教えてくれた。

 

 彼が戸惑っているのを見て声を掛けてくれたものらしい。

 

 「ありがとう」

 

 彼が礼を言って彼女の言う通り操作すると、ちゃんと曲を試聴することができた。

 

 試聴を終え、操作を終了しようとしたところでまた戸惑う。

 

 誰にでもわかりやすいように改善せねばと彼は頭の片隅で考えながら、まごついていると「終わる時はそっちの画面」とまたも先ほどと同じ声が降って来た。

 

 「ああ、ありがとう」

 

 彼が無事に操作を終えて彼女たちに礼を言うと、2人は興味津々といった様子でこちらを見つめている。

 

 「おじさん、M―BOX初めてなの?」

 

 またもポニーテールのほうが質問を繰り出してくる。

 

 活発なタイプらしく、勝気そうな目が店内の照明に反射して輝いている。若々しい。

 

 「いや、うん」

 

 「おじさんみたいな人って珍しいもん」

 

 彼が肯定とも否定ともしかねる回答を返すより早く、今度はポニーテールの相方たるパーマがかった黒髪をロングに垂らした少女が物珍しさを軽やかに指摘する。

 

 確かに若い層の利用が多いM―BOXでは彼のような壮年の親父は物珍しいに違いない。

 

 「誰かへのプレゼント?手伝いましょうか」

 

 「お店の人忙しそうだし」

 

 うんうん、と活発な2人組は頷き合い、彼女たち同士で勝手に話を進めてしまう。

 

 彼がM―BOX初心者で困っていると思ったらしい。

 

 確かにM―BOXは誰かへのプレゼントが圧倒的な利用方法なので、彼女たちがそう言うのも頷ける。

 

 「曲は決まってるの?」

 

 ロング髪の少女が彼の目の前にある画面を指さす。

 

 「ボックスはどうする?」

 

 ボニーテールの彼女が続いて壁面を指さす。

 

 あれよあれよという間に彼は女子高生二人組によって曲を選ばされ、曲の入れ物たるボックスを選ばされ、ついでにラッピングにまでアドバイスをいただき、すっかり贈り物を完成させられてしまった。

 

 ちなみに彼が咄嗟の思い付きで口走ったのはベタだが、「妻への結婚記念日のプレゼントに」だ。

 

 「うわー、気障じゃない?すごい」

 

 「本当にそういう人いるんだ?うちのお父さんなんて、そんなん想像できないよ」

 

 2人は彼の捻りだした咄嗟の嘘に一頻り盛り上がった後、自分たちの手配はそっちのけで店内を回ってくれた。

 

 「絶対バラがいいよ!」

 

 「いや、ここは思い切ってハートくらいわかりやすいほうが」

 

 仕舞いには彼をそっちのけで曲を入れるボックスを何にするか、二人で意見を激突させる始末だ。

 

 しかもモチーフもさることながら、配色も派手なものを指さしている。

 

 彼としてはいい歳をしてどちらも恥ずかしいので勘弁願いたかったが、女性はそれくらいが嬉しいはずだと二人とも譲らない。

 

 果てはオプションでラインストーンを付けたらどうか、私たちがデコレーションしてあげると言われ、これ以上派手にされては困ると、彼は泣く泣く折れて花束の仕様を選択することになった。

 

 「はは、ありがとう。おかげで良いプレゼントができた」

 

 出来上がった花束モチーフを掲げながら、彼は二人組に礼を言う。

 

 「いいって。こちらこそ、結構楽しかったし」

 

 「絶対、奥さん喜ぶよ」

 

 彼女たちも楽しかったという言葉に嘘はない様子なので、それで良しとする。

 

 「そういえば、お二人さんもボックス作りに来たんだろうに、すっかり付き合わせてしまって」

 

 彼が今更ながら謝ると、彼女たちは「いいって、いいって」と鷹揚に手を振って見せる。

 

 「私たちはプレゼントとはちょっと違うんだよね」

 

 「というと?」

 

 つい好奇心を刺激されて尋ねると彼女たちは得意げに笑って見せる。

 

 「もうすぐ高校卒業だから、今一番好きな曲を選んでBOXに入れて、タイムカプセルみたいに地面に埋めるの。今、結構流行ってる」

 

 「10年後に開けようって約束してるんだよねー。未来の自分に贈る曲を選ぶの」

 

 彼女たちは何てことないことのようにきゃっきゃと笑っているが、彼には衝撃だった。

 

 未来の自分へ贈る。そんな使い方が。

 

 彼にしてみれば思いつくはずもないアイディアで、つくづく人によって用途は無限だと感嘆する。

 

 「それは、それはいいね」

 

 思わず言葉に詰まった彼は小さな呟きしか彼女たちに返せなかったが、それでも彼女たちは「いいでしょ」と得意そうに笑っている。

 

 「十年後の自分に宛てた曲か。それは大事な選択だ」

 

 「そうなの。私は、曲はもう決めてあるんだけど、BOXがね、悩んでる」

 

 ロング髪の彼女が壁面を見回す。

 

 そんな彼女たちを横目に頭の中では勝手にイメージが湧き上がってくる。

 

 どこかの空き地だろうか。地面に掘った穴から石ころを取り出す女性。

 

