トントントン、と小気味良いリズムで2階から降りてきた、娘の真莉から小さな箱を手渡され、杏子は目を丸くした。「これは?」「あげる。ね、バレンタインって知ってる?」そう言いながら、冷蔵庫を開けて麦茶を取り出す真莉は、太い眉毛に短い前髪、ウエストのすぼまったワンピース、といったスタイルだった。最近若者の間では、イギリス出身の女優、オードリー・ヘップバーンを真似たファッションが流行っているらしい。手にはコートと鞄を抱えていて、そうえば、今日は友人と出かけると言っていたなと思い出した。たしか、昨年末開業した電波塔——東京タワーに行くんだったか。タワーの内部は観光できるようになっているらしく、…続きを読む
ヒールの音を高らかに響かせ、早足で階段を降りた理香は、自動改札機にPASMOを叩きつけた。近くにいたスーツ姿の男性が驚いた様子で理香のほうを見たが、気にせず改札を抜けてホームに向かい、ベンチにどかっと腰を下ろす。金曜日の21時。普段ならまだどこかで飲み歩いている時間だが、今日は一軒目で早々に引き上げた。至近距離で吹きかけられた酒臭い息とこちらを睨みつける視線を思い出し、理香は思わず顔をしかめ、ため息をつく。この日理香は、同僚たちと何度か行ったことのある恵比寿のカウンターバーに、初めて一人で足を運んだ。元は同僚の行きつけの店だったが、新参者も快く受け入れてくれる雰囲気があり、何度か足を運…続きを読む
針のように冷え切った指で耳の裏をそっとなぞると、ぞわりと全身が粟立った。爪を立て、耳裏に突き立てる。洋子は目の前の全身鏡を見つめると、そこには、暗闇に包まれた部屋の中、一糸纏わぬ姿で床に座り込む女の姿が見えた。綺麗に化粧をほどこしている女の目はうつろにくぼんでいて、明るいピンク色の唇が妙に目立つ。明るい茶色に染めた髪は丁寧に巻かれ、肩のあたりでゆるく波打っていたが、窓から漏れ入る月明かりに照らされた毛先は枝毛だらけだった。窓から入る冷気にぶるり、と身震いする。それでも服を着る気にはなれなかった。傍には、先程脱ぎ捨てたワンピース。薄桃色の生地に銀糸で花の模様が刺繍されているそれは、亡骸のよ…続きを読む