心が死んでいても腹は減る。 預けてあった荷物を引き取り、小腹を満たすために売店でヒレカツサンドを手にしたとき、梶山邦仁は思った。 700円のヒレカツサンドは値段の割には腹を満たしてくれない。咀嚼中の豚肉の筋が噛み切れないうちに、横に並んでいるチャーシュー弁当に手を伸ばしそうになった。自分の気持ちはこれ以上ないほど沈んでいるのに、正反対な欲求にはまったく辟易させられるばかりだ。 財布には祖母がくれた二万円が入っている。先行きの見通しがつかない不安ばかりの旅の軍資金としては少ないような気もするが、ズボンのポケットに無理矢理押し込んできた祖母の涙と洟に塗れた顔を思い出すと安易な衝動で使う…続きを読む
まず驚いたのは、電車に乗っている人が、その駅で全員降りてしまったこと。「すげえ、すげえ。真由乃、離れるなよ」 亮くんがそう言って私の手をいっそう強く握った。 人の波の流れに乗って、ゆっくりと駅の改札を出た。改札の前には、人を待っている人がいっぱいいて、お祭りに来たんだなって感じがして、それだけで胸がちょっと高鳴った。「暑いなあ。もうバテそうだよ」「ばか。今からそんな弱音言ってたら午前中でぶっ倒れちゃうぞ」「えー、そしたら亮くんが、介抱してよ」 亮くんは優しいから、「なんでだよ」とか言ってるけど、内心嬉しそうだ。 それにしても、本当に暑いなあ。 亮くんに言ったら嫌われちゃう…続きを読む
どこから入り込んだのか、わたしの目の前をうるさく蚊が飛び回っている。まだ梅雨にもなっていない五月の中旬だ。 通常だったら瞬殺であの世送りにしてしまうところだ。でも、今のわたしにはそんな気力すら湧かない。命拾いしたね、蚊。 弟が、死んだ。 私の2コ下だから、中学2年に上がったばかり。サッカーが得意で、県の選抜選手にも選ばれている。勉強もできる。その上、見てくれも悪くないときた。姉としてはたまったもんじゃない。この前のバレンタインデーのチョコの数は、わたしに驚愕と劣等感を感じさせるのに十分な量だった。 その人気者の弟が、死んだ。自殺だった。わたしたちが住んでいる十二階のマンションの最…続きを読む
目が覚めたと同時に割れるような頭の痛みに襲われた。 昨晩、いや、昼前までの酒がまだ残っている。いや、残っているというよりも、”絶賛酔っぱらった状態”と表現するのが正しいのだろう。自分の吐く息が生暖かく酒臭いものだとわかる。 枕もとのスマホを開くと時刻は17時を回ったところだった。朝方の記憶がきれいに抜け落ちている。台所まで重い体を引きづり、錆臭い水を3杯続けて一気に飲んだ。 落ち着いてきた。 昨日の記憶が少しだけ蘇る。 昨日はいつものように21時に店に出勤した。俺が働いているのは駅前の古ぼけた雑居ビルにあるキャバクラだ。そこで客を席に案内したり、酒を運んだりしている。 俺…続きを読む
私の夫は 、何よりも習慣を重んじる人。戦後すぐに教職についた夫は、生真面目な性格で、生徒からは恐れられ、同僚からは付き合いにくいと敬遠される人だった。それでも生涯をかけて充実した教師生活を送れたのは、やはり生真面目な性格が教師には向いていたということなのだろう。山間のわずかな民家が肩を寄せ合うだけの小さな村に、夫と私の家はある。ここ数年、巣立って行った子供たちが都会での同居を勧めてくれているけどそのつもりはなかった。この小さな村で私たちは静かに死んでいく。朝、目が覚めると、私はまず床に臥したままの夫の元に行き、すでに言葉を発することのなくなった口元にこびりついた涎を拭き、下の世話…続きを読む
小さいころから冬の夜がきらいだった。シンと静まる闇夜の冷たさは、まるでこの星そのものが太陽に見放されたみたいだ。隣を歩くあなたの言葉はなくて、息の白さが際立っている。右手に感じる温もりと、相反する甲に当たるキーケースの冷たさ。さっきまでの体温がまるで嘘みたいに消えてなくなり始めている。「コーヒー飲む?」あなたは、わたしの返事を待たずに、近くの自動販売機で缶コーヒーを買った。「荷物、まとめて送るから。今月中には送るからさ」あなたは自然な流れで、またわたしの手を求める。ああ、愛しさを言葉にするのが嫌いなの。知りうる言葉、全部使ったって、言い尽くせやしないから。月が…続きを読む
「先生。先生はいつだって寂しそうな目をしてますね」そう僕に言ったのは今から7年前、18歳のあなただったね。18歳のあなたは、おとなとこどもを行ったり来たり。音楽の歌詞や映画の台詞に憧れて、でもロマンチックすぎるのはちょっと苦手で。コーヒーはミルクだけ。飲む時の少し寄る眉間の皺が好きだった。18歳。あなたは背伸びの似合う女の子だった。そして現在。あなたは25歳になった。僕たちは夫婦になった。僕のシャツのボタンを直すあなたは、器用に針を駆使して、玉留めもお手の物だ。テーブルの上にはミルクとシロップがたっぷり入ったアイスコーヒーが置かれている。もう、眉間に皺は寄らな…続きを読む