灰かぶり。「ビビディ」 鏡の前、生気のない自分の顔に、もう嫌気すらささなくなる。 まるで能面と相対している様な気になって、けれど能面の方がまだ飾り気があることを思い出して口元を小さく歪める。 きっとシンデレラなら、魔法使いがドレスを用意してくれるんだろうけれど、あいにくぼくはシンデレラじゃない。 だけど魔法使いなんかいなくたって、自分に似合う洋服くらいは自分で持っている。 タンスを開けて、今日のコーディネートを考える。季節に合う色とか、天気とか、行く場所とか、誰と行くかとか、自分の気分とか。 デートがある今日は、少しだけ気合を入れた。 コーディネートを考えるのは大…続きを読む
ぽちゃん 水面に物が落ちた音が、微かに僕の鼓膜を震わす。揺れる水面は船の波にかき消され、微かに鼓膜を震わした小さな音も船の音で簡単にかき消されてしまった。 水面に物が落ちた音も、それによって出来た小さな波も、それを作ったカメラも、こんなにも簡単に消えてしまう。あの頃の綺麗な風景も、あの頃の色鮮やかな日常も消えてしまったように。きっと人でさえも同じように。 そんな在り来たりな考えに、些細なことで気がつけてしまう僕はきっと在り来たりな人間なんだろう。 カメラの重みがなくなった両手の感覚になれなかった僕は、手持ち無沙汰に感じた両手を紛らわすために胸ポケットからライターと白いピアニッ…続きを読む
父さんが家を出てすぐに僕も、出かける準備を始めた。入院している母さんのお手伝いに行く。お腹の中にいる弟にお兄ちゃんらしいところを、そして母さんに立派にお兄ちゃんになったところを見てもらうため。 もうすぐ九ヶ月となる僕の弟は、きっと病院の中でお手伝いなんていらないほど優遇はされているだろうけれど、どうしても母さんに立派になったところを見てもらいたかった。「行ってきます」 音も人も消えて虚無になった家に吸い込まれた僕の声は、まるで声だけが違う世界へ飛ばされている様だった。 そんな感覚に孤独を感じた僕は、せめて音くらいはと思って力強く玄関を閉めた。 当たり前のことだとは思うけ…続きを読む
ポツリポツリと水面を震わせる音が、わたしの鼓膜を震わせている。 配布されたテストの結果を見ながら下校をしていたわたしは、その暗く沈んでいた心情を、その音でさらに加速させていた。意味もなく、わけもなく、理由もなく、ただなんとなく「天気が雨だから」ただそれだけで、わたしの奥底にある小さな黒い部分は、わたしの手を離れて一人でに肥大化して、その色を深く濃くして行った。 大きくなって、光を飲み込んで押し寄せるその暗闇に、わたしの視線は自然と沈んでいった。わたしの心情が沈むほど、わたしの視線もそんな心情を表すかのように沈んでいく。 テストの結果が特別悪かったとか、そういうわけではない。順位を…続きを読む
「あっ」 桜並木。その中を歩いていたわたしは、ふと見上げた空の景色の中に、桜の蕾があるのが見えた。その蕾を少しだけ揺らすように、少し暖かくなった風がわたしを包むように吹き抜ける。 なんだかその暖かさが、彼を思い出すようで、わたしの胸は締め付けられた。 学校の帰りは、よく二人で歩いて帰った。 違う学校だったわたし達は、駅で待ち合わせをして歩いて一緒に帰る。その日あった出来事の話をしたり、どんな映画が面白かったとか、このドラマが面白いとか、この音楽最近聴いてるとか、なんて事のない、他愛のないことを話しながら。 けれど、そんな彼との時間が楽しくて、何よりも嬉しくて、だからわたしは家に…続きを読む
聞こえる音が、みんな遠くなる。 隣を歩く彼を、わたしは見ることができない。きっと今のわたしの表情は、すごいことになっている、と思う。「大丈夫か?」 大丈夫じゃない。わたしは溺れそうなほどに息が苦しい。けれどそんなことを言う勇気のないわたしは、彼にどうにか「うん」と小さく返すことしかできなかった。 二人並んで歩く。歩くたびに、二人分の足音が響く。 今この場所には二人しかいない、そう考えるとわたしの耳はどんどん音を失っていった。胸が苦しくなって、息ができなくなって、音が聞こえなくなる。 あれ、どうしてこうなったんだっけ? ふとわたしは、現実から目を背けるようにどうしてこ…続きを読む
岩のような、重さを感じる空気が、大きく息を吸った僕の肺を満たす。 つい先ほどまで感じていたすがすがしい、自然を感じる空気とは違って、人の多さを感じさせるような、僕が味わったことが無い空気だった。 高ぶった自分の気持ちを落ち着かせたくて、少しだけあたりを見渡してみる。 けれど、見える先どこも、ひと、ひと、ひと。 こんな高ぶった僕の気持ちも、こんな知らない風景も、本当に何もかもが新鮮で、僕は思わず立ち止まった。 それでも、僕一人が立ち止まったところで関係ない、そう僕に現実を教えるように止まらない人波は、僕の背中を押して、僕を知らない場所へと押しやった。 スーツを着たサラリーマ…続きを読む
九歳のころ、ある晴れた夏の日。 ミンミンと鳴く蝉の声、学校内のプールで騒ぐ生徒たち。澄んだ青い空の中に浮かぶ、くっきりとした真っ白な雲。 夏、という言葉を体現したかのような風景の中に、僕たちはいた。 ちらりと隣を見る。 白い肌は暑さを感じさせないほどにまっさらで。火照って赤くなった僕の頬とは対照的に、彼女の頬はいつも通り白い色をしていた。 今は授業で脈拍を測っていた。 僕の脈拍は、いつも以上に高い数値を示していた。きっと、夏の暑さのせいだろう。それ以外に、理由なんて無い。 二人組となって、お互いの脈拍を測る。僕はいつも通り彼女と組んで、初めに僕の脈拍を測っていた。「高…続きを読む
とある、日記を記すアプリがあった。 何もない僕の人生にも、文字にしてみると何か色が見えてくるかもしれない。そう思って僕は、そのアプリをダウンロードしてみた。 僕は何も考えずに、その日あったことを書いていく。どこに行って、どんな出来事があって、どんなことをしたのか。 そして、書けば書くほど「色のないつまらない人生だな」なんてことに気が付かされる。 そんなある日、僕は日付を間違えて保存してしまった。このアプリを始める一週間前の日付で、配達員の人から、ちょうどおととい壊したイヤホンの代わりとして頼んでいた新しいイヤホンが届いたことを。「ん?あれ、おかしいな」 間違えてしまったそ…続きを読む