「安心してください。純然たる好奇心です。ヒーローかダークヒーローか。ゴエモンさんに興味が湧きました。」そう言うと咲希はニコッと笑いながら俺にハンカチを差し出した。あんな言葉を俺に投げかけておいて、カバンの中にある使い古したハンカチを俺が忘れたことも、備え付けのペーパーが切れていて手を拭けずにいたこともお見通しか。「あ、え? あ、あ、ありがとう」俺は狼狽えながらもハンカチを取り、手を拭った。喉がきゅっとしまり、唇まで乾いていく。咲希の差し出したふわふわのタオルハンカチは、俺の身体中の水気を全て奪っているかのようだった。「それ、ゴエモンさんに貸すので、今度会う時返…続きを読む
其れは官能的な出逢いだった。或る銀座の百貨店、人混みの中、目当てのものは其処に在った。巷で手に入る”ちよこれーと”に目がない私を見て、友人の一人が「仏蘭西の”ちよこ”は別格だ」と教えてくれたのだ。此の日の為に日々我慢を重ね、万札を握り締めた私は、真剣な面持ちで売り場を歩く。友人から聞いた店の前で歩みを止めると、突然ぐにゃりと時間迄もが止まった気がした。確かに”ちよこ”は其処に在った。凛とした装いに薄紅のりぼんを纏い、隅の方で私を見つめていた。私は吸い込まれる様に、其処に或る”ちよこ”に手を伸ばし、二言三言、言葉を発した。怪訝そうな目をした百貨店の店員から逃げる様に、私は”ちよこ”を…続きを読む
年が明けてひと月が過ぎた。まだまだ寒さが頬を打ち、街中どことなく気が沈んでみえる2月のある日曜日。私は1人、デパートの催事場へと向かっていた。毎年誰かの為に買っていたバレンタインのチョコレートも、今年は自分の為に買うと決めている。海外からこの時期にだけやってくるチョコレートブランドは大人気で、催事場ではあらゆる年代の女性がお目当てのブランドへ群がっている。幾つかの店でチョコレートを買い、人混みを避けてぐるりと会場内をまわっていた。催事場の隅にある配送コーナーの隣、パーテーションで区切られていて気が付かなかったが、よく見るとこぢんまりとしたブースがあるらしい。近づいてみると…続きを読む
(あっ、今日は小説も携帯の充電器も忘れてきてしまった‥)電車に乗り込み数分、目的の駅までの時間、普段は携帯を見ているか小説を読んでいる。しかし今日はそのどちらでもない。携帯は上手く充電が出来ておらず、残り20%を切っていた。東京メトロの赤坂見附で乗り換えるまではまだ少し時間がある。どうしたものかと考えていると、たまたま電車の広告が目に入った。いつも視界に入ってはいるが、こんなにも真剣に意識を向けた事はなかった。そんな事を考えていると、ふと広告の1つに、小説投稿サイトの短編が掲載されていた。いい暇つぶしになりそうだと、早速読み始める。『(あっ、今日は小説も携帯の充電器も忘れてきてし…続きを読む
「ちょっとお腹痛いかも。 昨日あみが作ったハンバーグ、生焼けだったんじゃない?」9時42分、あなたから来た連絡を見て、もう明日から、こんな些細な不幸に悩まされることもないんだと思うと、嬉しくて涙がでた。あなたが仕事に行ってから帰ってくるまでの僅かな時間で、私は今までの私の人生を、纏めあげなければならない。出ていくと決めてから今日まで、少しずつ要らないものを捨てたり、必要なものだけを選んでいった。新しい家はもうある。後は急いで段ボールに洋服や小物を詰め混んで、集荷を待つだけだ。持って行きたいものは思ったよりもずっと少なかった。段ボール4箱が、私がこの家から連れ出した…続きを読む
スー フー スー フー彼女の呼吸の間隔が変わる。徐々に深く、大きくなる。スーー フーー スーー フーー吸い込んだ息が肺を膨らませ、彼女の身体が優しく揺れ動く。微睡みながら俺は、いつも同じ様に、彼女と出会った頃のことを思い出す。スーー フーー スーー フーーこの深い寝息を聞きながら俺はゆっくりと眠りに落ちる。彼女との出会いは高校生の時だった。最初はただのクラスメイト、彼女は明るく真面目な人気者で、いつもクラスの中心にいるような、皆んなのお母さんみたいな子だった。俺は年相応にふざけたこともしたけれど、余りモテるタイプではなかったし、早く家を出て、誰も俺のこ…続きを読む