もう、我慢しなくていいと思った。涙は頬を伝って襟元を濡らす。体感温度は十度をきっていた。薄着な私は、足にしつこくまとわりつく鞄を蹴りあげながら必死に走った。もうすぐ日も暮れる。三度告白してきた先輩がいる。行く宛はそこしかなかった。“何かあったらいつでもきてね”須田先輩は三度振られても私にそう言った。以前教えてもらった、彼が独り暮らしをしているアパートに向かった。打算的だ。最低だなんて事はわかっていた。しかし自分を助けるために手段は選べない。こんな境遇でも、それでも、私は生きることに貪欲だった。================= かじかんだ手は…続きを読む
この勝負、端から負けが決まっている。世間がドキドキワクワクと胸を躍らせる中、私は眉間に皺を寄せながら、負け戦を覚悟してトリュフチョコレートをせっせと作った。じわっと湧いてくる涙のせいで、何度も作業を中断させられながら。俗に言う“禁断の恋”になんて発展するわけがない。何故なら、あの硬派で感情を表に出すことのない化学の相原先生に恋をしてしまったのだから。“橘、もっと本気になれば前の子抜かせたのに”昨年の体育祭の後、通りすがりに突然相原先生に言われた。担任でもなく、部活の顧問でもないのに私を見ていてくれた事に驚いた。その時から私は相原先生を気になり始め、気がついたらいつも…続きを読む
余命幾許も無い祖父は、病室のベッドの上でチューブを差し込まれながらも、僅かな時間を惜しみ、見舞いに訪れた皆に歎異抄を説いた。全てにおいて力の限りを尽くす祖父のその生き様は、亡き後も人の心を動かした。「佐々木さんがね、じいじがまだ少し話せる頃にお見舞いに来てくれてね。その時の、歎異抄を一生懸命に説明するじいじの事を短歌で詠んでくれたの」祖母はその短歌をお習字の先生に書いてもらい、額縁に入れ、居間に飾った。「短歌、特選取ったんだって」ダラダラとした生活を送っている大学生の私でも、その短歌の凄さはわかった。祖母が出してくれたチョコを一つ摘まむ。「へえ。これは………続きを読む
ふと顔を上げ、横を見ると、通路を挟んで君がいる。今日は朝からラッキーだなんて思ったのも束の間、僕はすぐに気がついた。君の席の隣は一つ空いていて、君は誰かのために奥に詰めて座っている。それはおそらくアイツのためだよね? ここで僕は悩む。講義中、君とアイツのやり取りを、横で指を咥えて見ていろと?それは罰ゲームだとしか思えない。ずっと見てきたんだから、君の事。もうさ、ここらで勝負に出てもいいですか?深呼吸を一つ。荷物をまとめて君のとなりへ。ドサッ。何か言いたそうな君の瞳を覗き込む。まだ口を利いたこともない君の。君は僕を見つめた。すぐ…続きを読む
定年後、義父は畑を趣味にした。まだ若いのに籠ってばかりいたら、体に悪い。そう思った義母の提案だった。体力が有り余っている義父は、それはそれは、畑に夢中になった。春はサヤエンドウ、菜の花。次にジャガイモ。夏はトマトにナスにキュウリにモロヘイヤ等々。秋には葉物がだんだんと増え、冬は鍋の材料一式が義父の畑のもので揃った。年末に採れる里芋は宝石のようだ。白くてホクホクでねっとりとしている。義父の里芋は美味しい。旬なものを食べる。しかも無農薬。これこそ究極の贅沢だ。有難い。義父母は近くに住んでいるので、よく届けてくれる。子供たちも喜んで食べた。義父は…続きを読む
「ねえ、聞いてよ!昨日九段下から電車に乗ったらさ、竹橋で全身虹色の人が乗ってきたのよ!」「全身虹色?全身!?」「そう、全身!マーブルじゃないの!シマシマ!」「シマシマ?ってボーダーってこと?」「そう!全身ボーダー!虹色だよ!?赤と黄色と白と水色と緑やら紫……あぁ、あと何色だったか忘れたけど。」「なんかの仮装じゃない?」「違う!絶対違う!本人はお洒落な感じでそれを着こなしてるって絶対思ってるのよ。リュックだけ黒で、髪は肩くらい。ボンボンのついたニット帽被ってた!細身でパーマかけてて。あ、そのニット帽は赤ね。」「モデル?」「違う違う!絶対に違う!ちなみに男だか…続きを読む
余裕を持って家を出たい。毎度反省して、その都度忘れる。自分の学習能力のなさに辟易した。高校生の娘の弁当を用意してからの出勤準備で、毎朝変わらず慌ただしい。もちろんパジャマを畳む時間などなく、たまに眼鏡もその中に埋もれる。どこに置いたのだろうか。部屋中駆けずり回ってようやくいつもの出勤時間少し過ぎた頃にそれを見つけた。駅まで11分かかるところを、今日は9分で行かなければ間に合わない。逞しい筋肉のついた自分の腿を高く上げて、私は駅へ向かった。シングルマザーとなって、十年と少し経つ。離婚後、実家近くのアパートを借りたものの、両親と同居している兄夫婦との関わ…続きを読む
キャビアより、とんぶり。フォアグラより、ずっと安価で売られている海外産あん肝の方が美味しいのではないかと思い始めた今日この頃。幸子は少し前の幸子ではなかった。半日足らずで終わってしまう電車の旅に、久しぶりに気分は高揚していた。 自宅の最寄り駅から都内を巡るには東西線は使わない。しかし何年ぶりだろう。幸子は西船橋まで行き、東西線に乗った。今日は敢えて乗りに来たのだ。少し前に知ったmonogatary.com で物語を投稿するために。特別企画のお題は“東京メトロ”。東京メトロの九つの路線から一つ以上を選び、物語に登場させることが、応募する上で…続きを読む
「ただいまー!」誰もいないことはわかってはいるが、わざと爽やかな声を出してみる。お母さんはパートに出ている。帰ってくるのは30分あとの予定。 まず、おやつのざらめ煎餅とグミを食べながら宿題を速攻で終わらせた。学校からのお手紙をテーブルの上に置き、洗濯物を取り込み畳んでみた。それから自分の部屋をざっと片付け、朝の洗い残しのマグカップを洗った。どうしてもお母さんに頼みたい事ができたのだ。どんなことをしてでも、“OK”の返事をもらわなければならない。こんな機会はおそらくまたと無いだろう。僕の高揚感はマックスだ。話を聞いた時から心臓はドクドクしていて、これは恋と似ている感覚なのかも…続きを読む
「のんちゃん!あそびましょう。」りんちゃんがのんちゃんをむかえにきたよ。りんちゃんとのんちゃんは、いとこどうし。りんちゃんは、さくらようちえんのねんちょうさん。のんちゃんは、さくらようちえんのねんちゅうさん。りんちゃんは、のんちゃんにひらがなをおしえてあげたいみたい。「きょうは、のんちゃんに、“ね”と、“れ”と、“わ”をおしえてあげるの。」けれど、のんちゃんは、おままごとがやりたいみたい。「ママにおしえてもらったからわかるもん。りんちゃん、おままごとしよう。」りんちゃんは、すこしおこったかおになった。「いまは、せんせいごっこやるの。りんがせんせい、…続きを読む