 何の変哲もない石ころかと思いきや、イヤフォンを差し込むと音楽が流れ出す。

 

 それは10年前の彼女自身が自分に宛てたタイムカプセルなのだ。

 

 懐かしい大切な曲を聴いて、空を仰ぐ女性。

 

 彼には頭の中で広がり続けるイメージが光り輝いているような気がした。

 

 「お願いだ。さっきの話だけど、タイムカプセルの。次の宣伝に使わせてもらえないかな。このM―BOXの宣伝に」

 

 気が急いた彼が早口で言い募ると、彼女たち二人の表情が固まった。

 

 「何言ってんの、おじさん」

 

 真顔で返されて怯むが、彼は気力で言葉を繋ぐ。

 

 「信じてもらえないだろうけど、僕がこのM―BOXの開発者なんだ」

 

 勢い込んで言葉にするも、彼女たちの反応はあまり変わらない。

 

 「だって、さっき、おじさん使い方全然わかってなかったじゃん」

 

 ロング髪の彼女に痛いところを突かれ、彼は顔をしかめる。

 

 どうやら二人が引っかかっているのはそこらしい。

 

 「それは、店頭で操作するのが久しぶりだったからで」

 

 言い募れば言い募るほど言い訳のように聞こえて、彼はじれったく思う。

 

 「そうだ。これを」

 

 ひらめいたと言わんばかりに彼は懐から名刺入れを取り出し、中の一枚を彼女たちに差し出す。

 

 まじまじとそれを見つけた彼女たちは「え!マジ!」と目を真ん丸にさせた。

 

 そのリアクションに乗って言葉を尽くして説明するうちに、MーBOXのアイディアを生み出したのが自分だということを彼は説明してしまっている。

 そこまで説明してようやく彼女たちは半信半疑ながらも信じてくれたらしく、「え、そもそもこのアイディアってどうやって思いついたんですか?」と急にかしこまって尋ねられた。

 

 ポニーテールの彼女が発した問いだが、その相棒も彼の回答を待っている気配だ。

 

 「うーん」と彼は一度唸る。

 

 元々M―BOXを作ったきっかけは大変個人的な思いのためで、起源を尋ねられるといつも回答に迷ってしまう。

 

 「祈りたくてね」

 

 ふっと彼は微笑する。

 

 「知り合いが遠くに行ってしまうとわかったときに、祈りを託したくて作ったんだ。それしかできることがなかったから」

 

 

 

 「今日は早かったんですね」

 

 野菜炒めの味付けに頭を悩ませていると、帰宅した妻が驚いたように目を見張っている。

 

 「今日は外出先から直帰したんだ」

 

 彼は説明すると「そう」と彼女は笑って見せる。笑うと目じりに皺が寄る。

 

 相応に歳を取っているが、彼女にはやはり凛とした上品さがあり、こんな時には自分もあまり老け込んでばかりはいられないなとふいに姿勢を正したくなる。

 

 そんなことを彼女に言っても、彼女は笑って済ますだけだろうが。

 

 彼女は外国語が堪能なので、歳を重ねるごとに引く手あまたに拍車がかかる一方だ。

 

 彼らが若い頃は留学などまだあまり馴染のない単語だったが、彼女には先見の明があったのだろう。

 あっという間にグローバル化が進み、その波は止まることを知らない。

 

 「そっちこそ、いつもよりは早いようだけど」

 

 「まあ、一応ね」

 

 彼が指摘してみせると、彼女は優雅にほほ笑んでみせる。

 

 一応は日付への想いはあったらしい。彼とて同じ理由での早めの帰宅なので何も言えない。

 

 早めに帰れたので夕食のおかずをと台所に立っているが、彼女にしても彼が早めに帰った理由はわかっているはずだ。

 

 お互いに核心には触れずにやり過ごすところに、彼女と過ごしてきた長い年月を思う。

 

 「そうだ」

 

 彼は一度調理の手を止めて、通勤に使っている鞄を置いた部屋に引っこむ。

 

 「これを」

 

 そう言って彼女に差し出したのはあまりにらしくない、ピンク色のラッピング。

 

 渡してしまってからはもう彼女の反応を見られずに、彼はそそくさとキッチンに戻る。

 

 「あら、なあに」

 

 彼女はあくまでマイペースにラッピングを受け取り、首をかしげている。

 

 そのままラッピングを解いているガサガサという音だけが彼の耳に届く。

 

 「あらぁ」

 

 恐らく包まれていた物に辿り着いた彼女の声が、明るく弾んだことでようやく彼は人心地をつくことができた。

 

 「どうしたの、これ。こんな可愛いケース」

 

 彼女が容赦なくキッチンに侵入してきて、今しがた手にしたばかりの贈り物を彼の視界に入れてくる。

 

 やはりそれはどう見ても年齢にそぐわない。

 

 鮮やかな色合いの花束をモチーフにしたM―BOXである。

 

 「それには理由が」

 

 意を決して彼が説明しようと振り向いたのと、彼女がイヤフォンをそのBOXに取りつけたのは同時だった。

 

 彼女の耳にイヤフォンを収まるのを見届けることになった彼は諦めて口をつぐむ。

 

 仕方なく、炒めものの仕上げにかかることにする。

 

