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僕と彼女のコミケ三百日間戦争

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これは
自分をイジめるヒロインが、
自分の同人作品の大ファンであると
知った主人公の心の葛藤と、
取り巻く環境の急激な変化が織りなす
恋と友情と成長の青春物語。



青春は
痛くて、苦くて

少しだけ、甘い。





同人活動に勤しむ冴えない主人公が、同人誌即売会で出会った“ファン”を自称する少女。

その少女は、学校でいつも自分をイジめているグループのリーダーだった──。



数多くの苦難を乗り越えて、同人誌を完成させることができるのか。


“ 間 違 い な く 、
僕 に と っ て こ の 本 は 、一 生 忘 れ ら れ な い も の に な る 。”




ここに僕と彼女のコミケ三百日戦争の火ぶたが切られた──!

※再編集版です。

1位の表紙

2位

目次

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プロローグ-1章

■プロローグ

 幾千の、幾万のざわめきが飛び交う、灼熱の会場で。

彼女の声だけが、まるでマイクで拾ったかのように、鮮明に僕の耳へと届く。

「うそ……? どう……して……?」

喉の奥から、絞り出されるような声。

いつも自信に満ちて、威厳にあふれた口調と違い──その声は弱々しく、震えていた。

 学校では女王様キャラで鳴らしているが、本日着用しているのは白いワンピース。僕が彼女に抱くイメージとは正反対であるが、清楚な純白がやけに眩しい。

いつもはケバケバしくカールさせている髪の毛も、今日はサラサラのストレートだ。

 まるで、正統派&清純派ヒロインのようではないか。

 ビッグサイト館内を満たす夏の熱気が、無遠慮に身体にまとわりつく。

いや……正確に言えば、館内を満たしているのは夏の熱気だけではないだろう。

世界最大級の同人誌イベント〝コミッカーズマーケット〟に参加している戦士たちの熱が、夏の熱気すら上書きするように、館内に満ちているのだ。

 眼前で、目を見開いている江迎貴子(えむかえ たかこ)は──僕と同じクラスの女子にして、僕が個人的に、クラスで一番苦手としている人間だ。かつ、多くの男子のみならず、女子からも羨望の眼差しで仰がれる存在。学園ヒエラルキー最下層にして陰キャの僕には、直視できないほどの眩さを放っている。

 今、僕の手には。

 彼女から渡された、クッキーと思しき紙包みがある。

軽蔑の眼差しを頂戴する可能性はあっても、彼女からクッキーを手渡されるような覚えは、まったくまったくまったく無い。

 一分ほど前、触ると火傷しそうなほどに真っ赤な顔をして、下を向きながら──。

『あ、あのっ! これ、差し入れのクッキーですっ! て、手作りで味の保障はできないんですけど、よかったら、どうぞっ!』

などと、恋する乙女ワードを並べながら、差し入れと称して手渡したくせに。

 僕の顔を確認するなり……瞬時に氷結されたかのように固まり、絶句しやがったのである。

「なんで……どうして……っ」

 最初は震えていた、その声は。

徐々にいつもの調子を取り戻し、ハリのある、ドスの利いた声へと変化する。

「どうしてっ、こんなところにアンタがいるのよっ!」

 先ほどまでの恋する乙女の顔はどこへやら。

 江迎の顔は、瞬時に羅刹フェイスへとモーフィングした。

「え、えと……それは……」

 整った江迎の顔から発散される気迫に押され、僕は思わずたじろいでしまう。僕が今、立っているのは〝机のこちら側〟。つまりサークルの売り子。

 江迎が立っているのは〝机の向こう側〟——つまり、買い手。

 どうして僕がここにいるのかと問われれば、それは〝自らが描いた同人誌を売るためにここにいるのです〟と答えるより他はない。

 他はない、はずであるのだが……。

 眼前の江迎はその現実がお気に召さないらしく、眉間に日本海溝の如き深い皺を刻み、憤怒の視線を僕に叩きつけてくる。

「私、このサークルの新花(あらか)さんに会いにきたのよっ! それなのに……」 

 そこまで話すと、江迎は何か思いついたかのように目を見開き、再び詰問を続ける。

「ハッ……! まさか、よりによってアンタは新花さんの知り合いで、ここで新刊を売る手伝いをしているとか!?」

 普段、同人誌はともかく、漫画やアニメ、ゲームといった〝こっち側の世界〟にまったく興味関心を示さず、オタク文化と縁のないようなリア充代表の江迎から、〝新刊〟という単語が出たのは、正直に言えばかなり新鮮ではあった。

 しかし、問題点はそこではない。

 そもそもどうして、リア充江迎が〝我らの関ヶ原、コミッカーズマーケット〟なんかにいるのか。これまで、そんな素振りを見せたことは一言もなかったのに……。

「え、えーと……新花は僕、だけど……」

「え?」

 再び、江迎の表情が凝固する。

いつも横目で仰ぎ見るしか許されないような、クラスを支配する絶対女王。

……はじめて正面から見るその顔は、見事なまでに整っていた。

アーモンドの形を思わせる江迎の瞳が、正面から僕を見据える。

僅かに茶色掛かったその瞳は──時間の経過とともに、少しづつ震え出す。 

「う、うそ、うそよ……ね……」

 じわりと江迎の目じりに、水滴が浮かぶ。

 それは僕の見知っている〝涙〟よりも透明に煌めいており、まったく別の物質に見えた。

「ほ、ホント……に?」

「あ、はい」

「ホントにアンタが……新花さん……なの?」

 僕はコクコクと、ししおどしのように頭を上下させる。

考えた末の行動ではなく。それしか選択肢がなさそうだったから、首が勝手に動いただけと言える。

一方の江迎といえば、ビーズを乗せられるくらいに長い睫が、小刻みに震え出していた。

「ふぇ……そんな……ひどいよ……。こんなの……せっかく、せっかく勇気を出して、憧れの新花さんに……会いにきたのに……」

 んな……!? な、何だ、この展開は!?

 いきなりベソをかきだすなんて……ひょっとして、江迎は虹色のお薬飲まなきゃいけない病気か……なにか?

 たじろぐ僕を尻目に、江迎は両手を胸の前で組み、瞳を閉じて──その場で、絶叫した。

「こんなの、うそよおおおおおおおおおおおおおおーーーっ!」

 その声は、両隣のサークルだけでなく隣の島まで響き渡り、コミケ参加者の多くの耳目を集めてしまった。

 同時に、その叫び声は。

この日から約一年に渡る、僕と彼女のコミケ三百日間戦争の、鬨の声となったのである。

■第一章 ここは明日無きディストピア

「槍巻君、今日もゴミ捨て頼めるよね? 私、この後用事があってさ~」       

清掃が終わり、放課後が始まってすぐ。

クラスの女子から今日初めての声をかけられ、僕の机の横に、全容量の半分ほど満たされたゴミ箱が置かれる。

中に入っているのは、パンの包装紙や丸められたノートの切れ端、消しゴムのカスという、実に代わり映えのないいつものゴミ屑どもだ。いや、この中に水揚げされたばかりのリュウグウノツカイなんかが押し込められたら、それはそれで大変困るのだけど。

このクラスには、掃除のあとにゴミ捨てを行う美化委員が四人いるはずなのだが、実際にゴミ箱を校舎外れの焼却炉まで運搬するのは、ほぼ毎日、僕の役目となっていた。

「いっつも頼んじゃってごめんね~。今日は外せない用があって」

「あ。べ、別に…いいよ」

心が篭もっているかどうかは別として、〝ごめんね〟と言ってくれるだけ、まだマシなのであろう。他の美化委員ふたりはゴミ箱に目もくれずに、早々に部活へと向かってしまったらしい。

しかしこの人……言い訳のバリエーションが〝今日は外せない用があって〟と〝今日は急ぎの用があって〟の二種類しかないよな…。その二つをローテーションさせて使っているんだけど、ほぼ毎日なにかしらの用事があるなんて、女子高生というクリーチャーは忙しいものなんだなあ(棒読み)。

 僕はゴミ箱の縁を両手で持つと、背中を丸めながら教室を出る。

耳に入ってくるのは、放課後へと解き放たれて浮かれる、ウェイ系学徒たちの嬌声であった。

 どうやら自分が、この世界の主人公ではないらしいと気付いたのは──小学校の高学年になったころだった。

 記録を期待されるほど、足が速いわけでもない。街で声をかけられるほど、イケメンなわけでもない。面白ユーチューバーのようなマシンガントークなんて夢のまた夢。ゲーム実況なんて、緊張して言葉が出てこないから絶対無理。

腕っぷしのほうといえば、格闘技うんぬん以前に、擦り傷ができることすらノーサンキューゆえ、自ら率先して自己鍛錬なんてまず無理。

小学校時代から高校生になるまで、槍巻一臣(やりまき かずおみ)と言えばコレだ”という代名詞を、僕はなにひとつ持ち合わせていなかった。現に今も、クラスの中の役割と言えば、便利なゴミ捨て係に過ぎない。

……そんなのを自分の代名詞にされてもなぁ……と我ながら思うが、他に思い当たる役割がないからしょうがない。けどなぁ、ゴミ捨ても重要なんだぞ。ゴミを収集、回収する人間がいないと社会が立ちゆかないんですよオラァン! と、自己弁護してみる今日この頃であった。

 だけど……そんな自分にも、微かな願望はあった。

今は確かに冴えないけれど、そのうち、突如として身長がグングンガンガンズイズイ伸びたり、他人にはない凄い才能に目覚めるかもしれない。バレンタインデーには思いもよらなかった子から、チョコを差し出される可能性だってゼロじゃないだろう。

 いつかきっと、何かが起こるはずなんだ。

この世界の主人公に相応しい、光り輝く〝何か〟を、持っているはずなんだ。

自分は他の人間とは違う証、ブレイクスルーを起こすイベントが発生するはずなんだ。

 鏡に写る冴えない自分に、そういい聞かせ、ただひたすら待っていた。

 何かが起こるのを。誰かが、自分を認めてくれる日を。

 しかし。

 いつまで経っても、その日は訪れなかった。

僕の手には、閉塞した世界を打ち壊す槌どころか、ポリ容器のゴミ箱しか握られていない。スポットライトが当たるのは、常に自分以外の誰かだった。

異世界に転生する様子もなければ、異能を持ったヒロインが自宅に転がり込んでくることもない。本も読まずアニメも観ずに、こいつらなにを楽しみに毎日を行きているんだろう、と心の中で見下しているクラスの皆々。しかし彼らのほうが生き生きとした毎日を送っており、その顔には笑顔がある。

 僕はそれを、ただやるせない気持ちで眺めているだけの、その他大勢の一人だった。

廊下ですれ違う生徒たちは、誰も僕のことを気に留めない。むしろ僕自身より、手に持っているゴミ箱のほうが存在感があるのではないだろうか。

 自分の立ち位置は、いわゆる名も無きモブキャラ。その他大勢の中の一人。漫画で言うなら、コマの隅っこで見切れている通行人A。ゲームで言うなら、無双な主人公に有無を言わさず蹴散らされる雑魚そのいち、といったところだろう。

 自分が置かれている現状を考えれば考えるほど、手に持っているゴミ箱が重く感じられてくる。僕は頭を空っぽにして、歩速を上げて焼却場へと急ぐ。

 グラウンドの隅にある焼却場の前には、還暦を越えたくらいの用務員のおじさんがひとり。僕がゴミ箱を渡すと、おじさんは機械的な動きでゴミ箱の中身を焼却炉の中へと放り込んだ。

 パチパチと低い音を立てながら、焼却炉の中で炎が揺らめく。

 炎は刻一刻とその姿を変え、不規則に赤い四肢を踊らせていた。

 ボーっと見ているだけでも、濃い朱色の中に引き込まれてしまいそうだ。

 微かにジリジリと──焼却炉の熱が僕の肌を焦がす。

 ……この先、僕には起こるのだろうか。

 僕の心を熱く燃やしてくれる何かに、出会えるのだろうか。

 この世界の〝その他大勢〟から脱するチャンスを、もらえるのだろうか。

 見つめる炎は黙して、何も語らない。

 と、その時。

「君、そんなに近づくとあぶな……」

 用務員のおじさんがそう呟いた直後──熱に煽られた燃えカスの一部が、焼却炉から飛び出て僕の頬に付着した。

「おわっ! ぅわつっ! うァわちちちちち!」

 心を燃やすという比喩表現ではなく、物理的に燃えそうになった僕は、慌てて焼却炉から飛びのいた。

 〝選ばれし者〟ではない僕の日常は、こういう残念系イベントを積み重ねて、空しく浪費されていくのだった。

 ゴミを捨てに行き、偶発的に焼却されそうになった次の日の朝。

けたたましい嬌声が、睡眠不足の頭を揺らす。

 今日もまた始まった──いつもそうだ。

 こいつらにはきっと、虐げられる者の気持ちは、一片たりとも理解できないのだろう。

いや、そもそも他人の気持ちを思いやるというロジック自体が、頭の中に存在していない可能性すら高い。

 教室窓側の最後尾に位置する、僕の机の上に乗っているのは…一時限目の授業で使う予定の、英語のグラマーではない。

 クラスの女子生徒の中でも二、三番目に大きいであろう、威容を誇るお尻だ。名前はサエグサミエという。興味ないから漢字は知らん。

「でさー、シンヤがチョーウケるの! 告白代わりのラブソング作ってきたとかさー」

 サエグサは必要以上の大声で、隣にいる友人たちに言葉を継ぐ。

「その場でライム刻んじゃって、もうラッパー気取り? キャハハハ!」

 ……ライムを刻むとか、クッキンアイドルかお前の彼氏は。

DQN向けの大喜利で喜んでんじゃないよまったく……。

女子生徒がけたけた笑うたび、机がギシギシと悲鳴を上げる。

 机の限界重量がどれくらいなのかは知らないが、過積載甚だしきことは間違いない。

……もうやめて! 机の耐久力はゼロよ!

 俺がマイデスクの行く末を心配していたその時。

「ちょっとぉ、槍巻が今、アタシのお尻を卑猥な目で見てたんですけどー」

 突如、サエグサの矛先が僕へと向けられる。

 ぐっ……。なんつー言いがかりを。誰が好きこのんで、こんな肉塊を見るものかよ!(宇宙世紀風)

 ……と、反論したいのをグッと押さえ、僕は視線を泳がせ目を逸らす。

 その瞬間、サエグサの横にいた話相手──吊り目のセミロング、ヨツヤジュンコ(漢字は知らん。興味がry)が、僕の椅子に体重の乗った蹴りを入れる。

「ちょっとぉ、誰に断ってこっち見てんの?」

 椅子から伝わる震動を受け、僕は肩口をビクっと震わせてしまう。

「うわキモっ。視線が淀んでるんですけどォ。マジありえねー」

 そう言うと、ヨツヤは再び僕の椅子へと蹴りを放つ。

デカケツであるところのサエグサも続けざまに、僕へと罵詈の槍を降らせた。

「今度はシカトですかー? ごめんなさいの一言もいえないなんて、今日も最低の屑ですねー」

 周囲に甲高い音が響いているにも関わらず、三十人からなる他のクラスメイトたちは、誰も興味を示さない。まるでごく当たり前のような光景を見るが如く、無反応だ。

「おらっ、何とか言えよエロ星人! 早く地球から出て行ってくださーい」

 ガンガン、と、連続して椅子に蹴りが入るが、僕は反論しない。

どうせ言い訳したって、彼女たちに言葉が通じるとは思えない。

じっと下を見て、ただ沈黙を貫く。ああ、時間が三倍速で過ぎればいいのに。

 ……面白いアニメを見てるときは時間が過ぎるのが早いのに、どうしてこんなときは一秒一秒がやたらと長いのか……。

 と、そこに。

「黙ってるのが〝正義〟とか思ってんじゃない、そいつ」

 サエグサとヨツヤとは別方向から、声が飛んでくる。場所的には、僕の席の右隣だ。

「〝言い訳したって、馬鹿どもに言葉が通じるわけがない〟…的な感じ? そんな惨めな自己弁護して、自分を騙してるんじゃないの」

「……」

 まるで僕の心を見透かしたように、そう呟いたのは。

 サエグサ、ヨツヤを常に両側に侍らせ、三人の中心人物として君臨している──江迎貴子であった。

 今年の春、アメリカからの帰国子女として城山第一高等学校に転入してきて以来、常に周囲の注目を集め続けている、いけ好かない女(じょ)キャラだ。

 繁華街を百メートル歩いただけで、スカウトの名刺が両手に持ちきれないほど集まるとか、リア充専用SNS、インスタグラムのフォロワー数がもうすぐ二十万越えそうとかいう話も聞いた。…確かに、その顔だちは三次元にしては整っている。

 忌々しいことにビジュアルだけではなく、超がつくほどの成績優秀運動神経抜群のうえ、有名ゼネコン〝江迎組〟の一人娘であるとも聞く。

 常に人の輪の中に囲まれ、中心にいる。

その上、凡百の徒である僕とは桁違いの才能を持つ、選ばれし者。

僕の持ってないものを、すべて持ってるような人間、それが江迎貴子だ。

 どんだけチートキャラなんだよ、人生強くてニューゲームにも程があるだろ。

「……何よ。なんか言いたいことでもあるわけ?」

「……」

 江迎から〝反論あるなら受けて立つけど?〟的な視線を受けるが、僕はその挑発に乗ることはない。

 

 ——争いは同レベルの人間の間にしか起こらないもの。時間潰しのためだけに、人を悪し様に罵って平然としているような人種と同じ土俵に立つのは御免だ。

「言いたいことあるなら言えって言ってんの。ホラ言いなさいよ、許可してやってんだから。黙ってると逆にムカつくのよ、こっちはさ」

 江迎はさらに挑発を加えるだけでなく、足を伸ばして椅子に蹴りを入れてくる。

ガッガッ、と椅子に衝撃が加わり、脳幹がグラグラと揺らされる。

「自分は高貴な人間だから、馬鹿なこいつらと同レベルで話をしたくないのよねー」

僕は視線を机に落としたまま、グッと手を握りしめ、ただ口を一文字に結んでいた。

 と、ちょうどその時。

 まるで救いの鐘の音の如く、始業を知らせるチャイムが鳴る。

サエグサとヨツヤは自分の席に戻り、江迎は僕の隣の席で、何事もなかったのように教科書を机の上にそろえていた。

 そして、寝癖のついた四十男の担任教師が教室に入ってくると、江迎は先ほどまで被っていた〝加害者〟の仮面を外し、二年A組を構成する一部品としての〝クラスを代表する優等生〟の顔になっていた。

 だけど僕は…とりとめて彼女のことが羨ましいとか思わないし、憧れるなんて論外だ。

僕の持論のひとつに〝顔面偏差値と性格は反比例する〟というものがある。

顔立ちが整っていて、なおかつ万人が認める聖人が本当に存在するなら、いくらでも謝罪して土下座する準備はあるが──理由はこうである。

 外見がいい人間というのは、常に回りにちやほやされ、もてはやされる存在。それゆえ、他人の好意を〝あって当たり前〟としか思っていないのではないか。

 努力しなくても、苦労しなくても、他人から好意を向けてもらえるというのは、僕にしてみれば奇跡の所業だ。

イケメンや美女はその奇跡を、さも当然のごとく享受しているのだ。

自分が努力せずとも、勝手に周囲がチヤホヤしてくれる。

それは人生を生きる上で、絶大にして巨大なアドバンテージにして、才能だ。レアなスキルであるとも言っていい。

 一方、世の中の大半は、僕のようにパッとしない外見の持ち主が多勢を締めている。

 そのマジョリティたちを納得させるために、世に溢れる道徳の本は〝人間は外見じゃない。中身が必要なんです〟と声高に説いているのだろう。

しかーし、そんなのはおためごかしだよ! はっきり言えばいいじゃないか! この世界は顔面偏差値の高い人間が、楽に有利にスムーズに生きていけるような構造になっているってことをさ!

イケメンしか出ない恋愛漫画や恋愛ドラマを観てても「お前ら、選ばなければいくらでも相手いるだろ!」という感想を抱かずにはいられない。ベターでは満足できずにベストを求める連中は、まとめて地獄に落ちてほしい。そう思うのは僕だけではないだろう。

 で、ここで登場するのが、僕が密かに唱える〝顔面偏差値と性格は反比例する〟理論である。イケメン、イケ女は他人にかしづかれて当たり前、チヤホヤされて当たり前、貢がれて当たり前。そのような環境下にいる人間が、健全な精神構造を保ちつつ真っ当に育つことができるだろうか。答えは否。断じて否。〝だんじりいいな〟とはちゃいまっせ、断じて否や!(セルフツッコミ)

周囲にいるブサイクたちは己の美観を再確認するための比較対象物に過ぎず、自分への賛美の言葉を響かせるためだけのスピーカー。貢がせるためのライフラインとして扱っているに違いないんだよ!

