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北野さんは 完結

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古本屋の店主の僕と、近くの高校に通う常連客の北野さん。ふたりの話と初恋の話。

1位の表紙

目次

  • 1.

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1.

 北野さんはこの古本屋の数少ない常連で、店の前の道をのぼって丁字路を右に折れ、山間の集落へ繋がるトンネルの手前にある県立高校に通っている。

 一昨年の夏に僕が帳場で足の爪を切っていると、いつの間にか本を一冊持って目の前に立っていた。

「ごめんなさい」と言うと、北野さんは「足の爪って気がついたら伸びてますよね」と、女子高生にしては会話慣れしたような返事をした。

 普段の女子高生の会話がどんなものかは分からないけれど、これまで入店して来た女子高生と会話した経験から、四〇を過ぎた男と女子高生は会話が成り立ち難いことは分かっていた。

 北野さんとの最初の会話で女子高生だと判断するのは難しかったけれど、着ていた制服から、道の先の高校に通っているのだとすぐに分かった。

「こんな時間まで学校?」

 夜の九時を過ぎていた。日本海に面する小さな港町では、ほとんどの店がもう閉まっている。

「いじめですよ」

 帳場に置いた『アルケミスト』の文庫は薄く、日に焼けて小口が変色していた。

「一〇〇円です」

 北野さんが財布を取り出しているあいだに「する方? それともされる方?」と訊くと「何がですか?」と訊き返されたので「いじめ」と補足した。

「される方っぽいです」

「確かじゃないんだ」

 文庫本の横に百円玉を置いた北野さんは、僕が本を袋に入れるのを見ながら頷いた。

「そこに、廃病院あるじゃないですか」

 店の前の道をのぼった先の丁字路を左に折れると廃病院がある。

 大正初期までは近くの山から銀が採れ、そこで働く坑夫や、銀を出荷するためにこの町の港も使われていてそれなりに人がいた。宿場町でもあったから、いまでも江戸期の建物が残っていたりするし、老舗旅館の建物が有形文化財として残っていたりする。病院は明治後期に建てられ、銀鉱山が水害で廃坑になってから急速に人は減ったけれど、病院はそのまま残っていた。この地域では一番大きな病院だったし、戦後には大先生と町の人たちが呼ぶ名医もいた。

 僕が東京から戻って来た十五年前に、病院は隣町に移転し、建物だけが残った。

 それなりの歴史がある病院も北野さんにとってはただの廃病院で、友達と肝試しをする場所らしかった。

「待ち合わせしてたんですけど、ぜんぜん来なくて、二時間くらい待ってたんですけど」と、北野さんは友達に肝試しに誘われ、病院前に一人で立ち続けていたことを教えてくれた。

 肝試しをするのに夜の七時頃に待ち合わせをするのは可愛らしいなと思ったけれど、最終電車に間に合わせることを考えると妥当な時間かもしれない。

「お店って何時までやってるんですか?」

 買った本を鞄に入れながら北野さんが言った。

「だいたい一〇時頃かな……奥が家だし、店を閉めてもここで仕事してるから、開けようと思えば寝る前まで開けられるんだけどね」

 そう言ってすぐ、営業時間だけを伝えた方がスマートだったと思う。

「定休日とかあるんですか?」

「火曜日が休み。それ以外は朝の一〇時くらいから」

 その後は「気をつけてね」とかの会話を交わし、北野さんが帰って僕は閉店の準備を始めた。

 それから数日して、北野さんは昼間にやって来た。平日なのに私服だったから理由を聞くと、前回来た日で一学期は終わっていたらしく、あの日は終業式だった。

 その日の北野さんは『O・ヘンリ短編集』と『ポケットに名言を』を買った。

 夏休みのあいだ週に二回程度、北野さんは来店した。

 会話をすることもあれば、本を買ってすぐに帰って行くこともあった。近隣の町に古本屋は他にないし、学校の近くで寄り易いのだろうと思う。家の場所を尋ねるのは気が引けたので「学校も無いのに来るのお金掛かるでしょ」と訊くと「六か月定期なんです」と教えてくれた。

 会った最初に「いじめ」と聞いていたので、部活や友達のことを僕から訊くことはなかったけれど、会話の途中でそういった話になることもあった。部活は帰宅部で、通っている塾に友達がいるおかげで学校でのいざこざはそんなに気にならないと言っていた。

