あの人が住んでいたのは、急行の停まる街だった。あの頃の下北沢は今よりずっと汚くて、雑で、楽しかった。稼ぐためのバイトと別に好きなことがしたいと思って受けた塾の講師のバイトで、あの人は数学を教えていた。子供みたいなつるつるの肌だなと、最初は本当にそれだけだった。彼女がいると聞いていた。女子中学生たちからも人気があった。私よりずっと偏差値の高い大学に通っていたあの人は頭が良くて、話したら面白くて、肌がきれいで。まあ私に興味を持つはずも無いよなと思っていたから、不意をつかれた。それもまた、急行の停まる同じ街。夏期講習が終わって、安い焼肉屋で打ち上げをして、終電で一時間、何も無い街に帰るの…続きを読む
青空に西の端から、雲が伸び始めていた。いつものように丹沢の山にかかっていた低い雲が、今日は不思議とキノコの傘のように膨らんでいって、翔は舞茸のようだと思った。いつもは人でいっぱいの駅前のスーパー銭湯も、日曜の17時頃はいくらか空いている。翔はフェイスタオルを枕にして、いつもは人でいっぱいの露天風呂のウッドデッキで横になって目を閉じた。8月の終わり、外はまだまだ暑いはずなのに、嘘みたいに心地よい風が吹いてくる。今度から、このぐらいの時間に来ることにしよう。「ショウ、ショウ!」5分ほどそうしていた頃だったろうか、隣から声をかけられて目を開けると、見慣れた顔があった。「おお、タイシ、…続きを読む
緯度の問題。東京に来てからケンカばかりしている僕らの間に横たわる根本的な問題を、涼しげな彼女の声はそんな風に定義してみせた。簡単。位相の問題。東京は私たちの街よりも緯度が高いから、ずれたの。あなたの持ってる、ある角周波数の位相が、ちょっとだけ。ひょっとしたら私のもね。僕らの街は、山に囲まれた小さな町。どこまでも透明な、大きな川が流れる町だ。町での彼女の二つ名は、ブチギレ女王。高校1年の5月が終わる頃には、その美貌もあいまって、ブチギレ女王の名は学年全体に広まっていた。体育の菊池先生、同じクラスの馬場君、数学の山崎先生。大きなものだけでも、わずか2ヶ月の間に3度。彼女はブチギレ事…続きを読む
四度目の恋の始まりはまた、突然だった。彼女からの連絡はいつも忘れた頃にやってくる。傘をどこかに置いてきて、忘れた頃に雨が降るみたいに。焼けたアスファルトが、雨に濡れて吐き出す匂いが好きだ。たくさんの、忘れられた思い出の匂いが、あっという間にもう一つの、目に見えない街を作る。僕は目に見えない街を歩いている。いつもと同じ道を同じように歩いていても、昔のことばかり思い出して、ぎゅーっと、結束バンドで縛ったみたいに、胸が苦しくなるのが、嬉しい。苦しいくらいに切ない物語が、小さな頃から好きだった。伝わらない想い。不器用で真っ直ぐな二人。どうしようもないくらい想いあって、どうしようもなく離れてしまう物…続きを読む
カリメロ、と僕は心の中で呼んでいた。クラスメイトのみんないわく、「体操のおじさん」。とはいえ、体操をしている姿は一度も見たことが無い。彼が毎日着ている服がNHKのラジオ体操のお兄さんが着ているジャージにそっくりだから。体操のおじさんことカリメロは、いつも決まって朝の同じ時間に、団地の入り口の坂を駆け下りてくる。そして、こちらも負けじと同じ時間に登校する僕と、7時25分、必ず団地の真ん中の信号ですれ違うのだ。ヒョロヒョロと背が高くて、エラの張った顔。紫色の、色の悪い唇。それが妙にとんがっていて、センター分けの刈り上げの髪が歩くたびピョコピョコ揺れるもんだから、ぼくはひそかにカリメロと名付…続きを読む
物理室からはグラウンドが見下ろせた。数学の過去問を一年分解き終わって休憩がてらのぞいて見ると、ちょうどサッカー部の後輩たちがノロノロと練習の準備を始めるところだった。「新人戦、1部上がれんかったらしいよ。」「まあ、そんんもんやろ。あいつら下手やもん。」ケイスケとシンタも手を止めて、帰り支度のムードになった。テツだけはまだ参考書を睨んで、首をひねって静止している。「あー、受験、早く終わらんかなあ。」センター試験が終わってからはガチガチの時間割は無くなって、午前中のみの選択授業となった。これまで遅刻や欠席に厳しかった先生たちも嘘のように寛容になったけれど、国公立大を目指す生徒も多…続きを読む
ぜんぶ、ぜーんぶ、無くしてしまった。妻も、息子も、マンションも。ついでに仕事と、給料も。まさか実家を出てから20年も経って、またこうやって二階の部屋の窓から黙って雪を眺める日が来るなんて、想像もできなかった。斎藤陽介様。元妻の字は相変わらずきれいで、手紙の内容は実に冷たい。冷たいのは中身だけではなく、実際手紙を持つ手がひどく冷たい。やはり、新築だったマンションと比べると、築40年近い一戸建ては機密性に乏しい。一体何を、どこで間違えたというのだろう。いやいや、むしろ、これまでが幸運すぎたのかもしれない。もともとただの出来損ないが、何を勘違いしたのか、いっぱしの人生を送れるつもりになっていただ…続きを読む
聖母だった。頭一つ抜けた背の高さと、色素の薄い髪の毛の輝き。多分僕は、一目で恋をしていたのだと思う。ポケベルすら存在しない、中学一年生の春の出来事だった。目で追いかける日々に僥倖が訪れたのは、冬の始まり。たまたま隣の席になった彼女に、僕の心は天に昇った。比喩ではなくて本当に。僕は三学期の終わりに、転校する。彼女もまた、別の学校へ転校する。不思議な紐帯が生まれた。一度通い合った心は永遠に離れることは無くて、僕は未だに彼女の影を探している。団地の急な坂道に。古びた小学校の校舎に。聖母とは結局、それきりだった。二度と会うことの無い偶像。それはどんな現実よりも、確からしさを持って僕…続きを読む
ケツァルコアトルスという恐竜をご存知だろうか?中生代の終わり、白亜紀末期に空を駆け巡った、翼開長12メートルにも達すると言われる、史上最大級の翼竜だ。北米の空を自由に飛び回った彼ら、あるいは彼女たちはどんな姿をしていただろう。神話と同じように、蛇の体をしていただろうか。何色の瞳で、古代の地球を眺めていただろうか。大人になるということは、心の中のケツァルコアトルスにバイバイすることなのではないかな、と思う。大空を、翼を広げて飛びたいという願い。でも鏡をよくよく見てみると、やっぱり僕らは小さな哺乳類と同じ顔をしていて、不安げな瞳で自分自身を見つめている。心の中の大半をしめるのは、明日の朝ごはん…続きを読む