 塩コショウを振って味見をしてみるが、美味いのかどうなのか彼にはよくわからなかった。

 

 「珍しい。こんな曲を選ぶなんて」

 

 一通り聴き終えたらしい彼女が意外そうな笑みを浮かべながら、またもキッチンに侵入してくる。

 

 「実は今日店に視察に行ったんだけど、偶然出会った女子高生の2人組にその曲がおすすめだと言われてね」

 

 女子高生たちに咄嗟に吐いた嘘は全てが嘘ではない。

 

 M―BOXをプレゼントする予定はなかったが、結婚記念日は事実だ。

 

 ポップな色合いの花束に収められているその曲は最近流行りのバンドの珠玉のラブソングとのことだった。

 

 『超いい曲。壮大だし』『そうそう。大人の人のほうが逆に合いそう。私たちにはまだわからない領域の話だもん』と、彼女たちはしきりのその曲を勧めてくれた。

 

 うっとりと彼女たちはその曲への憧れを語っており、その様がなんとなくいじましく可愛らしかったのである。

 

 彼女たちが憧れる先の地点に自分たちはいるのだろうかと思うと、それはなんとなく愉快でもあった。長く連れ添うことにこうも憧れを抱いてくれるなど。

 

 「良い曲ね」

 

 「うん」

 

 結局、勧めてくれた女子高生たちの熱の入れようから断りづらくなって試聴してみたところ、これが非常に気迫の籠った美しい曲で気に入ったのだ。

 知らない曲を知っていく楽しさを久々に思い出すことができた。

 

 あの二人組にはつくづく感謝だ。

 

 彼女は総じてその贈り物を喜んでくれたようだった。

 

 女子高生たちとの出会いはそれだけで楽しいエピソードで、いくつもの貴重なアイディアを彼にもたらしてくれた目から鱗が落ちる話でもあるので、その一部始終を嬉々として彼女に話して聞かせる。

 

 女子高生たちのペースに押されてまごついている様子が目に浮かんだのか、彼女は終始大笑いである。

 

 一頻り笑った後、彼女はふと感慨深げに呟く。

 

 「ねえ、今でこそ贈り物にM―BOXなんて、結構王道になったけど、これを初めてプレゼントしてもらったのは私だと思うとたまに不思議な気持ちになるの」

 

 M―BOXの開発者は彼だが、その初号とも言えない試作品を贈った相手は何を隠そう彼女なのだ。

 

 むしろ彼女に贈りたくてM―BOXを作ったとも言えるのだが、彼は何となく彼女にこの事実を打ち明けられないままここまで来ている。

 

 

 自分には何もない。

 

 それが彼の自己評価だった。

 

 元来が取り得のない子どもだった。運動などからきしで、勉強は全てができないわけではないが出来るものとできないものの落差があり過ぎる。

 

 口下手で気持ちを伝えるのも苦手で、その影響で人付き合いも苦手を早くから自認していた。

 

 一方の彼女と言えば、見目麗しく、育ちの良さと元来の人柄の良さが相まって、才色兼備の才女だ。

 明るい人柄は人を引きつけて止まない。運動もそれなりにできたが勉学、特に語学に長けていて、大学進学の折にはついに留学へこぎつけた。

 彼と彼女は家が近所の関係で昔からの知り合いだが、彼のほうはあまりに彼女が向かうところ敵なしなので、話しかけるのも遠慮したくらいだ。

 

 しかし彼女はそんなことを気にする素振りもないので、2人の距離は幸いにして開きもせず、ただ縮まりもせずに互いに大学生になった。

 

 ここで転機は訪れる。

 

 彼女が留学すると聞いた時、彼はまずいと思った。

 

 2人は当然別の大学に通っていたのだが、彼女を狙う男はそここにいると聞く。それはそうだろう。

 

 そんな彼女が一年もの間、この国を離れるとあれば、自分など忘れられてしまうのではないか。

 

 これまで昔馴染という関係に甘えて、自分からはろくろく話しかけもしないくせに、彼女からのアクションをいつも待っていた。

 

 単に情けないだけの野郎だが、これが今生の別れになるかもしれないのだ。

 

 今ここで、想いの丈を伝えるべきか。

 

 彼女が外国へ行くことを彼女の両親は随分と反対したとも聞いた。

 

 それを説き伏せての出発だというから、彼女も心細かろう。

 

 彼女が向こうでも、どこでも伸び伸びと過ごせたらいい。

 

 これが彼女との別離になるのだとしても、とにかく彼女が無事に日々を送ってくれたらいい。

 

 色々な想いがないまぜになって、彼は混乱した。

 

 しかし彼女にどんな想いも伝える術はないのだと彼は知っていた。

 

 この口下手な自分が仮に彼女を前にしたとして、満足に言葉を伝えられるはずがない。

 

 ただ、彼女の前途を祈る者としては、何か。

 

 彼はある日思いつく。それはお気に入りの曲を聴いていた時だった。

 

 そうだ。例えば、この曲を聴いているとよく彼女を思い出す。

 

 彼女に、この曲のように想っていると伝えられたら。

 

 彼はそこで思案する。

 

