「早起きは三文の徳」だと昔から母が言っていたが、26の一人暮らしの僕にそんな言葉を浴びせるアラームもなければ早起きをしようという試みすらない。特に冬の朝なんてもってのほかだ。12月にもなると僕は寒くて朝ベッドから出ることがなかなかできない。昨日も夜遅くまで母が最近買ったというスピリチュアルなんちゃらにいいという数珠を僕にも買うべきだと勧めて電話を切らなかったせいもあって、休みの日は昼ぐらいまで寝てやろうと意気込んでいたばかりだった。数珠とか、昔からの言い伝えとか、迷信とかをなんの疑いもなく信じ込む母を反面教師に育った僕は、科学的に証明できないものを信用するような大人になるまいと必死に生きてきた…続きを読む
彼は蝉の抜け殻を木から引き剥がすと薄汚れた茶色い革靴で踏み潰した。私が彼のそんな狂気じみた行動を目にするのはもう四度目になる。 彼が普通と少し変わっているのは出会った頃から知っていた。正しくは、出会う前から知っていた。桜の花が舞い散る頃に一足遅れて現れた長身の目鼻立ちの良い新社員に、会社中の女性達が背筋を伸ばして口元の紅を念入りに直している様子が社会現象の如く目立った。そして、彼が近づく度に頬を赤らめる彼女達を眺めながら気づけば私もどこか無意識に彼を目で追っていたのだ。 だがしかし、蝉が鳴き始める頃になると彼の一風変わった話し方やとっつきにくさが目立つようになった。それを個性的だと呼…続きを読む
最後に夕日を見たのはいつだろう。 透は午前六時の窓の外の薄暗い世界に包まれた雪の絨毯を見つめながら、最後に夕日を見た記憶を辿っていた。この頃の透の臨床実習生としてのスケジュールは午前七時に始まり、午後五時までのはずだった。だが実際は記載されていたスケジュールとは異なり、手術の立ち合いなどに参加すると午後九時に病院を出ることも少なくはなかった。 毎日の忙しさにヘトヘトになりながら帰っても、待っているのは家賃3万円のボロアパートだけだ。高校の頃から付き合っている彼女の静奈とは二人で一緒に地元を出てそれぞれ別の大学へ進学し、お互いの大学へ通えるぐらいの丁度いい場所に四年間一緒にアパートを借…続きを読む
人の声は上部だけの薄っぺらい優しさしか運ばない人それぞれが孤独と戦い、存在意義に悩む日々だってあるだろう単調な毎日に「幸せ」を見つけられない事だってあるだろう「幸せ」を見つけても背を向ける事だってあるだろう大切な人の励ましの声がラジオの雑音にしか聞こえない日もあるだろうあなたのそんな悲しい心をそっと温かい毛布で包んであげたい大丈夫だよと両手いっぱいの花束と共にあなたを褒めてあげたいあなたの生きる意味は何でもいい例えそれが「毎日楽しく生きる」でも資本主義に没頭して「お金を稼ぐ」でもあなたが幸せなら何でもいい電車の席で隣になった人が感じのいい人だったとか今日の占いで…続きを読む
8月の空は青い。ありきたりな感想かもしれないが、ただ青いに限る。ここまで綺麗に青いものを私は空以外に見たことがない。パソコンの画面で光る青も、店頭に並ぶ青いスウェットも空のような青さはない。ピクセルの細かな彩色だとか生地の温かみがそういった純潔さが掻き消している気がする。私が窓という大きなフィルター越しから空を見上げてそんな終わりの無い思考を駆け巡らせていると、目の前に座っていた男がコホンと咳払いをして口を開いた。「用件は以上です。」 彼はそれだけ私に告げると、目の前のコーヒーテーブルに置いてあったA4サイズの茶封筒を少し私の方に近づけてから席を立った。去る時に挨拶も何もなかったのは…続きを読む
書きかけのプロット、終わりの無い物語。 私はここ数週間書けていない。 自分の気を紛らわす気持ちで小説を書き始めた。別にプロだというわけでもないし、気軽に小説投稿サイトに掲載するだけの、胸を張って物書きだと言える様な分際でもない。しかし、一度書き始めたら心の奥底に沈めていた感情がぶわぁっと溢れ出して止まらなかった。週に1回のペースで、脳内に敷き詰められた言葉を並べて、修正して、投稿する。ただ書いている時間だけが私にとっての休息であり、楽しくもない現実の世界から切り離され、高揚感という名の波にのまれ溺れてゆく。深い水の底で息も浅い中、ありったけのアイディアをキーボードに叩きつけながらゆっく…続きを読む
「そんなに何回も観るの?」 彼女はあたしの目の前でほおぼっている中華粥から目線を上げて、信じられないという顔であたしを見つめた。慌てて、空いてる手で口元を隠してモグモグとピータンと生姜がたっぷり入った一口を飲み込むとごめんねと言いながら水をゴクリと飲む。あたしも彼女がしっかりと水を飲み込むのを見届けてから口を開いた。 「えー、変かなぁ? 普通じゃない?」 あの一時期流行ってたハリウッド映画でしょ?と、彼女は映画の名前を言ってどんな話だっけ?と聞くから、あたしは短く簡潔に映画の内容を説明した。あたしの目の前であぁ〜と聞いてるようで聞いてないような反応する彼女はあたしのご近所さんで…続きを読む
ドアを開けるとチリンと鈴が鳴る。 意識したことはなかったが、今時まだドアに鈴がついたお店を僕はそんなに多くは知らない。 いらっしゃいませと優しそうな声のおばさんが店のカウンター越しからひょこっと顔を見せながらいう。3年前にきた時よりふくよかなおばさんはお好きな席へどうぞと言うと手元で作りかけていたコーヒーの作業へ戻った。 僕はいつも座っていた席に座る。 テーブルに置いてあるメニューを手に取ると、懐かしい感情がぶわぁっと体全体を染めていく。 そう、ここは僕と彼女の場所だった。 全体的に暗く茶色く、現代でいうレトロな雰囲気を醸し出すこの喫茶店は3年前から何一つ変わっていない…続きを読む
秋の終わりを告げる少し肌寒い季節が始まると、なんだか人恋しくなる。毎年この時期になると、好きでもない季節限定の焼き栗を買い、お決まりの様にさつまいもやカボチャのスイーツをカフェで頼んでしまう。そんな限定スイーツみたく、私の元には毎年秋の風物詩が送られてくる。「明日あの喫茶店で待ってる。」そのメッセージを見つめて途方に暮れる。彼からのこのメッセージが来る様になって、もう3年が経つ。最初の頃はドキドキしていたこの文面も、2回目、3回目と時が流れると共に段々と憂鬱なものへと変わっていった。 彼は私よりも8つ年上の人だった。喫茶店の前で派手に転けた私を、店の中から飛び出して「大丈夫ですか…続きを読む
わたし町子。みんなからは町子ちゃんって呼ばれてるの。あ、トトはわたしの事町子って呼び捨てで呼んでる気がする。ペットのくせに生意気よね!けど、トトのふわふわの茶色い毛は撫でるだけで幸せな気分になるの。だからわたしはトトが大好き!リカちゃんはわたしのこと町子ちゃんって呼ぶわ。いつも「町子ちゃん、今日何しましょうか?」「町子ちゃん、今日は何ごっこする?」ってわたしの面倒を見てくれるの。わたしの方が背も大きいけど、リカちゃんは町子のお姉ちゃんなの。エイミーはね綺麗だけどわたしやリカちゃんよりもうんと大人でね、いつも色んな話を聞かせてくれるわ。幸せな家族の話、恋のおはなし、…続きを読む