 想像してもみてください。

千年に一度の美少女が猫なで声で頼み事をしてくる光景と、その真逆にいらしゃる存在が、ダミ声で頼み事をしてくる光景を。凡百メンの我々としては、前者ならホイホイと従わざるを得ないが、後者の場合は殺意の波動に目覚めつつ、軽めの永パでも叩き込みたくなるのが正常な判断というものです。

 かように、世の中を渡っていくための難易度レベルは、外見の美醜に大きく左右されると言いきっていいと思われる。少女漫画のような恋愛が許されるのは一部の顔面偏差値上位者だけで、その他の人間が実現できるのは、ギャンブルで身を持ち崩したあげくに地下帝国で強制労働に従事するような漫画だけなのだ。

顔面偏差値が高いがゆえに、人生イージーモードで歩んできた輩のほとんどは、他者の好意に対する感謝の意や思いやりの心を忘れ、ついつい横暴に振る舞ってしまうのではないか。それを、顔面偏差値が高い者の特権と勘違いして。

それが、僕が唱える〝顔面偏差値と性格は反比例する〟理論の根幹を成す推論である。

……前置きでも言ったが、本当に顔面偏差値も性格もいい希少種がおられましたら鉄板の上でごめんなさいする覚悟はある。

 そんなこんなで、江迎もきっと、人生イージーモードで生きてきたがゆえに、どこか性格が歪になってしまったに違いないのだ。

 すべてに恵まれ、何もかも満たされているように見える江迎なのに。

 ……どうして彼女は、彼女たちは、僕に辛く当たるのだろうか。

 ただ、隣の席になったというだけで、僕は毎日江迎たちに辛らつな言葉を浴びせられ、憂さ晴らしのための簡易サンドバッグとなっていたのだ。

 僕が三人に対して粗相をしたとか、三人が僕に対して前世から恨みを抱いていたとか、そういう理由はまったくない。

 最初は、僕だけがクラスでLINEの垢を持ってない……スマホを持ってないからという理由で、「かわいそー」と嘲笑されたのがきっかけだったかもしれない。 

 もしくは、深夜アニメの下敷きを使っていたのを見られたときだったかもしれない。

 それ以降だ、このクラスで僕の社会的地位が決まったのは。

 『あ、こいつは底辺のクソザコなんだ』──以来、江迎たちは僕のことをそう定義していた。

 道端に転がる石を蹴飛ばすようなノリで。

僕は鬱憤のはけ口にされていた。

よくテレビや漫画で見るような、根性焼きをされるとか、ボコボコにされた揚げ句にカツアゲをされるといった、辛辣なイジメではない。

 机の上に出しておいた消しゴムを、適当に放り捨てられたり。

 机の中をゴミ箱代わりに使われたり。

 いじめというよりは、嫌がらせの粋を脱しない程度の行為だ。

 

 これがもう少しハードないじめなら、僕の周囲も、救いの手を差し伸べてくれたかもしれない。だけど、辛辣過ぎない〝嫌がらせ〟であったがゆえに、僕の周囲は〝江迎さんたちってノリいいよねー〟と、ワケのわからないDQNの免罪符を持ち出して、三人の行為を肯定していた。

 なんでも〝ノリ〟で片付くこの風潮はいかがなものか。

絶対多数に同調しないと〝ノリが悪い〟と不満の目で見られ、少数派は迫害の憂き目に合う。別にアンタらに迷惑かけちゃいないだろ! ほっといてくれよ! というのが正直な所だが……周囲が僕に降りかかる〝イジメ〟をスルーしているのも、同調圧力によるものなのだろうな。同調圧力…この前読んだラノベに出てきた言葉だが、使ってるとなんか自分の頭がよくなったように思えるな。

 いつの間にかホームルームは終わって担任は退出し、代わりに一時間目の英語を担当する、神経質そうな中年女性教師が教壇に立っていた。

 耳障りで甲高い声が、僕の鼓膜を揺らす。今日は偶数日だから、出席番号が奇数の僕には当てられないだろう……。その目算を頭の中で立てると、僕はノートの端の空白地帯に、シャープペンの先を走らせ始めた。

 楕円形の円に、鋭利な角や、牙が並んだ顎を描き足していくと、それはたちまちドラゴンの頭部へと姿を変えた。

 絵を描くことは、昔から好きだった。

 下手の横好きレベルで、賞なんてとったこともないし、本格的に勉強したこともない。

しかし、自分の頭の中にある妄想を、イメージを、つたないながらも目に見える形にしていくのは、心躍る作業だった。

 天空にそびえ立つ水晶の塔。隕石落下跡に築かれた多重階層地下都市。精霊が舞い踊る夏の夜の仏閣。この世界のどこにも存在しない幻想的な光景の数々を、紙の上に、モニターの中に再現する。その行為に没頭している間だけは、現実世界で自分が置かれている底辺状況を忘れることができた。

 バラエティと三次アイドルの話しかしないクラスメイトたちと話すよりも、一人でペンを走らせている時間のなんと芳醇なことか。女子の目を意識して、髪形や身だしなみに気を使い、時間を浪費するなんて、僕にとっては無駄な労力以外の何者でもない。ないんですよこれが!

 風のように早く走りたいと思っても、僕の足は言うことを聞いてくれない。

遠い外国に旅行したいと思っても、我が家の経済状況はそれを許さない。

 だけど僕の筆先ならば、風よりも早く走る騎士の愛馬を描き出せるし、未だ見ぬ世界遺産建造物の上に立ち、遙か果てに滲む地平線を見下ろすこともできる。 

 現実世界には幾重にも存在する、僕を縛る枷が──〝絵の世界〟には、全く存在していないのだ。

 現実の世界ではその他大勢にしか過ぎない僕だけど、絵を描くことで、僕はその世界の中`心に陣取れる。言いかえるなら、絵を描いている瞬間だけは僕は世界の創造主も同然、神すなわちゴッドになれるのだ!!!

 と、誰に聞かせるでもなく一人で意気込んでいたその時。

「では、次のページ冒頭から和訳。出席番号二十一」

 甲高い声が、教室の隅々まで放たれる。

「二十一番。いないのですか?」

「あ、はいっ……!」

 僕は雷に打たれたかのように、直立不動の姿勢で立ち上がった。

 なんてこった……今日は偶数日だから、奇数の出席番号は当てられないと踏んでいたのに……。お約束と宇宙の法則は乱すべからず、空気はちゃんと読んでくれ! と抗議の声を上げたいところではあるが……そもそも授業を聞いていなかったので、僕に指定された〝次ページ〟がどこからなのかすらわからない。

 僕はページをパラパラとめくりながら、視線を左右に往復させる。まだ六月だというのに、背中には真夏のごとき汗が滲み始めていた。

「もういいです。座りなさい。では、出席番号二十二番」

 時間が惜しいと言わんばかりに、英語教師は僕に見切りをつけ、次の生徒へと視線を移した。僕の代わりに立ち上がった生徒は、朗々たる声で和訳文を読み上げはじめる。

 僕はただ、恥じ入るように背中を丸めて、静かに椅子へと腰掛けた。

……見えない侮蔑の視線が、教室中から僕に突き刺さっているような気がする。

 小さくため息をつきながら窓に視線を移すと──梅雨入りが発表された六月の空は、今にも泣き出しそうな曇天模様に埋め尽くされていた。

 昼休みになると、教室のそこかしこで机の小移動がはじまり、なれ合いコロニーが形成されていく。

ふん……独りじゃ昼飯も食べることが出来ないのかおのれらは! 

……などと、孤高を気取りつつ、僕は離れ小島と化した自分の机で、八十円のミルクパン(税込み。コストパフォーマンス最強)と六十円の紙パック牛乳を口に運ぶ。

 僕が江迎たちからイジメを受けてるのを知っているからか、誰も僕に好きこのんで話しかけたりする者はいない。クラスでかわす会話は、掃除の後に〝ゴミ捨ててこいや〟と指示されるくらいだ。

 一応、僕が通う城山第一高等学校は進学校として、そこそこの偏差値のはずなのだが……悲しいかな、勉強ができるからといって、まっとうな人格形成が行われているわけではないのだ。

 偉いから正しい、時間をかけたからいいものができる、高価だから質がいい。

これはすべて、あくまで目安であって、確率の問題だ。

 頭がいいからといって優しい人間になるかといえば、決してそうではない。

現実問題として、僕の周りにいる人間は、他者を蹴落とすことに秀でた狡猾な連中ばかりだ。むしろ、優秀な頭脳を利己のためだけに使っているぶん、余計にたちが悪い。

 そんな頭のいい彼らは、僕には〝関わらないほうが賢明〟と判断しているのだろう。

僕の脳内で行われている敵味方フォルダわけに照らし合わせると、江迎たち以外の人間は一応〝中立〟という立ち位置になっているが、決して味方ではない。

 だけど──この状況を、僕は歓迎している。むしろ独りでいたほうが、昼飯のあとに気兼ねなく自分の時間を使えるからだ。読書するもよし、仮眠を取るもよし、机に突っ伏して空想に浸るもよし、だ。

 現実世界で主人公になれないのなら、身の程をわきまえてひっそりと生きていきたい。

そう決めた日から僕は、出来るだけ無駄な人間関係を作らず、スモールパッケージな世界で生きてきたのだ。

 人間関係が増えるということは、それだけしがらみが増えるということだ。

 〝トモダチ百人できるかな〟とかいう歌があったが、僕に言わせれば、百個も余計な人間関係を増やしてどうするよオイ! という感じだ。

 もしトモダチになった百人のうち何人かが、将来怪しげな宗教にはまってしまい、〝…槍巻君、霊験あらたかな壺があるんだけど買わないかい?〟とか電話をかけてくる可能性だってゼロとは言えまい。余計な人間関係を築いていたゆえのデメリット以外のなにものでもないだろう。

 その逆に〝やァ槍巻! 会社作って儲けすぎたんで、株券あげるよ!〟なんて電話してくる輩は誓ってもゼロ! 絶対にいないと断言できる。

 むやみに交友関係を増やしたがゆえに、神経を逆なでするような価値観と向かいあう必要が生じるのは、悪夢以外の何者でもない。

 望みません求めません、こちらからは攻めません──小さな世界を護るために、僕は積極的専守防衛という生き方を選ぶことにした。

 僕の世界に護るべき価値があるのかと問われると、ぼやけた苦笑いで茶を濁すしかないのであるが、〝ひっそりと生きたい〟という矜持を堅持するには、それ相応の戦いが必要となるのだろう。

 ならば、僕を攻め立てようする〝敵〟は何なのか。

 僕は世の中に漂うすべてのものに対し、〝自分の敵〟なのか〝味方〟なのかの仕分けを行うことにした。

 その上で自分という国、槍巻一臣の価値観を護るための脳内防衛戦争を、学園内にありがながら人知れず開戦していたのである。

 スポーツにのめり込んで、疲労物質であるところの乳酸が出過ぎたら大変なことになる。これは敵だ。

 ファッション雑誌なんて、仏作って魂籠めずの典型じゃないか。敵だ。

 芸能界なんて枕営業と警察に怒られるお薬の温床じゃないか(一方的な伝聞系)。敵だ。

 敵は自分の価値観に土足で踏み込んでくる。

 無遠慮に攻撃してくる存在には、決して近寄ってはいけない。もし、自分のテリトリーに侵入を試みようとしたものには、こちらから敵意を見せることなく、愛想笑いという煙幕を炊いて距離を置くこと──安全圏内へと速やかに待避することを心がけなくてはいけないのだ。

 僕のような雑魚キャラは、気を抜くとたちまち他の〝価値観〟に押しつぶされてしまう。

 無遠慮に攻撃してくる存在には、決して近寄ってはいけない。もし、自分のテリトリーに侵入を試みようとしたものには、こちらから敵意を見せることなく、愛想笑いで距離を置くこと──安全圏内へと速やかに待避することを心がけなくてはいけないのだ。

 江迎たちのように、他人の心を踏みにじって平然としている輩と関わり合いになるのもまっぴら御免だ。あいつらに虐げられることを前提にしてまで、このクラスに居場所を作りたくないよ……。

こうして他者と馴れ合わずに昼食をとっているのも、僕なりの〝防衛戦争〟の現れだ。僕は無言で牛乳パンを食みながら、徹底抗戦の意を教室中にアピールしていたのである。

昼休みを経て、二時間後。今日も合計六時間に渡る刑期を務め上げた。

終業のベルが鳴ると同時に、教室では生徒たちによる掃除が始まる。

僕は清掃作業と平行して、教室という名のジェイルからの脱獄準備を始めていた。

 教室にいる時間が一秒伸びるということは、ダメージ蓄積の持続時間が一秒増えることに等しい。こんな場所からは、即座に離脱するに限る。

 僕はいつものゴミ捨てから自分の机に戻ると、帰宅準備をしていた江迎の席の後ろを通って、希望への脱出口へと向かう。

 その瞬間、江迎の長い髪から漂う柑橘系の香りが、僕の鼻腔をくすぐる。

 ……なんだよ、イイ匂いなんかさせやがって。

 不快な匂いではなかったが、肯定するのはシャクに障る。

とりあえず心の中で毒づきつつ、僕はその場から離れた。

 僕の教室、二年A組が位置する本校舎とは別に、この高校には文科系の部活が入っている文化棟という別校舎がある。三階同士を繋ぐ渡り廊下を足早に駆けて、僕は文化棟へと急ぐ。

 目的は〝第二美術室〟。

 そこは唯一、この学校で心が許せる場所。他者と交戦する必要のない、非武装中立地帯(グリーンゾーン)だ。

いや、中立地帯と言うのは語弊がある。

使われなくなった美術資材が所狭しと置かれたその部屋は、僕と、僕と志を同じくするものたちの領土(テリトリー)と言ってもいいだろう。

 プリンターで打ち出された“第二美術部”の紙が張られた扉を開け、僕は教室の中に入る。

 そこにはすでに、放課後というくびきを解かれたふたりの戦士たちがいた。

「おっ、今日はえらく早いやんけ槍巻氏! 相変わらず魚の死んだような目の真似がうまいのう!!」

 早口で僕に呼びかけたのは、二年C組の下川達夫(しもかわ たつお)。欠食児童と見まごうほどにガリガリの眼鏡男子だが、虐待されているとか家が究極貧乏などといった理由に起因するものではない。単に体質なだけだ。

「ん。おつ」

 一方、極めて省エネ的に短く挨拶したのは、二年D組の安瀬 仁(あぜ ひとし)。閉じてるか開いているかわからない細い眼と、下川の二倍はありそうな豊かな恰幅が特徴だ。おそらく、下川と安瀬を悪魔合体させれば、ちょうどいい体格になりそうだ。……失敗してとんでもない外道が出てきそうだけど。

 僕は後ろ手で扉を閉めると、ふたりが座ってる円卓(拾い物)へと歩み寄った。

「……この世のあらゆる法は、強者が弱者を取り締まるために存在しとる。正義っちゅうのは、既得権益者を守るために作られてるだけなんや」

「ん。陰謀論乙」

「家畜に神はおらんのや! 支配者層は革新を促すよりもなぁ、いかに現状に満足させ、下層階級に緩やかな搾取を受け入れさせるかに心血を注いどるんや!」

「ん。そうなんだ凄いね」

 円卓で向かい合う下川と安瀬は、相変わらず謎議論を戦わせていた。議論というよりも、下川が一方的にまくし立てているようなだけにも見えるが。

「……何の話をしてるの?」

「そうやな……簡潔にまとめるなら、ツーランホームランをトゥーランホームランと言ったり、長靴のことをレインブーツと言うとか、そんな大人になったら人生オシマイという話や」

 ……意味がわからない。

自分の答弁に満足がいったのか、下川は分厚いビン底メガネの弦をくいくいと押し上げる。白目式腕固めで、その細腕をへし折ってやりたい衝動に駆られるほどにイラつく仕草だが、慣れとは恐ろしいもの。僕は心を無風に保ったままバダティルマの椅子(拾い物)に腰掛けた。

 ちなみに、三人の椅子はカグファ、バダダハリダ、バダディルマという大層な名前が付けられている。命名者の下川が言うには、聖書に登場する三人の博士の名前らしい。

 彼らも自分の名前が椅子の名前にされるなど、生前は思いもよらなかったであろう。すみませんすみません。

「ん。槍巻氏、これを」

 腰掛けるなり、バダダハリダの椅子(拾い物)に座る安瀬が、手にしていた液晶タブレットを差し出す。そこには、細身の体躯には不似合いな、無骨なリボルバー銃を構える黒髪少女のイラストが映し出されていた。

「あ……これ、サシサシさんの新作? 先週線画をアップしてたけど、もう色塗ってんだ。描きこみも凄いし、線画のクリンナップも綺麗だな…」

 僕は液タブを覗き込んで、率直な感想を漏らす。

そのCGは『銃(ガン)コレ』という、古今東西の銃を擬人化したヒロインが登場する、人気ブラウザゲームに登場するヒロインの一人を描いたもの。『銃コレ』は三年前の登場以来マニアたちの心をガッツリ掴み続け、オタクコンテンツの巨頭へと成長、かく言う僕たち三人も揃ってハマっていた。

「さすがサシサシさんや、神絵師ランカーは格が違った。うpって三十分でブクマがもう千件超えてるとかすご杉山や。正統派黒髪ヒロインの正義がまたもや立証されたで!」

「んむ。尊い」

 下川のコメントに、安瀬も首を縦に振ってまろやかに同意する。

 僕たちが見ていたのは、pixivというイラストソーシャルサイトである。

 自分たちが描いたイラストをアップロードできるサイトで、作品に対しては他者が閲覧して点数をつけることが可能。さらに、お気に入りならブックマークしてもらえる……という、デジタル絵描き御用達の人気ソーシャルサイトだ。

 この〝ブックマーク数〟は、閲覧数や点数よりも、そのままイラストの〝実質的な評価〟に繋がっている。点数評価は知り合いからのご祝儀的な十点満点の加点や、〝一点爆撃〟なる、どのイラストに対しても最低点である一点しか加点しない困ったユーザーの方も存在していることもあり、評価点イコールイラストの評価、と決めのはやや早計なのだ。

 一方のブックマークは、本当に気に入ったイラストにしかつけられないため、点数評価よりも相対的に〝信頼性の高い〟イラストの評価へと繋がっているのだ(槍巻一臣調べ)。

 一応ここ、第二美術部に集っている三人は絵描きの端くれで(何故か「絵師」と言われると怒る模様)、自分たちもpixivに作品をアップしてはいた。下川は正統派美少女絵、安瀬はコミカルなディフォルメ絵がなかなかに達者で、どの作品も平均で百前後ブックマークされていた。

 しかし、オリジナルのファンタジー絵を上げる僕は、最もブックマークされているものでせいぜい二十。それも、一年かけてやっと……という有様だ。

 三十分で千以上のブックマークがつくなんて、夢のまた夢。むしろ人類に知覚できるスピードではない。エロスな絵を描けばブックマーク数は加速度的に跳ね上がる…という都市伝説も耳にしたことがあるが、我らはまだエロス絵画に手を染めてはいけない年齢であるがゆえ、そこはグッと我慢というか見て見ぬ振りをしている今日この頃。

「槍巻氏も銃コレ描くやで銃コレ。乗るしかないで、このビックウェーブに!」

「前から言ってるじゃん、版権もの描くの苦手なんだよ。見るのは好きだけど」

「〝似テネ〟ってコメされたの、まだ引きずっとんのか? もう一年前やろ、気にすることないで。この業界には〝作風です〟という便利な言葉があるんや。そんなんすっとぼけで通せば無問題やで!」

 そう熱弁する下川の口調は関西弁風だが、本人は生粋の神奈川育ちだ。

〝これは関西弁ちゃうねん、もっと別のソウルワードでな…〟などとワケのわからない供述もしていたが、面倒くさいのでそれ以上追求はしていない。

 一年前ほど前、僕が銃コレキャラの一人を描いてアップした際に〝あまり似てないですね(笑)〟とコメントされ、速攻でアップを取り下げたことがあったのだ。それ以降、版権キャラクターを描くことに妙な抵抗があるというか、ある種のトラウマになっていたのだ。

ま、僕が描かなくとも、銃コレキャラクターは日々湯水のようにpixivにアップされるので、僕自身が頑張る必要は無いんですけどね。

 現在、部室には僕と下川、安瀬の姿があったが──第二美術部の部員はこれで全員。正確に言えばここは部ではなく、同好会だ。

美術部と名前がついているからには、美術に関連する創作活動が柱となるわけだが、僕らが日々続けていたのは、ゲームやアニメ、漫画についてダベること。

そもそもの発端は今から一年前。下川が、学校に存在しなかった漫画研究会の設立申請を出したことが、同好会を作ることになったきっかけだ。

下川と安瀬とは、一年の時に同じクラスになって、アニメや漫画の話題を通じて親しくなった。三人とも、大々的にオタクアピールをしているわけではなかったが、カバンに付けているストラップや使っている文房具などで、それぞれの趣味趣向を鋭敏に感じ取り、いつの間にかうち解けた仲間となった。

話してみると、三人ともイラストや漫画を描くことを趣味としており、それぞれの力量も同じ程度だということが判明した。

絵を描くという趣味の柱が共通項となっているなら、学校生活に紐付けたいと考えるのが自然な流れ。叩くべきは美術部か漫画研究部の扉──ということになるのだが、僕たちの学校では〝漫研〟なる集団は棲息を許されていなかった。

そこで、三人の中では比較的アグレッシブな下川が気を吐き、漫画研究会の設立申請を申し出たのだ。

下川 は さけんだ。

『我が校に必要な最後のピース、漫画研究会の設立許可を認めてクレンメンス!』

学年主任 の こうげき。

『無理かな』

下川 は 脱力 した。

『ズコーッ!』

下川が学年主任に直訴するも光の速さで却下され、漫研設立の夢は泡と消えた。

しかし…下川の野望(というほど大したものではないが)はそこで潰えはしなかった。

美術部の活動コンセプトとは異なる方針──ウェブを賑わす映像文化やクールジャパンを研究する同好会の設立を再直訴。漫研の代わりに第二美術部という、奥歯にモノが挟まったような、主体性のない同好会が成立した。

漫画も絵なんだから美術のくくりでいいだろ、という、馬も四駆だから軽自動車扱いでいいだろ的な裁量が根底にあるのは間違いない。

その第二美術の立役者は……今日も僕の前で、誰も聞かない弁舌のケイデンスを闇雲に上げ続けていく。

「……ええか、槍巻氏。ほとんどの人間は逃れられんカルマに縛られとるんや。成功して大金を得た人間がまず最初にハマるのは物欲。宝石や時計、車や毛皮とか、アホみたいに買いあさる。思想をもたへん奴に限って、中身がない自分を上書きするために、ようけブランド品をかき集めるんと同じ理論やな! その次に来るのは名誉欲や。金をばら撒いて有名人と仲良うなったり、タレントを連れて歩いたりすることで優越感を得たくなるんやな。そして、必ず最後に来るのは宗教や占い師といったオカルトや。金で買えへん霊的なものに軸足を置いて、風水とか来世とか前世云々とか、科学的根拠のないバカタレ理論に傾倒していくんや。試しに今、頭の中で政治家や芸能界、スポーツ界の成功者などを思い浮かべてみい。ほとんどの連中にオカルトや宗教の影がまとわりついとるやろ?」

「……いや、みんながみんなじゃないと思うけど」

「こうして考えると、成功せんほうがまっとうな人生を送れる気がするやで。そうや……大金なんて最初からいらなかったんや!」

「でも昨日、来月発売される『ごちわふ』の限定ブルレイボックス欲しいけど金がないって悶えてたじゃん」

「ヒグッ! お金なんていらない……そう思ってた時期がワイにもありました」

 賢しげに呟くと、下川は遠い目をして窓の外の曇天模様へと視線を逸らす。

さっき話していたのも、どこかの掲示板かまとめサイトで仕入れてきた知識なんだろうなぁ……。僕は下川の自分勝手な熱弁を聞き流しつつ、机の上に雑記帳を広げ、シャーペンを走らせ始めた。

