母はこの頃、ふとした時とても幸福そうな顔をする。時々、俯いたまま優しく微笑み小さく頷いたり、上を向いてはゆっくりため息をついたりする。けれど家事をする手は抜かず完璧で、そうなると益々、何を考えているのかわからない。見ているこちらが思わず小首を傾げてしまうのだった。 「ママ最近、何かいいことあった?」 「別に。でも、そうねぇ」 高橋さんと行く、絵画教室が楽しいかな。 母の様子が何となく変わったと感じたのは6月、緑濃い新緑の時期だった。表を歩けば色とりどりの花が咲き始め、春から夏への移り変わりを静かに教えてくれる。咲いている花の名前がわからない者にでも、こういう時期は美しいと…続きを読む
あなたといられないのなら私は、暗い夜空の小さい星でいいでも、あなたが見上げたとき一番最初に見つけてくれる星がいい 触れることができないのなら私は風になりたい肩にとまり、頬にふれてあなたを 包んで生きていきたい 話す事もできないのなら道端の花でいいあなたが悲しみに俯くとき精一杯、見上げてじっと咲いている花になるけれど、あなたのその澄んだ心の隅に居られるなら開かない蕾のままでいいそっと居られるのなら、私は咲けない花でいい そして…あなたがあなたでいられるのならそんな蕾を 知らなくてもいいあなたの願いが叶うならずっと 私を知らなくていい…続きを読む
『もしもし、久しぶり』 忘れたはずの声。けれど、間違いなくあの人の声。さっきまでの緩やかな時間は、突如テノールの囁きに奪われ壊れていく。 『…元気。忘れては、いないだろ?』 遠慮がちな口調に苛立ちと愛おしさを感じた。雪積もる、微睡む冬の午後。レースのカーテンを心許なげに纏う窓はまるで磨りガラスのように曇り、結露を作って悲しげに泣いていた。ソファから静かに寝息が聞こえる。暖房器具の機械音が振動する小さな空間に、心臓は早鐘を打ち私を責めた。 無音の雪景色。砂糖のような粉雪を纏った背の高い美しい樹木。あの影からこちらをそっと伺う遠い記憶に、私は思わず目を伏せた。 …続きを読む
「もう、やめよう」 俺には重い、とあなたは言った。一気に血の気が引いていくのを感じた。顔がカッとなって耳まで痺れる。こめかみがドクドクして、後頭部のあたりがふわふわした。 重くしない。あなたが重いと思わないような、そういう「好き」にするから。わたし、出来るよ。変われる。 人って、本当に不思議だ。最悪なその場を凌ごうと、自分では不本意だと思っていることでも平気で口にしてしまう。 それじゃ、駄目だよ君の好き、は「こういう」好きだろうそんなに簡単に変えれるの?そんなことしたら、君が君じゃなくなるよ あなたの言っていることは正直、わからなかったけれど要するに、どう…続きを読む
送られてくる度、美しい世界。雲ひとつない目の覚めるような青い空と、せせらぎが今にも聞こえてきそうな清流。今日も僕はあの素晴らしい世界がSNSから届けられるのを待つ。いつかのあの山。あれに似ているようで似ていないから、心奪われるのかもしれない。美しい世界が届けば僕の心も晴れて澄み渡り、そうでない日はそれが日常なのだと思うようにしていた…そうでないと、くじけてしまいそうだから。「一日、忙しいかな」僕は仲間に話しかける。さぁ、どうだろう、そう言って彼はタバコを咥えた。別の奴が吸いすぎなんじゃないのか、というと、俺にはオヤツみたいなもんだ、と言って彼は笑った。忙しいのが嫌なん…続きを読む
群青に包まれて貴方と見る夜のすべてがどうしてこんなに美しいのか悪いのは、月明かりのせい見えなくていいものは上手に見えなくて貴方の頬は明るく照らされこの手のひらで 包みたくなる今はどうしても心の中は 見られたくなくて小さな嫉妬は二人の溝を一層、深めるだけだから悪戯に瞳の奥を覗かれて闇の中、心地よい風を感じた振りをしたこんな意地悪をしてまた貴方を一段と、素敵にさせるのは星の子供たちのせいたくさんの瞬きが貴方を目指して落ちてくるたくさんの煌めきがわたしを目指して落ちてくる…続きを読む
アフター5(ファイブ)じゃない。俺の場合は、敢然たるアフター6(シックス)。窓際の俺の、会社へのせめてもの…なんだ、ほら、あるだろそういうの。ちょっとした礼儀じゃないけれど、皆を見送ってからの帰社。「お疲れさまでした」「お先に失礼します」若い奴らは、5時半を回ってもまだ声に張りがある。「ああ、お疲れ様」少し目を細めて挨拶を返す。たぶん、仕事はできなくても優しい窓際さんくらいには思ってくれるだろう。オフィスのフロアーは途端にシンとなり、俺に今日が金曜だったことを思い出させた。(さて、今日はどうしようか…)早く家路につきたい気持ちと街のネオンを天秤にかければ、…続きを読む
俺の心臓は跳ね上がり、下がった口角の端から溢れ落ちそうだった。彼女がなぜ、出会ったその日にあんなことを言うのか皆目、検討がつかないのだが、あまりに差し迫った表情に俺はそれを真摯に受け止めざるを得ない気がした。 あの瞳。 俺がこの間まで、一番身近に感じていた女性と同じ瞳。言葉数が少ない分、瞳で語る、歳が五つ 上の素敵な女性。 「今日。ここに来るまでに小さい猫を見つけたの」 「え、猫?」 いつからか、人目を忍んで彼女が時々訪ねてきては、一緒に朝を迎えるようになった1DKのアパート。その俺達の空間に「猫」というワードが響き、とても驚いた。俺達だけの世界に、二人以外の、命…続きを読む
貴方はいつも青りんごを口にする私がなぜ赤いりんごを食べないのか聞くと君色に染めていいよ、とすこし笑って言った あれからしばらくして青りんごは染まらないまま、遠くへ行ってしまったけれどりんごの皮を薄く綺麗にむいていく美しい指先だけは私の記憶に残されて大切な想いを一枚一枚、残すことなく剥ぎ取っては拐って春の嵐に乗せていく …拐って春の嵐に乗せていく…続きを読む