 それでも「お薦めの本ってありますか?」とか「このあいだテレビでやってた映画が良かった」とか、学校以外の話題から北野さんは話し始めた。

 だから僕も「ドストエフスキーは読んだ?」とか応えて、大人らしく「若いうちにたくさん読んでおきなね」だとか付け加えながら、学校の話にならないよう北野さんと会話をしていた。北野さんが本棚を見ているとき、僕から話し掛けることはなかった。

 二学期が始まると北野さんの来店頻度はあがった。来店時間も昼頃になり、学校をさぼっているのはすぐ分かった。

 北野さんは大変だと思う。

 北野さんが通っている学校は数年前に廃校になることが決まり、廃校が決まって最後の入学生が北野さんたちで、北野さんたちに後輩はいない。廃校が決まるくらいだから生徒の数も少なく、今の三年生が卒業してしまえば北野さんたちだけになってしまう。

 地域との交流が盛んで、文化祭や体育祭などは町の人たちも出入りが自由だし、店に来る近所の人たちは高校がなくなることを本当に悲しんでいて、道で男子高校生とおばあちゃんが楽しそうに会話をしているのを僕も見たことがある。

 そういうのは良い面とも言えるけれど、北野さんの立場を思うと厳しい面も多いだろうなとついつい考えてしまう。

 百人未満の集まりの中でいじめにあうのは、程度や深刻さに関わらず、学校に行きたくないだろうなと思う。

 あるとき、午前中のうちから店に来ていた北野さんが「お願いがあるんですけど」とかしこまって言うので「どうした?」となるべく気負わずに言うと「ここでお弁当食べても良いですか?」と言ってきた。

 鞄から手作りの弁当を取り出して「お母さんが作ってくれるんですけど、外で食べるのはもうちょっと寒くて」と困った顔をしている。

 それまで外で弁当を食べていたことを知って急に僕は涙が出そうになった。

 北野さんの事情を思って泣きそうになったというより、『女子高生が外でひとり弁当を食べている姿』という画像が強くて、もし僕が見知らぬ町で少し離れたところにひとりで弁当を食べている女子高生を見つけたら、それだけで泣いてしまうと思う。女子高生が幸せそうに食べていても泣けると思う。

「ちょっと待ってね」と僕は言い、ここ数年誰も上げていない台所へ行き、片付けるのには二日かかると諦めて、テーブルの上を簡単に拭いて帳場に戻った。

「汚いけど、奥の台所でどうぞ」と言って案内する。

 北野さんが台所にいるのがとても不思議だったけれど、僕は気にしないふりをしてお湯を沸かし始めた。

「お茶、いる?」

「水筒持ってきてるんで大丈夫です」と北野さんが答え「じゃあ僕は店の方でカップラーメン食べてるから、適当に必要なものがあったら使って良いよ」と僕は戸棚からカップラーメンを取り出しながら言った。

「すみません、ご迷惑ですよね」と北野さんが頭を下げる。

「こっちこそ、普段ちゃんと片づけとかしないと駄目だよね」と言った。

 弁当を食べ終えた北野さんが店に戻って来ると「お店が塩ラーメンのにおいする」と笑った。

 その日から次の店休日にかけて僕は台所を掃除した。

 次に北野さんが来店したときも弁当を奥で食べたいと言ってきて、綺麗になった台所を見て北野さんが笑った。

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2.

 年度が変わってもいじめは続いているらしかった。

 物を隠されたりとか壊されたりとか、お金をせびられたりとかはなく、ずっと無視されているだけなので授業を受けていれば気にならないと言っていた。それでも行きたくないと思うことも多いようで、学校に行きたくないと思ったら駅でバスを見送り、北野さんは歩いて店までやって来る。

 ただ、雨が降っていると歩いて店まで来るのが面倒なのか、バスに乗って学校へ行っているようだった。

 いつだったか近所の人に「あの子は登校拒否なの?」と訊かれたとき「さぁ、お客さんのことを詮索するのもねぇ」と遠ざけた。

 北野さんはうちで弁当を食べた後、そのまま台所で小説を読むようになった。

 大学に行きたいと言っていた北野さんは文学部を志望するらしく「読んでおいた方が良い小説ってありますか?」と僕に訊いたことがあって「とりあえず、知ってるタイトルの本を全部読んでいけば?」と助言をしたのだけれど、北野さんはちゃんとそれを実行し、一冊読み終えるとそのあとがきを書いている作家の本を買ったり、テレビのクイズ番組で問題になっていた作家の本を探したり、時々僕にお薦めの本を尋ねたりして、目的の本が店になければ新刊書店で買ってきて読んでいた。

