私が存在しない世界の夢を見た。 嫌な目覚めだ。 身体を起こすと、パジャマからシーツまで汗でぐちゃぐちゃになっていることに気が付いた。初夏だというに頭まで布団を被って寝ていたのも理由の一つだとは思うが、根本的な原因は悪夢を見たことにあるだろう。 不快感から逃げ出すようにベッドから降りる。そのまま部屋を飛び出して階段を下る。起きて間もないというのに最早夢の内容は朧気にしか思い出せず、如何な悪夢であったかは汗という物的証拠でしか判断できない。まぁ、あらすじが見えてるから大体の想像はつくけどさ。 私の居ない世界。 大学にも行かず、地元に留まってアルバイト生活を送るだけの女が一人消えたとこ…続きを読む
生まれ変わってもパン屋にはならない。 パンが嫌いな訳じゃない。いやそもそもの話、パンとか一種類しか食ったことないし。まぁどっちかと言えばパンは好きだ。ふわりと感じる朝一番の焼きたてのパンの香りは、えも言われぬ幸せな気分にさせてくれる。 その香りも、日の出前からせっせこと働く人間が居てこそのもの。そう、パン屋の朝は恐ろしく早い。こんな仕事、正直言って誰もしたくないに決まっている。 パン生地作って。 中に詰める具材用意して。 成形したら焼くなり揚げるなりして。 出来上がったパンを棚に並べていく。 毎日この作業の繰り返し。そうやって手間掛けて作ったパンですら、大手メーカーが作ったやつ…続きを読む
『「贅沢は味方」もっと欲しがります 負けたって 勝ったって この感度は揺るがないの 貧しさこそが敵』 イヤホンから流れる音の向こうで、玄関ドアがパタリと鳴った。鍵を差し込んで捻る。施錠完了。 そうか、朝か。もうそんな時間か。つい二十分も前は夜中だった気がするのだが。いや、体内時計如きが文句を言っていても致し方ない。出社時刻もバスの定刻も待ってはくれないのだ。『贅沢するにはきっと 財布だけじゃ足りないね だって麗しいのはザラにないの 洗脳(わな)にご注意』 天気は小雨、運が良いのだか悪いのだか。安いビニール傘がパラパラと音を立てて喧しい。音楽の邪魔だろうあっち行け。そう…続きを読む
気まずい。 平日昼の水族館は空いていて、ベンチに腰掛ける私達の周りに人間は一人とていない。存在する生命体といえば、目の前でガラス越しにイチャつくカワウソのカップルくらいである。 私達が並大抵のカップルであったなら、「カワウソ可愛いウソ〜」などと嘯くことも出来ただろうに、残念ながら今この場において眼前の光景はただのストレス要因と化してしまっている。理由は単純。私達が恋人同士などではなく、そして私が先週彼から愛の告白を受けたからである。 そして、彼の告白は受け入れられない。「……やっぱり、ダメですよね」 彼が重たそうに口を開く。その言葉は苦しそうで、その暗いトーンは同時に私も苦しめる。…続きを読む
泣き虫な僕の隣には、いつも君がいた。 僕の眼の色は青い。それが原因で、小学生の頃はよくいじめの対象になっていた。 涙でぼやけた視界。目に入った光は乱反射して、正しい色を伝えてくれなくなる。曇りガラスを通したようなその淡い景色を、鮮やかな色に変えてくれるのは、君だった。『また泣いてるの?』 そう。また、泣いている。『元気出して。ほら、こっち来なよ』 そうやって、君は僕の手を強く引く。 小学生の記憶なんて色褪せて当然のはず。でも、その景色は今でもはっきりと目の前に浮かぶ。あの頃に泣き過ぎた。君のことをよく覚えているのは、当然の帰結だろう。『本当に、トウヤは泣き虫だなぁ』 そう。…続きを読む