 自分には何もないと思っていた彼が唯一、これなら人より少しは得意と言えるかもしれないと言えることが機械いじりだった。その特徴を活かして、彼は工学系の大学に通っていたのである。

 

 「ああ、どうしたら」

 

 「まだ言っているのか。いい加減にしてくれよ」

 

 研究室なる大学の機械いじり専用の部屋で、彼がうなっている様子を迷惑そうに眺めているのは彼の友人である。

 

 「ようやく試作品と呼べるものが完成したのに、肝心の一曲を決めあぐねるなんて。彼女の出発はもう明後日だというのに」

 

 彼は頭を抱える。

 

 「それはもう、はっきりと想いの丈を伝えればどうだ」

 

 「いや」

 

 「なぜだ」

 

 「もちろんそういう選択肢もあるにはあるが、彼女の前途を祈ることのほうが大事だという気もしている」

 

 恐らく彼女に何かを伝えるのはこれが最初で最後だろう。

 

 もちろん彼女が音楽に託した試作品を聴いてくれるかわからないが、ただこれきり彼女と話をすることは遠くないのだ。

 

 だからこそ彼は迷っていた。

 

 想いの丈を伝えるのか。彼女の前途を祈るに留めるか。

 

 「いや、決めた」

 

 彼はやがて顔を上げると、試作品の仕上げにかかる。

 

 彼女がどこに行ったとしても心は自由にいられたらいい。彼女が無事であればいい。

 

 彼女の日常が誰にも潰されたりしないように、彼女が自由に泣いたり笑ったりできるように、できれば彼女の傍には優しい誰かがいるように。

 

 もう二度と会えない覚悟でいいから、彼女の前途を祈ろう。

 

 彼女の出発の前日、彼は彼女にその試作品を渡しに行った。

 

 モチーフはプラスチックを溶かして象った木の葉だ。

 

 本当は幸せを呼ぶ意味合いで四葉のクローバーにでもしたかったのだが、そこまでの技術がなかった。

 

 手先の器用な友人に頼んでも良かったが、自分で手作りするのが筋だと思った。

 

 「お守りに」

 

 あれだけ悩んだのに、結局それだけを告げるのが精いっぱいだった。

 

 事実、お守りのつもりだったし、確かに彼女への未練でもあった。

 

 そして彼女の前途への祈りだったのだ。

 

 どういう意図で作った代物かを説明し忘れていたことに気が付いたのは彼女が旅立った後のことだった。

 

 

 彼としては心に仕舞って置こうと決めた出来事だったが、彼女は一年後に帰国し、やがて彼の前に現れた。

 

 奇跡的に彼女は彼の意図に気づいたのだという。

 

 「この曲に何度も助けられた。ありがとう」

 

 彼女はそう言って笑ったのだった。

 

 あの女子高生二人組が見入っていたCMは実は実話に近い。

 

 宣伝のアイディアを求められた際に咄嗟に口走った内容があれよという間にそのまま使われた形だ。

 無論、恥ずかしいので実話であるという点は誰にも伏せてある。

 

 

 「口下手で良かったと思うの」

 

 ワインで乾杯して、料理を口に運びながら、彼女がほほ笑む。

 

 彼が視線で発言の真意を問うと、彼女がテーブルに置いたままだったカラフルな色の花束モチーフにちらりと視線をやる。

 

 「仮にあなたが口下手ではなくて、何でも自分の言葉で伝えられる人だったら、この技術は生まれなかったわけでしょ。恐らくは」

 

 そういうことか、と彼は頷く。

 

 確かに、もしも自分が彼女に自身の言葉で想いを伝えられたのであれば、こういった周りくどい祈りを物になど託さなかったに違いない。

 

 「あの時、嬉しかった。言葉はなかったけど、応援してもらってる気がした。ほら、全ての人に賛成されて行ったわけじゃなかったし」

 

 当時を思い出したのか少し寂しそうに彼女が笑う。

 

 彼女の言葉で今さらながら、自分の未練交じりの祈りがひっそりと届いていたことを知る。

 

 「あなたが口下手だったおかげで、この技術を持ってして、色んな人が自分の想いを、言い切れない想いを相手に贈っている。思いもよらなかった活用方法も生まれてる」

 

 彼女が愉快そうに笑う。

 

 「何が役に立つかわからないものだよね」

 

 そうだねと彼は笑う。

 

 例えば情けないほどにひそかな未練も、無用に思えるほどに水面下の祈りも、何が役に立つかはわからない。

 

 

 「あの時のおじさん、本物だったんだね」

 

 穂香にそう声を掛けられた時、瑞希は一瞬何のことだかわからなかった。

 

 「ほら、M―BOXのCM」

 

 じれったそうに言葉を重ねられて、やっと彼女が何を言いたいか理解する。

 

 以前、穂香とM―BOXバーに行った時に話をしたおじさんのことだろう。

 

 ただCMと言われても瑞希はピンとこない。

 

 「CMって?」

 

 「見てないの⁉タイムカプセル編って放送されてたから、瑞希に言わなくちゃと思ってたんだけど!」

 

 「嘘。本当に?」

 

 驚いた拍子に瑞希のポニーテールが揺れる。

 

 目を見開いたまま、瑞希はそう言えばここ最近はアルバイトが忙しくてテレビを全然見ていなかったのだと思い当たる。卒業間近、追い込みでシフトを詰め込んでいたのだ。

 