 本を読んでいる北野さんは真剣そのもので、ちゃんと読んで行く。文字を読むときに口が動いて、文字を音としてもちゃんと捉えていて、加えて感受性も高かった。あるとき僕が台所に入ると北野さんが泣いていて「どうしたの?」と訊くと「このいろんな色のシャツに埋もれるところがすごい良くて」と『華麗なるギャツビー』について説明してくれた。

 北野さんは台所という場所を得て、長時間滞在するようになった。それまでは他の生徒の帰宅時間よりも前に帰っていたけれど、その時間を台所に潜んでやり過ごした。

 月曜と水曜は塾が休みなのか、北野さんは夕方まで台所にいた。僕は北野さんのために文庫用のカラーボックスを台所に置き、北野さんは読んだ本を順次そこへ納めて行った。

「こんなバラバラな読み方で良いんですかね」と北野さんは背表紙を眺めながら言い、僕は「最初は質より量だよ」と答えた。

「卒業までに何冊いけますかね」

「これ、最後どうするの?」と訊くと「このお店に売る予定です」と言った。その口調がとても冷静で、僕は北野さんを少し尊敬した。

 私生活のことなど、僕からは何も訊かなかったので、勉強ができるのか、スポーツができるのか、家族構成や住んでいる場所など、北野さんのことはよく知らない。僕が知っているのは読んだ本に関する感想だけで、古本屋としては十分な情報だと思う。あまり響かなかった本の感想は短いことが多く、「男ってバカなの?」と『谷間の百合』を読んだ後に言い、「変態」だと田山花袋の『布団』を読んで言った。『カモメのジョナサン』は「友達になれない」、『海辺のカフカ』は「半端なファンタジー」、梶井基次郎は「薄暗いファンタジー」と言った。古井由吉はちょっと好きそうだったけれど、感想を尋ねると「湿度が高い」とだけ随分考えた後に言い、心に響いた本でも感想が短いときもあるのだと知れた。

「もうあんまり来れなくなるかも」と言ったのは、北野さんが店に来て二度目の夏休みを迎えた頃で、「塾での受験勉強が忙しくなる」と付け足した。

「それは、寂しくなるね」と素直に言うと、北野さんも「ですね」と同意してくれた。

 実際に北野さんが店に来る回数は減り、二学期が始まると月曜と水曜に来ていたのが月曜だけになり、台所でも本を読むのではなく勉強をしていることが多くなったけれど、北野さんの本が並ぶカラーボックスには時折本が追加されていたので、読書は続いているらしかった。

 受験勉強はいじめにも影響し、他の生徒たちも勉強をし始めてわざわざ北野さんをいじめることもなくなったと教えてくれた。

「無視しなくなったからって、喋りかけられるわけじゃなくて、誰とも会話はしてないんですけど」と笑いながら北野さんが言った時があって、それを上手く言葉にできないまま「過度に嫌がられない……感じ」と言っていた。

「つまんない?」と僕が試しに訊くと「ちょっと張り合いがなくなった」と北野さんは笑った。

 十二月のある日、北野さんは来店するとそのまま帳場を抜けて台所に鞄を置き、戻って来ると棚を眺め始めた。

「何か読みたい」と呟いて、北野さんはツルゲーネフの『はつ恋』を手に取った。

「読んでなかったっけ?」と尋ねると「前に読みたいって思ったときお店になくて」と財布から百円玉を出しながら言った。

「面白いですか?」

「読んでおくなら、若いうちかもね」と面白いかどうかは答えなかった。

 いつも通り北野さんは台所で本を読み、僕は帳場でネット注文分の本を袋詰めしていた。

 その日も北野さんはずっと台所にいた。

 七時が過ぎ、いつもなら帰る準備をする北野さんは『はつ恋』を持って帳場に来ると「初恋って憶えてます?」と訊いて来た。

「そんな本を読ますんじゃなかったかな」と言う僕の言葉には反応せず「話はちょっとアレですけど、みんなで初恋を披露しあうとか面白そうですよね」と北野さんは笑った。

「話はちょっとアレ」と言った『アレ』が気になったけれど、僕は北野さんを見て「披露したいの?」と訊いた。

「私は別に、披露したいって言うより、聞いてみたいです」

 北野さんは少し間を置いて「じゃあ、これから夕飯を買ってくるので、戻って来るまでに思い出しておいてください」と強引に話を進めた。

「家に帰りなよ」と言うと「今日は大丈夫です。さっき親に『友達と夕飯食べて来る』って伝えたので」と返って来て「もうここで食べる気満々じゃん」と応えると「何食べます? 料理は無理なんで何も作れないんですけど、お弁当とか買ってきますよ。私のおごりで良いです」と北野さんは淀みなく言った。

