梅雨は明けた。 7月だというのに気分が晴れなかった。雨上がりの匂いがしていた。 私は校庭の少し濡れた長椅子に腰かけて、不意に耳からぶら下がったピアスに触れた。 気分が冴えないのは、このピアスをくれた男のせいだ。 彼とは、大学に入りたてのサークル見学で初めて会った。 大学生になったというのに妙に子供っぽくて、小さな子供がやるみたいに何かにつけちょっかいを出してきた。「俺、あの時からずっとお前の事が好きだった。」 そう告げられたのは、その年の夏の終わりだった。 それからはお互いの家に交互に入り浸った。 そんな付き合いだから、なんとなくマンネリとした雰囲気になるのもそう時…続きを読む
目の前に広がる光景を見て、中島浩之は呆然としていた。大きな震える声で、青年が叫んでいる。「大人しくしろっ!また殺すぞっ!」青年はそう言うと大きな包丁を振り回した。足元には僅か数分前に切りつけた婦人が血を流して横たわっている。婦人は腹を抑えたままピクリとも動かない。なんで・・・なんでこんな事に・・・浩之はそう思うと、悲しみからなのか、恐怖からなのか判らない涙を流した。高速バスを使って故郷に帰ろうと思ったのには訳があった。一つは、バスに乗る当日まで仕事があって、どうせだったら寝ている間に移動したいという思い。そしてもう一つは、父が癌になり、その見舞いのために帰郷す…続きを読む
春風に乗って、川を幾重にも渡った色とりどりの鯉のぼり達が気持ちよさそうに泳いでいる。沼津を訪れたのは久しぶりだ。妻が看護士をしているという事もあるが、ゴールデンウィークに家族が揃って旅行するのは初めての事だった。娘は、もう3歳になる。「久しぶりに休みが合ったから旅行に行きたいんだけど、何処に行きたい?」僕は粗方察しを付けながら妻に訊く。「どうせなら、やっぱり、沼津に行きたい。」妻はそう即答した。沼津は私達、家族にとって掛け替えのない場所だ。僕と妻を結びつけた9歳の女の子。彼女は天国に旅立ってしまったけれど、僕たちは自分の娘にその子の名を付けた。香織だ。ゴールデンウ…続きを読む
『人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまで中身は分からない。』映画、『フォレストガンプ』の中で、トム・ハンクス演じるフォレスト・ガンプが言う台詞だ。私は青年の頃にこの映画を観て、とても感動した記憶がある。人生は予期せぬ事の連続で、良くも悪くもそれぞれに味がある。「向日葵さん。」今日も朝から子供たちが声を掛けてくれる。「おはよう。」私は微笑みながら挨拶をする。交番の前を通りかかった人達は、中を覗き込んで私を見つけると笑いながら敬礼をしてくれる。この上ない、幸せな日々だ。ここへ来るまでの私の人生は苦痛の連続だった。幸せを感じた事などなかったかもしれない。…続きを読む
隣の音楽室からは部活前の様々な楽器の音が不揃いに聞こえてくる。開け放たれた扉からは夏の終わりを告げる涼しい風が軽く閉ざされた薄いカーテンを揺らしていた。 中森健太は部員がまだ集まる前の美術室で一人考えていた。 鉛筆をクルクルと回しながら何気なく見た天井と壁の間で、蟷螂が交尾を始めていた。「もうすぐ文化祭ですけど、美術部はね、文化祭はすごく忙しいですよ。学校全体からイラストや飾りなんかの依頼も来るし、私達は私達で美術部として展示するものを仕上げなくてはいけない。いいですか?美術部は一人一作品、必ず展示物を作ってください。絵でもいいし、彫刻でも、極端な話、玩具の様な物でも構わない。人を…続きを読む
真っすぐ目の前には、東京スカイツリーが見えている。 大学を卒業し、社会人1年目。 入社初日。 出社して挨拶を終えた僕に与えられた最初の仕事は、花見の場所取りだった。 毎年、新入社員が挨拶後、花見の場所取りをするのがこの会社の伝統らしい。 花見と言っても4月の1週目となると、桜はすでに散りかけていた。 風が吹くたびに花弁が舞う。 隅田公園は人で賑わっていた。 僕は会社の上司の指示通り、東京スカイツリーと桜が一緒に楽しめる場所をキープする。 出社後午前10時頃からの場所取りだから、桜の木の下という最高のポジションは取れなかったけど、桜の木越しにスカイツリーと東京タワーが見れ…続きを読む
病院の窓からみる桜の木が、眩しいほどの淡い緑の葉を付けていた。 忙しさは時に優しく、時に残酷に記憶を削っていく。 佐藤香織ちゃんが亡くなって1年が過ぎた。 忙しさのおかげで香織ちゃんを失った痛みは随分と誤魔化せたけれど、楽しかった香織ちゃんとの記憶も少しずつ失っている。 あんなにも優しく笑いかけてくれた香織ちゃんの顔を、私は鮮明に思い出す事は出来ない。 おねえちゃんはやさしいひと だからだいじょうぶ 私は香織ちゃんがくれたこの手紙を毎日見ている。 フォトスタンドに入れて、玄関に置いてある。 いつもそう言って笑いかけてくれるのに、その顔は少しずつ薄くなっているのだ。…続きを読む
吾輩は猫である。 実はもうけっこういい年である。 若い頃はね、そりゃあモテたもんですよ。猫にね。 けど今は相手にしてくれるのは人間だけ。 だから人間を癒してあげたい。 そう思っているのです。 お、入ってきましたね。 ささ、私の所に来なさい。癒してあげるから。 あーーーーーっ・・・そっちか。 ほら、次の方、こっちへ。 お、来た来た。 どれどれ、見せてごらん。 あー、やっぱりだ。化粧で隠しちゃってるけどもね、目の下のくま、隠せてませんよ。 きっとスマホのやりすぎですね。寝不足です。 じゃあ、今日は特別ですよ。 その猫じゃらし、使っていいですから。…続きを読む
明日の卒業祭、上手くいくだろうか。僕は江戸川の堤防に腰かけてそんな事を考えていた。歌を歌うのは好きだ。普段、目立たない学校生活を送っている僕が、競争率の高いバンド部門のボーカルとしてステージに立つなんて考えもしなかった。わずか1週間前、ウチの学校でも人気の高い『エロピアノ』というバンドのリーダーから声を掛けられた。「樹、お前、歌上手いんだって?弟が言ってた。」リーダーの湊先輩は、僕と同級生の律の兄貴で、うちの高校ではとびきり人気があった。「まあ、歌うのは好きですよ。自分では、上手いとは思ってます。」「ちょっとさ、King Gnu の 白日、歌ってみてくれる? 」「ここでで…続きを読む
風間又三郎は門の前でずっと悩んでいた。 この門を潜るべきか、否か。 もうかれこれ、10分近く迷っているのである。 鈴ヶ森刑場跡の裏側に位置する古びれた小さな洋館は蔦で覆われていて、一見すると幽霊屋敷のようだ。 人が住んでいるかも定かではない。 20日前、この近所の鈴ヶ森公園という所で殺人事件が起こった。 被害者は20代の女性で、遺体は滑り台の上に晒すように置かれていた。 死亡推定時刻は午後9時頃で、その日は大井競馬場のナイター開催が実施されていたにも関わらず、犯行の目撃情報は得られない。 被害者の交友関係から何人かの容疑者が浮かび上がったが、そのいずれにも当日のアリバイがあ…続きを読む