二十一歳の入社初日、私は貫井克也に一目ぼれをした。彼は十一歳上の上司で、皆から好かれるような性格の持ち主だった。だからこそ、そんなところに惹かれたんだけど。私と彼は同じ部署だったからよく顔を合わせた。今日も私はパソコンに向かって経理の仕事をしていた。視界の奥から誰かが席を立ったのが確認できた。彼だ。どうしたんだろう、いつもは昼休憩まで席を立たないのに。もしかして私に会いに来てくれるのかな。いやいや、そんなことないよ。うん大丈夫。私は変なとこポジティブだから、すぐ期待しちゃうから。早く昼休憩にならないかな、彼の食事をしている時の顔が好きなんだよね。なんていうか、小動物みたいでさ。口をモグモグし…続きを読む
「ねえ、今日何の日か覚えてる」ぼんやりとした顔をして、ご飯を食べている彼に尋ねた。彼は動かしていた口をすぐに止め、「えっ」と声を漏らした。「え~と、待ってね、今思い出すから」そう云って彼はう~んと唸りながら箸を置いた。馬鹿だな、今日は何の日でもないのに。それなのに必死にありもしない何かを思い出そうとしている彼が愛おしかった。彼は誕生日や記念日を覚えていくれるタイプだ。「え~と、二月二十八日は、えっと……うん、何もないよね」彼は頷くと、私の顔を見つめながらそう応えた。あまりにも真っ直ぐに見つめるもんだから、少し心苦しくなった。何か、今日を何かの日にしなければ……。私は考えを…続きを読む
「恋愛なんて、何もできないやつがするもんだろ」 俺は椅子の上で胡坐をかきながら呟いた。手にしていた野球ボールは綺麗な放物線を描き、掌にするりと吸い込まれていく。何人かは「そうだ」と頷いていた。窓からは茜色が入り込んでいた。開けっ放しになっている窓からは夏の夕暮れの香りが漂う。十六時二十分の教室には、部活をしていない生徒がたむろしている。皆、通学かばんを床に放り投げ机に腰を下ろすものもいた。俺はそんなことをしているやつらを軽蔑していた。机に腰を下ろすなんてそんな行儀の悪いこと誰に教わったんだ。そう思っていると、隣の席の椅子に腰を下ろしていた西城信也が「よっ」っと声を上げると、机に腰を下ろし…続きを読む
暖かな日差しが私たちを包んでいた。アパートの階段を降り、私は卓也を見送った。「じゃあね。楽しかったよ」どうしてそんな言葉が口から飛び出たのだろう。そんなこと思ってないのに。私は馬鹿だ。最後の最後までいい子のふりをして、嫌われたくない一心で。「うん。俺も楽しかったよ」彼は微笑みながら私の顔を見つめた。何の迷いもないその表情に私は落胆した。ああ。いつでも一方通行だったんだな。どうして。私はずっと彼と笑っていたかったのに、隣にいるための指定席券の期限は気が付いたら切れていた。失ってから気づくなんて当たり前を、私は見落としてしまっていたのだ。「じゃあ、行くから」彼はその言葉だ…続きを読む
「でさあ、買い物してるときに何もないところで転んじゃってさあ。ホントに恥ずかしかったよ~」「え~、それはカワウソ」「えっ……?」「えっ……?」「いや、何でもない。でね、その後にレジに行ったんだけどね。買おうと思った服の袖が少しほつれてるのに気づかなくてね。店員さんが気づいてくれたんだけど、一点限りだったから買えなかったんだよ~。ホントにショック」「あ~、それはホントにカワウソ」「……あ、あのさあ」「ん?」「さっきからカワウソって言ってるけど何?」「あ~、可哀そうだとつまんないから、進化させたのがカワウソ」「へ、へえ~。ば、ばかにしてるわけではないんだよね…続きを読む
