窓を開けると花の匂いがして、春だ、とあなたが言った。 窓の下から、未知が手をふっている。春か。あなたがそう言うから、きっとそうなんだと思った。 休日だというのに、未知は朝寝坊もそこそこにあたたかい布団を抜けだして、日課であるランニングへと出かけていた。日射しをたっぷりと含んだ日曜日の朝は、バターとメープルシロップをたっぷり含ませたホットケーキのような、甘くてふかふかなものの感触がする。 アパートの階段を、きっと駆け上がって、未知が部屋に戻ってくる。「ただいまー」 玄関から間延びした声が響いて、ここが未知の帰ってくる場所であるらしいことに、私は何度でも驚いた。「おかえり」 薄手…続きを読む
「だれもいないね」 夜に近い、朝と夜のさかいめの暗闇の中で、やさしい声がする。冬と春の入り混じった冷たい風が喉に流れて、少しむせた。 夜中に目がさめたぼくを外へ連れだしてくれた女の子が、ふり返る。「夜をひとり占めだ」 ふたり占めかな、と羽海ちゃんはすぐに訂正し、ぼくを見上げて首を傾けた。まだ深い色をした空には半分欠けた月が浮いて、薄青い光を灯した星が砂のように散らばっている。闇中に、なにか目印であるようにまたたいている北斗七星の、柄杓の形を目の端で捉えて息をこぼした。「つき合わせてごめんね」「うん?」「起こしちゃって、ごめん」「ううん。いずみは、大丈夫?」 やわらかく訊ねられ…続きを読む
東京にも、鳥の鳴き声で目をさます朝があることを知った。 ひとりで眠ったはずなのに、目をさますとふたりで眠っていることにいつまでも新鮮に驚いた。 あなたは仕事柄帰りが遅いことが多く、帰ってきてからも夜更かしをするので、わたしは先にベッドに潜りこんで布団をあたためる。そしてたいていは先に起きて、朝の空気に触れたつま先をぎゅっと握りこんで、ゆっくりと身体を起こす。 薄暗い夜がつづきながら、ひたひたと朝が静かに訪れていた。 カーテンの隙間から薄明かりが入る。大きな手足を折り曲げて小さくなって眠っている姿をだれにも気づかれないように見つめて、かってに、しあわせになってしまうことを言ったら呆れ…続きを読む