「好きなタイプは?」と聞かれて、「優しくて面白い人が好き」なんていう無難な回答をする女の中に、本心を話している人は一人もいないんじゃないか。 少なくとも、私はそう。私は理想が高いわけではないと思う。身長も自分より低くてもいいし、自分の食い扶持は自分で稼ぐ主義だから年収もあまり気にしない。私が設けている基準はただひとつ。左手の薬指に光る銀色の輪っかがあるかどうかだ。「小鳥遊さんって意外と悪いよね」 シャツに腕を通しながら、先輩は笑う。いつもの大人っぽくて優しいものではなくて、下心の溢れた汚いもの笑いだった。「先輩って超優良物件じゃない?」と給湯室でこそこそと囁き合っていた女性陣がこの顔を…続きを読む
あなたに出会ったことが、私の人生で最高の幸せだった。「いやあ、おめでとうございます」「ずっとお会いしたいと思っていて」 がやがやと大人の声が響く中、どうすればいいかもわからずに隅の方で縮こまっていた。 左胸につけた、「七瀬いずみ」という文字が刷られている名札。これさえあれば大丈夫だと思ったが、実際にはそんなことはなかったらしい。大人が名刺を交換しているという子供の私にはどうやっても入っていけない空間の中で、私は明らかに浮いていた。 手にしていた一冊の本を、ギュッと握る。それの表紙は『日の沈まない街』というタイトルにも関わらず、宵闇にぽつりとやせ細った三日月が浮かんでいる写真が…続きを読む
「好き」と「嫌い」が紙一重なら、「かわいい」と「恐ろしい」も背中合わせだと思う。 犬カフェ、猫カフェというものは知っていたけれど、どうやらこの世には「カワウソカフェ」なるものがあるらしい。「こんなに可愛い生物に『恐ろしい』って名前を付けた人の気がしれない」 その艶々した茶色い毛を撫でながら、森さんはそう言って頬を膨らませた。この人は犬にも猫にも人間にも興味を持たないし、しまいには「え? 哺乳類……」とか言ってしまうちょっと残念な人なのだけれど、どうやらカワウソだけは「可愛い生物」と認識しているようだった。「恐ろしい?」「カワウソの語源ね」 森さんはカワウソの口の下のあたりをわち…続きを読む
いくら平和主義で温厚な私でも、あの二人は許しておけない。あいつらを生かしておけない。本気で「死ね」と思っているし、誰も殺してくれないなら自らこの手を血で染めてやろうと思ったこともある。* * * * *「ねえちょっとどういうこと?」 好きな人の前では可愛くいたい。そんなことを思って意識的に声色を変えていたのはもう何十年も前のことで、今さら彼の前で自分を取り繕うようなことはしない。「え? 何? なんでそんなに怒ってるの?」 やつは髪をガシャガシャと掻きむしりながら、ふわあっと欠伸をする。口を開かなかったのはせめてもの配慮なのかもしれないけれど、だったら全部堪えればいいの…続きを読む
刑事ドラマなんかで人を刺すときに鳴る「グサッ」という音は、所詮は効果音でしかなかったらしい。本物の人間にナイフを刺す音は、もっと生々しくて水っぽかった。 握っていたナイフを放す。カチャンッという金属音を響かせて、それは右足の真横に落ちた。刃先についていた彼女の血液が、アスファルトに飛び散った。 床に横たわる彼女を見つめる。体をくの字型に曲げた彼女は、それでもなおあの気高さを手放していない。 あんなにも世間を騒がせ、多くの人を恐怖に落とし込んだ彼女がこんなにもあっさりと息を引き取ったことが、俄には信じられなかった。 じわじわと腹部から溢れる血が、そのブラウスを汚していく。 いや…続きを読む
すべてを終わらせるにはこれ以上ないくらいに最適な、ひどく晴れた空だった。 駅前のカフェに入り、一番奥の席に腰を下ろす。観葉植物で仕切られたその一席は、僕たちの定位置だった。 窓から差し込む光が今はすごく邪魔に感じる。 これから僕たちがやることを想像すると、キュッと胃が縮こまるような気がした。 さっき注文したアイスティーを口に含む。食道を冷たい液体が通っていくのがわかる。それはお腹のあたりでじんわりと全身に溶けていった。 腕に巻いている腕時計に目を落とす。その金色の細い針が指す時刻は、とっくに約束の時を過ぎていた。 もしかしたら、今日彼女はここに来ないかもしれない。 彼女…続きを読む
二月十四日の午後九時に、家のチャイムが鳴った。「はい。って、葉月?」「え?」 席を立って訪問客の対応をしていた妻の声に、思わずブラウニーを食べていた手を止めた。 葉月ちゃんは妻の妹だ。ここから三駅ほど先の高校に通っている。「通学路の途中にあるから」と我が家に寄ることもたまにあったが、ここ最近はめったに姿を見ていない。というのも、彼女は受験期真っ只中の高校三年生だった。 慌てたように玄関に向かう妻の後を追う。 扉を開けた先には、白いマフラーと数年前からずっと使っている紺のコートに身を包んだ葉月ちゃんが立っていた。「突然、ごめん」 ぺこりと小さく頭を下げると、その肩に触れないく…続きを読む
====================「すみません、相席させてもらってもいいですか?」 見知らぬ女性がそう声をかけてきた。 パソコン上の文字を追っていた目線を上げる。眼鏡をかけた黒髪の女性が、少し緊張した面持ちで僕を見ていた。 まわりをざっと見渡す。 たしかに店内は混み合っていて、席はほとんど空いていない。 だからといって、こんなカフェで相席なんて聞いたことがなかった。 断ろうとしたそのとき、彼女が手にしていたカップのアイスコーヒーに目が止まる。サイズはSで間違いないはずだ。 どうやら、そんな何十分も居座られるわけではなさそうだ。「まあ、いいですけど」「ありがとう…続きを読む
「人類が言葉を持っている意義って何だと思う?」 先輩がそんな哲学的なことを言い出したのは、窓の外が夕焼け色に染まりだした頃。「さあ、何ででしょう」 時折こうやって先輩から難しい質問を投げかけられるのが、僕の日常だ。 数秒の沈黙の後、先輩はローズピンクに染まった唇を開く。「これはあくまで私の考えだけれど。私たち人類は、自分を作るために言葉を持っているんじゃないかな」「はあ」 自分を作るため。その言葉だけでは先輩の考えが分からない。 僕は先輩のすっとした鼻筋の際立つ横顔を見つめた。そうやって先輩の次の言葉を待つしか、僕に今できることはない。「人間って弱いから、自分の中に…続きを読む
眠れない夜に、答えのないことを考えてしまうのは昔から変わらない。 明日、従姉妹が遊びに来るらしい。先月二歳になった娘と、生まれたばかりの息子を連れて。「たくさん遊んであげてね」と従姉妹から電話が合ったのは、三日前のことだった。「あの子、花奈ちゃんのこと大好きだから」 うんと返事をした私の声は、ちゃんと楽しそうに聞こえただろうか。「変なんだよ」 ふと、昔に母が言っていた言葉が聞こえた気がした。 それは、二年くらい前に従姉妹が生まれたばかりの娘を連れてきたときだった。 かわいいかわいいと二人を囲む親戚を見ながら、母の鋭い目はその中の一人を捉えていた。母の妹。私の叔母だ。…続きを読む