 描いているのは、机の上に置かれていたペットボトルの模写。まだ少しだけ中身が残ってる清涼飲料水……おそらく、安瀬の飲みかけだろう。

 僕は肩の力を抜いて、目の前に置かれたペットボトルが描くなだからかな曲線を、ノートの上に写し取っていく

頭の中にあるイメージを絵にしているところを見られるのは気恥ずかしいが、スケッチなら、他人に見られてもさほど恥ずかしくない。

 なんというか、自分で作った歌を唄うのは恥ずかしいが、カラオケで既存の歌を唄うのは大丈夫、みたいな感覚だろうか。……ま、カラオケなんて行ったことないけど。

 以前は、模写やデッサンといった、どちらかと言えば地味な作業には、さほど興味を持っていなかった。頭の中にある空想世界を、好きなように描き散らすのが一番楽しかったし、別に…真面目に絵の勉強をしたいわけじゃなかったから。

 しかし。

 下川と安瀬の強烈なススメにより、第二美術部に顔を出した日はほぼ毎日、僕は模写、スケッチ作業を続けるようになっていた。

 下川と安瀬も僕もイラストを描くが、それぞれの系統は若干違う。下川はいわゆる美少女系の萌え絵、安瀬はデフォルメの利いた四コマ系のイラストが得意。彼らも最初は、デッサンやスケッチなどの地味な作業には目をくれず、好き勝手に描きたいものだけを描いていたという。

 だが当然…好き勝手に絵を描いているだけでは画力が向上するはずがなく、一年前の彼らは壁というか、自分の絵に行き詰まり、閉塞感を感じていたらしい。

 pixivに投稿しても閲覧数やブックマークは増えないし、評価も頭打ち。やっているTwitterのフォロワーも増えない。そのことがかなり悔しかったようで、そこで彼らは初めて〝絵〟の深淵を覗き込む覚悟をし、基礎だけでも学ぶ覚悟を決めたという。

『それまでは右向きのニッコリ笑った女の子の絵ばっかり描いてたけどなあ、一年間、地味にデッサン続けとったら、構図が一気に増えて捗るようになったでー』

『ん。同じく』

 その言葉を聞いたのは彼らと仲良くなった直後、今から半年ほど前のことである。

下川と安瀬にドヤ顔を決められた後、僕は彼らが描きためたスケッチブックを見せてもらった。

 そこには、人物だけじゃなく風景や静物など、さまざまなものを模写しまくった揚げ句、真っ黒になってしまったページが続いていた。白い余白がないほどにぎっしりと描かれたスケッチの大群は、そのまま彼らの〝巧くなりたい執念〟がにじみ出て、染みとなって刻みついたかのように思われた。

ページを一枚めくっていくたび、一年という期間の中で、徐々に彼らが基礎画力を付けていった過程が、そこにはありありと見て取れた。

僕の口からは、素直に賞賛の言葉が突いて出たのを覚えている。

『へえ……基礎ってやっぱ大事なんだな』

『頭の中でイメージを練る訓練も重要やが、頭の中で描いた風景を、外部に無添加で抽出するには、それ相応の腕前が必要なんやで。言わばアウトプットの純度を上げるために、嘘のないデッサンの腕前が求められるんやな』

『な、なるほど…』

『素晴らしい楽曲が詰まったCDがあったとしても、スピーカーがボロボロだと残念な音しか出えひんやろ? 絵の場合、CDに相当するものがワイらのイマジネーション、スピーカーに相当するものが、この右腕や。絵の腕前を磨くということは、いかにごっついスピーカーを用意するか、という概念に近いと思うんや。

せやから、槍巻氏もデッサン修練を重ねて、頭の中に流れる楽曲を、よりクリアリィな形で外に出さな、死んだ花京院も浮かばれへんで!』

 ゲス顔とドヤ顔をブレンドしたような表情で、下川は僕にそう言い放ったものだった。しかし誰だよ、花京院って。

ともかくそれ以降、僕も暇を見つけては、様々なものをノートに描きスケッチを繰り返すようになった。

 実践してわかったことだが、なるほど、デッサン力が培われていくと、頭の中に浮かんだおぼろげな線を、しっかりと紙の上にトレースできてきている気がする。ためらい線が無くなり、自信をもった線が引けるようになるというか。

 頭の中に浮かぶ漠然とした風景を、自信を持って可視化できる感覚……彫刻でいえば、迷いなくノミを振るえていくカンジに相当するだろうか。下川が言う〝いいスピーカーで外に音を出す〟という例えも、あながち間違っていない気がする。認めるのは、正直癪だが。

 デッサンをコツコツと重ねていくのは、地味ながらも愉しい作業だ。何より、スキル経験値が貯まっているのが、微々たる変化として現れていくのも心地いい。

実際、三カ月前に描いたペットボトルのデッサンと、今、僕が描いているデッサンでは、線が幾分シャープになっているように思える。本来あった雑さ、線を引くときの躊躇が減っているというか。

 〝面倒くさそうだから〟と敬遠していたら、えらく遠回りをするところだった。楽しむために絵を描いているのは間違いないのだが、楽しむためにも努力は必要——そのことを教えてくれる、いい事例だった。

 下川たちに会うまでは、こうして絵のことを話せる友人もいなかった。一年のときに偶然、同じクラスになっていなかったら、僕は敵陣の中で孤立無援の四面楚歌、孤軍奮闘を強いられ続けていたに違いない。

 彼らふたりは、僕にとってはまさに〝同盟者〟と呼べる戦力なのだ。

 その同盟者の一人である下川は、眼鏡をクイクイと連続で押し上げ、苦悶の表情で弁舌を振るっていた。

「ワイはなあ、このまま画力を上げに上げて、自分専用のエロス漫画を描くのが目標なんやで~。これぞ自給自足できるエロの永久機関! もう負ける気せえへん!」

「ん。イイネ」

 ……同盟者というにはいささか不安な連中だが、それでも、いないよりはいたほうが全然いい。なにより、この学校の中で僕と共通言語を有しているのは、彼らを除いては知らないのだ。

 まとめサイトで話題になってるゲームスレッドの話や、昨日見たアニメ。

二時間ほど部室で交わし続けた雑談は、そんなとりとめもない内容だ。

 そして下川と安瀬は、隙あらばソシャゲをこなし、スマホを持ってない僕は羨ましそうに画面を見せてもらう。この繰り返しで、時間は刻々と過ぎて行く。

 それが美術部を標榜する活動について相応しいかは別にして、心を殺しながら机に縛りつけられていた六時間の授業に比べると、遙かに実りのある時間だ。

 ボロい部室の古時計が十八時を回ったとき、暫定部長である下川が放った〝〝今日の活動は終了ゥー!〟の一声で、その場はお開きとなった。

 ちなみに部長は正式に決まっておらず、一カ月交代で持ち回り制となっている。来月は安瀬にバトンタッチし、その次は僕が担当する予定だ。

「んじゃ、帰るか。ぬわあああああん疲れたもおおおおおおん」

「……疲れたとか言って、無駄話しかしてないじゃん」

「無駄話とは何だ君。知の探求に勤しんだ、と言い変えてもええんやで」

「ん。詭弁乙」

 僕たちが廊下に出て、部室の鍵を閉めていると……隣の教室から、十人ほどの生徒が姿を現した。彼らは、活動を終えたばかりの美術部の連中であった。

 第二美術部の部室は、以前は美術室の準備室として使用されていた過去を持つ。ゆえにその隣は当然、美術室である。

 美術部の頭には〝第一〟などという冠はついていない。彼らにとってみれば、この学校で美術活動をしているのは自分たちだけであり、僕たち第二の人間は歯牙にすらかけていない……というか存在自体も気にしていないはずだ。

 むしろ、僕たち第二美術部が〝存在〟していることを知っている人間の方が希有だろう。第二美術部が設立されたのは去年の九月、文化祭が終わったあとだ。

 文系部活の活動発表の場である文化祭に参加してないイコール、つまりは存在を知られていないということである。

 四月の新入部員勧誘のときも、昇降口の掲示板のすみっこに、やる気のないペラ紙一枚で募集をかけただけだ。

 〝毎日がニチアサ感! 来たれ新鋭、悲しみを燃やして!〟

 ……なんだよニチアサ感って。きっと、日曜朝に放送している特撮番組枠から某女児向けアニメをひっくるめた時間帯のことを指しているとは思うけど……。そして何故に、悲しみを燃やす必要があるのか。

 謎のキャッチコピーを書いた下川の功績(?)もあり、当然、見学部員はもちろん、一件の問い合わせもこなかった。むしろ僕自身は異分子が部に入ってこなかったことで、人間関係の再構築……戦力の再編を強いられなかったことが幸運だった。

 僕らと志を同じくしない新入部員を迎え入れてしまうと、この学校唯一の非武装中立地帯は価値を失ってしまうではないか。別に僕たちは、第二美術部を未来永劫この学校に残したいワケではない。僕たちが卒業するまでの間だけ、この学校でのグリーンゾーンとして機能してくれれば、それ以上は望まないのだ。

 そんなこんなで、志を同じくする僕たち三人は背中を丸め、申し訳なさそうに美術部員たちの隣を通り過ぎようとした。

 何ら恥ずべきことはしていないはずなのに、僕らはこの校内において、胸を張って歩く資格がないように感じてしまう。

 僕たちが夢中になっているマンガやアニメ、ゲームといったものが、会話のメインストリームとして話題に昇ることがないことは、校内の雰囲気が如実に物語っている。中学の頃は、クラスを牽引するようなリア充の方々もゲームやアニメの話をしていたし、ゲーム実況や歌い手にハマっている女の子も何人かいた。つまり、僕たちと話題を共有できる人間がクラスの中にたくさんいたのだ。

 しかし──高校になると、その空気は一変した。校内を闊歩している三年生は、間もなく人生の明暗が決まるジャッジメントデイを迎える面々。彼らからは〝こんな大事な時にアニメだのゲームだの言ってる場合じゃないだろ〟という空気が発散されており、一年生、二年生もまた、その空気に感化されないわけにはいかないのだ。

 加えて、アニメやゲームといった話題が影を潜めた代わりに、夜遊びやファッション、異性交遊に関する俗な話題が、昼休みのトークテーマとして居座り始める。そんな中にあって二次元趣味に没頭し続けるということは、自らマイノリティであることを宣言するようなものなのだ。

 誰にも迷惑をかけてないんだから、二次元趣味にハマったっていいだろ! と個人的には思っているのだが、なぜかこの学校という閉鎖社会の中には〝少数意見=悪〟というワケ、ワカ、ラン、理論が跋扈しており、彼らの理論で言うと僕たちは〝悪〟に分類されるらしい。

いくら国が〝クールジャパン〟と謳ってアニメやマンガのコンテンツをバックアップするとか宣っても、それで僕たちの校内ヒエラルキーに変化が生まれるわけじゃない。ピラミッドの最底辺であるという厳然たる事実は変えようはなく、僕たちに許されるのは〝人生を謹んで生きてます〟という、ステルス国家的な生き方だけなのだ。そう感じているのは僕だけでなく、下川と安瀬も、空気を肌で感じて現状を把握していると思われた。

 はいはいキモい人たちが通りますよ空気を穢してすみませんね、と心の中でヘコヘコしつつ、美術部員たちの隣を通り過ぎようとしたとき──。

 僕の視界の端に、一人の女子生徒の顔が入った。

 ややラフめにカットされたショートヘアーと、気だるそうにも見える無愛想な表情。鼻の上には、文系少女のテンプレのような、シルバーフレームのメガネが載っている。

 ギャルゲーで言うなら、無口クール系に分類される女の子だろう。個人的見解を述べると、風貌だけでいえば、明らかに一般女子高生の標準値より上の評価を与えられると思う。

 彼女は小佐々弥生(こさざ やよい)。

 クラスは違うものの、美術部員の中で、僕が唯一名前を知っている同級生だ。

なぜ名前を知っているかといえば、単にウチの二軒隣に住んでいるから。それだけだ。

 彼女とは小中高と同じ学校に通っており、ラブコメでいうところの〝幼ななじみ〟ポジションにあたる存在だ。

 しかし──朝起こしに来てくれるとか、一緒に登下校するとか、家に親がいないときにご飯を作りに来てくれるなどといった、甘酸っぱいイベントがこれまでにあったわけではない。

 十年以上顔見知りであるにもかかわらず、彼女とは二、三言葉くらいしか会話を交わしたことがない。それも、子ども会での寄り合いや、町内清掃活動のときに、必要にかられて会話したくらいの記憶しかない。

〝おはよう〟

〝燃えないゴミはこっち?〟

〝ばいばい〟。

 おそらく、これが十年来の顔見知りである、彼女と交わした全ての台詞ではないのか。

 ……いや、小学生のころ、下校中に大腸が酷薄なまでのリベリオンを起こし、自宅トイレを待たずして安全弁が吹き飛びそうになり、彼女の家でお手洗いを借りたこともあった。

 そのときに発した〝ト、トイレ貸してくだしゃい!(涙声と鼻水)〟も、彼女と交わした台詞のひとつだった。

あーもーなんで思い出したんだこんなこと。

 とにかく、僕と小佐々は幼なじみであるものの、幼なじみルートに類似するフラグはまったく立っていないし、特別な感情を抱いているわけではない。お互いが〝町人そのいち〟程度にしか思っていないだろう。

 まあ、現実に存在する幼なじみってのは、大半がこんなものではないのか。むしろ、三次元に幼なじみルートが存在すると思っているほうが、頭がお花畑であるとしか思えない。

 当然、今日も視線すら合わせることなく、僕は小佐々の横を通り過ぎて、他の下川たちとともに昇降口へと向かった。彼女の横を通り過ぎるとき──ほんのわずかだか、自分が使っているシャンプーとは違う香りがした。……まあ、江迎みたいに必要以上に存在感をアピールする香りじゃないだけ、まだ好感が持てる。

 比較対象に江迎のことが浮かんだことにややイラつきつつも、僕たちは学校という名の修羅の国を脱出すべく、校門へと急いだ。

 我が拠点である槍巻家は、学校から離れること通常速度で徒歩十五分、最大戦速早歩きで十分弱のところにある。中堅食品会社勤務の父が三十五年ローンでやっとこさ建てた、小さいながらもれっきとした持ち家だ。

 玄関を開けると〝おかえり、おにーちゃん☆〟と可愛らしい妹が、きゃるーんと飛び出してくる……ことはなく。台所から、僕よりもドスの効いた弟の声が響いた。

「お帰り、兄貴。カレールーは買ってきた?」

「あ、うん。十文字屋の特売で」

 台所では、今週の当番であるところの我が弟、[[rb:正臣 > まさおみ]]が、夕食の用意をしていた。僕は流しの横に、食材が入ったビニール袋を無造作に置いた。

 今年で中学三年生になる正臣は、地元でも有名なサッカーチームに所属しており、将来を有望視されている(らしい)ジュニア選手だ。

〝ヘディングばかりしていると、脳が揺らされて怖いことになるんじゃなあい?〟という僕の持論を歯牙にもかけず、頭脳明晰で学業のほうも文句がない。

 身長も、百七十センチメートルの僕よりすでに高いし、細かなところにも気が回って性格も社交的。先日は駅前にて、見知らぬ女の子と一緒に歩いているところも目撃してしまった。公私ともに充実し、学園生活の王道を歩いている存在だ。

 思わず、〝兄より優れた弟などおらぬ!〟と目を血走らせたくなるところであるが、どの分野で勝負しても、正臣には勝てる気がしない。

 マジの喧嘩はもう五年近くやってないが、今セメントマッチに持ち込まれたら、ワンサイドゲームで敗北を喫することは容易に想像がつく。

 幸い、正臣は僕のことをいまだに兄として立ててくれてはいるが、リアルに交戦状態になったら即時降伏は免れまい。

 いかに、正臣を刺激せずに兄としての威厳を保ち続けるか──実家においても、僕はタイトロープな外交手腕を強いられているのであった。

というか、僕はスマホを持ってないのに対し、弟はすでに持ってるという時点で、人として差を付けられている気がするんだよなあ。ま、いいか。どうせ連絡する相手もいなければ、ソシャゲに課金するお金もないし…。

 脳裏に浮かんだ暗鬱なモヤを払いつつ、僕は部屋に戻って制服を脱ぐ。くたびれたスエットに着替えると、台所の正臣の横に並んで手伝いを始めた。

 普通の家庭なら、母親が台所に立っている時間帯ではある。

しかし現在、僕の母は──居間の仏壇から、我が家を見守っている。

 三年前。

日本人女性の平均寿命の半分も生きないうちに、母は病気が原因で旅立ってしまった。

 以来、槍巻家は、男三人で潤いのない毎日を送っている。来年で五十になる父も、再婚する気はさらさらないようだし、当分は男所帯が続いていく予定である。

 サビ残が多く、帰りの時間が不確定な父に代わり、夕食を用意するのは僕たち兄弟の役目だった。母が亡くなるまでは〝ご飯は勝手に食卓の上に乗っているもの〟と認識していた僕は、たちまちその考えを改めることになった。

 食材の調達から調理、食後の皿洗いまでの過程をこなすのは、実に骨が折れる。兄弟で分担しているにもかかわらず、だ。これに、家の掃除や洗濯物のとりこみなども加わると、夕方の時間は、ほぼ家事だけで潰れてしまう。母は会計事務所に勤務しながらも、文句一つ言わずに毎日のルーチンワークとしてこなしていたのかと思うと、本当に頭が下がる想いだ。

「……そうだ、正臣。何か、僕にその……郵便とか来てなかったか? 封筒とかさ」

「郵便物? んー、今日はマンションのチラシしか入ってなかったな」

 カレールーを鍋に落としながら、特に興味がなさそうに正臣は呟いた。

 そうか……今日は〝届いて〟なかったか。

 心の中に生まれた落胆を表に出すことなく、朝に炊いたご飯の残りを確認していたその時。僕に視線を合わせることなく、正臣が口を開く。

「来週から夏の間、夜練で帰りが遅くなるからさ。悪いんだけど、夕食当番任せていいかな?」

「……いいよ。特に予定もないし」

 ここで見栄を張って〝僕も予定があるし忙しいし無理だし!〟とか言っても、どうせ第二美術部に集まって無駄話するくらいしか、自分には放課後の予定はない。ほんの少し早く部室を出れば、時間的な問題はないだろう。

 僕は正臣に承諾の意を伝えると、カレーが煮込まれるまで、いくばくかの時間が必要であることを見越して、二階の自室に戻った。

 机の上に鎮座まします、稼動三年目のノートPCの電源を入れる。ほぼ同時に猛烈な勢いでファンの回転音が響きはじめ、液晶モニターがほのかに光を放つ。

 十五歳の誕生日に、二年間貯めた貯金と、すずめの涙ほどのお年玉を全額はたいて買った、我が国唯一の電脳戦力である。

ノートPCを購入した際、僕は買いたかったゲームよりも先に、鼻息荒くグラフィックソフトとペンタブレットを購入した。いわゆる、CGを描くために必須となる道具である。

タブレットをセットして、ドキドキしながらペンを走らせたものの…その時は満足に一本線すら引くことができなかったことを覚えている。

おかしい。ペンタブさえあれば、プロ並の美麗CGがチョチョイと描けてしまうはずではなかったのか。

折角大枚叩いてペンタブを買ったのに、この仕打ちはあんまりだ。まともな線一本すら引けないとは、CGとは何と険しい道なのだろうか。

 モニターに写るヨレヨレの一本線を見て、僕は厳しい現実に打ちのめされた。

……もしかして、CGは自分の敵なのか。

我がテリトリーに招き入れてはいけない存在なのだろうか。

自分を傷つけるような存在と、無理して向き合う必要はないはずだ。これ以上深入りして、嫌な思いをするのはやめておこうか……。

 一時はそう、考えたものの。

自分が選んだのは戦略的撤退ではなく、徹底的な対話であった。

毎日毎日、暇を見つけては、タブレットの上でヨレヨレの線を引きつづけた。いつしかそれは、紙に鉛筆で書くのと変わらないほど、鋭く、意志を持った線になった。

 いつまでたっても楕円形にしか見えなかった円形は、徐々に真円を描くようになった。

棒人間は人へと進化し、犬だか馬だかわからない生き物は、翼あるペガサスへと形を変えた。

紙も鉛筆もいらない。今では、時間とハードディスクの容量さえあれば、無限にペンを走らせ続け、想像の世界をモニターの中に再現できる環境を手に入れたのだ。いやあ、ここまで来るのに二年かかっちゃったよ(遠い目)。

 しかし、さきほどノートPCを立ち上げたのは、CGを描くためではない。

もっと別の理由があったのだ。

 PCが操作可能な状態になると、僕は手早く、Twitterにログインし、タイムラインに目を走らせる。フォローしている作家さんたちが〝夏コミ当落〟について話していないかを確認するのだ。

 最新の書き込みから遡るように、僕はTLを流し読みしていく。

『当落通知って今日来てた?』

『当方離島ですが、まだ届いてない模様@午前』

『都内だけど、まだ青封筒着てないよ。最速で明日じゃないのかな?』

『今日は〝貴サークル〟の日じゃないのかな』

 たまに混じっている焼き肉報告の写真や十連ガチャの結果報告にイラっとしながら、僕はロールバーを下げて半日分の発言を遡る。作家さんたちの発言を見ると……まだ〝届いてない〟みたいだ。

 皆が、自分宛のとある郵便物が未着であると、声を揃えて書き込んでいた。

「そうか…今日じゃなかったか」

 判決を先送りにされた容疑者のごとく、僕は安堵とも落胆とも知れないため息をついた。

 封筒の内容を知りたいのはもちろんだが、その反面、知りたくもない気持ちもある。

 僕が待っていたのはコミッカーズマーケット、通称〝コミケ〟から送られてくる封筒だった。

 コミケは僕の生まれる遥か昔、教科書の中でしか出てこない〝昭和〟の時代から続いている同人誌イベントで、世界屈指の規模を誇る二次元業界最大の催しだ。夏と冬、それぞれ三日間開催され、総参加人数は五十万人をゆうに越えていると公式発表がなされているが、会場には地縛霊や怪異や質量をもった残像も闊歩しており、実際の参加者はもっと多いともっぱらの噂だ。

 そのコミケにサークル参加できるか否かの当選通知を、僕は待っていたのだ。

これまで、僕はコミケには一般参加、いわゆる同人誌を買う専門である〝買い専〟として参加していた。初めて出向いたのは中学一年の夏だったから、参加して今年で五年目になる。

