「まあ、いっか」 私にはそんな言葉で、日々の憂鬱を誤魔化してしまう癖がある。 例えば、気になる男の子に話しかけたいな、と思う気持ちをうやむやに誤魔化して、諦めたとき。 私は同じクラスの洲崎君に憧れている。 窓際の前から三番目の席に座る洲崎君は、今日もクラスのトップメンバーに囲まれていた。 男の子の髪質だとは思えない、柔らかな栗毛と気まぐれな猫のようにシャープな瞳。そのアンバランス感が彼の唯一無二の容姿を作り上げていた。洲崎君は、私の通う中学校の中でも、目立った存在の男の子だと思う。 ある日を境に私は彼のことを目で追ってしまうようになった。 友達には見ているだけじゃなくて、自分から…続きを読む
空を見上げると、あなたのことを思い出す。 寝る間も惜しんで、仕事をしているあなた。 自分のことなんて、端っこに追いやっていつも人のことばっかり、優先しちゃう人のいいあなた。 そんな頑張り屋さんのあなたのことだ。 前はしょっちゅうあっていたのに、今は全然会えないね。そういう時期だもん。疲れてるだろうから、負担にもなりたくないし、連絡も控えてる。仕方がないけど、やっぱりちょっと寂しい。 綺麗なものを一緒に見て、感じて、共有すると、独り占めするよりも何倍も嬉しいのに、今日はあなたは隣にいない。 わたしのちょっとだけ遠くで、今日もみんなのために頑張って働いている。 …続きを読む
その日の三時過ぎ。僕はいつもの作家との打ち合わせと同じように、カバンに資料とノートパソコンを詰める。 が、うまく用意が終わらない。マウスを鞄の外側にあるポケットに入れようとして、うまく入らずに落としてしまったり、うっかり手が滑って、資料をバラバラに床に広げてしまったりと、小さな失態を繰り返してしまっている。 編集者になって、五年目。僕はもう新人とは言えない立場だ。打ち合わせだって、死ぬほどやったことがあるし、企画の立ち上げだって、もうお手の物だ。 なのに今日の僕は、初めて打ち合わせに出る新人編集者のように心が泡立つ。 どうやら僕は緊張してしているようだ。手のひらを見ると手汗で皮膚…続きを読む
本当は心のそこから愛しい、もっと触れ合いたい、たくさんの感情を分かち合いたい。でもそれはもう許されない。 もう私は、別れを決意してしまったから。 この気持ちに果てはあるのかと、彼に会うたびに考えてしまう。私は自分の欲望に正直だ。欲を彼に押し付けて、自分だけ満たされようとしている。 窓の外は真っ暗、昼間は小学校の通学路になっているので子どもたちの明るい声が響いているけれど、それが思い出せないくらいの静寂が広がっている。 気を抜くと深夜の闇に吸い込まれそう。 これ以上窓の外をみていたくなくて寝返りをうつと、色素の薄いまつげの長い端正な顔をした彼の顔が目に入る。 寝苦しそうな…続きを読む
社内にはたくさんの憂鬱が渦巻いている。「えー! まだキミちゃんって実家暮らしなの?」 みんなに聞こえるくらい、大きな声で紀美子の住生活を暴露したのは、紀美子の部署の直属の先輩である、清香だった。 清香は仕事はできるタイプではないが、自意識は高めなタイプだと、紀美子は分析する。 化粧室で休み時間の度にお直しを施している化粧も、わざわざネイルサロンに行って仕上げているであろう、ジェルネイルも、雑誌の週替わりコーディネートに出てきそうな服装も、どれも彼女に似合っていて、彼女の美しさを引き立てていた。 きっと彼女は自分を美しく見せるために相当の時間を投じているのだろう。 その…続きを読む
* セカイ、なんて私と波のいる部分を切り取った狭い範囲のことを言うんだろう。 半径1メートル以内の小さな小さなセカイ。 そこには全てが詰まっていてそれ以外のものは私には必要がない。だってそれは余分で、不必要で、温度がなくて、非情だから。「あーあ。ずっとこのままで入れたらいいのに。波はこのままおじいちゃんになるまで生きてさ。私も同じように歳を重ねていくの。そういうのって普通なんでしょ? ……なのにさ。どうして私だけ生き残らなくちゃならないわけ?」 自暴自棄を孕んだ言葉を投げつけるように言う私に対して、波は嗜めるように、宥めるように、優しく優しく声をかける。「君は特別な女の子だ…続きを読む