「えっと、どこから何を言えば良いのか分かんないけど」

「だから、私がお弁当を買ってくるあいだに、初恋を思い出しておいてくださいね」と北野さんは言い、店の外へと出て行った。

 弁当を買うためには駅まで行くことになるし、帰って来ても閉店時間までは時間があるからそれまでどうするのだろうと僕は考え始めていて、気がつけば北野さんの言うとおりに頭を働かせていた。

「初恋ねぇ」と呟いてみたものの、人に聞かせるような初恋は思い浮かばない。

 考え始めると仕事どころじゃなくなり、店内をぐるぐると歩きながら昔を思い出した。

 北野さんは予想通りの時間で戻って来て「寒い寒い」と言いながら店のヒーターに手をかざして暖をとり始めた。

「何買ってきたの?」と訊くと「焼肉弁当」と言った後「何が良いのか分からなかったんで、お父さんが好きなのにしました」と言った。

 ビニール袋を開けると他にもサラダが別に買ってあり、「食後のおやつ」と称してプリンがふたつ入っていた。

 僕は閉店時間を早め、シャッターを閉めたりするあいだに北野さんには夕飯の準備を台所でしてもらった。

 店内の明りが一瞬だけ弱くなり、北野さんが電子レンジを使ったのが分かった。

「いただきます」と言ったすぐに、北野さんは「で、初恋の話は?」と言って僕を見た。

 僕はもう少し落ち着いてから話し始めたかったけれど、北野さんを見ると何を言っても無駄そうだったので話し始めることにした。

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3.

「保育園か、小学校の一年くらいのとき」と始めると「何年前です?」と北野さんが訊くので「四〇年近く前」と答えたのだけれど、その年数に改めて驚く。

「親に連れられて、どこかの体育館みたいなところに行ったんだけど、なんでか、ひとりで隣の公園で遊んでたんだよね」

 僕は曖昧な記憶を辿り、なるべく詳しく話そうと思うのだけれど、正確な場所も、どういった公園なのかも全然思い出せなかった。

「公園にはそんなに人がいなかったと思うんだけど、ひとりで砂場で山を作ってて」

 四〇年も前のことになると北野さんとの環境の違いが気になるけれど、たぶん公園は昔も今もそれほど変わらないだろうと思う。

「広い公園だったと思うんだけど、小さい頃の記憶だし、今もし見に行けたら小さく感じるのかな」と付け加えると、北野さんは「このあいだ久しぶりに小学校の横を通ったら、運動場が狭くてびっくりしました」と、サラダを食べながら言った。

「こうやってね」と身振りを加え、しゃがみ込んで砂山にトンネルを掘っている格好を再現して「気づいたら横に女の子が立ってたの」と言うと「オバケとかじゃないですよね?」と北野さんが訊いた。

「違う……と思うよ。うん、大丈夫」

「それが初恋の人ですか?」

「気が早いね……まぁ、そういうことなんだけど」と僕は答え「初恋って言って良いのか分かんないけど、ずっと憶えてるんだよね」と北野さんに伝えた。

「『何してんの?』とか言われたと思うんだけど、そこらへんはもう全然憶えてない」

 北野さんはご飯をのりで包みながら話を聞いている。

 僕も弁当を食べながら話しているから途切れ途切れになるのだけれど、僕が食べているあいだに北野さんが質問をしてきて、僕はそれに頷くか首を振るかで答え、それからまた続きを話した。