 しかし、参加を重ねているうちに、僕も徐々に売る側から買う側──〝サークル参加してみたい〟との願望を持つようになってしまった。ごくナチュラルに。

 僕が参加を申し込んだジャンルは〝創作系〟。アニメや漫画、ゲームをモチーフとした二次創作ではない、オリジナルの作品を発表するジャンルである。

 一年前から描き溜めているオリジナルのファンタジー、〝水晶飛竜と花冠の搭〟という、ストーリーを持った連作CG。それらを絵本形式にしてまとめたものを、同人誌として配布しようと考えていたのだ。

 サークル参加するということは、自分が作った〝作品〟が、買い手の目と批評にダイレクトに晒されるということだ。

 もし、自分の本を誰にも手に取ってもらえなかったら。

 本をパラ見されたあと、鼻で笑われて元の場所に戻されるなんてことになったら。

 その場で憤慨して破り捨てられたりしたら…(さすがにそれはない)。

 自分が築いてきた世界を目の前で〝否定〟されることは、耐え難い苦痛を伴うものだろう。我が空想の世界の領民たちが嘲り笑われ、愚にもつかない存在と卑下されるにも等しいのだ! ……いや、それは言い過ぎか。

 そもそも否定云々以前に、誰の目にも止まらずに黙殺されて終わる可能性もある。それはそれで、なんとも複雑な心境だと言えるだろう。

 しかし、自分の中では、作品が批評に晒される恐怖よりも、表現者の一人として参加してみたい──そう思う欲求のほうが上回っていたらしい。

昨年末のコミケが終わった直後、熱に浮かされた勢いで、ついつい参加申し込みを送ってしまったのだ。

 申し込んだあと、〝勢いで送んなきゃよかった……〟と後悔したものの、今となっては後の祭り。もし運よく当選できていたら、そのときは覚悟を決めるだけだ。

 ちなみに、下川と安瀬も合同サークルとして参加申し込みを行っていた。コミケ参加に関しては、ふたりは僕の先輩となる。

 初の申し込みを行った昨年の夏は受かったらしいが、続く冬はふたりとも落選。今回無事受かれば、一年ぶりの参加となるはずだ。

 コミケの参加サークルは年々増加し、その競争率も増加の一途をたどりつつあった。〝初参加のサークルは受かりやすい〟との都市伝説もあるらしいが、どこかに明文化されているわけでもなく、どうにも眉唾な話だ。

 とりあえず、合否判定の通知は明日以降に持ち込まれたのを確認し、僕は夕飯が出来上がるまで、Twitterでも更新することにした。

 好みの作家や猫垢フォローすること三百人、しかし僕のフォロワーは三十人ほど(半分は業者やbotっぽい)。はじめて二年になるが、それが僕のTwitterの概要だ。

 Twitterやpixiv上では、僕は「新花」という意識高い系のペンネームを名乗っている。

 僕の外見イメージや人間性はまったく反映されていない名前だが、ペンネームくらいは気取らせて頂いても罰はあたるまい。……あまり考えたくないけど、学校で僕にちょっかいを出してくる連中がこの事を知ったら、爆笑の後に蔑みの目を向けてくるに違いない。〝新花って顔かよ!〟とか言って爆笑するだろうな、うう……。

 ええい、今はそんなことはどうでもいい。更新だ、更新。

僕は〝コミケ参加合否は明日以降に持ち越しです〟という旨の発言を書きこみ、今日、部室で描いたペットボトルのスケッチを十年型落ちのデジカメで撮影し、〝rkgk(落描き)〟と称してTwitterにアップした。文字だけでは寂しいので、ただの賑やかしである。

 べつに、何の面白みもないスケッチである。

 〝落描きとは思えない上手さですね!〟などというおためごかしコメントなんか、いまさら期待しない。

 期待しないが……なぜか自分のTwitterには、約一名ほど熱心なフォロワーがいるのだ。

 一年ほど前から現れた彼(?)は、何度も「イイネ」と「リツイート」をくれるだけでなく、ほぼすべてのイラストに好意的なコメントを残してくれる、なんとも物好きな人間だった。

 知っているのは、ツイ垢に書いている〝孤影戒鷹(こえむかいたかと読むらしい)〟という名前だけ。僕のペンネーム〝新花〟に負けず劣らずの厨二…いや、雰囲気のある名前だ。

プロフ欄にも特に目立ったことは書いてない、性別や素性、年齢などは一切不明。自分からはあまりツイートせず、漫画やアニメ、ゲームの話題や作家のCGをリツイートするくらい。まさに謎の客人だ。

 彼が僕のTLに現れるようになったのは、pixivを経由してのことだった。pixivでアップしていたオリジナルの連作CG──今度、同人誌としてまとめる予定の〝水晶飛竜と花冠の塔〟の世界観を彼はえらく気に入り、リンクを辿って僕のTwitterへと導かれたらしい。

 〝水晶飛竜と花冠の塔〟は、花と蔦に覆われた巨大な階層都市の中で暮らす人々と、都市を見守る、水晶で創られた飛竜の物語だ。イラストごとにイメージする主人公を変え、時にはミスリル掘りの鉱夫であったり、政略結婚から逃げた花嫁、竜と会話できる少女であったりと、そのモチーフは多種多様。一枚のイラストから、物語世界のストーリーをざまざまに想起できるような作品にして発表している。

 孤影さんと僕は、たまたま創作のセンスが近かったらしく〝この世界観、すばらしいです! 私の空想が形になったみたいです!〟と、興奮気味のコメントを頂いたこともある。孤影さん自身は絵を描かないらしく、もし自分が絵を描けるとしたら、僕のような絵を描きたい……という、絵描きに対する最大級の賛辞も頂戴した。テレテレ。

 本名も顔も知らないけど──たった一人だけでも、自分の世界を認めてくれる人間がいる、応援してくれる人がいるというだけで、絵に向き合う力が沸いてくる。

 Twitterではすでに、コミケに参加申し込みを行ったことを名言してある。きっと孤影さんも、僕のコミケの当落を気にしてくれているに違いない。

できることなら吉報を届けたいのだが、こればかりは運頼み。僕が生まれ持ったLUCK値にかけるしかないのだが。

 孤影さんは、友軍というにはあまりにもフワフワとした存在だが──自分にとっては、非常に重要な、精神的支柱の一本でもあるのだ。

 今日アップした〝ペットボトルの落書き〟にも、きっと彼は、「イイネ」をくれることだろう。PCをレジューム状態にすると、僕はカレーの薫りが漂い始めた一階へと降りていった。

 明くる日の、昼休み。

体操服の入ったスポーツバックを丸められ、バレーボール代わりにされた。

今日の実害はそれだけだ。僕本体への直接攻撃がなかっただけ、マシだろう。

「あれー、こんなところにバレーボールはっけーん」

 という、江迎の白々しい声とともに、サエグサとヨツヤも加わり、バレーのレシーブの真似事が始まった。スポーツバックバレーには江迎たち三人だけでなく、他のクラスメートも参加していた。いわゆる、ノリで。

僕は何も言わず、何も言えず、ただ下をうつむいて、嵐が過ぎるのを待っていた。

 四月からはじまった江迎たちの嫌がらせは、誰も止めるものがいないまま、六月まで順調に、飽きもせずに続けられている。

『やめてください』

 そう、僕が一言いえば、事態は変わるのかもしれない。

しかしその一言が、イジメにさらなる油を注いでしまう可能性だってある。

 だから今は、ただ黙って。嵐が去るのを待つしかないのだ。

 台風に向かって〝来ないで下さい〟と土下座しても、進路が変わることがないように、僕を虐めないで下さいと土下座しても、平穏が訪れることはないだろう。

 つまり、自然現象と同じようなものなのだ、これは。

雨戸をしっかりと閉めて、ただ、通り過ぎるのを待つしかない。

亀のような専守防衛を遵守しながら、僕は無言で、心を殺して放課後を待った。

「フフ……へただなあ一臣くん、へたっぴさ……! 欲望の解放のさせ方が下手! 一臣くんが本当に出したいのは……こっち、銃コレの同人誌……! 南武と凝斗のツートップを百合コメディでチンして、ホッカホッカにしてさ……その売り上げの銭で、冷えたコーラをがぶ飲みしたい……! だろ? だけど……それはあまりにハードルが高いって言い張るから、こっちの……しょぼい創作系同人でごまかそうって言うんだ……一臣くん、ダメなんだよ……! そういうのが実にダメ……! せっかく冷えたコーラでスカッとしようっていう銃コレブームの時に……その妥協は傷ましすぎる……!」

「いや、だから銃コレ本は描かないって言ってるじゃん。っていうかもう、創作系で申し込んじゃってるし」

 下川の妙な説得に、僕はフルフルと首を横に振る。

放課後が始まってすぐ、僕は教室を脱出し、第二美術部へとその身を置いていた。当然室内には、下川と安瀬の姿もある。

「むはは。ただ言ってみただけやで~。それにワイは、槍巻氏の創作同人はワンチャンあると評価しとるからな。流行りのジャンルに流れるような、イナゴな真似はせんでもええんちゃうかな」

 ……それならショボイとか傷ましいとか言うなよな、と思いながら、僕は読みかけの週刊漫画雑誌を閉じた。

「だけど……緊張するよね、コミケの当落通知って。高校入試の時とは違うドキドキがあるなあ」

「ん。……落ちる悲しみは一瞬。受かったあとは地獄の連続」

 ポテチを箸でつまみ上げながら、安瀬が妙に含蓄のある言葉を残す。

落ちたらそこでサークル参加は終了だが、受かったら受かったで原稿作成があるから、そっちもまた大変だ……と言いたいのだろう。

 コミケ参加については一日の長があるせいか、下川と安瀬は僕よりも落ち着いているようだ。

「あ~もう連続二回落選は勘弁! このままじゃあワイ、ヤンデレルート突入確定や! なんでもしますから当選させて下さいオネシャス! センセンシャル!」

 下川はそう呟くと、ムエタイの選手が試合の前に行うような奇妙な踊りを、何かにとり憑かれたかのごとく繰り出し始める。

 ……前言撤回、全然落ち着いてないじゃないか。

「今回も落選したら壊れるなぁ。もっとも、槍巻氏は初参加やから、ワイらのサークルよりも受かりやすいとは思うやで~」

「初参加が受かりやすいのって、都市伝説じゃないのか?」

「ホンマやって! 保証するで。なんなら、花京院の魂を賭けてもいい」

 勝手に賭けるなよ、そもそも花京院って(ry)と心の中で毒づきながら、僕はカバンと、昼休みにバレーボール扱いされたスポーツバックを手に持った。

「おっおっ、今日はえらく帰りが早いな。大丈夫か大丈夫か」

「今日はちょっと野暮用があって」

 家の晩飯当番が固定になるのは来週からだったが、今日は寄りたいところがあって、少々早めに部活を切り上げることにしたのだ。

「ん。……ネメシスクラウト五巻の限定版とみた」

 安瀬が漏らしたその言葉に、僕は親指を立てて応じた。

「正解。ネメクラ最新刊だよ。文成堂で予約しようと思ったら締め切られててさ……まいったよ。おかげで、コスモ書店まで遠出しなくちゃいけないし」

「素直にアマでポチっとけばよかろうもん。それ、一番言われてるから」

 追い打ちをかけるように、下川のゲス顔が炸裂する。切り捨て御免の世の中であったら、今日だけで下川は五回ばかしライフをゼロにしているだろう。

 僕が所望していたのは、本日発売される人気ライトノベルであった。初回特典としてCDドラマが付いているのだが、限定生産のため、予約しないと手に入らない。

 僕は行きつけである駅前の本屋で予約しようと考えていたのだが、予約開始日を間違えて覚えていたという醜態を演じてしまった。結果、そこはすでに予約定員に達しており、別ルートでの入手を余儀なくされたのだ。

 慌ててネット書店を検索するも、軒並み予約は終わっていた。このままではテンバイヤーから割り増し購入を強いられるハメになる。

 最後の手段として、僕は駅から遠い寂れ系本屋への予約を試み、電話にて確保を成功。なんとかギリギリで滑り込めたというわけだ。

 本日は部活を早めに切り上げ、予約したブツを取りに行りにいくという寸法。

本当は一刻も早く帰宅して、コミケ当落通知を確認したいのだが……件の本屋は一日しか取り置きをしてくれないとのことなので、実にやむなしである。

「じゃ、お先に。下川たちのサークルも受かってるといいな」

「ぉぅょ。受かってたらチャリに乗って家の前まで自慢しに行くからな。槍巻氏も郵便受けおっぴろげて神妙に待ってろ!」

「……こなくてもいいです」

 励ましとも挑発ともとれない下川の言葉を背に、僕は一人で部室を出た。

 駅から歩いて十五分ほどの、寂れた商店街の一角にあるコスモ書店。名前こそは大宇宙の広がりを感じさせる壮大さだが、実際の店舗は今にも潰れそうな小規模書店だ。

 店内で売っているのは漫画とラノベと写真集、電子マネーカードのみ。

特定の層だけを狙い打ちしている、実にわかりやすい営業方針が特徴だった。

 立地的に不便な場所にあるため、とても繁盛しているとは思えない本屋であったが、駅前の大規模書店で買い逃した本が置いてあったり、マニアックな既刊を揃えていたりと、隙間産業的な立ち位置で生き残っている店だ。

 家の逆方向にあるため、できるだけなら行きたくはない本屋であるが、電車代を使って他の駅に行くよりは経済的に安上がりだ。そんな理由もあって、僕は年に数回ほど、コスモ書店を利用することがあったのだ。

 店の近くまで行くと、アニメや漫画のポスターで埋め尽くした窓硝子──やり過ぎ感漂う軒先が目に入る。しかも、肌色系が目立つポスターばかりで、近隣住民から苦情はこないのだろうかと、こっちが心配になるくらいだ。

 一般人の感覚で言えば魔窟同然のたたずまい。店内に入っていくのはある意味覚悟が必要だろうが、僕ならは入店するのに何のためらいも必要ない。息を吸うがごとく、ナチュラルに入店してやろうじゃあないかッ。そして予約済みの『ネメシスクラウン5巻特装版』を速やかに入手してミッションコンプリート、その後に即帰宅! よし、プランは完璧。

 立て付けの悪い引き戸を開けようとした、その時。

僕が取っ手に手をかける前に、ガラララと音を立てて、自動ドアのごとく引き戸が開いていった。

 店員が気を利かせて開けてくれた…ということではない。

 僕と入れ違いに店外に出ようとした何者かが、そこは立っていたのです。

「あ……」

 発音は短いが、はっきりとした声で。

僕の前に立っていた人物は、呻くような一言を漏らした。

〝彼女〟が身に纏っていたのは、僕と同じ高校の女子制服であった。

服の上からでもわかる、均整の取れたプロポーションと…彫像のように整った顔。

「…………っ!?」

 存在感溢れるそのビジュアル、見間違えるはずはない。

 ……江迎……貴子……!?

 どうしてこんなところに居るんだ!?

 彼女だと認識した瞬間、僕の身体は一瞬震えた。

 昼間の……ムゴいバレーボールの光景が脳裏に蘇る。

 

 そして同時に、僕は即座に目を逸らして俯く。

 学校ではいつも嫌々顔を合わせているが、校外で彼女に会うのは初めてだった。

 今は彼女ひとりなのか、それともいつもの取り巻きも一緒なのか。

ひょっとして、またもや理不尽な暴力に見舞われるのか。こいつがカレシとか連れてたら、もっと非道いことされるんじゃないのか……。

 校内でのいじめは、生徒たちの目もあるから〝あの程度〟で済んでいるのかもしれない。だが、衆目のない校外なら、生存権を脅かされる仕打ちをされてもおかしくは……ない。

 瞬時に頭を過ぎる、ネガティブな未来予想図。

予期せぬ出会いに、頭の中がグルグルと渦を巻き始める。

まるで黒塗りの車に背後から衝突してしまったかのようなハプニング。

 

どうして江迎がここにいるんだっけ、僕はここに何しにきたんだっけ、今日は何曜日だったっけ……。

 バクバクと鼓動がオーバークロックな駆動音を奏で、握りしめた手に、じんわりと汗が滲んでいく。背中から腋にかけても、毛穴を突き破って嫌な汗が染み出してくるようだ。

学校でいじめが始まる瞬間とはまた違った緊張感が、僕の背筋からはい上がってくる。

 その直後。

 すっ、と空気が動いた。

 ヤラレル……! オウフ! キリステ!!

僕は入り口に敷かれた犯罪的に汚い店のマットを凝視しながら、身をこわばらせた。

「……どいてよ」

「……へ?」

「通れないじゃない」

「あ、はひっ」

 頭上からの声に押されるようにして、僕は右方向に飛びずさり、道を空けた。

僕の左側を、柑橘系の薫りをまとわせながら、江迎がすり抜けていく。

 息を殺して、僕は嵐が過ぎ去るのを待った。

一秒が長い。首の後ろがチリチリする。

 江迎の気配が無くなるまで、僕は息をするのも忘れ、小さくなって震えていた。

……なんとも……ない。無事にこの状況をクリアできた……のか?

「…………っ!」

 ぷはぁ、と僕は息を吐き出し、逃げ込むようにコスモ書店の中に入る。

よかった……何もされなかった! 僕生きてる! 奇跡だよ、奇跡!!

クライシスを切り抜けた安堵感が、五臓六腑に染み渡る。

 僕は胸をなで下ろしながら、店内の光景へと視線を移した。

十二畳ほどのコンパクトな店内は僅かの空きスペースも許さない、高密度ディスプレイが施されていた。

足元から天井までびっしりと本で埋め尽くされており、一分の隙も無い。図書館とも駅前の繁盛している本屋とも違う、独特のインクと紙の匂いが、店内を満たしていた。一昔前に流行ったアイドルグループのインストゥルメンタルが、静寂を上書きするように薄く流れていた。

 カウンターには新しくバイトで入ったのか、見慣れぬ若い男のバイトがいる。もう一人、店には恰幅のいいオバチャンがいるはずなのだが、今は奥の写真集コーナーで棚の整理をやってるようだ。

 バイト君の髪は、根本が黒くなったハンパなブリーチ。耳には理科の実験で使うような分銅クラスの巨大ピアスが装備されている。おいおい、飛行機乗るとき金属探知機鳴り響くんじゃないのかソレ。

 どちらかと言えば、マニア向けのこの店には似つかわしくない外見だ。河原でバーベキューをやって増水した河川に流される系のウェイに見えるが……って、外見で判断するのは情報弱者のすること。一方的なレッテル貼りはよくないな。

 ……似つかわしくないと言えば、さっきの江迎もそうだ。

コスモ書店なんていうマニアックな空間に、一体何の用があるんだ。

 この店には、江迎のような人間が嗜好するようなアイテムは置いてないはずなんだけど…男性アイドルグループの写真集でも買いにきてたのか?

 どっちにせよ、この店においての異分子は江迎のほうだ。コスモ書店は僕と同じ〝こちら側〟の存在なのは確定的に明らか。いわば、コスモ書店は江迎に領海侵犯を受けたようなものだ。

 折角、楽しみにしていた新刊を買いに来たというのに、気分を害されてしまった。

僕は気を取り直してレジまで進み、プリン頭の店員に予約の旨を切り出す。

「あ、あの……今日発売の……ネメシスクラウト五巻限定版を……よ、予約してた…」

「は? なんすか!?」

 店員は〝キコエネーヨ〟と言わんばかりに、カウンターから上半身を乗り出す。

「ネ、ネメシスクラウトの五巻を……予約していたんですけど……」

「あ、はいはい、予約っすね。ちょ待ってくだっし!」

 ノリと勢いだけで独自の言語を形成するバイト君。日本の国語教育は大丈夫か。

さっきはレッテル貼りはよくないと思っていたが、明らかにプリン髪店員からは地雷臭が漂っている。カウンターの後ろをゴソゴソと漁りながら、〝アルェ~〟とか〝カッシィな~〟などと、脳細胞の少なさに起因するかのようなうめき声を漏らしているし。一抹の不安を抱きながら、僕はプリン髪店員の捜索作業を待った。

 すると……。

「テンチョー! テンチョー! ちょ、スイヤセー!」

 プリン髪店員はあっさりと捜索をあきらめ、奥にいたオバチャン、すなわちチャンオバに助けを求めた。

 助けに応じるように、チャンオバは巨体をドスドスと揺らしながら、カウンターの方へと戻ってくる。その様子はまさにボストロールそのものだ。

「んのォ、新刊の取り置きらしぃっすけどォ」

 ボストロ……いやさチャンオバはカウンターの中をのぞき込み、周囲を一瞥したあと首を傾げた。

「おかしいわね。そこに置いてなかった? さっきまであったはずだけど……」

「んれぇ? あれって予約のだったんスか? シャッセン、さっき別の客に売っちゃいましたー」

 まるで悪びれることなくニヤケ顔で、プリン髪店員は後頭部をさする。

 お、おいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっっっ!!

 シャッセンじゃねぇだろシャッセンじゃああああぁぁぁ!!!

 僕はプリン髪店員の胸ぐらを掴むと、怒りの形相で詰め寄った。

『ふ、ふざけるなよ! こっちはちゃんと予約してたのに、全面的にそっちの不手際じゃないか! 表に出ろ! 俺のレジェンダリィブリザードメテオクライ雪祭り会場限定Ver.をお見舞いしてやるよ!』

 ……などと、頭の中で凄んでみたものの実行できるわけも言えるわけもなく。

僕はバツが悪そうな顔で、薄笑いを浮かべているだけだった。

「あの…えと……予約のは…その……」

 おそるおそる抗議の言葉をひりだすと、チャンオバの凶殺的な眼光(客を客とも思わぬような)が僕を射抜く。

「あの商品は限定なので取り寄せできないのよ。せっかく予約してくれたのにごめんねぇ」

「あ……えと、はい。じゃ、いいです」

「シャッセンしたー」

 詫びてるのかふざけてるのか判らない調子で、プリン髪店員が口を開く。僕はそのまま回れ右をして、入店するときよりも遙かに力なく項垂れて、コスモ書店を後にした。

 新刊を手に取る喜びを想像しながら、足取り軽く本屋にやってきたさきほどとは違い、帰路の足取りは、重いことこの上なかった。

 せっかく楽しみにしていたのに……。これから周囲の本屋を回っても、きっと新刊は狩られてしまった後だろう。かといって、ネットオークションでテンバイヤーの懐を肥えさせるのもごめんだ。

 〝運が悪い〟の一言では済まない、釈然としない理不尽さが、心の中で渦巻く。

何だよ、何でだよ。

 キモオタでいじめられっ子アビを持ってるヤツは、LUCK値すら悪くなきゃいけないって決まりがあるのかよ。

 運が悪いといえば……さっき、本屋の前であった江迎もそうだ。どうして、あんなところにアイツと会わなくちゃいけないんだよ。

 やっと悪夢のような教室から逃れたと思いきや、校外でもビクビクしなきゃいけないなんて、どういう了見なんだ、まったく。

 くそっ、くそっ。腹の虫が収まらない、ああ、おさまらないとも。

 きっと江迎だったら、周囲の男たちに泣きつけば、大抵の欲しいものが手に入るんだろうな。……いや、他人に泣きつかなくとも、大企業の令嬢だもんな。お小遣いで買えないものはないに違いない。いつも話に、よくわからない横文字ブランドの名前を出してるもんな。

 上等なバックを持っていたからってなんなんだよ、立派な時計を付けてたら偉いのかよ。ブランドの価値を築いたのはお前じゃないし、精巧な時計を作ったのも職人の功績だろう。

 それらを所持する対価としてお金を払っているだけであって、お前らが商品価値を作ったわけじゃないだろきっとそうだだぶんおそらく!

