「ゴエモンさん、大丈夫ですか? 顔色、すごく悪いですけど」 私の右斜めに座るキャミーが言った。 彼女が首を傾けると、二つに結ばれた三つ編みがさりげなく揺れた。きっと彼女の髪型は格ゲーのキャラクターからインスパイアされたものだろう。だって、名前もそうだし。「え? あぁ、大丈夫」 心配そうな表情を浮かべるキャミーに対して、ゴエモンが言ったのはそれだけだった。ほとんど聞こえないようなわずかな声量だった。 たしかにキャミーが言うように、彼の顔色はすこぶる悪い。ビールやワインで上気していた顔は、今では血が抜けたように真っ青になっている。 咲希が帰って来たのは、ゴエモンが戻っ…続きを読む
交差点の向こう側に犬が座っていた。おそらく雑種で、耳の立った中型犬だった。 その犬は行き交う人通りには目もくれず、自分のリードが括られている電柱の前に建つコンビニだけを見ていた。きっと飼い主が散歩のついでに、そこで買い物でもしているのだろうと予想した。 自分はそれを見つめていた。犬は赤色のニットのような服を着せられていた。いくら身体中が毛に覆われた動物であるとしても、雪がちらつく今日、その格好一枚では流石に寒いだろうと思った。 周りにいた人間が動き出して、信号が青になったことに気づき足を進めた。視線は依然として犬の方向にむけたままだった。自分からは犬の背中しか見えなかったが、そ…続きを読む
彼氏が死んだ。首や背中を刃物で刺されて、病院に運ばれたけど、出血多量で死んでしまった。 彼氏を刺したのは、私の幼なじみだった。 私はそれをニュースで知った。厳しい残暑が続く蒸し暑い朝のことだった。 その時の私は、リビングのソファにだらしなく座って、グラスに注いだトマトジュースに口を付けていた。昨日から返ってこないLINEにいらだちながら。三人で海に行く約束をしていた。今年の夏の最後の思い出に。それなのに二人揃って、連絡も無しにドタキャン。『確認! 今日は6時に駅前で合ってるよね?』『全力ではしゃぐためにスニーカーで行こうかな(笑)』『あと五分で着く!』『おーい、二人…続きを読む
また同じ夢を見た。あの子は今日も泣いていた。それは僕にとって一番の悪夢だ。 ある時は電気を消した暗い部屋で、ある時は都会の雑踏の真ん中で、またある時は僕の知らない大勢のクラスメイトに指をさされて、あの子はたった一人で泣いている。 エメラルド色の瞳から大粒の涙が転がり落ちる。顔を伏せるように俯いて、恥じ入るように背中を丸めて、勝ち気だったあの子の面影はもう無い。 僕はそれを地縛霊みたいに後ろで見ている。慰めの言葉をかけることも、うなだれるあの子の背中をさすってやることもできない。なんて後味の悪い夢。結末はいつもバッドエンドだ。 全部、僕のせいなのだ。僕が本当のことを言わなかっ…続きを読む
匂いの原因はエサの生臭さから来るものなのか、それとも鳥類が分泌するホルモンから発生するものなのか。とにかくこの独特な匂いがこびりついた制服を、早く脱いでしまいたいと思った。 2度目の餌やりタイムが終わったから、後は退勤時間を待つだけだ。そう自分の心を励まして、バックヤードの壁に架けられた時計を見た。2時50分。残業が無ければ、もう3時間ほどで家に帰れる。 夢はいつも惜しいところで叶わない。3年前の自分に言ってやりたい。その頃の僕は想像もしていなかった。憧れだった動物園で、鬱屈な顔をしながら働く自分の姿を。 小川虎太郎(こたろう)。関東住みでありながらも阪神タイガースファンであ…続きを読む
「ジョー。父さんが君に伝えたいのはね、常識なんて簡単に覆されるということだ」 父さんはその映画を観るたびにこう言う。100年前にアカデミー賞を獲ったものらしい。「自分の血を売って金を稼ぐ。それが貧困の象徴とされている時代があったんだ。信じられないだろう? 今、この世に、自分の血液価格を知らない人間は一人といない。一つの発明が、世界の常識を変えたんだ。素晴らしいことだと思わないか?」「うん。そうだね」 酒を飲むと、父さんは決まって饒舌になった。そして少々、気が大きくなってしまう。酒に酔っている時の父さんを、僕はあまり好きではなかった。「なあ、ジョー」 父さんはグラスにワ…続きを読む
じれったく、もったいつけるように照明が落とされた。それは線香花火が消えるのによく似ていた。ほの暗くなった店内で茉莉とミナミが顔を見合わせる。「え? 何?」「停電? 怖いんだけど」 そう言って、口元に手を当ててクスクス笑う。 今日は、試験お疲れさま会という名の、茉莉の20歳の誕生日会だ。先月は新年会という名でミナミの誕生日会をして、夏にも何か適当な名前を付けて七瀬の誕生日会をした。すべてサプライズで。 だけどこれはサプライズというより茶番だ。仕掛ける側も仕掛けられる側も、用意されたシナリオと自分が果たすべき役割を完璧に理解している。お互いに分かっていながらシラを切る。…続きを読む
「過去にお通帳を作られた履歴がございますね」 え? と聞き返すと、銀行員のお姉さんは、声にわざとらしいほどの感情を込めて言った。「申し訳ございません。当行では、お通帳の発行はお一人様一冊と決まっております。既にお通帳をお持ちのお客様は、そちらをお使いください」 作り笑いや愛想笑いという言葉があるが、それは他の表情にも汎用できるものだと思う。作り困り顔や愛想困り顔とか。八の字を描いた眉毛。弱い力で噛んだ唇。お姉さんのその顔は、これぞプロと言えるような完璧な困り顔だった。 そういう表情に出会うたびに、俯瞰してしまうのは自分の悪い癖だった。この人は1日に何度、この顔を作るんだろうか…続きを読む
どんな稼ぎ方をしても、金が金であることには変わりはないのに。 心の中で呟いたはずの言葉は、どうやら口に出してしまっていたらしい。「何か言いました?」 ドライバーの江口くんが運転席から振り返って言った。「ううん。なんでもない」 私は薄く笑って首を振って、誤魔化すように外を眺めた。深夜2時の道路は人通りどころか車もまばらで、どこかよそよそしい。息苦しさを感じて車内の窓を開けた。吹き込む風は体にまとわりつくような湿気を含んでいた。 今まで送迎車で眠らない日は無かった。8時間の労働ですり減った体力とメンタルは、退勤の頃には限界を迎えている。半ば倒れるように後部座席に乗り込むと…続きを読む
検索ワードに『母親』と付け足さないのは私の意地だった。「私は母親失格です」と、自分で宣言しているようだから。 だから、自分が読みたい記事に辿り着くまで時間がかかる。『子ども 懐かない』 インターネットでそう検索した時にヒットするのは大抵、「父親に懐かない子ども」に関する記事なのだ。『子どもが「パパ嫌い」と言ってなつかない』『母親大好きで父親には懐かない』『子どもがパパになつかない時にできることとは?』 そんな悩みを、自分と同世代の母親たちが嘆いていると考えるだけでイライラした。 困っています、と口では言っているものの、本当は「子どもに愛されている自分」を自慢したく…続きを読む