正門を入って左側、武道場の隅に自販機がある。緑の魔女。彼女が描かれたパッケージ。90円のカフェオレを買う。空は青いが、気持ちは暗い。高校3年生、受験生。夏休みはない。午前中の補習が終わり、休憩をする。 夏風がユウコの髪を揺らす。茶色の線が白壁を染める。ベンチに座り、グラウンドを眺める。視線の先には、サッカー部の後輩、リョウマがいる。ボール目掛け、躍動する。ユウコとリョウマ。大好きな友人だ。「わたし、県外に進学したいんだよね」「そっか。おれんち、金ないし。私大なら地元かなあ」 僕は理数科目が致命的にできない。ビートルズ好きの父の影響で、幼い頃から英語に触れていた。文系私大なら行けるが、…続きを読む
音のない世界。全くないというわけではない。「どうぶつビスケット」のキリン。その肌色の補聴器を付ける。わずかに聞こえる音。口の動きを頼りに相手の言葉を汲み取る。 幼い頃からいじめられた。泣くまでばかにされた。幼馴染のユミは味方だった。この町には何もない。潮風で錆びた鉄骨が並び、シャッター通りの商店街。将来に対する展望は暗い。希望もない。 僕の家からは海が見える。徒歩5分で埠頭に着く。そこにはベンチがある。僕とユミはそこによく座り、取り留めもなく話した。僕が落ち込んだ日は近くの自販機からコーラを買ってきてくれた。コーラを飲むとユミを思い出した。彼女が町を去った二年間は一人でそこに座り、ただ波…続きを読む
僕たちの祖先は猿だ。元来、ケモノなのだ。生まれつき所属する集団は決められている。同じ嗜好、匂い、雰囲気の人間で集まり、コミュニティをつくる。この64平方メートルの箱には、白の陣地、黒の陣地がある。光と影。僕は黒の陣地でしか生きられない。同じ制服を着ていても、やはり違う。太古の昔から引き継がれた遺伝子で分かる。彼女は白の人間なのだと―。 カナは僕の隣の席にいる。白い肌、長い髪、華奢な手足、窓から吹く風が、甘い匂いを運んでくる。ブレザーの下、白藍のブラウス。僕は机に突っ伏して寝るフリをして彼女のことを考える。イヤホンからはビートルズが流れている。ジョンとポールのハーモニー、ジョージの繊細なギタ…続きを読む
眠れない夜が続く。彼は突然死んだ。飛び降りたのだ。十三階建てのマンションから。遺書はドアに貼ってあった。― ボクハコノセカイデハイキラレナイ。 じゃあ、どこに生きられる世界があるのか。私は悶々と連夜考えている。昼間はいい。仕事のことだけを考えればいいのだ。しかし、夜。一人の時間。彼が残した服、CD、本の数々。ギターと向精神薬。いないと分かっていても、彼が隣で寝ているような気配を感じる。一人。ベッドのシーツをなぞる。温もりはなく、冷たさだけが左手に残る。一か月が過ぎている。彼の匂いはもう消えている。 彼は物知りだった。牛乳の旬は冬なのだ、サンタには妻がいるんだ、いちごは植物学的には野菜な…続きを読む