「気がついたら一緒に遊んでて……憶えてるのは、その山のトンネルの向こうから女の子が水を流して、山のこっちの水路を二手に分けてね……どっちに流れるか見てたり」

「どっちに流れたんですか?」

「そんな細かいことはさすがに憶えてないよ……あぁ、でも女の子が右側にいたのかな。ふたりでしゃがんで、木の棒とかを立てたりして、水で流されたりして」

 自分が何を忘れて何を憶えているのかを確認しながら、久しぶりに思い浮かべた光景は青空だった。本当に青空かどうかは分からないけれど、青空であれば良いなと思った。

「それから、公園の端で石を積み上げたり」

「よく憶えてますね」

「ね……女の子の方がちょっと年上だったと思うんだよね。なんとなくお姉さんな感じがして、僕よりも器用で、慎重で、石を積み上げるのも上手だった」

「女の子の服装とかは?」

「憶えてないなぁ」

 髪型も、服装も、顔の作りだって何も憶えていないけれど、幼い僕の前にあの『お姉ちゃん』はいた。

「でも、僕が石を持って行くと『こっちの方が平べったいよ』とかって、交換してくれたのをすごい憶えてるな」

「嬉しかったんですかね」

「そうなんだろうね……僕はひとりっ子で、親戚とかも遠くにいて滅多に会えなかったし、そうやって女の子と遊ぶこともなかったからね」

 北野さんは僕より食べ進んでいる。

「それから、あの木のアスレチック……三角の山形になってて、ロープが垂れ下がってて、ロープを掴んでのぼる、遊具あるじゃない」

「あの反対側がネットみたいになってたりするやつですよね」

「うん……反対側はどうなってたのかな」

「憶えてないんですか?」

「そう、それをね、そのお姉ちゃんが先にのぼって行って、僕が追い付こうとのぼってるときに、お姉ちゃんが家族に呼ばれたんだよね」

 僕は山の中腹にいて、お姉ちゃんは家族に呼ばれてすぐ山を駆け下りて行った。

「僕の横をさっと下りて行って……振り返るともうお母さんとお父さんの近くまで行ってて」

 北野さんは弁当を食べ終わり、箸をおいて手を合わせた。

「『じゃあね』って、手を振って」

 その光景はずっと忘れないでいる。

「初恋の思い出はこれだけ……僕は、遊んでるあいだ、ぜんぜん喋らなかったんだよね。こっちが何か言う前に『あれで遊ぼう』とか『向こう行こう』とか言って、ほんと付いて行くだけだった」

 付いて行くのに必死で、でもそれが全然嫌じゃなかったと思う。

「なんか、もっと愛とか恋とかの話かと思ってました」

「そういうのが良かった?」

「どうだろ、予想外だったけど、こういうのも良いと思います」

「ありがと……恋愛経験は豊富じゃないからね、急にドロッとした話も嫌でしょ」

「でも、ちょっと逃げられたかなとも思います」

「そうねぇ、初恋って言われても、聞かせるような話はなかなか、ね」

 僕が遅れて弁当を食べ終わり「お茶が良い? それともコーヒーとかにする?」と訊くと「コーヒーを」と北野さんが立ち上がりながら言った。

 僕がコーヒーを作っているあいだに北野さんは弁当の容器を水洗いし、それからテーブルの上のビニール袋を開けてプリンを取り出した。

「その女の子とは、それきりなんですか?」

「どこの子かも、名前も何も知らないからね」

 僕は北野さんの前にコーヒーを置き、僕の分は手に持ったまま椅子に座った。

「時間はまだ大丈夫?」

 時計を見た北野さんは「大丈夫です」と答え「じゃあ、次は北野さんの番だね」と僕が言うと「あ、帰らなきゃ」とわざとらしく言った。

「言い出しっぺが逃げちゃ駄目でしょ」と笑うと、北野さんは難しい顔をした。

「例えばですけど、小説みたいに、書いて来るとかって駄目ですか?」

「……そっちの方がハードルあがると思うけど」

「そっか……そうですよね」

 ふたり同時にプリンの蓋を開ける。久しぶりにプリンを食べる。

「初恋って、何だろ」

 北野さんが呟き、僕は「ね」とだけ同意する。

 ぽつぽつと会話を交わしてプリンを食べ終え、僕は「北野さんの初恋は今度聞かせてもらうよ」と帰るのを促した。

「駅まで送ろうか?」と訊くと「大丈夫です」と北野さんは言い、帰る準備を始めた。

 シャッターを開けて外に出る。駅の方は明りが見えるけれど、高校のある山の方は真っ黒で、その上の雲の方が明るかった。

「気をつけてね」と声を掛けると、北野さんは「はい」と言い「また来ます」と歩き始めた。

 何となくそのまま北野さんの背中を見続けていると、先の街灯の下で北野さんが振り返り、僕は手を振った。お辞儀でもするかなと思ったら、北野さんも小さく手を振った。

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4.