 はぁ、はぁ……ちょっと興奮しすぎてしまったらしい。すれ違う買い物帰りのオバハンたちが、僕を怪訝そうな顔で見ている。あふれ出る義憤が顔に現れ過ぎてしまったらしい。

 ともかくだ。

 ブランド品なんかにお金を落としてドヤ顔するよりも、ネメシスクラウトの最新刊を読んで、驚天動地の神展開に心を躍らせるほうが何倍もいいに決まってる!

 でも結局……肝心の最新刊は買えなかったんですけどね。

 江迎批判がいつの間にかブランド品批判にすり替わっていたが、捉え方としては概ね間違ってはいまい。江迎もブランド品もわが国にとっては〝敵対勢力〟であり、ともに許容できない存在であることは間違いないのだ。

 わが国の基本姿勢を力強く再確認したとき──気がつくと、もう自宅前であった。

そこで僕は、本日片付けなければならない、もうひとつの重要ミッションの存在を思い出した。

 そうだ……コミケからの当落通知の確認だよ! すっかり忘れてた! 

僕は門扉の横にある郵便受けに駆け寄ると、恐る恐る中を覗いてみた。

するとそこには──ピザ屋のチラシとともに、B5サイズほどの青色の封筒が一通。

 僕はポストから封筒のみをえぐり出すと、すぐさま裏返して差出人の名前を確認した。

 〝コミッカーズマーケット準備会〟

 キッタァァァァ! コミケ準備会って本当にあったんだ! 某天空の城を発見した鉱山手伝い少年の発言よろしく、僕は心の中で叫び声を上げた。

 そしてそのまま、封筒を片手に玄関に突入し、解錠のちに二階へと駆け上がる。まだ正臣は帰ってないらしく、家には自分ひとりだけであった。

 封筒を机の上に置き、まじまじと見つめる。

誰かの悪戯だったら……どうする? いや、この存在を知っているのは下川たちだけであり、こんな手の込んだ悪戯をするほど、あいつらの残虐パラメーターは高くはないはずだ。

「と、とりあえず……開けてみるか」

 緊張で乾きまくる喉を潤すように、ゴクリとつばを飲み込む。封筒を開けようとするが、指先がぷるぷると震えて、うまく封筒をつかめない。

 待て待て。指で雑に開けて、中の書類まで破いてしまったらなんとする。ハサミを使って慎重に開封しようじゃないか。僕は引き出しの中から、十年愛用のハサミを取り出す。

 当か落か。可か否か。

 これを開けたあと、今年の夏の運命が決まってしまう……。

 おお、神よ! などと心の中で思ったが、僕には特に信奉する神様はいない。

いわゆる、都合のいいときや神社にお参りに行ったときだけ神様にすがろうとする、コンビニエンスな信心者だ。

 それでも……もしコミケ神という存在がいるのなら、力を貸してくれたまい! 八百万も神様がいる国なんだし、一人くらい同人の神的な存在がいてもおかしくないだろう。

 一時期は勢いで申し込んだのを後悔したものの……初めてサークル参加してみようと決めたコミケだ。できることなら、当選したい。

僕は慎重に封筒の上部だけを切り取ると、おそるおそる、中から書類を引き出した。ああ、一秒ごとに心臓がキュッってなるのは何故……。

 ……ん? 妙に分厚いな。

 えーと、当落通知はどこに書いてあるんだ?

 

僕は封筒の中から一枚の紙を引っ張り出し、しげしげと目を通す。

 『貴サークルは三日目東、ネ34-Aに配置されました』

ん、これってイベント当日の配置番号だよな? ……ということは。

 キャッホォォォォォォォォィィ!!

 受かった、受かったよぉぉぉ! 僕は思わずガタタン、と椅子から立ち上がり、右手を高々と突き上げた。

「うぉぉぉ! これマジ? 受かった、ホントに受かってる!!」

 下っ腹から湧き上がってくる幸せ波動に突き動かされるように、意味なくその場でシャドーボクシングを繰り出す僕。シャッハ! ハイ!!

 三十秒ほどデンプシーロールの真似をしただけで息が上がってきたので、冷静さを装って、再び書類に目を通す。書類にはイベント参加の心得や、当日入場するために必要なサークルチケットが三枚入っていた。

 おお……これがかの伝説のサクチケ……。

 転売するだけで未曾有の大金が転がり込むとも言われる、堕天使のプラチナチケットか……。本来なら会場に入るためには、始発電車でビッグサイトに向かい、炎天下の中、十時の開場まで並び続けなくてはいけないという苦行が課せられる。だが、このチケットがあれば、十時の開場直前に、スイスイと入場できるアドバンテージを得ることができるのだ。

 チケットは偽造防止のためか、ホログラムなどが使用されており、妙に手が込んでいる。

 下川は安瀬と一緒にサークル参加するから、チケットが二枚必要だけど、僕は一人で参加する予定だから、残りの二枚は無用の長物なんだよなァ。

 

と、そこまで考えたとき。

「……そうだ、下川たちはどうなったかな」

 受かってたら自転車で知らせに来る、などと言ってたが、下川の家から僕の家まで、自転車でも二十分はかかる距離だ。自慢するためだけに、あいつが限られたカロリーを使うとは思えない。

 僕は手早くノートPCの電源を入れると、Twitterを立ち上げてダイレクトメッセージを送ろうと試みた。LINE垢を持ってない僕の、一番手っ取り早い連絡手段はいつもTwitterのDMなのだ。

 向こうはどうだったんだろう。もしも、僕だけが受かっていたら……なんだか、少し気まずいな。

「……ん?」

 Twitterを立ち上げると、DMのアイコンが点灯している。

僕は早速アイコンをクリックし、届いたメッセージに目を通す。

 差出人は聖バビロン学園……下川のペンネームだ。

 僕は緊張を伴いながら、メッセージを読み進める──。

そこには「勝訴」とだけ書かれていた。

 ……いったい、何と抗争してるんだよ。

 ともあれこれは、下川たちのサークルも受かったと見ていいんだよな。

僕はホッと胸をなでおろし、すぐに返信を書いた。『こっちも受かったよ! 楽勝!』と。

 そうだ、Twitterも更新しなきゃな。一度書いてみたかったんだよ。〝コミケ受かりました!〟って文面。

 僕ごときの弱小作家、誰も気にはしてないと思うけど、僕のことを応援してくれる人……孤影戒鷹さんは、きっと喜んでくれるはずだ。

 彼がどこに住んでるのかはわからないけど、もしかするとコミケ当日、ブースまで買いに来てくれるかもしれないしね。

 タイムライン上はすでにコミケ当落でもちきり。僕がフォローしている作家の方々が、当選の喜びに湧いていた。

 中には、僕なんかが足元にも及ばない大作家が落選を嘆いている発言も見受けられた。僕のような雑魚が受かって神絵師が落選するのは心苦しいが、この犠牲を無駄にしないためにも、全力を尽くさなくてはいけないのだろう(棒)。

 僕は熱に浮かされるようにして、「#コミケ当選」のタグをつけ、参加する日付とブース番号を書いたあと、僕はドヤ顔でッターン! とエンターキーを押して、Twitterを更新する。

 ああ、まだ信じられない……。実際にはまだ何も始まってはいないけど、コミケ当選タイムラインに僕の発言が並んだだけで、何故か誇らしい気分になる。

 ついでに、ツイ垢の後にサークル番号を書き加え、プロフィールを変更。うんうん、当面の〝目標〟があるというのは、随分前向きな気分になれるものだ。

 更新した画面をニヤニヤしながら見つめて十分後。

 さすがにまだ、孤影さんは発言を見てないだろうなと思いながら、僕は画面を更新するためにブラウザのリロードボタンを押した。

 すると……。

 発言に「イイネ」がつき、レスのツリーが表示されていた。 

 そのレスには〝当選おめでとうございます! 作品制作頑張って下さい。激しく応援しております!!〟というコメントが書き込まれていた。書き込み主は、もちろん孤影さんだ。こんなに早く反応してくれるなんて…!

 オマケに、文の最後には〝絶対に買いに行きます!〟の文字。

 う、うわあ……マジか、マジかマジかマジか! 

 どんな人が来るんだろう、恐い人じゃなければいいけどという不安はあったが、相手は僕の創作物を気にいってくれている人なんだ。決して、悪い人じゃないはずだ。

 警戒心よりも、孤影さんってどんな人なんだろうという興味のほうが、僕の中では勝っていたのだ。

 当選の喜びと、早々に励ましの言葉を貰ったことで、僕の身体はかつて無い熱を帯びていた。頭から蒸気が立ち昇っても、おかしくはないほどに。

「……がんばらなきゃな、うん!」

 誰に聞かせるでもなく、僕は決意表明を口にすると、机の上に置いてあるキラキラ光るサークルチケットに、もう一度視線を落とした。

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とじる

2章

■第二章 死闘への序曲

 コミケ当選が決まった次の日。

 曇天の空は早々に泣き出し、朝から雨粒を大量投下し始めていた。

未来に希望があるというのはいいものだ。いつもは苦痛以外の何ものでもない通学路も、心なしか足取りが軽い。

〝この夏は、いつもと違う予感がする!〟

 コミケにサークル参加できるというだけで、僕の未来には眩い光が満ちているような、そんな気さえしていた。

 しかし──弾んでいた心は、すぐに沈鬱の鎖に絡め取られてしまった。

湿った空気をかき分けるように教室にたどり着くと、僕の背後から無遠慮な声が響く。

「オゥイ! 槍巻さー、お前ふざけろよ」

 不機嫌を隠すことなく前面に押し出した声。いつも僕を虐めている三人組の一人、サエグサが発したものだ。それは聞く者に滅びをもたらすと言われる、アポカリプティックサウンドそのものである。

 今日もまた……始まるのか。

「舐めてんのお前? なんでウチらがデコってやった傘、使ってないわけ?」

「……」

 問い詰められて、僕は無言で下を向く。

僕の傘は先週、江迎たち三人組の手でメチャクチャにされた。

 正確に言えば、とても人前では言えないような罵詈雑言を油性ペンで書かれたり、接着剤でビーズやラメをつけられたり……コイツらの言葉で言えば〝デコられた〟わけだ。

 薄いブルーの傘。今年四月に弟とお揃いで、父に買って貰ったばかりだった。

『安い傘はぞんざいに扱って、すぐに無くしちゃうからな。高い傘なら、うっかりコンビニとかに忘れることはないだろ!』

 父は〝奮発したんだぞ〟と言わんばかりの顔で、僕と弟に新品の傘を手渡した。

 傘には、二千九百八十円の値札がついていた。一般に言う〝高い傘〟の相場は知らないけれど、普段使っている百円ショップのビニール傘なんかと比べると、十分高級品だ。

 我が家の経済状況に照らし合わせて考えても、三千円の傘は実に破格と言える。ずっと百円ショップのビニール傘を使っていた僕たち兄弟に、父はちゃんとした傘を与えたかったのだろう。

 色も好きだったし、大事にしようと思った。使える限り、ずっと使おうと。

 だけど。

 江迎たちは笑いながら、薄いブルーの生地に、油性マジックで罵詈雑言を書き込んだ。小学生の書くような、犬だかネコだか判らない落描きも添えて。

 僕は〝やめてくれ〟の一言もいえずに、お気に入りの傘が穢されていくのを、眼前でボンヤリと、ただ見ているだけだった。

 そして今日、僕は〝デコられた〟傘ではなく、使い慣れたビニール傘を持って登校した。問題の傘は捨てるわけにもいかず、家の倉庫の奥に隠してある。

「何シレっと、やっすいビニ傘で学校来てんの? マジムカつくんだけど。使えよ、ウチらがコーデしてやった傘をさぁ」

 僕は沈黙を持って、サエグサの問いに応える。僕から無理矢理聞き出した自宅の電話番号とか〝喧嘩上等かかってこい!〟とか、他人を煽るような言葉が書きこまれた傘を、公衆の面前で広げられるわけないだろう。

「まーだダンマリですかー? あ~もう、朝からむっちゃ気分悪いんですけどー」

 抗ったら、脛にトゥーキックを見舞われるかもしれない。胸を小突かれるかもしれない。理不尽な痛みを受けるのは、本当にイヤだ。身体に痛みが残るというよりも、心に残るのだ。ジクジクとした、染みいるような痛みが。

 もう、この数ヶ月で十分学んでいる。こいつらに対する一番の防衛策は〝抵抗しないこと〟”だ。

 逆らって炎上するより、ただただ、路傍の石のように耐える。それが、延焼を食い止める唯一の方法だ。

 抗ったら、さらに大きな力で抑えつけられるのは世の常であり鉄の掟である不文律。

 アニメやゲームみたいに、勇者の一撃、蜂の一刺しで巨大な帝国が崩壊するってことが、現実に起こるわけがない。学校生活において、一度決まってしまったパワーバランスが覆るなんてミラコールートは、この世界には用意されていないのだ。どうしてもというなら、来世というファンディスクに賭けるしか望みはないのである。

 と、そこに。

「サエ、なにやってんの?」

 艶やかな巻き髪を揺らしながら、教室に入ってきたのは──。

 イジメの主犯格、江迎だった。

 ……なんてことだ。サエグサだけならまだしも、ここに江迎まで加わるのか。

 僕は、心に重しを加えられたかのように、より深くうな垂れた。

 サエグサとヨツヤは、はっきりいって〝浅い〟イジメしか仕掛けてこない。黙って耐えていれば守りきれる。通り雨みたいなものだ。

 しかし、心をえぐり、爪痕を残すようなイジメを提案し、誘導し、他の連中を煽るのは……いつだって、江迎だ。現に、僕の傘に悪戯書きをしようと提案したのも、コイツなのだ。

 イジメのアイデアだけじゃない。なまじ顔が整っているだけあって、江迎の口から発せられる心ない言葉は、鋭い氷の矢となってザクザクと心胆に突き刺さってくる。

 今度はどんな理不尽な言葉で責められるのか……僕は視線を落としたまま、江迎の出方を待った。

「おはよ貴子。コイツさあ、あたしたちがこの前デコっってやった傘、使ってねえんだよマジムカツク」

 サエグサは江迎に擦り寄るようにして、そう訴えた。

江迎の嘲るような視線が、僕を一瞥する。今度は江迎の攻撃フェイズか…。

わかったよ、言いがかりでも何でも投げつけてくればいいだろ。これから授業が始まるまでの十分間、僕は心を完全に凍らせてやり過ごすからさ。

 僕は覚悟して、江迎の言葉を待った。

 しかし。

「……ふーん。そう」

 江迎は別段、僕に興味を示すことなく、自分の机へと向かった。その反応はサエグサも意外だったらしく、江迎と僕の顔に、交互に視線を送っていた。

「え? ちょっと、貴子ォ」

 江迎がイジメに乗ってくると思っていたサエグサは、肩透かしを食らったかのように不機嫌な表情になる。

 そして、僕のほうを一瞥すると、舌打ちをして口を開く。

「マジイラつく。早く吊れよカス」

 サエグサは捨て台詞を放った後、自分の机に戻っていった。

 ……この世界にも“ブロックユーザー設定”があれば、まっさきにコイツらを登録するのに。

 一分、一秒でも早く放課後が来ないかと切望しつつ、僕は教室の時計を仰ぎ見た。

 三時間目が終わると、外の雨も完全に止み、教室の中にはジメジメとした湿気だけが居座った。雲の切れ間からは少しだけ青空が見えているし、このまま気温が上がれば、不快な湿気ともおさらばできるかもしれないな……。

 四時間目は移動教室で、物理と化学でクラスの生徒はふたつに別れる。僕は物理を選択しているので、教科書とノートを手に教室を出て、一階階上にある校舎三階の物理室へと向かった。

教室に入ろうとすると、くたびれた灰色のスーツに身を包んだ年配の物理教師、通称マッドスリー(本名、松戸三郎より由来)の背中が目に入った。相変わらず〝世の中に飽いたような〟枯れた雰囲気を発散しているな…と思いながらマッドの背中を見ていたところ、そののっぺりとした顔が、くるりとこちらを振り返った。

すわ、心の声が漏れたのか…!? と身をこわばらせた僕に向かい、マッドはくぐもって滑舌の悪い声を漏らした。

「あー、悪いがね、キミタチ。職員室に行って、授業で使うプリントを持ってきてもらえるか。僕の机の上に積んであるから。ちょっと数があって重いけど、よろしくぅ」

「え?」

 僕は口を四角形に開き、マッドの顔を仰ぎ見た。

どうやら彼は、職員室に忘れたプリントを持ってこいと…僕に頼みたいようだ。

しかし、さっきマッドは〝キミタチ〟って言ったよな?

 僕の心の中に疑問符が浮かぶのと、背後に微かな気配を感じたのは、ほぼ同時だった。

 首の後ろを弱火で炙られるような──チリチリとした感覚。

 僕はギギギと首を動かしながら、ゆっくりと後ろを振り返る。

 そこにいたのは……口元に微かな笑みを浮かべ、にこやかな表情を作った江迎貴子であった。

 そ、そういえば江迎も物理選択だった…。よ、よりによってこの状況は…!

「職員室からプリントを持ってくればいいんですね」

「悪いね、頼めるゥ?」

「はい、わかりました」

 快活に答える江迎を満足そうに見やって、マッドはそのまま物理室の中へと消えた。

と、同時に…先ほどまで江迎の顔に浮かんでいた人当たりのいい笑みは掻き消え、憮然とした表情になる。

「ちっ…」

 微かに聞こえた、舌打ちの音。

 先ほどまで江迎が見せていた態度は、内申点を気にかけるゆえの外面の良さだ。

教師陣に対しては、江迎はクラスを代表する優等生で通っており、僕をイビっている時に被る邪悪な仮面を見せることは、決してない。

 今の江迎の表情には〝なんでこんなタルいことやんなきゃいけないのよ〟という、明らかに不満そうな色で塗り込められている。

 校舎三階から校舎一階にある職員室職員室まで降りていくダルさに加え……偶然とはいえ、僕と行動を共にせねばならない任務を強要されたことで、彼女のテンションゲージは下落しまくっているのだろう。

 う、うわ…あわわわ……ど、どうしようどうしようどうしよう。

 折角、朝の傘の件では上手く切り抜けられたと思ったのに…。

 僕はおそるおそる、江迎のほうを見やる。

「はぁ…めんどくさ」

 肺の底から絞り出すような溜息。

空気を微かに震わしながら、江迎の身体から、不満に満ちた空気が伝わってくる。

 プリントを取りに行かされるのはまだしも、江迎と行動をともにしなくちゃいけないというプチ拷問を、どうして受けなくてはいけないんだあわわわわわわわ。

ヤバシ! もし、江迎の怒りの矛先が僕に向けられたら……そこに待っているのは惨劇END以外の結末が思い浮かばない!

 目には見えないが、江迎の背後にゴゴゴゴゴゴゴという不気味な擬音が浮かんでいる(のを感じる)。暴発寸前の火薬庫を目の当たりにして、僕の視界が白み始める。いかん……危機回避の為に脳のブレーカーが落ちようとしているのか?

 ま、まずは落ち着こう。そうだ…ラノベやアニメでは、主人公がこういう危機に陥った際にはどういう方法で解決を図る? シチュエーションとしては、猛獣と同じ檻に入れられた時と同じと仮定しよう。

 よくあるパターンが、主人公自身が有する特殊能力で切り抜ける。

 うん、これは無理。僕の特殊能力と言えば、右の耳を少しだけピクピク動かせるくらいだ。

 次にあるパターンが、檻の鍵が壊れており逃げ出せてラッキー。

 しかし…この状況下でどこに逃げるというのか。逃げられるというのか。

最後のパターンにしてもっともドラマチックな展開が、『友人やヒロインが颯爽と駆けつけて助けてくれる』というものだ。だが校内に…僕を危機的状況から救ってくれるヒーローなど存在しない。友軍枠には下川や安瀬がエントリーしてはいるが、彼らほど味方につけても頼り甲斐がない存在はいないと断言できる。

 以上の危機脱出プログラム三パターンを、頭の中で瞬時にシミュレートする。

この最中も、江迎の身体から立ち昇る不快オーラの濃度は上昇し続けている。

 だ、だめだめだめだだめだ…このままでは、江迎の怒りの矛先はすべて我が身に向けられることになる。今の自分どころか、来世まで破壊されることは必定……!

 そ、そうだ……! もうひとつ手段があるじゃないか。この危機的状況を切り抜ける方法が!

 全 面 降 伏。

 白旗を掲げて敵軍に下る。

この状況を打破するには(というか逃れるには)それしかない。

 まさか江迎も、命まで奪うということはないだろう。今まで散々イビられて、もはや護るべきプライドや金科玉条もない。ここはヘタに逆らわずに、ゴッド土下座の精神で通したほうが、受けるダメージも最低限に抑えることができるのではないか。

 この場合における降伏条件を定義するなら、「僕一人がプリントを取りに行く」と申し出ることになるだろうか。マッドの口調だと、プリントの量は結構ありそうだったが、背に腹は代えられない。

 ゼン、イズ、クイックリィ(適当)。僕は薄れ往く意識と気力を振り絞り、息絶え絶えになりながら口を開いた。

「あ、あの…」

 目を合わせることなく、僕は廊下の床を見つめながら、江迎に提案を伝える。

「プリ…プリントは、僕一人で取ってくるから…」

 ぞわりと、僕に殺気を孕んだ視線が向けられるのがわかる。 

僕は江迎の答えを聞くことなく、職員室へと向かって早歩きを開始しようとした。

 が…その時。

「はぁ? 何言ってんの?」

 江迎から発せられる、先ほどとは違う種類の不機嫌な声。

 僕は両肩をビクつかせて、思わず歩みを止める。

 あ、あれ? おかしいな…本当なら〝あっそう。ならさっさと行けよカス〟的な言葉が来て、僕はこの苦行空間から脱出できるはずなんだけど…。

な、なぜゆえに僕の提案は受け入れられないんだ?