北見家長女、冬香が海に向かって叫ぶ。「こまだいとまこまいぃー!」「何でよ⁉︎」 驚く次女、秋奈。その手には、母親から渡されたエコバッグが握られている。「いや、待って。ツッコミどころは複数あるから、まず手前から解消しましょう。何で『駒大苫小牧』? 普通にやっほーとかで良いんじゃないの?」「叫ぶのに語感が良いから」「あらゆる掛け声の立場が無いわよ、それ」「まぁまぁ、秋奈も『駒大苫小牧』って一回言ってみ? ほら、せーの」 二人揃って黙りこくる。「言えよぉ!」「言わないわよ! ……はぁ、全く」 秋奈がこめかみを指で押さえる。確か、お遣いを頼まれてスーパーマーケットを目指していた…続きを読む
日の暮れた、いつもの小高い丘の上。 俺は、ぼうっと冬の夜空を見上げていた。その折、誰かの足音が近づいてくる。 きっと、彼女だ。「待たせたな、後輩」「えぇ。待ちましたよ、先輩」「まぁまぁそう言うな」 そう言って、先輩がひょいっと何かを投げる。反射的に掴んだそれは、温かかった。「カイロだ。これで少しでも暖まってくれ」 正直、こんな小さな熱源では高が知れている。だが、身体の芯がじわりと暖かくなったのが、寒空の下でも分かってしまった。 ふと、手元のカイロから上へ視線を移す。天気は晴れ。流星群の観察には持ってこいの空だ。しかし、懸念が一つ。「そう言えば、先輩」「何だ?」「今日っ…続きを読む
チャイムを鳴らし続けて二分。仕方なく、渡された合鍵を差し込んだ。左に捻ると、ガチャリと鍵の開く音。 ドアを開ける。チェーンは掛かっていなかった。合鍵を俺に渡したりと、女子高生の一人暮らしにしてはいささか不用心が過ぎるのではないか。「失礼します、延岡です」 一言名乗り、部屋に上がる。家主兼担当作家は、ベッドの上で悠々と寝ていた。 声を掛ける。「先生、起きてください」「……」 やはりと言うか、起きない。しかしこちらにも策がある。カバンから朝方に即席で作った紙鉄砲を取り出し、右手にセット。紙鉄砲とは言わずもがな、振り下ろすと大きな破裂音のする、新聞紙とかで作るあの三角形のアレである。…続きを読む
放課を知らせるチャイムが鳴った。私は立ち上がり、親友のいる席へ早足で向かう。 到着。「ねーユイ、一緒に帰ろーよ」「え、なっちゃん部活は?」「入ってないじゃん」「そんな嘘を堂々と……」 苦笑を浮かべるユイ。「でも残念ながら、私は部活に行きます。一緒には帰れません」「じゃあユイに付いてく」「はいはい、邪魔しないでね」 教室を出て、二人並んで廊下を歩く。放課後の廊下は人だらけ、普段は聴こえるはずの足音も周りの音に掻き消されてしまう。「ねー、ユイ」「何かな?」「サッカー部のマネージャーって大変?」「そりゃ大変だよー」 そう言って、ユイは笑った。「結構やること多くてね。…続きを読む
ここ木組市は、着ぐるみの街だ。 二年前、市長選に着ぐるみを被った候補が出馬、「着ぐるみ推進条例」なる奇妙な条例を掲げて何故か当選。そして現状に至る。 今や、市民の大半が外出時に身を着ぐるみに包んでいる。曰く、「服装を考える必要がない」「化粧をする必要がない」「寝癖を直す必要がない」のだとか。その理屈が分からないとは言わない。ただ、人の顔が見られないというのは一抹の不安を抱いてしまうものだ。 だから、彼女の顔を見ると安心する。「……菅生さん、またサボり?」「あぁ?」 鋭い視線がこちらに飛ぶ。その威圧感に押されるように、足が一歩後ずさった。「何だ、お前か」 吊り上がった目…続きを読む