その年、一年ぶりの甲子園が開催された。百年を超える歴史の中で、甲子園が中止されたのはたったの二回しかない。大正七年に起きた米騒動による影響と昭和十六年で差し掛かった戦争悪化の影響でやむなく中止された、その二回だ。 令和になったこの年にまさか三回目の中止が訪れるなんて誰もが思わなかった。だから、やり切れないまま引退を迎える先輩たちを、私は居た堪れない気持ちで見送った。 小さい頃から私は野球が好きで、甲子園球場に立つことが夢だった。マネージャーという立場でも、選手のみんなを支えてあの空気を味わえるならなんでもよかった。 だから中止になった年、私はひっそり泣いた。先輩たちが野球に…続きを読む
隣の席の伏美碧生(ふしみあおい)は誰が見ても特別だ。「真崎巡(まさきめぐる)これを答えてくれ」 シャーペンの先から芯がぽとりと落ちたと同時に先生に名指しをされた。出し切った芯を隠すようにノートの端に追いやり、私は席から「はい」と立ち上がる。教室にいる友人たちが私の顔を見て「めぐ、うける」と少しにやけている。私はそんな彼女らに最悪だよ、という顔を見せて教卓の近くまで歩いた。 黒板にチョークを走らせる。前に立たされるのは嫌な時間だ。背中に視線が刺さる感じが変に緊張するし焦る。溜息が零れそうになったところで、手持ち無沙汰になったらしい先生が「お前らもちゃんと解けたのかぁ」…続きを読む
私の朝には『推し』がいる。 毎週水曜日。午前七時三十分の快速電車。前から数えて三両目あたり。 一番端の電車の片隅で、いつもイヤホンを耳につけて遠くを眺めている彼。 手足が長くて、なんとも小顔。胡桃色のお洒落な髪型に色白の肌。 最近はマスクで隠れているけど、たまたま飲み物を飲むときに見た横顔は見惚れるほどに美しい造形をしていた。なんてこった。私の推しは今日もはちゃめちゃに格好いい。 スマホを開いて、『今週も気になってる人と同じ電車になれた!神!』と打ち込む。 見ているだけでもドキドキする。私の運命の王子さまがいるとするなら間違いなく彼だ。 私は確…続きを読む
朝、目が覚めるとカーテンから差し込む淡い陽の光が、仄かに私の肌を白くした。 こんな朝早く目覚めたのは久しぶり。たぶん、学生ぶり。 いつものように伸びをして、そのまま一息つくとともに両腕を下ろした。 薄ぼんやりと明るいカーテンを数秒ほど眺めて、そうしてベッドから冷たいフローリングに足の裏をつける。 いつもなら二度寝だけど、今日は目が覚めてしまった。 窓の外から、鳥の鳴き声が聞こえた。 遮光カーテンを開いて、鍵を開ける。 朝戸風に髪が揺れ、背中側に流された。 春も終わろうとしているのに空気がひんやりして少し肌寒い。 白白明けを迎えた空はずっと眺め…続きを読む
世界が色づく前、夢の中で何度も呼ばれていた。 手を伸ばした先には誰もいなくて、気づいたら後ろばかり振り返っている。 指に挟んだ紙煙草から白い煙を燻らせると、風に掻き消えた。 港の連絡橋を潜り、一瞬、視界に影が落ちる。日の下に出ると、太陽が眩しくて目を眇めた。 船の上から眺める青を弾く海と晴れ渡るような空は、きっとキラキラと輝いて、いつ見ても胸が熱くなるほど美しい眺めだ。 と、大昔は思っていた。以前なら躊躇しないまま構図を探していただろうに、この美しい世界が、今の俺には色褪せて見えて仕方なかった。 今も、過去も、何もかも封印してカメ…続きを読む
「それでは、ウミちゃん。お元気で」 握った手が震えている。その手は私の手だろうか。いいや、これはこの人の手だ。 昭和十年。八月。入道雲が夕陽に照らされる中、その人は強がるように顔を笑みを作って、私の手をただひたすらに握っていた。 プラットホームの上から「行ってこい、ミノル」「気ぃつけて」と彼の友人たちが声をかけている。「ああ」と力強く頷くその人の手が震えていることに誰一人気づいていない。 いや、本当はわかっているのかもしれない。けれど、誰も何も言えない。 言ってはいけない空気がこの国全体を支配している。「行きたくないよな」とも「行かんくていい」なんてこと…続きを読む
僕には何も残っちゃいなかった。夢も希望も愛する人も。 六畳一間。僕は親戚に借りたその一室でただひたすらに横になっていた。夏だというのに敷物もないフローリングの上はあまりに冷たくて、僕の体温と床がまるで一体化しているような錯覚を覚える。 ネオンが煌めき、揺らめく人の群れに憧れて十八の頃の僕は夢を抱いてこの地に足を踏み入れた。家族の反対を押し切って、今を時めく時代の人に僕にもなれるのだと、若かりしあの頃、自分自身の可能性を信じて無謀にも芸事の世界へ飛び込んだ。 夢を追いかけて数年は楽しいものだった。同じ目標を目指す仲間たちと、苦悩し笑い合い、お金がなくとも好きという情熱は…続きを読む