 まさか…僕が一人でプリントを取ってくるだけでは江迎は満足しないのか。

プリントを取ってきたのちに財布の中の有り金をすべて渡したあげく命を絶たねば、江迎は納得しないのか?

 思考はどんどんと真っ暗なクレバスに落ち込んでいく。あわ、あわわわわわ。

 と、その時。

 江迎はフン、と鳴らしながら、僕を見下すように吐き捨てる。

「馬鹿なの? アンタ一人で取って来させると、アタシの評価に響くでしょうが。マッドは二人で取ってこいと言ってたでしょ?」

「あ、はい」

 ソウイヤソウダナ。

「それに…アンタの細っこい腕で全員分のプリント持ってこれると思ってんの? 持って来るのが遅れたら、アタシまでねちねち説教されるでしょーが。それくらい気付けよゴミ」

 江迎はそう言うと、カールの掛かった髪をふわりとなびかせ、職員室へと続く中央階段のほうへと身を翻す。

「…さっさと行くわよ」

 こちらを振り返ることなく、江迎は毅然とした声を飛ばす。

 僕はその声に引きずられるように、その後を追った。

 距離にして一メートルほどの間隔を開けて、江迎の後を追う。

 背筋を伸ばしてスタスタと、歩幅広めに軽快に歩いていく江迎。

 僕は背中を丸めながら、目の前で揺れている腰まである髪の毛と、学内の平均よりもほんの少し長いような気がするスカートのたわみを見ながら、おずおずと追従する。

 いきなり回し蹴りが飛んでくるとか、後ろついてくるんじゃねーよストーカーかよ、などの罵声が浴びせられるかと怯えていたものの……特に悲劇系イベントは起こらずに、僕たちは職員室に到着した。

 江迎が一礼して職員室に入ると、学年主任を務める五十代半ばの男性教師が顔をほころばせる。江迎が〝松戸先生に頼まれたプリントを取りに来ました〟と伝えると、学年主任は自ら席を立ち、江迎をマッドの机へと案内した。江迎がいかに教師陣に対して受けがいいかを物語る一瞬だ。

 そりゃそうだろう…教師たちには、江迎のことは品行方正で学業優秀な模範生にしか映っていないのだ。このまま行けば大学には推薦入学、推薦枠を使わなくとも、名のある大学に進んで高校の名声を上げてくれる有用な『駒』なのだ。

 その期待の星が…裏ではサエグサたちと一緒に、見えないところで僕をイビっているとは、つゆほどにも想像してないだろうな。

 マッドの机の上は文庫本や胃薬の箱などが積まれており、お世辞にも片付いているとは言えない有様であった。机の中央に置かれているプリントの束は、確かに一人で持つには無理が在りそうな分厚さであった。

 そのプリントの束を、江迎は白い指を流麗に滑らせて持ち上げる。必然的に、僕が残りのプリントを手に取ることになったが、こっちのほうがやや少ない。

 …またなんか、因縁つけられそうな気がするな。先に手を打っておくか。

「あ、あの…僕がそっち持とうか」

「いいのよ。槍巻クンはそっちをお願い」

 江迎は柔らかな笑みで、やんわりと僕の申し出を拒絶する。

隣にいた学年主任からは〝男のクセに、女の子の方に重い方を持たせるとはなんたることだ〟と言わんばかりの、叱責するような視線を向けられていた。

……気がした。

 

きっとこれも、教師陣の前でいい格好を見せるための、江迎の印象操作工作の一環なのだろう。……なんという恐ろしい奴。

 僕たちはプリントを胸の前で抱えたまま、職員室を辞した。

 

廊下に出た直後、『さっさとこっちの重い方を持ちなさいよ』と、プリントの束を押しつけられるかと思ったが…江迎はとくにリアクションを起こさずに、早歩きで物理室へと向かう。

 僕は往路と同じく、おずおずとしながらその後を追う。

もう間もなく授業が始まる故、廊下にはほとんど生徒がいない。

ほぼ人影が消えた廊下を、江迎と僕は進んでいく。

 運悪く、マッドに不本意なイベントを強要される形となったが…こうして江迎と二人きりで歩くのは、これが初めてだ。他の男子生徒なら愚かにも有頂天になりそうではあるが、僕的には、江迎と一対一になることなんてとてもじゃないがノーサンキューだ。

心の臓を握り潰さんばかりのプレッシャーが貯まり続けるだけで、イワユル思春期独特のときめきなどを感じている暇はない。前にいるのは憧れのクラスメイトでもなんでもなく、精神を砕く非道な処刑執行人なのだ。

こうしている間にも、いつ攻撃が飛んでくるか…ゆ、油断はできないッ。

いつもは取り巻きであるサエグサかヨツヤか、あるいは他のクラスメイトに囲まれている江迎。こうしてサシで廊下を歩くなんて事は、そうそう起こるイベントではないだろう。

 ……聞いてみようか。

どうして僕を……いじめているのか。

 何故、僕の嫌がることをして喜んでいるのか。

 小学校の頃は、愛情の裏返しなどで女子に嫌がらせをする男子などもいた。しかし、江迎たちの嫌がらせが、僕に対する好意に起因するものとは…到底思えない。

 僕に何か非があったのか。何か明確にいじめられる理由があるのか。

 それとも本当に〝何となく〟、一時的な暇つぶしのために、僕をイビっているだけなのか。

 …よしっ! ぼ、僕だって…いつまでも現状に甘んじているだけじゃないぞ。自分から動かなきゃ窮状から逃れられないっていう危機感くらい、持ち合わせているんだからな!

 も、もし、江迎が納得のいかない反論を並べ立ててきたら、ディベート受けて立ってやろうじゃないか! ヤッテヤンヨ!(やや内股で小刻みに震えながら)

 覚悟を決めた僕は、江迎を容赦なく問い詰めることにした!!!!!!!!

「は、はのっ!」

 緊張の余りなのか。

あのっ、と声をかけたつもりが、謎の単語に化けてしまった。

江迎は一瞬だけ僕のほうを振り、汚物を見るような視線を投げる。

しかしすぐに視線を逸らすと、スタスタと一路物理室を目指していく。

「あ…」

 ……話しかけるタイミングを完全に逸してしまった。

というか…声を発しただけで、すべての勇気を使い切いきってしまった気がする。

 とてもじゃないが、『どうして僕をいじめるんだ。理由があるなら教えてくれ』と、江迎を問い詰めるなんて荒行は…できる気がしない。

 現に、心臓のバクバク音が尋常じゃない。明らかにオーバークロックしている。

結果として、これでよかったのかも……しれないな。

胸の前で抱えたプリントの山が、カササ、と音を立てる。

同時に、授業開始のチャイムが鳴った。

僕は下唇を軽く噛んだあと、江迎の後を追うように、物理室へと向かった。

「本日の議題は『何故ゴールデンタイムからアニメ番組が一掃されたのはどうしてなんだぜ?』とする。さあ語るがいい棄民ども!」

 放課後。第二美術室では例によって下川が謎議題を持ち出し、僕たちにディスカッション活性化を促してくる。まあ、まともに聞いているのは僕一人で、安瀬のほうは耳すら貸さずに週刊漫画雑誌を読み続けているのだが。

「いや、アニメ番組ならまだ少し残ってんじゃん。テレヴィ東京とか、日曜の夕方とか…」

「ヴァーロー槍巻氏! 昭和というイニシエの時代は、それこそ月曜から日曜まで、どの局もゴールデンタイムにアニメ番組を流してたんやで。それが今はどうや! ワイらが物心ついたときには既に──アニメは深夜に流すもの、ネット配信で観るものと相場が決まっとった! ゴールデンタイムのアニメ番組は死んだ、何故や!」

「ん。ボウヤだから」

 特に興味なさそうに、安瀬がお約束的なツッコミを漏らす。

「…やっぱアレやな。クソひな壇バラエティをやったほうが、芸能事務所から、番組プロデューサーにキックバックがあるんやろうなぁ。芸能人や芸人をキャスティングしたときに、スポンサーから出る出演料の一割が、茶封筒に入って返ってくるんやでホンマ!」

「……なんでそう決めつけるんだよ」

「汚い、さすがTV業界汚い。ゴールデンにバラエティやドラマの枠を取るんは、やっぱりお偉いさんたちの懐を個人的に潤すために違いないで! ゆ” る” ざ ん” !」

「ん。妄想乙」

「流石にアニメキャラからはキックバック貰えへんからなぁ…。かーっ、芸能界は血も涙も奇跡も魔法もないんやで」

 下川は口を尖らし上体を左右にゆすりながら、譫言のように呟き続けていた。

 僕は下川を軽く黙殺すると、溜息の後に言葉を継ぐ。

「あのさ、とりあえずゴールデンタイムからアニメが消えた理由云々はまた今度にして……コミケの新刊について話さない?」

「ん。それがいい」

 僕が話を振ると、安瀬も漫画本を閉じ、巨体を揺すって円卓に向き直った。

 そもそも、今日の第二美術部の集まりは、昨日届いたコミケ当選通知の報告と──コミケで配布する同人誌の内容とページ数について相談することが目的だった。

 朝、傘のことでサエグサに因縁をつけられたり、江迎と一緒にプリントをとりに行かされるという突発試練があったものの、その他は比較的平穏に過ごすことができた。

物理の授業が終わったあとも、特に江迎たちからちょっかいを出されることもなかった。まあ…たまたまだったのかもしれないが…あんな最終極殺鬼畜兵器連中のことはどうでもいい。

 今は最重要議題として、それぞれが発行する同人誌の内容と、いかほどのページ数にするかを相談せねばならないのですよ。

 ちなみに、下川と安瀬はふたりでサークルを組んでおり、サークル名は〝屁のかっぱ寿司〟。

 もう少し何とかならなかったのか……とも思うが、インパクトだけはあるので、人々の記憶に残るという点では成功しているのかもしれない。

 僕のサークル名は、蒼界社。ちょっと厨二入っているけど、言葉の響きは気に入っている。〝一人しかいないのに社とかバロス(笑)〟と思われるかもしれないが、これから規模がデカくなる予定なんだから、そこは見逃して頂きたい。

 話を戻して。

サークル〝屁のかっぱ寿司(最低)〟はアニメやゲームの二次創作、いわゆるパロディをメインとしているが、現在は人気のブラウザゲーム〝銃コレ〟を、同人誌の題材に据えていた。

 サークル名に反して、下川は可憐な女性キャラクターを描くのを得意としていたし、安瀬は特定指定暴力団漫画を描いてそうな厳つい風貌にも関わらず、可愛らしいデフォルメキャラクターが売りだった。僕の目から見ても、ふたりとも〝中堅〟以上の画力があると思う。

 しかし下川のペンネーム〝聖バビロン学園〟、安瀬の〝ジョイナス三郎〟も……いまいち理解に苦しむセンスである。

「下川たちの本って、ページは増やすの? 一年前の夏コミよりボリュームアップする感じ?」

「そやね。順当に考えると、カラー表紙で二十四ページってとこやな。部数は清水の舞台からヘッスラする覚悟で百冊……どや!?」

「百冊……か。今の下川たちだったらいけるかもなあ」

 一年前の夏コミで、下川たちはオフセットのモノクロ表紙十六ページ本を三十部、コピー本十二ページを用意して、ほとんどを売り切っていた。

 流行ジャンル補正があるとは言え、初参加にしては中々の成績ではないだろうか。

 ちなみに、モノクロ本十六ページ三十冊の制作費は一万円ほど。コピー本の十二ページ二十冊の制作費は二千四百円。合計すると総制作費は一万二千四百円ほどとなる。

 それぞれ四百円、百円で売ったので、完売ならば売り上げは一万四千四百円……! 少しだが、黒字が出ている計算になる! あれ? もしかして同人誌って儲かるの!?

 だが、ちょっと待って欲しい。コミケに参加するには、まず申し込みセットの代金が千円かかる。そして参加料として七千五百円。加えて、原則的にコミケカタログの購入も課せられているので、さらにプラスして二千五百円。

 つまり、サークル参加費だけでも最低一万千円が必要なわけだ。

 さらにさらに、コミケが開催される東京ビッグサイトまでの往復交通費を加えると、経費だけで一万五千円近く。印刷代とあわせると、経費だけで三万円ほどかかる。要するに……下川たちのレベルだと、まるで儲けにならない。むしろ赤字というわけだ。

 同人誌の適切な刷り部数には諸説あるが、良く言われるのはpixivにアップしたイラストの被お気に入り数……つまり、ブックマークされる数の二十分の一程度がいいのではないか、という話。だとすると、僕のイラストはいつも2〜4人くらいのブックマークしかつかないので……あ、あれ? 刷り部数は小数点以下?

 ま、待て待て! しかしながら、我が国は外貨を獲得するためにコミケに出るのではない! 自国で熟成された文化が、他国の目にどう映るのか。それを確認したいのである!

 ……そりゃあ、同人誌を描いてお金が儲かるんなら、それに越したことはないけど……今は、参加できるだけでも十分楽しいし、誇らしい。きっと、下川たちも同じ気持ちだろう。

「で、槍巻氏はどうするんや。当然、フルカラー百ページで三百冊印刷は余裕やろな」

「やめてくれよ……どうしてそんな特攻厨みたいなマネしなきゃいけないんだ」

「ヘイヘイヘーイ! こういうのは勢いが肝心やで! せっかくアドバイスしとるのに……メイの馬鹿! もう知らない!」

 誰がメイだよ。しかも助言になってないし、と心の中でツッコミを入れながら、僕は溜息をついた。

 お年玉の残りと小遣いの貯金を合わせて、確保できたのは三万円ほど。参加費はすでに振り込んであるから、自由になる軍資金は二万円前後だ。

「表紙くらいカラーにしたいけど……無理かなあ。僕も一年前の下川たちと同じく、モノクロ表紙十六ページコースでいくよ」

「ん。無難」

 安瀬はコクリと頷いて、僕の意見に賛同した。本当を言えば、オールカラーで百ページほどの本を作ってみたい。しかし、予算も無ければ時間もない。加えて言うなら……需要もないだろう。

 僕がよく見る同人誌関連掲示板に〝三百冊刷って五冊しか売れなかった〟というタイトルのスレッドがある。チョーシこいて大量印刷したはいいものの、結局思惑通りに売れなかったという、同人作家たちの悲嘆や絶望が綴られたスレッドだ。いつもニヨニヨしながら見ていたスレだが……今となっては他人事ではない。

 調子こいて百冊近く刷って、一冊も売れなかったらどうしよう。持ち込んだ同人誌を、一冊も数を減らすことなく持ち帰る自分を想像すると……吐きそうだ。

 まあ、一部はコミケ準備会に見本誌として提出するらしいので、最低一冊は減るんですけどね。

 いやいや、そんな無駄な予防線を張ってどうする!

 しかも自分が挑むのは、下川たちが押さえている流行ジャンルとはまるで逆。

僕が参加する〝全年齢向けの創作ジャンル〟というのは、なかなかにアゲインストな、コミケの中でも玄人好みな種目なのだ。

 現在のコミケは二次創作がメインストリームではあるが、オリジナルの創作物を出しているサークルも、決して少ないわけではない。しかし、知名度がある二次創作と比べると、オリジナルの…しかも十八禁でない本というのは、来場者に手にとってもらうのは中々に難しいのだ。

 率先して創作ジャンルに足を踏み入れてくるのは、コミケ来訪者の中でも通の中の通。進路希望調査の職種欄に、迷うことなく〝スポーツ冒険家〟と書いて出してしまうくらいにチャレンジャブルな人種だと言える。

 やっぱ変に背伸びせずに、印刷所に頼むオフセット印刷じゃなく、コンビニで作れるコピー本にしようかなあ……。

 僕がそう、悩んでいたとき。

「なんやねん槍巻氏。顔に肉壺ワッショイとか書いてあるで。きっしょいなあ」

「やめなよ! そんなこと思ってるわけないだろ。同人誌の部数を考えてんだよ!」

 相変わらず下川の思考回路は意味不明だ。こんなに濃いキャラクターなのに、僕と違って、特にクラスで虐められている様子などはない。クラスではオタクとしての正体を前面に出さず、ひたすら空気と化しているらしい。

 下川なりの処世術とのことだが……イジメを受けてないというだけでも十分うらやましいよ。

「今は六月頭やから……締切まであと二ヶ月か。まだ二ヶ月もあるんか! よし、遊ぼうぜ!」

「はいきた死亡フラグ」

「……冗談や。ドシフン締め直して頑張るヴィ!」

「ん。締まっていこう」

 読んでいる漫画雑誌から目を離さずに、安瀬が答える。

 そうだよ。印刷形態、部数に関わらず、二ヶ月以内に二十ページ近くを描かねばならないという事実に、変わりはないのだ。サークル初参加で同人誌を落とすなど言語道断。これは我が国の〝聖域〟を護るための戦いなのだ。

 窓から見える空は雲に覆われ、依然として雨粒を降らせていたが──。この光景が夏の入道雲に変わる前に、形にしなくてはいけない。

 僕の頭の中にある、まだ誰も未踏の、王国の風景を。

 コミケ当選発表があってから一週間。

 窓の外には曇り空が広がり、歯切れの悪い天気が続いていたけど──僕の心の中は、珍しく快晴状態が続いていた。

 同人誌のプロットを頭の中で組み立てるだけで、ヘヴン状態になるのはもちろんだったが……。

 何故だか理由はわからないが……ここ一週間ばかり、僕を襲う理不尽な嵐が、ピタリと止んでいるのだ。

 コミケ当選日の翌日、サエグサに傘のことで因縁を付けられたりしたものの、それ以降は無風状態。イジメタイムが訪れない。気味悪いくらいに。

 江迎からも、一緒にプリントをとりに行かされて以降は、特に因縁はつけられていない。

 いかな理由かはわからないが、心を殺す必要がない日々が訪れたのだ。……素晴らしい!

 よくよく考えればそれが当たり前の日常なのだが、当たり前の日常を当たり前のように享受できるのは、実に幸せなことではないのか。

 しかし、どうして急に無風状態になったのだろう。

思い当たる理由はまったくないのだが…強いてあげるなら、江迎の様子が〝少しおかしい〟のだ。小康状態というか、鳴りを潜めているというか。

 いつもイジメの先陣を切ってくるのは江迎だった。ジェットストリームアタックで言うところの一番手であり、彼女がイジメの一番槍かつ指揮官かつ急先鋒であった。

 しかし最近の彼女は、休み時間中も机で文庫本を読んでいるだけで、特に目立ったアクションを起こしていない。

 いつもなら、僕の文房具を気まぐれに放り投げたり、僕のバックを使ってバレーを始めたりするタイミングなのだが…どうしたことだ。僕なんて眼中にないといった感じで、広げた文庫本の活字を追っている。

 文庫本には本革製と思しき、しゃらくさいブックカバーが付けられている。けっ、なんだよ意識高いアピかよ! 毎月三冊以上のラノベを読んでいる、ラノベの申し子たるこの僕ですら、いつも書店で貰うペラ紙のカバーで我慢しているというのに。

 しかしまあ、江迎がよく読書をしているのは今に始まったことではなく、以前にもちょくちょく本を広げていることがあった。とはいえ彼女が何を読んでいるかには、まったくといっていいほど興味はなかったが。

 どうせ〝ガッシボカッ。アタシは死んだ。スイーツ〟系のケータイ小説をまとめたものか、丘サーファーが書いた脱法ハーブの本とか、胡散臭い占いの本でも読んでるに違いないのだ。

 ……と、思っていたのだが、少し前に江迎の取り巻きである吊り目のヨツヤが〝タカコォ~、いつも何読んでんの?〟と聞いたときに、ブックカバーを外して表紙を見せていた時があった。

 江迎はすました顔で〝これ? 谷崎の「痴人の愛」〟と、カバーを見せながら説明したものだ。

 一応進学校だけあって、ヨツヤの口からは〝谷崎って……ああ、タニザキジュンイチロー?〟と、正しい作家名が出ていた。ここで〝タニザキって、そんな吉本芸人いたっけ?〟と言わないだけ、少しは救いがあるのだろうか。

 ヨツヤは〝そんなの現国の授業以外で読みたくないっしょー〟などとボヤいていたが、江迎は〝結構面白いよ、文学〟などと、ドヤ顔で返していた。

 ふんっ。なーにが〝結構面白い〟だよ。不相応なポーズなんて決めやがって。貴様みたいな人格破綻者に読まれるなんざ谷崎先輩のほうも迷惑してるよきっと!(実は読んだことない)

 しかし悔しいことに、本を読んでいる最中の江迎は、なかなか様になっている……ような気がする。

 ……あくまで、仮定の話だが。

 ここで、江迎の中身が憎たらしいリア充ビッチではなく〝口数少ない伏せ目がち系文学少女〟と仮定してみよう。その上で、三次元判定基準で江迎の外見のみを評してみるとだな……。

長い睫毛に彩られた、物憂げそうな目。

 時折口元から漏れる、風の妖精の吐息にも似たブレス。

 儚げな空気をそのまま固着させたかのような、[[rb:白皙 > はくせき]]の肌。

 …………。

 いいかもしれ……いやいやいやいやいいや!

 三次元基準で見れば外見はそれなりに整ってるかもしれないが、ヤツの性格を司るCPUは最低最悪の畜生仕様じゃないか! 騙されてはいけない。

どこぞの地球防衛企業のロボットみたいに、ガワだけ立派で中身はスッカスカ。それが江迎の正体なのです。

 自分の中に生じた妄想を霧散させるように、僕は首を細かく左右に振る。

 振った…その時。

 僕の視線は、江迎が手元で広げていた文庫本の中身を、一瞬通過した。

 ……ん?

 あれ……? おかしいな……。江迎が読んでいるのは〝ブンガク〟と自己申告していたはずだが。

 何だか一瞬その、挿絵のようなものが……本の中に見えたような気が。

 よくラノベにあるような、まさに〝本文イラスト〟ってヤツが。

 

 …………。

 ……。

 ああ、そうだ。最近、古典文学に人気イラストレーターが表紙をつけたりするのが流行ってるもんね。きっとチラっと見えたのはそれだよね。

……いや、何か絵が、こう若干、僕に親しみやすい感じがしたんですけど……。

お、おかしいな…そこにあるはずがない、あってはならないものが、目に入ってしまったような気が……と、すると……江迎が読んでいるのは……。

「おい、いい加減にしろよゴミクズ」

 僕が頭の中でグルグルと推論を回していた、まさにその時!