 高校卒業というイベントを前にしてタイムカプセルとして埋めるM―BOXを店舗に作りに行ったのが随分前のことに感じる。実際、目的のタイムカプセルは既に作り終えて、部室棟前の地面の中だ。

 

 「帰ったら見てみて」

 

 「見るってテレビで?今日、バイトなんだけど」

 

 番組ならまだわかるが、テレビでCMを狙い打つのは難しい。

 

 「テレビでもネットでも何でもいいから!」

 

 穂香に押し切られて頷きながら、2人は校舎の前で立ち止まる。

 

 穂香はバスで、瑞希は電車帰宅である。

 

 いつもは校舎前で手を降って別れる二人だが、この日は示し合わせたようにお互い向かい合って立っている。

 

 「明日も明後日もずっと、こうやって変わらないで話してそうなのにね」

 

 「本当。でも、こうやって話すことも後、何回もないなんてね」

 

 2人は微笑を浮かべる。お互いの表情に一抹の寂しさがよぎったことを互いが感じる。

 

 「私は社交辞令じゃないから。絶対春からも会おうね」

 

 穂香が髪を揺らしながら、真剣な目をする。

 

 瑞希は意外にも強いその目に射抜かれながら、心の底が温かくなる。

 

 こういった、彼女の真剣さの使いどころを間違わないところを清々しく感じる。

 

 言葉に真実味があるところが好きだと思う。

 

 辛うじて、他の友人枠に収めている面々とは違うと感じるところだ。

 

 「わかってる。ありがとう」

 

 瑞希が深く頷くと穂香は安心しように笑う。夏の太陽みたいな明るくて屈託のない笑みだ。

 

 それからようやく2人は手を降って別れる。残り少ない明日を約束して。

 

 

 アルバイト先の休憩室に入ると、狙い通り彼が一人で座っていた。

 

 高校生活で2年弱続けたファーストフード店でのアルバイトも残すところ数回の出勤だ。

 

 大学生と高校生を合わせて数人のアルバイトマンがいるので、顔を合わすメンバーは都度違う。

 

 彼、一つ年下の深森真弥とシフトが被るのはこれが最後だ。

 

 「お疲れ様です」と深森真弥が軽い会釈を寄越してくる。

 

 あちらは今日が顔を合わせるのは最後だと気づいているのか、いつもどおりの反応である。

 

 ただ少しだけ伏し目がちで目が合わない。

 

 瑞希は休憩室の壁に吊るされた壁掛け時計を睨む。この時間に休憩に入るのは二人だけのはずだ。

 

 「深森君。これ、もらって」

 

 空いた椅子に乱暴に腰かけると、瑞希はその勢いのまま自分のカバンから掌サイズのシンプルな白いサイコロ型を差し出す。

 

 「バイトでお世話になったから、お礼」

 

 早口で説明しながら、彼の手に白いサイコロを押し付ける。

 

 「え、わざわざどうも。これ、M―BOXですか?」

 

 深森真弥はやや面喰った様子で掌の四角い形を眺めている。

 

 「曲はあんまり有名じゃないんだけど。なんとなく。形もあんまり何かに限定したくなくって、凝ってなくてごめんね」

 「いえいえ」と瑞希の謝罪に対して条件反射のように首を振りながら、深森真弥はあまりこちらを見ようとしない。

 この間のことを気にしているのだ、瑞希はそう思って一人顔を歪める。

 

 M―BOXを贈ったからと言って、瑞希は深森真弥にそういった特別な感情を抱いているわけではない。

 

 元々、深森真弥が新入りとして現れた時に指導係を任されたのが瑞希である。

 

 何かが優れているといった理由ではなく、単に仕事歴が長いからというのが抜擢理由だったが、抜擢されたからには仕方ないので、瑞希は細々仕事を教えた。

 

 何せ深森真弥は無口なのでこちらの説明を理解したのか、していないのか判断しかねるところがある。

 そのため質問はないか、わからないことはないかと何度も確認しつつあらかた手順を伝えた形だ。

 

 そんな瑞希でも雑談などできる気軽な仲にはないので、彼はそういう人なのだろうと考えることにしていた。

 

 瑞希は大学に進んだら地元を離れることを決めていたので、高校生のうちに稼いでおこうとシフトを多めに入れており、深森真弥も「自由に使える金はほしいんで」といった理由でアルバイトに精を出していた。

 

 自然と顔を合わせる機会が多かったが、そのうちに気が合ったとか、打ち解けて仲良くなったとかそういう話でもない。

 

 もちろん深森真弥は仕事を丁寧に淡々とこなすタイプなので、一緒に働くには支障がない相手だ。

 

 ただし、どれだけアルバイトに慣れても、彼が他の仲間と雑談に花を咲かせているような光景は見たことがない。

 

 「何かあったんですか」

 

 そんな深森真弥から、ある時そう声を掛けられて、瑞希は大層驚いた。

 

 彼が仕事外のことでわざわざ話しかけるなど前代未聞のよう思えた上に、隠していたつもりの内面的な落ち込みを見抜かれたことに驚いたのである。

 

