最期のフレーズを口にして、最期の弦を鳴らす。次に吐き出すのは、さよなら。 の、はずだった。一度視界が暗転して、また、明るくなる。いろんな顔の人たちが、一斉に手を叩いている。ごうごうとした音が、鼓膜と心臓に響く。くしゃくしゃな顔、蒸気した顔、まっすぐな笑顔、鼻を膨らませた顔。ギターをすっと体の横にずらして、スタンドマイクに顔を寄せる。ひとつ、深呼吸をする。その空気が少しずつ遠くに伝わって、手を叩く音がだんだんとフェードアウトする。その場にある視線という視線が僕に集まる。言わなきゃ。言おう。言ってもいいのか。言っては、いけない言葉。息を吸う。母音と子音を…続きを読む
ふと焦点を合わせると、温かいモヤのようなものに包まれていることに気付く。ああ、また、この夢だ。ということはまた、彼女がいるのだろうか。「あら、今日もなの」彼女は今日も澄ました顔をしながら、ソファに座って足を組んでいた。ここはいつも、これでもかというくらいあまったるい匂いがする。「珍しいじゃない。もうこれで1週間連続」左手にはピンク色をしたカクテル。右手にはタバコ。「前に連続で会ったのは…えっと、失恋したときだったかしら」ふう、と煙を吐く。ごくり、とカクテルを飲む。彼女の鮮やかな赤リップが落ちているのを、私は一度も見たことがない。「違う、就活がボロボロだった頃だよ…続きを読む
頭の中で何かの物語が幕を閉じたと同時に、ぱち、と目が覚める。たぶん、夢を見ていた、と思う。はっきりとは覚えていないけれども。これだけぱっと目が覚めたのだから、きっと有終のフィナーレだったのだろう。ゆっくりと息を吸って、そして吐くと、空気の冷たさに思わず鼻がすっと通った。寝るときにセットしたエアコンのタイマーも、まだ眠っている。首を動かし、薄目でサイドテーブルに置いてあるデジタル時計を確認した。どうやら私は、予定よりもずいぶん早く目が覚めたらしい。また目をつむろうと思ったけれど、もう一度眠れる感覚がなくて、短い葛藤ののち、起きてみることにした。のっそりと起き上がりベッドの上…続きを読む
現実だか夢だかよくわからない映像が、目の前からすうっと消えていく。その瞬間、足元に少しずつ熱が帯びるのを感じて、思わず両足を布団から出す。そのまま寝返りを打つと、カーテンの奥の光が瞼を通り抜けて染み込んできた。さあ、朝だよ、と、身体を揺らされているような感覚になる。遠くの踏切の音や車の音が徐々に耳に入ってきて、いつもの朝を知らせるのだ。目を瞑ったままぱたぱたと左手を動かし、見つけたスマートフォンを充電器から外して手に取る。もう、起きなければならない時間になっている。いつからか、朝はわたしにとって「始まる」ものではなく「始めなければならない」ものになってしまった。ゆっくりと身体…続きを読む
ぼくにとって、あのおまじないは、強さだった。双子としていっせーのせでこの世へ生まれてきて、この世界に焦点が合うずっと前から一緒に生きてきたふたり。同じ世界を瞳に写して、同じ物を味わって、同じ音で鼓膜を震わせてきたはずなのに、ぼくと翠は全く違った。強い翠(すい)と、泣き虫な朔(さく)。これが周りの共通認識。小さい頃ぼくは友達にからかわれてしょっちゅう泣いていたけれど、いつも決まって翠はすぐ隣に来て慰めてくれた。そして、おまじないをかけてくれた。「いい?朔は翠なの。翠は、朔。大丈夫、あたしたちは死ぬまであたしたちよ」今でも正直本当の意味はよくわかっていないけれど、なぜか…続きを読む
物心ついたときには、私の世界に四季はなかった。数十年前にモノの「時間を留める」特殊な薬剤が開発されてから、世界は大きく変わった。人は皆、モノを全て「最も美しい状態」で留めておくようになったのだ。桜は常に満開の花を咲かせ、空を見上げればいつでも虹がかかっており、古き良き建築物はそれ以上朽ちることがなくなった。宇宙開発が進んだことで、一年中安定した天気と気温を保ち続けることにまで成功した。暑くない。寒くない。湿気に悩むこともない。自然への冒涜だと、最初は絶え間なかった批判も時が経つにつれて諦めを覚え、いつしかそれが常識となった。人間と動物が老いること以外、全てが変わらず…続きを読む
「…さいっあくだ……」朝8時20分、出勤前。彼女は、洗面所の鏡の前で絶望していた。ほとんどの支度を終えて、あとは香水をひじの裏にひと吹きするだけだったのに。なぜか出が悪く、霧吹きのようになっている蓋の部分をくるくると回して、蓋を外したときだった。不意に手が滑り、瓶を思いっきりひっくり返してしまったのだ。びっくりして「うわっ」と声を上げたときにはすでに、何とか瓶を受け止めた彼女の両手は香水でびちゃびちゃだったのである。オフィス向けの香水のため比較的匂いは控えめなものなのだが、どばっと被ればそんなことはもはや関係ない。次に彼女が息を吸ったときには、まさにムオン、という擬音…続きを読む
真夜中、自宅のリビング。彼女は今、猛烈に後悔していた。ほんの数秒前の、己の親指の動きを。完全にリラックスモードだった。ソファに寝転がって、今夜観ると決めていた映画を観て、温かいお茶を飲んで。さあ最後にSNSを一周してから寝るか、とTwitterを開き、アカウントを切り替えようとスマホの上部を押そうとした、その刹那。同時に、ヒュンと何とも絶妙なタイミングでメッセージの通知が届き、瞬時にそれを押してしまったのだ。スマホを押そうと判断する。親指を動かす。通知が届く。一瞬「押したらだめ」という指令がよぎる。とき既に遅し、親指は既に画面に触れていた。この間、わずか0…続きを読む
きみは夢だ。私はそう思うことにした。時たま私の知らない感情で戸惑わせてくるし、きみのことになると自分が自分でなくなる。そして美しくて、ずっと眺めていたくなる。でも、決して触れない。精一杯手を伸ばしても、少しひんやりした空気を掴めるだけ。私は知らない。これ以上の儚さを。その儚さゆえ、たまに逃げたくなるときがある。現実の私がどれだけ澱んでいようとも、イヤホンから聴こえてくる歌はいつでも眩いから。命の限り戦う歌。どこまでも沈む涙の歌。今という瞬間を讃える歌。共にいる人を見つめる歌。体からこみあげるリズムの歌。そこから流れてくるのは、本当の私と、なりたい私…続きを読む
とある街のとある交差点にはこんな噂がある。願いを叶えてくれる、女の子の幽霊がいると。それが、私だ。ある日、どこからか来た知らない女の子が、たまたま私がいる場所で願いを呟いた。曰く付きの場所だと知っていただろうに、なぜそんな場所で願ったのかは今でも分からない。その願いはしっかり聞こえていたけれど、何も触ることのでない私にはどうすることもできなくて、せめてもの思いで、ひたすらその子と一緒に願った。すると何の偶然か奇跡か、その子の願いが叶ったらしく、数日後には丁寧にお礼を言いに来た。瞬く間にその話は不思議な噂となって広がり、色んな尾びれが付いたり離れたりしながら、私はいつのまにか「…続きを読む