僕の側頭部を揺らすように、怒気を孕んだ江迎の声が飛んでくる。

「……誰に断ってこっちチラチラ見てんのよ。きっしょ!」

 ひっ! や、ヤバイ! う、うっかり、江迎のほうをガン見していたらしい。

早期哨戒偵察機E-2Dアドバンスドホークアイが敵機を発見したかの如く、江迎の眼光が鋭くなる。江迎は手元の小説をパタンと閉じると、不機嫌そうな顔を隠そうともせずに僕に向き直る。

「え……いや、その」

「こっちにキモい顔向けないでくれる? それともアンタ、コンクリ抱いて横浜港で海水浴したいわけ?」

 ま、待て待て! それは海水浴ではなく永久不法投棄だろ! 

……などと反論できるはずもなく、僕は江迎の視線から逃れるように、無言で俯いた。

 と、同時に、恒例の椅子蹴りが瞬速で飛んでくる。

 ガシッ! と音を立てて椅子がズレ、俺はバランスを崩して無様に机にしがみつく。

「うっ…!」

「今度キモイ目でこっち見てたら、人体の不思議展に着払いで直送するわよ」

 江迎は吐き捨てるようにそう言うと、文庫本をカバンの中に入れて、早歩きで教室を出て行った。次は移動教室でもないし、お手洗いにでも行ったのだろう。きゃつの行き先がどこであれ、とりあえずの延焼は防げたらしい。

 き、気のせい…だったのか。さっき江迎が読んでいた本の中にあったのは……僕にとってはお馴染みの『ラノベ本文イラスト』にしか見えなかった。

 ……ホントに気のせいか? ん? んん……?

 ま、ともかくだ。

 僕は誰にも見えないように安堵のため息をつくとともに、先ほど〝もしも江迎の中身が無口系文学少女だったら〟という妄想をしていたことをこっぴどく恥じた。

 ……どこが文学少女だよ。やっぱり中身は、ただの鬼畜マシーンじゃないか!

 忘れてはいけない。ここは光無きディストピア。己を見失い希望的観測に身を委ねると、後で手痛い仕打ちを受けることになる。

 僕は再び心を引き締めると、退屈極まりない次の授業、政経の教科書を取り出し、そっと机の隅に置いた。

「ほな、ワイらは渋谷のメイトに行くから、後は戸締り頼んだやで~」

「ああ、また明日。僕はもうちょっと作業していくよ」

「ウムス。その心がけやよし──正気にては大業ならず、同人道はシグルイなり。精進するんやで」

「ん。じゃあ先乙」

「では部室の戸締りヨロやで。怪しい奴が来たら三回〝停まれ〟と誰何(すいか)したのち射殺や。肝に銘じとき」

「…なんでそこまでものものしい見張り番をしなきゃなんないんだよ」

 放課後。下川と安瀬は渋谷に用事がある、ということで、今日は早々に部活を切り上げて退出していった。

 リア充界のデンジャラスライオンたちが闊歩する渋谷に行くとは命知らずな……と思われそうだが、なんのことはない。彼らは渋谷にある、品揃えのいい大型アニメショップに行くだけで、リア充に繋がるような作戦展開とは無縁のものだ。

 僕は夕飯の用意まで今しばらく時間があったので、新刊の作業をしていくことにした。

 結局、僕が出す同人誌のスペックは、モノクロ表紙で二十ページに決まった。締め切りは、今から約一ヵ月後の七月十日。コミケ開催のちょうど一ヶ月前でもある。

 刷り部数は、オフセット印刷の最小単位の三十部で、一部三百円で売ることにした。印刷代だけで一万円ゆえ、参加費を含めると、完売したとしても余裕で赤字だ。……まあ、完売するわけないとは思うけど。

 お年玉戦線時から国庫に蓄えられた軍資金はこれをもってほぼ底をついたが、少しでも資金回収を図るためには、なんとしても新刊作成計画を成就させなくてはならない。

 何より、初めての同人誌だ。売り上げ云々は別として、否が応にも気合が入る。

 時間に追い立てられて言い訳がましいものは作りたくない。今、自分が持っているものを活かした、満足のいくものにしたいよな。

 内容はもう決めてある。当初から予定していたハイファンタジーの創作ストーリー〝水晶飛竜と花冠の塔〟のワンエピソードを、絵本形式でまとめるのだ。フルカラーじゃないのが残念だけど、モノクロでも十分頑張れる!

 いつも僕のTwitterにコメントをくれる孤影さんには、書き込みで〝水晶飛竜と花冠の塔〟ネタをやると伝えたところ、飛び上がるように喜んでくれた。

『いいですね! 水晶飛竜と花冠の塔シリーズは凄く好きなので、楽しみです!』

 ……まあ、文字から喜びようを感じただけで、実際に孤影戒鷹さんが飛び上がってるところを見たわけではないですが。

 よし、どうやら方向性は間違ってないらしい。あとは、エピソードを考えるだけだな。

 ……孤影さん、コミケに来るんだよな……。ひょっとして、関東近辺に住んでる人なのかな。

 いや、コミケのために地球の裏側から来る人も少なくないわけで。

むしろ、日本国内に住んでいる人間なら、余裕で来場できると考えたほうがいい。

 僕のファンを明言している人と会うのは初めてなので、正直恐縮すぎて、今から心が落ち着かない。

 どんな人なんだろうな……。僕の作風を気に入ってくれるってことは、線が細くて内向的な人物のイメージだけど。予想に反して、筋肉モリモリ変態マッチョマンなんてことも、この業界はよくあるからなー。

 すっごい繊細で可愛い絵を描く作家が、インタビューなどで顔出しをしたら、石器時代でも手斧一本で生き抜けるような肉密度百二十パーセントのハッスルマッチョだった……ということはザラにある事例だし。

 実際に下川だって、道を歩けば一歩ごとに職質を食らいそうなナチュラル・ボーン・ゲス顔だが、彼が描く女の子は本当に可愛らしい。

まあ、孤影さんの風貌予想はこの際おいといて。

たぶん、本が一冊しか売れなかったら、買ってくれた人が孤影さんだけということになるんだろうなあ……。

 そんなことを思いながら、僕は机の上でノートを広げ、アイデア出しのためにシャープペンシルを走らせていた。

 鳥の頭と翼、ライオンの胴を持つグリフォンを描いたり。適当なエンブレムを描いたり。巨大な投石器を備えた砦を描いたり。

 下川や安瀬たちといるのもそれはそれで楽しいのだが、誰もいない第二美術部で、心赴くまま筆を走らせるのも楽しいものだ。

 この空間が、牢獄のような二年A組の教室と同じ建物の中にあるなんて、信じられない。文字通りここだけが、校内で自分を解放できる、自分が自分でいられるサンクチュアリなのだ。

 いつの間にか、空を覆っていた厚い雲は地平線の向こうに追いやられ、窓からは朱色の西日が差し込み始めていた。

 遠くのグラウンドから微かに響く、運動部の掛け声。防音壁のガードを突き破って漏れてくる、ブラバン部の演奏音。

 いいなぁ~この雰囲気。学園青春モノなんて、僕に縁遠い存在だと思っていたけど……。こうしていると、僕も学園青春モノの登場人物になったような気がするよ。

 で、アニメやゲームでよくあるパターンだと、ここでヒロインが忘れ物して教室に戻ってきて……。

 などと、頭の中で妄想を垂れ流していた、その時。

 コンコン──と。第二美術室の扉をノックする音が、室内に反響した。

「んひっ!?」

 突然のことに、僕は意味不明なうめき声を上げてしまう。

 だ、誰だろう? 

下川も安瀬も帰ったし……ってそもそも、あいつらはノックせずにダイレクトに入ってくるよな。

 先生……かな? だとしても、第二美術部に何の用だろうか。ひょっとして、僕たちのあずかり知らぬところで同人活動禁止令が発布され、その通達にきたとか……。

 僕はネガティブな未来予想図の数々を頭の中で思い浮かべながら、入り口へと急いだ。そして、立て付けの悪い引き戸を、恐る恐る開ける。

 そこに立っていたのは。

僕よりほんの少し、身長が低い幼なじみ。

 二次元風に言うと無愛想系ヒロインに属するであろう少女──小佐々弥生であった。

「あ……」

 およそ五年ぶりくらいに、小佐々の顔を正面から見る。

髪型こそ、自分の記憶の中にあるショートカットのままであったが、目や鼻は、見知った小佐々のそれよりも幾分か、大きくなっていた。

 じっ、と小佐々の切れ長の瞳が、眼鏡越しに僕へと突き刺さる。

瞬間、何も悪いことをしていないにも関わらず、〝後ろめたさ〟に似た焦りが、じわじわと心を侵食し始める。

 ……な、なんだよ。どうして僕が後ろめたい思いをしなくちゃいけないんだよ。

 だが、心に染み出してきた後ろめたさの正体を探る前に、小佐々の唇が静かに動く。

「いいかしら?」

 小佐々が放った疑問系の一言。

それを受けて、僕の身体がエターナルフォースブリザードで凍りついたように固まる。

 いいかしらって……何が?

 僕自身に何かしら用があって、時間を割いてもらってもいいか、との質問なのか。

それとも、第二美術室に入ることを許可しろ、とのことなのか。

 いやいやいや、もしかして、僕のようなキモいオタクを殺しちゃっても〝いいかしら〟、とのSATSUGAI予告なのだろうか……。

「イーゼルの、予備を」

 思考の無間地獄に陥りかけた僕を現実に引き戻したのは、小佐々の口からこぼれた単語。

 それは同時に、小佐々がこの部屋に来た目的を明かす言葉であり、さきほどの〝いいかしら〟という問いに繋がる答えであった。

 な、なんだ……。絵を描くときに使うイーゼルを取りに来ただけか。

 ここ第二美術室には、美術の授業で使う石膏像や、大判の複製画が収納されている。いわゆる、準備室みたいなものだ。

 この教室の隅には、小佐々が求めるイーゼルの予備もしまわれているはずだった。きっと、今まで使っていたものが何らかの理由で使えなくなったのだろう。

 僕は小佐々の進路を塞がないように道を開けた。それを通行許可と理解したのか、小佐々は無言で室内へと歩を進めた。

「……」

 目の前、三十センチの距離を、小佐々が通り抜けていく。

夕焼けの朱を吸収した髪の毛は、黄金の稲穂のようにキラキラと輝いていた。

 唐突に。実に唐突にだが。

 僕は一瞬、考えてしまった。小佐々って……彼氏いるのかな、と。

 家が近い幼馴染というだけで、彼女とはそれ以外に接点はない。友人という距離に近づいたこともないし、ぎりぎり知人という間柄。そんな彼女に彼氏がいたところで、僕にはまったく関係がないはずなのだ。

 ならば、どうしてそんなことを考えたか。

 ──おそらく僕が持つ〝美人を見たら彼氏がいると思え〟という持論から来た疑問なのだろう。

 二次元ならともかく、三次元において〝美人〟アビリティを持っているヤツが、パーティーメンバーに誘われないはずはない。色恋沙汰にしか生きる興味を示さない、DQNどもが、見目麗しい女性キャラを放っておくはずがないのだ。

 美人でありながらソロプレイを続けたいなんて輩は、よほどの物好きか、性格に重大欠陥があるか、ボッチ大好きモンスター使いのどれかに違いないのだ。……最後のは関係ないか。

 ……話を戻して。僕が小佐々に彼氏はいるのかと疑問に思った理由は、彼女の顔立ちが、三次元においては〝それなりに整っていると思われる〟部類に入ると判定したからである。

 僕みたいなキモオタが〝彼女います〟などと言ったら、〝彼女ってカブトムシのメス?〟などと返されるのがオチだ。

 しかし小佐々のビジュアルならば、彼氏がいても別段おかしくはない。それこそ、モデルや芸能人の彼氏がいると言われても、納得できるかもしれない。それくらいに端正……なのだ。あくまでも、客観的に見て。

 同じ町内に住み、似たような環境で育ち、同じ給食を食べて育った幼なじみなのに、どこで差がついた……慢心、環境の違い……。

 と、逃避に走りかけたその時。

(……やっば……!)

 僕は机の上に、雑記帳を広げっぱなしだったのに気づいた。

 さきほどまで、同人誌のネタや落書きなどを、取りとめもなく描き込んでいたアイディアノート……つーか、いわゆる落書き帳だけど。

 そしてそれは、小佐々の進行ルート上にある。

 ……小佐々に見られる! あの落書きを!

 心の中では、別に落書き程度見られてもいいじゃん、という声と、見られるのは恥ずかティー! といった羞恥を嘆く心の声が同時に上がっていた。

 実は去年の秋、小佐々は県の展覧会に出した油絵が入賞し、奨励賞だか特別賞だかをもらっていた。彼女の動向をいちいちチェックしているわけではないが、朝の全校集会の時に表彰されていたので、在校生のほとんどはそのことを知っているだろう。

 いわば絵に関して言えば、小佐々は光の道を歩く正統派のオーソリティー。

一方の僕はデジタルでしか色が塗れない、ひっそりと裏街道を歩く底辺イラスト描き。

 同じ絵描きと言っても、二人が置かれている環境は別物過ぎる。いや……そもそも〝四つタイヤがついているから〟という視点で、F1マシンとチョロQを同列に語るようなものだ。

 デジタルよりも油絵をやっている奴が格上。絵の勉強をしっかりとやっている絵描きのほうが、独学でやっている奴より偉い──そう言う価値観に、おそらく意味はないだろう。比べること自体、ナンセンスなのだ。

 頭では、そうわかっている。わかっているのだが……。自分の絵を、小佐々に堂々と晒す度胸は──僕にはない。

 彼女から見たら、僕の絵なんて〝なにやってんだこいつ〟というレベルの児戯だろう。しかし、イラストを描くという行為は、我が国を支える数少ない精神的支柱。相手が誰であろうと、国の威信をかけた国家事業を鼻で笑われるのは噴飯やるかたなし!

 いくら自分のほうが絵に関して世間的評価を得ているからと言って、僕の世界を笑うことは許さないぞ小佐々弥生よ! ……などといろいろ強がってみましたが、純粋にヘタクソな絵を見られるのが気まずいだけです。はい。

 小佐々が雑記帳の横を通り過ぎるまで、あと三メートルほど。今からローラーダッシュして、机の上の雑記帳を閉じたほうがいいのか。……いやいや、それは自意識過剰すぎるだろ。

 ここは自然に、〝見られても別にいーし。落書きだしィ〟と、どっしりと構えたほうがいいのか。

 一歩、二歩……ゆっくりと、小佐々が机に近寄っていく。

 ネットで絵をアップして、不特定多数に晒すのはなんとも感じないのに……現実世界でたった一人に“見られる”と思うだけで、緊張感半端なくなるのはなぜなんだぜ?

 もしかして、ノートを見た小佐々が目をキラキラさせて〝これ、槍巻が描いたの? 君、才能あるよ!〟なーんてことを言……うわけないだろおおおおおおおお!

 夕日が差し込む放課後の美術室に、幼なじみとふたりきり。

ギャルゲーやラノベならイベントのひとつやふたつも起こりそうなシチュエーションだが、今はそんなものはいらん! 時よ早く過ぎてくれ、オネシャス!

 江迎たちからイジメを受ける前に感じる悪寒とは違う、肌をひりつかせるような緊張感が、首筋にまとわりつく。

 ノートが載った机まで、あと一歩、二歩。

「…………」

 小佐々とノートの座標軸が、限りなく近づく。

 しかし──。

 小佐々は机の上のノートに目もくれず、そのまま第二美術室の隅まで歩いていった。戸棚の中からイーゼルを引き出すと、小佐々は入ってきたルートをトレースするように引き返し、第二美術室の出口へとたどり着く。

 そして──光の粒子を髪の毛に吸着させたまま、小佐々は無言で教室を出た。

彼女が後ろ手で扉を閉めた際に生じた、〝ピシャッ〟という乾いた音が、室内に響く。

 第二美術室の中には、再び高密度の静寂だけが敷き詰められていた。

 …………。

 ノートを見られるかも……と危惧したことはおろか、会話の続きすらも起こらない。

 ノ ー イ ベ ン ト で、フ ィ ニ ッ シ ュ で す 。

 本 当 に あ り が と う ご ざ い ま し た 。

 まあ、こんなもんだ。これが現実。残念でもないし当然の結果と言える。

 ギャルゲーみたいに都合のいいイベントばっかり起こるなら、それこそ世の中はカップルまみれ、そこかしこでハーレム状態だ。

 少しだけ人口密度が低くなった第二美術室の中で、僕は薄い薄いため息をつく。

気が削がれた……というか、妙に気疲れしたな。

 ……今日はもう、帰ろう。今夜から正臣の代わりに、僕が一人で晩御飯を作らなきゃいけないからな。

 僕は机の上に広げてあったノートを回収し、いまだ夕日の朱の中にある第二美術室に、今日の日の別れを告げた。

 夕飯の用意が終わった、十九時三十分ちょうどに。

ヨレた背広とヨレたビジネスバックを携えて、父さんが帰ってきた。弟の正臣はサッカーの夜練で帰りが遅くなるとのことなので、ふたりだけで先に夕食をとることにした。食卓には、明日に持ち越しが可能なシチューと、ポテトサラダ、そして格安ブレンド米で炊かれた白米が並んだ。

「いただきます……」

「はいはい、いただきます」

 父さんは背広だけでなく、着替えた室内着、スエットも首元がヨレヨレであった。少なくとも家長であるからして、もう少しビッとした格好をしてもらいたいものであるが、本人は限界まで着たおす覚悟なのだろう。

 まあ、僕も服にはまったくこだわってないので、人のことは言えないが。

『続いてニュースです。先日お伝えした、集団いじめ事件ですが──』

 テレビから、ニュース原稿を読み上げる男性アナウンサーの声が響く。冒頭に読まれた〝いじめ〟の単語を聞くだけで、正直気が滅入る。

 父さんは夕飯の箸をしばし止め、じっとテレビ画面に見入っていた。

「最近多いな、イジメの事件って」

「だね」

 まさか僕もその被害者の一人であるということは言い出せず、平静を装って返事をする。

「一臣は大丈夫か、いじめられたりしてないか?」

 半ば冗談が混じったような口調で、父さんが問いかける。

「大丈夫だって。顔に殴られた跡とかないし、家のキャッシュカードが無くなったとか、そんな事件は起こってないでしょ?」

「そうか。ならいいんだけど。なんというかホラ……一臣は典型的な草食系みたいな感じだろ? だからちょっと心配でなぁ」

「なんだよ、草食系って。僕は豆腐や米が好きな穀物系だよ」

 僕がそういうと、父は『なんだよそれ』と言って、シチューを口に運ぶ。

 よく見ると口元に少しだけ、皺が増えている。亡くなった母さんは見ることがなかった、父が年輪を刻んでいるという証だ。

 ……大丈夫。僕はまだ……耐えられる。

そう。僕はまだ、マシなほうなんだ。

 歯を砕かれるほどに殴られるわけじゃないし、親の金を持ち出さなくてはいけないレベルのカツアゲも受けていない。

 世の中には、僕よりももっと悲惨で、許せないイジメを受けている人間だっているはずなんだ。

 だけど、彼らより被害が少ないからといって、僕が優れているわけじゃない。

 ただ僕は、運がいいだけなんだ。

 紛争地帯に生まれて、不運にも成人する前に命を落としてしまうほうを選ぶか。

 それとも、日本に生まれて、陰湿ないじめを受けながらも、耐え忍んで毎日を生きるか。

 そのふたつを比べること自体が問題外だとは思うけど……選ぶなら、絶対に後者だ。僕はまだ、恵まれている。負け惜しみじゃなく、きっと恵まれてる。

「なあ、一臣……もし、いじめられたら、すぐに言うんだぞ。こういうのはな、黙っているのが一番よくないからな」

「あ、うん……そうだね、黙ってるのはよくないね」

 僕が返事をすると、父は再びテレビ画面のほうへと視線を戻した。そこでは、素人臭さを〝親近感溢れるアイドル〟と無理やり言い換え、強引に個性に結びつけたアイドル集団の、新譜発売がどーたらこーたらというニュースが流れていた。

 ……父さんには悪いが、とてもじゃないが、言えないよ。虐められててもね。

心配をかけるのが心苦しいというのもあるけど、イジメってのは始まり方も理不尽ならば、対処方法も理不尽なんだよ、これが。

 例えば、一方的に苛められている人間がいたとする。無抵抗で、ただイジメに耐えてるうちは、周囲も苛められているほうに同情的だ。

 しかし──苛められている側が、そのイジメの事実を教師や親に報告した瞬間、往々にして周囲の目は変わってしまう。

 あいつはチクり野郎だ。

 生徒間だけで解決するような問題なのに、オトナに頼りやがった。

何の非もないのに。ただ、正当な権利を行使して、助けを求めただけなのに。

 その行為は〝反撃しやがった〟と受け止められてしまう。

問題化させた瞬間、苛められていた側のほうが──和を乱した存在、悪とみなされてしまうのだ。正当性を主張したにも関らず、だ。

 そしてそこから、さらなる負の連鎖がはじまる。気がつくと、クラスのほとんどの人間から、悪意のある瞳をむけられることになる。

 タダでさえ立場が弱かったのに、告げ口野郎、空気の読めない奴のレッテルを貼られて、さらに最悪の形で炎上する。

 すべてのイジメに、この事例があてはまるわけではないと思うが──僕はこのパターンに陥るいじめられっ子を、数多く見てきた。

 いじめられている方が正当性を主張することは、諸刃の剣なのだ。いじめっ子に痛快な方法で逆襲できるという、漫画のようなジャイアントキリングは、そうそう起こるわけはないのだ。

 だから僕も。

傷口を広げたくないから、江迎たちのイジメに、ただ耐えている。

 無抵抗という防衛策を主軸に据えて。

自分はまだ恵まれているはずなんだ。

 命までは削られてないという言葉で、自分を鼓舞しながら、僕は自らに言い聞かせる。

……心は、存分に削られているけどね。

『……ん? ここは……?』

 気がつくと、僕は見知らぬ暗闇の中にいた。

 周囲を見渡すと、天井は高く、左右にはむき出しになった岩肌が見える。どうやら…洞窟の中らしい。

 岩肌のところどころはボンヤリと光を放ち、幻想的な空間を彩っている。綺麗だ……まるで洞窟全体が水晶でできているみたい……。僕は見とれるように、周囲に視線を走らせた。

 と、そのとき。

『勇者よ…よく来たやで』

 洞窟内で反響するように、何処からか声が響く。

僕は周囲に視線を巡らすが、声の主は見つからない。

 ……なんとなく、下川の声に似ているような気がするけど。

僕を〝勇者〟と呼んだその声は、続けて言葉を継いだ。

『ワレの前に箱があるやろ? その中には、お主が封印した前世の記憶が入っとる』

 僕が視線を足元に下ろすと…なるほど、そこには金細工の装飾が施された五十センチ四方の箱が、ちょこんと置いてあった。 

 この中に…僕の前世の記憶が入っているって…どういうことだ。

『強すぎてたまりません! 勝った、勝った、爆進Vロードを歩んできたお主は、世の中に飽きてしもうた。せやから、それまで培った武の知識、知りえた世界の真理を、その中に封印したんやで』

 な、なんですと……! だから今の僕は、こんなに凡庸なんですね!