 客がいない時間に狙って声を掛けてきたらしく、自然、会話が続いても問題ないタイミングだった。

 

 「どうして?」

 

 あまりに驚いたため尋ね返す言葉は探りを入れるような口調になった。

 

 「いえ、何か元気ないような気がしたんで。いつもより覇気がないというか」

 

 瑞希の探るような口調に気を悪くした風でもなく、深森真弥は意外と鋭い指摘を繰り出してくる。

 

 こういう言葉の使い方をする人物だったのかとまた驚きつつ、瑞希は「ちょっとね」と言葉を濁した。

 

 下手に「何でもない」と言い張るのも面倒で、ただ事情を詳しく説明する相手でもないので言葉を濁すに落ち着いた次第である。

 

 「はあ。まあ、色々ありますよね」

 

 無理やり何か訊き出そうというわけでもなく、適当な言葉で場を繋ぐわけでもなく、深森真弥はそう言って淡々と瑞希の言葉を受け止めた。

 

 その言葉には実感が籠っていて、瑞希は何となくささくれだった心が少しだけほぐれるのを感じた。

 

 いつも無口で何を考えているのかわからないバイトの後輩が野次馬根性ではなく、恐らく純粋に元気がない先輩にわざわざ声を掛けてくれたという事実が少し嬉しい。

 

 だから話す気になったのかもしれない。

 

 「私、留学する気でいるのね」

 

 それは瑞希の今のところの人生の目標である。

 

 アルバイトはいずれその時が来た時の資金にするため、その傍ら語学の勉強も怠らないように自らを律している。

 

 「勉強とかアルバイトとかで忙しいから、あんまり遊びにも行けないんだけど、それも今に始まったことじゃないんだけどね。友だちがちょっとね」

 

 瑞希が高校でいつも一緒にいるのは4・5人の女子たちだが、彼女たちがこぞって瑞希の力の入れ様に首を振るのだ。

 

 「よくやるねー、私なら無理だわー。本当に偉いよね、信じらんないって。無駄な努力みたいに言うのね。学校ではいつも近くにいる人たちだから結構鬱陶しくて、そういう人たちに理解されないと思うと、この先誰ともわかりあえないような気もしてくるし」

 

 最近はその見下し態度が顕著で、消耗している瑞希である。

 

 彼女たちが目に見えてそういう態度なのは恐らく進路を考えるのにリミットの時期だからだろう。

 

 彼女たちなりの焦りや不安があるのかもしれないが、だからと言って他人が大事に持っているろうそくの火に水をかけるように、こちらの気勢をそいでくるのはいかがなものか。

 

 気にしないでいいと思うよと一人言ってくれたのは穂香だけだ。

 

 卒業までは惰性で一緒にいるしかないと諦めているが、穂香以外の面子にはもうあまり自分の話をしたくないと思っている。

 

 「あ、ごめんね。こんな話」

 

 ハッと瑞希が謝ったのと、深森真弥が何か口を開こうとしたのはほとんど同時だった。

 

 しかしそのタイミングで3・4人の集団が来店し、話はそこで立ち消えとなった。

 

 その日の勤務が終わるまで、なぜ深森真弥にそんな話をしてしまったのかと瑞希の頭の中には後悔の念が漂っていた。

 

 「さっきの話なんですけど」

 

 そんな瑞希の後悔をよそに、その日のアルバイト終わりに深森真弥がそう声をかけてきた時にはまたも瑞希は驚いた。

 彼はいつもアルバイトが終わるとさっさと帰るので、それを覆して声をかけてきたことに驚く。

 

 「うん?」

 

 そのせいで、またも尋ね返す口調は探るものになる。

 

 「地球上にどれくらいの人がいると思います?」

 

 その発言に瑞希は思わず目をぱちくりさせた。頭の中で話が繋がらない。

 

 「え?」

 

 「いや、俺も詳しくは知らないんですけど」

 

 深森真弥の返答に瑞希は目を剥いた。

 

 知らないんかいと大声で突っ込みを入れたい気持ちがせり上がるが、彼の話はまだ先があるようなので我慢する。

 

 「きっと何億とかいるじゃないですか。いや、何十億か」

 

 うん、と瑞希が頷く横で深森真弥はふっと上を、天井を見上げる。

 

 地球上のその総数に思いを馳せたような、どことなく厳かな仕草だ。

 

 「だから、近くにいる人に理解されなかったとしても、落胆する必要はないんじゃないですかね。もっと別にいるかもしれないじゃないですか。理解してくれる人が」

 

 深森真弥の言葉に瑞希はさっと温かな風が心を撫でるのを感じる。

 

 気が付くと唇がふっと緩んでいた。

 

 そんな瑞希の横で深森真弥が数え上げるように指を折る。

 

 「それは韓国人の大学生かもしれないし、インド人のおばあさんかもしれないし」

 

 「カナダ人のおじさんかもしれないし?」

 

 瑞希が便乗すると、深森真弥は小さく笑う。そうそう、と彼が頷く。

 

 「可能性は無限ですよ」

 

 その言葉になんとなく、世界が広く明るくなったように感じる。

 

 そうかと瑞希は思う。

 

 その考えは果たして気休めかもしれないが、たまたま近くにいた人に理解されないからと苦しみ続けるよりはよほどいいと瑞希は思う。

 

