ゴールデンの時間帯に、男性同士のカップルのドラマが放送されるようになった。それを茶化す人はおろか、「LGDTQをエンタメとして消費するな」と声を上げる人もいない。 十数年前に人々が思い描いた「多様性」の時代を、私はいま生きている。あの頃は彼女と手を繋ぎながら、混み合う渋谷駅を歩くことなんてできないと思っていた。 何百人という人々が声をあげ、行動に移し、そうやって世界は変わった。でも、だからと言って、それまでの日々が、痛みが消えるわけではない。 思い出すのは、十五年前。 十九歳だった私は、深い夜の中、リビングで母と向き合っていた。母は紅茶の入ったマグカップを両手で強く握りしめながら、…続きを読む
まさか自分がここに来るとは思わなかった。最近よくSNSで見かける、絵本の中から出てきたのではないかと疑うほど可愛らしい見た目の店を見上げながら、僕はゆっくり息を吐いた。 もともと、美容師との会話が嫌すぎて毎回駅前の千円カットで済ませてしまうような人間だ。いくら店員といえど、初対面の人と会話をするのは結構難しい。代官山という立地も相まって、なおさら緊張がおさまらない。 それから三回ほど深呼吸をして、僕はその店の扉を開けた。 カランカラン、と今時珍しいベルの音がする。こういうベルをつける店が減ったせいで、カフェを舞台にしたコントの入りで「カランカラン」という音をつけても伝わらない人が多い、…続きを読む
拝啓、なんてとりあえず書いてみたけど、この後に何を書けばいいかが早速わかりません。あなたの名前を書けばいいことはわかってるんだけどね、それをこのまま書いていいのか、次の行に書くべきなのかがわからないんです。 さて、よく「プレゼンは最初の掴みが一番肝心だ」という話を聞くけれど、この書き出しを見てあなたは続きを読もうと思ってくれたのかな。手紙の書き方もわからないのかと呆れられている気もするし、今さらこれくらい慣れたものだと諦めてこの文に目を通してくれているのかもしれないね。 きっと今、この手紙を読んでいるとき、あなたの前に私はいないと思います。 なんだかこうやって書くとまるで遺書みたい…続きを読む
わたしが好きなのは他の何ものでもないあなただよ。 その言葉が言えそうで、言いかけて、やっぱり言えない。それを口にしてしまったら、わたしたちを繋いでいるか細い糸はいとも簡単に切れてしまうことを、わたしは知っている。「じゃあ土曜の十三時に水族館の入口のところで」 要点だけを簡潔にまとめると、成瀬くんは手元の教材を片付けはじめた。ノートの表紙に書かれた、少し右上がりの「経済学入門」の文字。お世辞にも綺麗とは言えないけれど、この独特な筆跡をわたしは忘れないだろうなと思った。「成瀬くん、次は授業なんだっけ」「そう。八号館だからちょっと早めに移動しないと。松崎さんは?」「わたしは空きコ…続きを読む
瞼の上に光を感じた。 いつのまにかずり落ちていた頭を枕の上に戻しながら、引きずり出されるように目を開ける。カーテンの隙間から差し込む光に眼球を攻撃され、反射的に枕に顔を埋めた。一秒にも満たない時間だったのに、日光の跡が青い靄になって眼球にこびりついている。自分がこんな時間に目を覚ましてしまった理由をすぐに悟る。 左隣からは一定のリズムの吐息が聞こえている。身体ごとそちらに向いて、まだ違和感のある視界のまま彼の横顔を眺める。彼は、今日も真っ直ぐに天井を向きながらすやすやと穏やかに眠っている。呼吸をするのに合わせてヒクヒクと動く彼の唇を眺めながら、私は欠伸をした。 彼はよく「俺って寝相…続きを読む
愛されることが苦手だ、という書き出しを思いついて、それだとまるで「自分は常に誰かから愛されている人間だ」と言っているようじゃないかと思った。 そりゃあもちろん私だって、嫌われるよりは愛された方がいい。でも別に愛されたいとは願っているわけではない。愛されなくても私は幸せだから。ただ、愛を受け取ってもらえさえすれば。 おそらく伝わらないだろうとわかっていながらも、半ば諦めのような気持ちで書いてみた。 好きだという私の言葉を、ちょっと動揺しながらも受け取ってくれる人を望んでいる。ご飯に行きたいとか遊びに行きたいという誘いに「いいね。行こう!」と軽く返事をして、できれば「いつにしよう?」っ…続きを読む
あの人は、本物の優しさをくれない。苦しみこそが、わたしが抱いている彼への愛を証明するものだ。 そう思えばこの突き刺すような冷たい風だって、大したことはない。マフラーに顔を埋め、目を閉じる。 前髪が風に揺らされるのを感じながら、マスクをしていてよかったと少しだけ複雑な心境になる。 風邪が流行っているからと、家を出るときに無理やり母につけさせられた。せっかく先輩に会うのだからと一時間もかけて作り上げた顔面にマスクなんてたまったもんじゃないと反対したのだけれど、受験生の妹を出されたら文句なんて言えない。いやいやマスクをつけて家を出て、最寄り駅に着いた瞬間に外した。 まさかあのときは、…続きを読む
初めは、「ありきたり」と言ってしまうのはあれだが、そういったありきたりな「いじめ」問題だと思っていたのだ。「はい。みんなとても仲良しです。いじめなんかはありません」 そう言ってにっこりと笑ったクラス委員長を見て、「嘘だろ」と思ってしまったのは、刑事の勘というより人間の性だと思う。 俺の経験上の話になってしまうが、どんなに平和主義者だけが集まったクラスだって、完全な平和なんて存在しない。大きさは異なるにせよ、そこには必ず「悪」がある。はずだ。「そっか、わかった。ありがとう」 しかし、いま俺が衝動的に考えてしまったことを目の前に座る少女に言ったところで、きっと彼女の笑顔は崩れない…続きを読む
ベッドの横に寄せられた小さなテーブルの上には、写真立てが一つ置かれている。そこに映っているのは、優しい笑顔を浮かべる男女の姿だった。 背後からは、落ち着いた楓人の呼吸音が聞こえる。乱れる心の内を必死に隠そうとするかのようなわざとらしさに、わたしの心臓はきつく締めつけられた。「ちょっとでも嫌だなと思うことがあったら溜め込んじゃだめよ。そういうのが積み重なって、気づいたら後戻りできないくらい大きな溝になってるんだから」 電話越しの姉の声は、ただ優しいだけでなくて安心感がある。心なしか母の声に近くなった気がするのは遺伝ではなく、子を持つ母親ならではのものなのだろう。 姉は一ヶ月前の…続きを読む
人が記憶を手放していく順番は、聴覚から始まり、視覚、触覚、味覚、そして最後に嗅覚が失われるらしい。 だから私は、こうしてオレンジ色の光に染まったホールを観て、彼のことを思い出したのだろうか。もうあの人がどんな声で話していたかも思い出すことができないのに。 ホール中に漂うアルコールの匂いと、視界に入る煌びやかな同級生の姿が悲しい。いまこの空間にあるもの全てが、私にもうあのころには戻れないと言っているみたいだった。 涼菜は、たしか高校二年生のときに同じクラスだった守田くんと談笑をしている。幹事長の挨拶が終わるとすぐに、涼菜に親しげに声をかけてきたのだ。 いきなりのことに驚いている…続きを読む