「ライトアップされた桜も風情あるわね」「そうだろ、夜桜といえば、ここが知る人ぞ知る穴場なんだ」「夜桜かぁ……見て、花吹雪!」「わぁ、まるで演歌歌手のステージみたいだな」「こう? さくらさくら 花吹雪♪……浴びて私は 夜桜お七〜♫」「うまいうまい。えっと、誰のだっけ、その歌は。確か、ナントカ冬……冬……冬美、そうだ、坂本冬美だっ!」 お後がよろしいようで……。…続きを読む
とにかく慌てーず、急がーず、お湯や何かで薄めーず、メーカーを選ばーず、まだかまだかと急かされても怒らーず、手元を隠さーず、材料の玉ねぎはあまり細かく刻まーず、少々焦げても腐らーず、フランベのブランデーはケチらーず、かといって周りにこぼさーず、炎が上がっても騒がーず、レモンはとことんまで搾らーず、美味そうだからといってヨダレをすすらーず、盛り付けスペースを狭めーず、食器はわざと揃えーず、手助けを頼まーず、煮込み時間は縮めーず、味見のために摘まーず、あまり奇をてらわーず、凍った状態から完全には溶かさーず、煮汁を全部は無くさーず、そのためにあんまり煮詰めーず、皿の縁に付いても拭わーず、誰かがもっと上…続きを読む
ーー夏が来れば思い出す…… バルコニーで口ずさむ私を夫が見守る。出会った頃と変わらない優しい瞳で。「そういえば、克也さん、すっかり姿見せなくなったわね」 弟の名前を聞いて夫は眉をひそめた。今に始まったことではない。義弟は使用人含めて、この屋敷の住人全ての鼻つまみものなのだから。 定職にもつかず、フラッと現れては金を無心する。夫は弟に貢ぐために祖父の代からの会社を守っているようなものだった。「どこかでのたれ死んでくれてればいいんだけどな」「仮にもたった一人の兄弟なんだから、そんなこと言うものじゃなくてよ」「ふん」「ねえ、久しぶりに避暑にでも行きましょうよ。尾瀬がいいわ」 不…続きを読む
「え、僕が運動部にですか?」 思わず文化部長に聞き返した。「ああ、私にも何が何やら分からないが、とにかく辞令が出たんだから、行くしかないな」「そんなぁ、部長も僕の運動音痴はご存知でしょう」「それは、まあ。文化部のボウリング大会で、これでもかというほど見せられた。全投球ガターのスコアゼロなんだからな」「ボウリングは球技の中なら一番得意なんです」「後は推して知るべし、か。恐ろしい男だな」「でしょ。だから部長から人事へ……」「しかし君が競技するわけじゃないんだし、な」「いやいや、運動音痴のせいであらゆるスポーツを避けてきたんです。ルールもちんぷんかんぷんですってば。使い物になりませ…続きを読む
毎度バカバカしいお話を一席。 何ですな、聞くところによると小説、中でも純文学ってのはしちめんどくさいものらしいですね。 その昔、とある純文学作家は「小説にオチは不要。オチなど邪魔でしかない」とのたまわったんだそうで。コレはもう大変なことですよ。なんたって、アタシら噺家にとってはオチが命なんですからね。それがあっちゃいけないよ、なんて言われた日にゃ、廃業の危機です。 そんなもの落語は落語でいっ!と無視しとけばいいだけなんですけどね。アタシもこう見えて昔は紅顔の文学青年だったもんですから。あ、こうがんのってはキンタマのことじゃありませんよ。こういうところに学が出ちゃうんでして。 ようし、…続きを読む
起き抜け妻に会社を乗っ取ったと言われた。起訴して法廷で争うべきところだろうか。起業できたのは妻の実家のおかげ。承服しかねるが黙って引き下がる。承諾するほかはない。転んでもただでは起きないオレだ。転機ととらえよう。転職して見返してやる。結構な話かもしれない。結局、結婚も解消してオレは家を出た。…続きを読む
「モタモタすんな。お前らはカメか!」 直江津署刑事課。水口刑事課長が部下たちに怒鳴った。「モタモタすんな」は水口の口癖だった。「また始まった。これ以上すばやくなんて無理だってば」 若手が小さくボヤく。 麻薬の取引情報が入っている。現場を押さえるため水口は六名を率いて出動した。 港湾倉庫街の一角で二手に分かれた。物陰から物陰へと、水口は守友刑事と移動する。「モタモタすんな。次はあの角だ。オレが先に行く」 水口が飛び出した。お世辞にもすばやいとはいえない動きだった。その時、突然前方左右から水口に数丁の銃口が向けられた。「課長、罠ですっ!」 数えきれない銃声が轟いた。蜂の巣になるか…続きを読む
「じつはオレがあの『年下の一般男性』なんだ」 オレの告白に直江津署刑事課は騒然とした。「まさか。高橋さんがaicoの結婚相手だなんて……」 後輩の守友が言った。「中学時代からファンのオレ自身、いまだに信じられない……。でも本当なんだ」「ふえ〜」 守友はのけぞった。冷静な男にしては珍しい。 無理もない。aicoは『カブトガニ』『ガールフレンド』など数多くのヒット曲をもつアーティストなのだから。「きっかけ? 彼女の友人が被害に遭った事件をオレが解決して、紹介を」「へぇ〜。でもaicoってファッションセンスが独特ですよね。ついていけてます?」「こらディスるな。オレは大ファンだぞ。…続きを読む
直江津署水口刑事課長行きつけのスナックバー《とまりぎ》。アラ還の同級生コンビ、ママとミカちゃんが営む。 年相応のママに対してミカちゃんは超美魔女。二十代に間違えられることも珍しくない。 看板が近い。客は水口一人。店の電話が鳴った。ミカちゃんが受話器を取る。「もしもし」 ミカちゃんは首を捻って受話器を置いた。「出たら小さく舌打ちして切ったわ」「店に人がいるか確かめたんじゃないか。閉めた後を狙って空き巣に入るつもりとか」 水口が言った。「イヤだわ」とミカちゃんは身をすくめた。 また電話が鳴った。ミカちゃんを手で制してママが取った。「もしもし……どちらさま? ……何ですあなた。…続きを読む
直江津駅前交番の平野巡査は旅館春日荘の主人・若林に呼び止められた。「平野さん、ウチで映画のロケをって話が」「前にサスペンスドラマのロケが流れたアレとは別に、ですか?」 アレというのは半年前の話。凄惨な事件現場になると聞いて若林が断っている。「別、別。アレはTVで今度は映画。格上だよ。映画会社の人がウチに泊まってね。それで私が二年前の話をしたら、食いついて」「二年前……もしかして杏樹さんの?」「そう。で『ANJU 直江津2023夏』って仮タイトルが。発端がウチのつつじの間だろ、汐汲人形のある。ミステリアスだし、それに事件で知り合った杏樹ちゃんと守友刑事が恋人になったなんて、ドラマチ…続きを読む