 

 以来、瑞希は周りから何を言われても少しは聞き流せるようになった。

 

 深森真弥のくれた理論は瑞希のお気に入りだ。

 

 そんなある日、またも深森真弥とシフトが重なり、一緒に仕事をしていると、「あ」とレジに並んだ客が唐突に声をあげた。

 

 「ふかもりー、何だよ。バイト?」

 

 無遠慮に大きい声を挙げたのは同年代の男子だが、短髪は少し茶色く、目つきは鋭い。

 

 明らかにやんちゃそうだ。深森真弥の知り合いらしい。

 

 彼は深森真弥に狙いを定めて、レジに並び直すと「こいつ、同級生」と連れ立って来ていた3人ほどの仲間に大声で叫ぶ。

 

 仲間も総じて柄が良いとは言えず、全員が似たような冷笑を浮かべている。

 

 「俺、頼んでおくから座っててくれよ。ほら、同級生だからさー」

 

 筆頭の彼の言葉に集団が騒がしく笑い、レジ前に立った彼以外は全員がダラダラと歩いて行って店の一角を占拠した。

 

 「じゃあ、注文いいかなあ。ポテトとぉー、コーラとー」

 

 いやに間延びした口調で注文を唱え始めた彼を横目で盗み見ながら、瑞希は不安と苛立ちを覚える。

 

 明らかに深森真弥は嫌悪を浮かべており、一方の彼はというとそれを楽しんでいる雰囲気すら感じるのだ。

 

 深森真弥が無表情を決め込んで値段を告げるが、その客はまだ立ち去る気配を見せない。

 

 「なあ、サービスしてくれよ。つれないなあ。同じクラスだろ。あと、お前似合ってねえなあー、その制服。てか、お前接客とかできんのかよ。普段、めちゃくちゃ小さい声でしか喋らないくせに」

 

 財布をひらひらさせながらレジカウンターに肘を付いているその姿に瑞希の苛立ちは膨らんでいくばかりだ。

 

 「お客様、お次のお客様がお待ちですので!」

 

 タイミングよく入店してくれた客をいつもの2倍の仕草でレジ前へ促しながら、営業スマイルを浮かべると、彼は舌打ちを繰り出しつつ、仕方なしに金を払い、ようやくレジ前から立ち去った。

 

 「あの」

 

 「さっき、すみません」

 

 客が途切れたタイミングで瑞希が声をかけようとすると、それを制するように深森真弥が目を合わせないまま謝罪してくる。

 

 元凶となった深森真弥の同級生一団はしばらく騒がしく談笑していたが、気が付くと店から姿を消していた。

 

 帰りがけにまたレジ付近に絡みにくるかと思ったがそれもなく、幸いだがそれだけに気まぐれで深森真弥に声を掛けたのだとわかる。

 

 深森真弥の態度はそれ以来、堅いものになった。

 

 ああ、と瑞希は思う。

 

 きっと知られたくなかったのだろう。こんな場面を見られたくなかったのに違いないのだ。

 

 深森真弥は恐らく、こうしていびられる自分であることを少なからず恥じている。

 

 

 だから今日、M―BOXを渡しに来た。

 

 悔しかったからだ。

 

 あんな奴らにいびられたからって、そんな自分であることを恥じる必要なんてまるでないのに。

 

 瑞希はそう言いたかった。

 

 でも、彼自身はきっとそう思っていない。

 

 彼がアルバイトに時間を割く理由も、そのくせアルバイト仲間とあまり話さないことも、そういえば学区や彼の家からは離れたこの店をなぜアルバイト先に選んだのかも、全部が腑に落ちる気がしたが、恐らく彼はそれを知られたくなかったのだろう。

 

 この何とも形容しがたい気持ちを伝えるために、瑞希は出鱈目に言葉を繋ぐことにする。

 

 かつて彼が瑞希にくれた言葉を模して。

 

 「ねえ、日本人の平均寿命が何年かってわかる?」

 

 瑞希の渡したM―BOXを不思議そうに眺めている深森真弥にそう声を掛ける。

 

 「え?」

 

 彼がパッと顔を上げる。久しぶりにまともに目が合った気がした。

 

 「まあ、私も詳しくは知らないんだけどね」

 

 「はあ」

 

 深森真弥は話の要領を得られないらしく、ぼんやりとこちらを伺うばかりだ。

 

 「きっと八十とかは優に超えてると思うんだよね」

 

 深森真弥の目が揺れた。いつかの会話を思い出しているだろうか。

 

 「だから、今じゃなくてもいいと思う。今じゃないんだと思う。深森君に光が当たる時がきっと来ると思うから」

 

 仕事は真面目で丁寧で、無口だけれど、視野は広い。

 

 落ち込む瑞希に世界が広いことを想像させてくれた。

 

 「20代かもしれないし、40代かもしれないし、もしかしたら80代のおじいさんの時かもしれないけど」

 

 指折り数える瑞希に深森真弥が小さく笑う。

 例えば今が深森真弥にとって耐える季節でも、その延長の未来も同じ色だとは限らない。

 

 瑞希は深森真弥にそういうことを言いたかった。

 