 じゃあ、この箱をあけたら…。

『ん。お前は元の力を取り戻し、勇者に戻る』

 続いて聞こえたのは先ほどよりも低い声。

安瀬の声に似ているような気がするが、スルーすることにする。

 何しろ目の前には、失われた力を取り戻すラプラスの箱があるのだ!

『ん。力を取り戻したお前は、夏コミの原稿にも間に合うだろう』

「トゥ、トゥルー!?」

 ごうし! ごぉぉぉぉっし!

僕は鼻息をスピルスさせながら、勢い込んで箱を開ける。

 だが。

 箱の中にあったのは、輝く財宝なんかじゃない。

 そこにいたのは…手に平に乗りそうな、ミニチュアサイズの江迎だった。

 背中には透明な羽が二枚生えており、妖精を思わせるようなローブをまとっている。

『そんな都合のいい話あるわけないでしょ。ばーか』

 巻き毛の妖精は僕をみるなり、履き捨てるようにそうつぶやいた。

 う、う、う…。

 うわあああああああああああああああああ!

 全身がセメントで固められたように動かない。

ただ、言葉にならない叫び声が、暗闇へと吸い込まれていった。

 直後、固まっていた足元から、全身にまとわりつくような不快感が這い上がる。

そして──意識は白光に飲まれるように混濁していった。

「……はっ!」

 ベットから上体を起こした僕は、机の上に置いてあるデジタル時計に視線を注いだ。

 午前三時二十五分……なんだ、まだ夜中じゃないか。パジャマ代わりのTシャツが、汗で身体に張り付いている。

 何か……悪い夢でも見たのだろうか。今後の運命を示唆する重要な夢だった気もするが、極めてどうでもいい夢だったようでもある。

「……忘れちゃった。まあいいかこんな夢」

 僕は額の汗をパジャマの袖でぬぐいながら、薄闇の中、銃コレ同人カレンダーに眼をやった。現在は六月十二日の日付に、×印がついている。今日、学校から帰ると、十三日の箇所にバツマークがつくはずだ。

 印刷所に原稿を送るまで……あと三十日。

この間には期末テストもあるから、自由に使える時間はそう多くはない。

 コミッカーズマーケットに参戦する前に、ジェネラル・締め切りに膝を屈するわけにはいかない。どうせ負けるなら不戦敗じゃなく、正面から立ち向かって、堂々と散ろうじゃないか。

 ……ってなんで俺、負け戦前提で話を進めてんだよ。

再び寝ようと思い、枕に頭を押しつけたが……なかなか寝付けない。

 僕はベッドから下りると、気晴らしにノーパソの電源を付けた。ヴーンという低い起動音とともに、暗闇に液晶画面の光が灯る。

 特に目的のサイトは無かったので、僕は自分のTwitterへと飛び、フォロワーが増えたり、発言にレスがついてないかチェックすることにした。

「……!」

 見ると、僕の最新の発言に、弧影さんがコメントを書き込んでいた。しかも、今回は数度の発言にわけた、かなりの長文だ。

 今日、寝る前の発言で僕は〝今、同人誌用の資料集めに奔走しています。ヨーロッパの古城の資料が集まっているサイトがないかなぁ……〟と書いていたところ、弧影さんが資料になりそうなサイトのアドレスを、レスとして返してくれていたのだ。

 リンクを辿ると、ヨーロッパの名城の写真集や動画集など、どれも参考になりそうなものばかり。これはかなりありがたい!

 僕は早速、DMを使って、弧影さんにお礼のメッセを返そうとした。

 が、しかし。

 弧影さんのコメントの最後の一文を見て、ふと、その手が止まった。

『私は新花さんがウラヤマシイです。想像の世界を形に出来る才能があるから』

 それは弧影さんが自身の才を嘆くというよりも、僕を励ますために書いてくれた一文であるのだろう。

 僕が……うらやましい、か。

冴えない風貌で、学校ではいじめられ、すべてにおいてパッとしないその他大勢。

 そんな僕を、うらやましいなんて言ってくれる人がいるなんて……いまいち、現実味が湧かないというか。

 実際に僕に会ったら、弧影さんはガッカリするんじゃないだろうか。そう考えると、何だか下っ腹がキリキリと痛くなってくる。

 でも……弧影さんがうらやましいと言ってくれるのは、僕自身の境遇ではなく、僕が描き出す創作物に対してだ。プロでもなければ、名の知れた同人作家でもない僕を、ここまで買ってくれているのは本当にありがたいことだ。

 ならば、弧影さんの期待に応えるには、創作への努力をもって示すしかないだろう。

しかし……決意とは裏腹に、先ほどまでまったく感じなかった睡魔が、僕の脳へと浸食を開始した。それも抗えないほどに、強烈なヤツが。

 頑張るのは明日からにしよう。僕はそう決意するとベッドに戻り、再びアルファ波の海原を求めて旅立った。

 針のむしろとはどのような状況か答えなさいと聞かれたら──。

僕は即座に、こう答えるだろう。

『ねえちゃん、針のむしろって今さ!』

 毎週水曜日は、午前最後の授業として体育がセッティングされている。

 一日のうちで最も空腹を訴える時間に、こういう非生産的な有酸素運動をあてがうとはまさに光翼型近接支援残酷戦闘機の如き所業である。

「よーし、じゃあ二人一組になって準備運動ー」

 年中ジャージに冴えない無精髭、という漫画に出てくる体育教師のテンプレそのままの、通称クマ髭。彼の号令が響いた直後、僕の周囲のクラスメイトは次々と二人組を形成していった。そして──号令から十五秒後、ペアを作れていないソロプレイヤーは、グラウンドに僕だけとなってしまった。

 周囲は次々と準備運動を始めるなか、僕だけが大地に立ちつくし、敷き詰められた砂利に虚ろな視線を注ぎ続ける。

 体操服の下に、じわりと嫌な汗が滲む。直接的な嘲笑こそ耳に届いていないものの、みんな心の中で笑っているに違いないんだ。『まーたあいつボッチだよ。ワロリッシュ』とか言ってさ!

「おい、槍巻。相手がいないのならこっちこい」

 所在無く立ちつくす僕に向かって、クマ髭の野太い声が飛ぶ。

僕は小走りでクマ髭の元にいくと、申し訳なさそうに頭を垂れる。

「お前、この前もペア作れてなかったよな? 鈍くさいなあ」

「はあ、すみません」

「それとも……まさかイジめられて孤立してるってことないよな? ガハハ!」

 ウッ! 皆さんお聞きになりましたかこの無神経さ! 

傷口を軽く抉ると同時に、深刻さを微塵も感じさせない笑い飛ばし。

デリカシーのパラメーターに一ドットたりとも能力値を振り分けていない、クマ髭ならではの外道的所業と言えるだろう。

 僕は愛想笑いでクマ髭の言葉をスルーしながら、しぶしぶペアになってストレッチを始めた。……ファック! どうしていつも、体育の授業に出ている生徒の数が奇数なんだよ!

 僕の所属するA組は、いつもB組の生徒たちと合同で体育の授業を行っている。四月に確認したところ、A組が二十名でB組が十八名。きっかり偶数だったはずだ。

 にも関わらず、どうしていつも僕が余ってしまうのか。答えは簡単だ……誰かが僕を陥れるため、意図的に体育の授業をサボっている!

 などど陰謀論をぶち上げてみるも、僕を陥れても何の利益も生まれないことは、十分承知しているわけで。

 体育の授業のたびにこんな気まずい気持ちを味わうくらいなら、いっそ僕もサボタージュを決め込もうか……そう思うものの、なかなか実行できない気弱な小生。

 僕が体育をサボる→生徒数が奇数になる→誰かペアを組めずに余る→槍巻がサボったから恥をかいた→熱い鉄拳制裁──という地獄のフローチャートが頭の中に即座に構築され、サボタージュに二の足を踏んでしまうのだ。

 クマ髭の背中に乗せられて、強制エビぞりを強いられている僕の目に、梅雨の晴れ間の空がまぶしく映る。

  と、同時に。

 グラウンドに沿って立てられたフェンスの外を、A組の女子たちが歩いている所が見えた。体操着姿で、手にはバトミントンのラケット。男子はこれから持久走をやらされるというのに……向こうは楽しい球技とは羨ましい限りだ。

 その女子集団の中から、あからさまに、僕に向かって注がれている侮蔑の目。

 江迎とサエグサ、それにヨツヤの三人組だ。

まるで珍獣を見るかのような視線を投げたあと、汚物から目を逸らすような素振りで、三人は女子たちの列の中に消えていった。

 ……僕がクマ髭とストレッチしているということ。

それが意味する真実に、あいつらは気付いていたはずだ。

 〝うっわ、ボッチだせぇ〟などと、嘲笑の的にされたのは確定的に明らか。

 なんだよ……僕が誰かとペア組めないことで、江迎たちに迷惑かけたかよ。誰かを困らせたのかよ。

 釈然としないものを感じつつ、僕はクマ髭から、バックブリーカーレベルのエビぞり攻勢をかけられながら、再び天空へと視線を移した。

 ……ああ、今日も無駄に空が蒼い。

「隣国を支援する国は滅びる──どうしてそのような簡単な法則が理解できんのやろな」

 またネットで仕入れてきた知識なのか、放課後の第二美術室で一席ぶつ下川。

僕はスケッチブックに原稿のネームを描きながら、下川のご高説を軽やかに聞き流す。

 安瀬に至っては、ヘッドホンで聴覚を外部遮断して、何食わぬ顔で四コマ漫画誌を読み進めている始末だ。

「アカンものはアカン、正面切って言える精神が必要や。今は日本人全体が、総じてはぐれ刑事慎重派、君子危うきに近寄らずの精神に汚染されとる。冒険心を忘れたら最後、リメイク連発するしかない某大手ゲームメーカーみたいになってまうで! 過去の常識に縛られず、輸送機の中のオモシロ黒人俳優に自分から話しかけてみるくらいの気概をみせなアカンで」

 冒険心の是非はともかく、こいつにだけは日本人全体を語って欲しくはない、と思いつつ、僕はそれ以上の反論をやめた。下川の熱しやすさと冷めやすさは異常で、どうせ明日になると〝そんなこと言いましたっけウフフ〟などと、某ガソリン値下げ隊みたいな寝言を放つに違いないのだ。

「で、槍巻氏。ジャッジメント・デイまであと二十日。原稿は間に合うやろな?」

 アジ演説に飽きたのか、下川は唐突に話題を振る。

「あ、うん。もう下絵もほとんど終わって、ペン入れも始めてるし……。二十ページなら、余裕を持って間に合うかな。ページ数を増やさなくてよかったよ」

「せやろ? 同人ビギナーは、まずは作品を完成させられるかどうかにマトを絞った方がええんやで。いくらクオリティやページ数にこだわっても、入稿せずに落としてもうたら作品は誰の目にもとまらへん。成果ゼロや」

 そう言って、下川は右手の親指と人差し指で輪っかを作る。

 素晴らしいこだわりがあっても、完成させねばゼロ、努力だけで終わるのは自己満足だ、とでも言いたいのだろう。

「来週からは期末も始まるしなー。油断しとると、使える時間はすぐになくなるやでー」

「そういう下川たちは大丈夫なのか?」

「ワイらは今回、ストーリーものじゃなくて四コマ構成やからな。プロットさえ完成しとったら、後はそんなに手間はかからへんで~」

「でも、表紙はカラーなんだろ?」

「ジョイナス三郎先生がpixivに上げるために描いてた、未発表のイラストがあってなあ。それがエエ感じやったんで、流用して表紙にすることにしたやで」

 下川がそう言うと、安瀬は一瞬だけ視線をこちらに向け、親指を軽く立てた。

なんだ。ヘッドホンしても聞こえてたんじゃん。

 僕は腕組みをすると、軽くため息をつきながら現状報告を続ける。

「今回は原稿用紙から取り込むんじゃなくて、最初からタブレットで線を描いてるからさ、ヨレヨレの線を修正する作業が大変だよ」

「お、フルデジタルゥー! ワイはまだ紙アンドスキャン派やで」

 僕もこれまでは、原稿用紙に描いた線画をスキャナでPCに取り込み、それに色を載せるという手法をとっていた。

 しかし父が使っていた、我が家の十年選手スキャナが先日お亡くなりになったこともあり、思いきってタブレットで線画から描く方法に変えてみたのだ。

 まだまだ紙と鉛筆のほうが作業効率、精度ともに高いのだが、下描きから全部モニターの中で済ますことができれば、机の上を消し屑だらけにする生活ともオサラバできる。

 スキャナ崩御をいい機会と考えて、思い切って描き方を変えてみる決意をしたのだ。

「まあ、描いていくうちに慣れることに期待するよ」

 僕は希望的観測を口にすると、手元のスケッチブックを閉じた。

 教室の時計はもう十八時を回るところだ。夕食当番ということもあり、今日は早めに第二美術室を退出することにした。

「じゃあ、今日はお先するよ」

「ん。乙」

「おつかレイサム」

 安瀬と下川の挨拶に送り出されながら、俺は第二美術室を後にした。

 期末テスト前だからか、校舎の中には生徒の気配がほとんどない。

グラウンドの人影も疎らだし、いつもは遠くから響いてくるブラスバンド部の演奏音や合唱部のハーモニーも、今は静寂の檻の中に閉じ込められている。

 と、そこに。

 前方から、複数の生徒たちの声が聞こえた。

周囲をはばかる事のない、はきはきとした喋り方の中に、生きているだけで楽しくてしょうがないと言わんばかりの笑い声が混じる。

 ……僕が苦手とする、江迎たちと同じ人種の奴らだ。

 男子三人に女性二人。

 彼らは……以前に、全校集会などで見たことがある。

 ──この学校の生徒会の連中だ。

 よく漫画やアニメ、ラノベに登場する生徒会。

そこには美男美女が集まり、生徒会権力を駆使して学園生活を満喫し、ときには学園内の悪と戦ったりもする。

 創作物での生徒会は完全青春体。弱者の味方にして、法の番人だ。

しかし……リアルはそうじゃない。

 話を聞く限り、生徒会の連中は、生徒会室で平気でタバコを吹かしたり、親しい仲間内を呼び込んでの溜まり場にしたりと、好き勝手し放題らしいのだ。

 生徒を取り締まる側の人間が、平気で規律を破る。

しかし生徒は誰も、彼らに意見する権限を持っていない。

 要は、マフィアの筆頭が警察権力を握っているようなものだ。だが憎らしいことに、生徒会の連中は総じて成績も優秀で、教師受けもいいらしい。そこが彼らの権勢を磐石なものにしている一因だろう。

 彼らは、自分たちが楽しむためだけに、そして内申点のためだけに、生徒会という役職についているのだろう。校内美化に尽くしたり、校内の弱者を救済するなどという考えは、これっぽっちもないと思われる。

 おそらく僕が、イジメ問題を相談したいと生徒会室に駆け込んでも、〝うぜーし面倒だからお前学校辞めろや〟などと言われるのが関の山だ。うん、すごく容易に想像がつく。

 それでいて、生徒会役員を努めたという理由で、推薦入学のオマケも持って、彼らは次のステップに進めるのだ。

 ……なんだこのクソゲー、完全にバランス崩壊してるじゃないか。

 だからといって、僕がこのクソゲーのバランスを是正すべく、生徒会の連中に宣戦布告するかと言えば、答えは絶対にノーだ。ただでさえ肩身の狭い学校生活を送っているのに、これ以上ネガティブ要因を抱き込みたくない。

 僕は学内権力をその手に握る一団の横を、身を小さくして通り過ぎる。まるで大名行列にひれ伏す、旧時代の最下層民のように。

 学校の中ですら、ここまでの格差が生まれているのだ。卒業して世の中にでたら、どれほどの格差が僕を待ち受けているのか。

 暗澹たる思いに駆られながら、僕は帰路を急いだ。

無性に、あの世界に行きたくなったから。

 僕の頭の中だけにある──遥かなる幻想の世界へ。

 水連に囲まれたその館には、見目麗しく、心優しい女主人が住んでいた。

 あるとき、旅のドルイドが館を訪れた際、女主人に呪いをかける。

 それは、美しいものを見た瞬間、気を失ってしまうという呪いであった。

 呪いのせいで女主人は、鏡に映る自分を見ただけで、気を失ってしまう始末。

 日に日に女主人は憔悴していく。だが、その美しさは変わらぬまま。

 ついには、女主人は自らの顔を傷つけ、美しい顔を捨てようと試みる。

 しかし──それをとめたのは、彼女に仕える小間使いの少年であった。

 女主人に拾われた彼は、献身的に主人に奉仕していた。

 そして同時に、主人の美しさに心酔していたのだ。

 主人の美貌が、失われることがあってはならない。

 小間使いは何とか呪いを解きたいという一心で、旅立ちを決める。

 目指すは水晶の谷に住む、智の権化として知られる英傑竜。

 彼ならば、呪いを説く方法を知っていると考えたからである。

 小間使いは、十の絶壁と十の血河を越えて、竜の元へとたどり着く。

 そこで彼は、主を救うために教えを請うのであった。

「教えてくれ英傑竜。僕はご主人様の呪いを解きたい」

「よかろう。知恵を授ける」

「ありがとう、英傑竜」

「だがその代償として、お前の腕を一本もらうぞ」

「……僕の腕を?」

「そうだ。そしてそれは、呪いを解く鍵でもある」 

「かまわない。ご主人様の呪いが解けるなら」

 小間使いは静かに、自らの左腕を英傑竜へと差し出した。

「……ちょうど半分か……今日はこの辺にしておくか」

 銃コレキャラクターがあしらわれたノーパソの時計を見ると、すでに午前三時を指していた。ニモニモ動画の二時の時報の時に寝ようと思ったのに、ついつい同人原稿を頑張りすぎてしまった。

 初めて制作する同人誌は、二十ページの創作漫画。最初はイラストとショートストーリーにしようと考えていたが、時間に少しだけ余裕があったので、コミック形式で表現することにした。

 僕が創作したオリジナルのハイファンタジー、〝水晶飛竜と花冠の塔〟は、萌えキャラも無双系の俺TUEEEEEEEEな主人公も出てこない。いわば正統派の幻想作品。

 今回同人誌に描くのは、その世界観を使ったワンエピソード。気まぐれな魔法使いにかけられた呪いを解くため、一人の少年が運命と戦う話を描いている。

 アイデアだけはたっぷりあって、あれもこれもと詰め込みたかったが、ページ数は無限ではない。というか週刊漫画の一話ぶんのページ数しかない。

 このスペースに起承転結を入れて、なおかつ物語の世界観を確立させなくてはならないのだ。昨日までは漫画の設計図である〝ネーム〟を作る作業に、大変頭を悩ましていた。

 しかし、それはまったく苦ではなかった。

 作業に没頭していると、学校でのいやな事も全部忘れられる。将来への漠然とした不安も、すべて消える。

 ……逃避してるんじゃない。ここが、僕のいるべき世界なんだ。

 世界の価値観を決めるのは僕で、広がる世界すべては、僕の領土だ。

 この世界に触れた人は、どんな感想を抱いてくれるだろうか。

 興味を持ってくれるだろうか、共感してくれるだろうか。

 僕が創造した世界に吹く風を、感じてくれるだろうか。

 まだ見ぬ読み手のことを考えるだけでも、ニヤニヤが止まらない。

 そうだ……読み手で思い出した。今日もTwitterで宣伝しとかなくちゃな……。

僕は作業中の原稿の1カットだけをトリミングして、Twitterにアップした。

 〝作業はちゃんと進んでますよ!〟というアリバイ作りというか、正確に言えばただ独りのリピーターであるところの弧影さんに向けてのサービスなのだが。

 彼がどんなコメントしてくれるか、本当に楽しみだ。

 発言に書き込まれた彼のコメントに対し、僕がコメントをさらに返す。それは交換日記というか……半ばチャット状態と化していた。

 前に、孤影さんからコメントで〝新花さんの描く世界は、奥行きを感じられるから好きです〟との一言を頂いた。僕自身は、世界に奥行きを出すなんてことを意識してやっているわけではないが……彼が言うには、僕が〝設定〟として用意していたオリジナルの通貨単位や距離、重さの単位など、そういう細かな部分まで考えているのが素晴らしい、とのことであった。単に、設定厨がこじれただけなんだけどなぁ……。

 でも、そんな小さいところに共感してれる弧影さんの存在が嬉しかったし、何より、僕と同じような感性をもった人間がいてくれるというのは、このうえなく心の支えになってくれていたのだ。

 第二美術部の連中も、僕にとって重要な盟友たちだが……創作活動においては、顔も年齢も知らない孤影さんこそが、背中を後押ししてくれる存在だったのだ。

 ……クラスにも、弧影さんみたいな人がいてくれたらなあ。

江迎たちのような粗野で凶暴な輩たちと、是非ともトレードしてほしいよ全く。

 僕は、体育の授業の時に受けた、江迎たちからの侮蔑を思い出すと、苦々しく鼻を鳴らした。

 PC上での原稿ペン入れはすでに終わり、後はスミベタやトーンのテクスチャーを十ページ貼るだけとなってきた。このままのペースでいけば、七月上旬、期末テスト明けにやってくる締め切りにもバッチリ間に合う。

 僕はベッドに倒れこむと、背伸びをしながら、大きくあくびをひとつ漏らす。

覚えている記憶はそこまでて、意識がブラックアウトするまでは、五秒とかからなかった。

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