カーテンの隙間から朝が揺らいでいた。それは赤々とした綺麗な色だった。僕は布団に入ったまま、ベッドでまだ寝息を立てている佐奈の顔を見つめた。白く透き通るような肌に、生まれつきのピンク色のぽってりとした唇。長く艶やかな髪の毛は顎下で綺麗に切りそろえられている。僕はそっと彼女の額を撫でた。彼女は「う~ん」と唸り声を漏らし、反対側へ寝返りを打った。そんな彼女の背中を見つめながら僕はひっそりと呟いた。「今日も好きだよ」いつも言っている言葉なのに今日は何故か、声が揺らいだ。それは夢の中にいる彼女には届かなかったようで、言葉が返ってくることはなかった。僕は諦めて彼女の夢の中に入り込もうと目を瞑った…続きを読む
「大人の事情ってなあに?」先日、七歳の誕生日を迎えた恵一は母の香澄の手を引っ張りながら尋ねた。彼女は恵一の肩に手を乗せると、涙をこらえながらゆっくりと口を開いた。「ママとパパはね、ずっと一緒にいようねって約束したのね。でもね、ちょっとね喧嘩しちゃったの」「喧嘩したら仲直りしたらいいんだよ? ごめんねって言ってね握手するんだよ。僕もね健太君と喧嘩したときにそうしたらすぐ仲直りできたんだ。だからママもそうしたら?」彼女は真っ直ぐに自分を見つめる恵一の顔を見ることができず、俯いて涙を落とした。ふうっと深く息を吐くと、彼女は勢いよく顔を上げた。口の端をきつく結び、唇を震わせながらも、…続きを読む
ホテルの部屋に入ると、彼女は僕に抱きついてきた。「やっと会えた」彼女は僕の胸に顔をうずめ、そう呟いた。その声がどこか震えているようで、彼女の顔を覗き込んだ。「何ー?」彼女は瞳を潤ませながらこちらを見上げていた。それは迷子になった幼子のような顔で、僕は思わず彼女のおでこにキスをした。「泣かないで。大丈夫だよ。大丈夫だから」「うん……」彼女は声を震わせながら頷いた。僕は彼女の頭に顎を乗せ、「大丈夫、大丈夫」と言い続けた。不安症で、自己肯定感の低い僕達は互いに支えあいながら一緒の時を過ごしてきた。こんなにも誰かを好きになることなんて、もう僕の人生ではないと思っていた。そ…続きを読む
特別、恋愛で辛い思いをしたわけでもないのに私はひどく臆病だ。それでも私のことを好きと言ってくれる人がいた。そんな彼の言葉はひどく正直で、私は彼のことを好きになってしまいそうだった。一度気を抜いたら、心の輪郭を綺麗に縁取って奪われてしまいそうなほどに。正直言って私は彼に惹かれていた。でもそれが恋愛の好きなのか友達としての好きなのか。私には判断できなかった。 人として尊敬しているし、幸せになってほしいと心から願っている。そんな彼の幸せは私と付き合うことなのだろうけど、私はその選択肢を選べずにいる。どうしようもなく臆病で、優柔不断な私でも、彼は笑って話をしてくれる。出会った時から気の合う彼。楽…続きを読む
看板の字が消えかけている古本屋に僕はふらっと立ち寄った。店内に入ると、古本特有の髪の匂いが鼻腔に広がった。ふと、本棚を見ているとある一冊の本に目が止まった。背表紙に書かれたタイトルに思わず惹かれた。「あなたを追い求めて」僕は恋愛ものの小説が好きだった。きっと、切ないラブストーリーなのだろうと、僕はその本を手に取った。読み進めていくと、僕はあることに気づいた。それは、これはラブストーリーなどではなくホラーサスペンスだったということだ。猟奇殺人犯を主人公とした、残虐さが背筋を震わせるものだった。僕は、ホラーサスペンスが苦手だったが、現実味溢れる殺人犯の視点や思考にページを捲る手が止まらな…続きを読む