 彼に渡したM―BOXにはあまり有名ではないが、息の長いバンドの不遇に寄り添う歌を選んだ。

 

 君は間違っていない。もうすぐ君の番がくるよと歌う力強い曲で、瑞希のお気に入りだ。

 

 BOXに一番と言っていいほどシンプルな白のサイコロ型を選んだのは、好みがわからないというのもあるが、何も想起させない形にしたかったからだ。これから何にでもなれるように。

 

 伝わるかわからないけれど、周りくどい方法でいいから、彼の今後を祈りたいと思った。

 

 『祈りたくてね』と微笑したM―BOXの創造主を思い出す。

 

 その明らかに誰かを思い浮かべた様子の口ぶりを瑞希はなぜか鮮明に覚えていた。

 

 特別な仲間ではない。恐らく今日限り、金輪際会わない相手だ。

 

 瑞希は進学で地元を離れる。深森真弥も近々ここのアルバイトを辞めるらしい。

 

 彼は将来エンジニアになることを目指しているらしく、そちらに有効そうな別のアルバイト先を見つけていると聞く。

 

 だからこそ、祈りたいと思った。祈るくらいしかできないけれど。

 

 以前にくれた励ましの言葉を、とっておきの理論を、できれば同じように返したいと思った。

 

 「前に励ましてくれた時、嬉しかった」

 

 「こっちこそ、ここにアルバイトに入った時、親切に仕事教えてくれて、ずっと感謝してました。察しの通り、学校があれなんで、あんまり喋らないように防衛癖が付いてて、お礼もろくにいえなかったですけど」

 

 申し訳なさそうに目細める深森真弥に瑞希は目を見張る。

 

 彼が瑞希の様子を気遣ってくれたのはそういった感謝の念があったかららしい。

 

 始まりから糸が繋がっての今だと気づく。

 

 「そうだ。これ」

 

 深森真弥が唐突にロッカーからカバンを持ってくると、中から何かを取り出した。

 

 「これの代わりに良かったら、もらってくれませんか。俺が持ってたやつで悪いですけど」

 

 代わりというのは瑞希が贈ったM―BOXのことだ。

 

 深森真弥が差し出したのは丸い形状をした掌サイズの青いボールのようだが、恐らくそれもM―BOXなのだろう。

 

 「これ、こうやって光にかざすと」

 

 彼がそう言って、その青いボールを蛍光灯に翳す。するとふっと白い線が浮かび上がった。

 

 「あ、地球?」

 

 瑞希の呟きに彼は我が意を得たとばかりに頷く。

 

 ただの青いボールに見えるM―BOXが光を当てると青い海に大陸が浮かぶ掌サイズの地球になるのだ。

 

 「曲は洋楽なんですけど。世界的に有名なバンドの。俺、別に洋楽詳しくないんですけど、このバンドは好きなんです。国境を越えていくって言葉を信じられる感じがして」

 

 その微笑は静かで温かで、とても真実味があった。

 

 「でも、いいの?」

 

 瑞希は大陸を浮かび上がらせている青いボールを見つめたまま、尋ねる。

 

 カバンから取り出したものではあるが、彼のカバンにその青いボールが跳ねているのを見た記憶がない。恐らくカバンの内側に付けていたのではないかと瑞希は想像した。

 

 周りへのアピールではなくて、お守りのように持ち歩いていたのではないか。

 

 「俺は随分お世話になったんで。それに先輩の今後に似合うような気がするし」

 

 はい、と差し出されて瑞希は掌サイズの地球を受け取った。

 

 それはまるで借りていたものを返すみたいに自然な動作だ。

 

 「ありがとう」

 

 「こちらこそ」

 

 彼はそう言って白いサイコロ型を掲げる。

 

 瑞希が彼の前途を祈るように、彼も瑞希の前途を祈ってくれたような気がした。

 

 私たちの間にもささやかながら物語があったのだ。

 

 瑞希は唐突にそう思う。

 

 ただのバイト仲間だったが、お互いに受け取り合ったものがあったのだ。

 

 深森真弥だけではなく、今現在周りにいる人物たちとささやかながら色々なものを受け取り合って、それは喜びに近い感情だったり、悲しみに近い感情だったり、様々であるのだろうが、そういった色々を受け取り合ってここに私が成り立っている。

 

 ありがたい。

 

 降って沸いたその感情に瑞希は戸惑いつつも、心が晴れやかになっていくのを感じる。

 

 さっき会ったばかりなのにすぐに穂香に会いたいと思うし、瑞希が将来を追う姿を見下した友人たちのことも大きな心で認められる気がした。

 

 「ありがとう」

 瑞希は深森真弥に改めて感謝する。

 

 互いに受け取り合った祈り、思い出、言葉、形容しがたいその何かを、私はこの先忘れてしまうのだろうけど、時折思い出して、それらはふいに瞬き、私の足元を照らすだろう。

 

 そうだったら良いと思う。

 

 瑞希の手のひらの中では小さな地球がまだ光っている。

 

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【モノコン2018物語部門 予選通過のお知らせ】構成も魅力的なあたたかいエピソードがぎゅっと詰まったハートフルな物語。小さいけど大事なこととか素敵なことがたくさん入ったお話に、素直に心が動かされました。

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とじる

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