 何の確証も無く、もう来ないかなと思っていると、センター試験が終わってから二日続けて北野さんは店に来た。

 センター試験はそれなりにできたと自慢し、今度受験で東京へ行くと言い、大学に行ったら友達ができるだろうかと心配していたので「友達なんて作ろうと思わなくていいよ」と伝えた。

「好きなことしてれば、勝手に同じ趣味の人とかが集まってたりするから」と言ったけれど、北野さんが納得しているのかは分からなかった。

 三月の半ば、北野さんは「東京の大学に行きます」と伝えに来てくれた。

「おめでとう」と言うと「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。

「今日は親の車で来たんです」と北野さんは言ったのだけれど、両親の姿は見えなかった。

 北野さんは「ちょっと離れたところで待っててもらってるんです」と言い「お店に来てくれれば良いのに」と僕が言うと「恥ずかしいので」と北野さんは笑った。

「そうだ」と僕は北野さんの注意をひき「あの本はどうする? 売るんだったら査定してお金払うよ」と続けると「寄付します」と北野さんは言った。

「最後のページとかに私が感想書いたりしてるので、売り物にならないんだったら捨てちゃって良いです」

「分かった、ありがとうね」

「こちらこそ、ありがとうございます……それじゃあ、もう行きますね」

「大学、楽しんでね」

 僕がそう言うと北野さんは頷いた。

 僕が「じゃあね」と手を振ると、北野さんはまた小さく手を振ってくれた。

 北野さんと出会ってから、足の爪を切るたびに北野さんを思い出すし、足の爪を切るときは必ず店番の最中にすると決めている。足の爪を切りたいと閉店中に思ったりすると、僕は台所のカラーボックスの前に行き、適当に一冊引き抜いて奥付に走り書きされた北野さんの感想を読むことにしていて、昨日もそうして本を手に取り、『異邦人』の奥付の余白に書かれた「太陽は暑いに決まっている、ママンはまだ死んでない」という文を読んだ。その『異邦人』を帳場の目立つ場所に置き、明日これを見れば足の爪を切らなければいけないことを思い出すだろうと思い、そして実際、今日帳場でその本を見て僕は爪を切ることを思い出し、お昼を食べた後に足の爪を切り始めた。

 爪を切ることと北野さんが来店することが僕の中ではしっかり繋がっていて、足の爪を切るのに集中していたら突然目の前に北野さんが立っているんじゃないかとどうしても考えてしまう。

 そのたびに、「北野さんが東京にいることは分かってるけど、そういうことじゃなくて」と僕は僕によく言っている。

 北野さんとまた会えたら「梅雨が明けて高校の解体が始まった」とか「まだカラーボックスには本を残してある」とか話したいことを考えようとするけれど、ずっと前から僕は集中して足の爪を切ることはできなくなっていて、店の前の道を車が通っただけでも気になってすぐ顔を上げてしまうし、つい今も、郵便配達のバイクが店の前に停まるのを見ていて、それより前からバイクの音は聞こえていたから、もうすぐ郵便配達が来るだろうと思って爪を切るのを中断してさえいた。

 爪切りを机に置き、立ち上がって郵便物を受け取る。

「ご苦労様です」と言い、バイクが去って行くのを見送ってから郵便物をひとつずつ確認する。知り合いが参加するイベントのチラシがあったり、遠方の同業者からの目録があったりする中に、見慣れない文字で宛名が書かれた角3号の封筒があった。

 カッターで封を切ると、三〇枚ほどの紙の束と一筆箋が見え、先に一筆箋だけを取り出して見ると、やっぱり見慣れない文字が並んでいる。

「友達もできました。」

「読んだ本がちゃんと役に立ってます。」

 目に入った文章の断片だけでも、それが北野さんの文章だと分かって、僕は改めて「お久しぶりです」から始まる北野さんの手書きの文章を読んだ。そうすると、見慣れない文字だったのが急に本の奥付に書いてあった北野さんの感想の文字と一致した。

 封筒の中には北野さんが書いた『初恋』の物語が入っていることも分かった。

 一筆箋を端に寄せ、封筒から慎重に紙の束を抜くと、表紙には『初恋』とシンプルなタイトルが印字されていて、店を閉めてからじっくり読もうかと思ったけれど、どうせ客は来ないだろうし、「すぐに読んでみようか」とわざと声に出した。

 急いで台所へ行き、念入りに手を洗う。タオルでしっかりと手を拭い、帳場に戻って深呼吸をした。

 椅子に座り、端に寄せていた一筆箋をもう一度読み返す。

「初恋を冷静になってまとめるまでに時間が掛かってしまいましたが、読んでもらえると嬉しいです。」

 最後の一文を読み直し、僕は目の前の原稿に手を伸ばした。

北野さんは 了

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