もう昨日までの自分には戻れないのだという強い確信があった。ステージに立つ彼女を棒立ちになって見つめながら無意識のうちに止めていた息を吐き出すと、魂まで一緒に抜けてしまったかのようにがくんと姿勢が悪くなったのがわかった。 運命の人は出会った瞬間にわかるのだという。それが本当なら、僕はついにその人に出会ってしまったのだと思った。 彼女の名前は揚羽。四人組の地下アイドルグループ「あざといメロンソーダ」のメンバーで、年齢は非公表だがおそらく十代後半。僕より二つか三つ下だろうと予想する。 透き通る白い肌はきらきらと光る汗の粒を弾いていて、まるで洗い立ての果物みたいだった。ツインテールの美しい黒髪…続きを読む
スト値6。いや……、5.5だな。 目の前でちまちまと枝豆を食べているショートカットの女を見つめながら、頭の中でそう結論づける。 外で声を掛けた時は辺りが暗かったためかもう少し上玉に見えたが、いざこうして居酒屋の明るい照明の下で向かい合ってみると、どこがどうとは言えないのだが多少のがっかり感が否めなかった。まあこの程度の誤差はよくあることだ。大した打撃ではない。 スト値とはストリートナンパ値の略で、引っ掛けた相手の容姿のレベルを十段階で表す指標のことだ。ルッキズム的な言葉ではあるが、そもそもナンパ師にルッキズムの概念などない。俺たちはキャッチでもなければ宗教の勧誘員でもないため、街で声を…続きを読む
わたかちゃん @wataka123 1日前夫が帰ってくる夕方のこの時間が一番憂鬱。帰ってこなくていいのに。帰りがいつもより遅かったり救急車のサイレンが聞こえてくると「事故にでも巻き込まれたのかな?」って期待しちゃう。祈るだけなら罪はないよね。わたかちゃん @wataka123 2日前日曜だからってまだ寝てるのまじできもいんだが。私と子供はとっくにお昼済ませてるし早く洗い物片付けたいのに。起こそうとしたら「休みの日ぐらい寝かせてくれよ」って、こっちは休日なんかないんだよクソが。起きても何も食うなってかもう一生寝てろ スマホから目を離し、店内の様子を映し出しているモニター画面を見…続きを読む
「はじめまして。東山歩人の妻です」 インスタグラムに突然届いた一件の不穏なDM。差出人の名前はShizu。鍵アカだったため相手の投稿を見ることはできなかった。 その短い文章の意味をしばらく考え込んだ後、「はい?誰ですか?」「用件は何ですか?」と立て続けに送信した。 メッセージはすぐに既読がつき、相手が入力中であることを示す「…」のマークを見つめながら眉間に皺が寄っていく。「東山史津と申します。単刀直入に申し上げます。主人と別れていただけませんか?」 この人は何を言っているのだろう。頭のおかしな人に絡まれてしまったのだろうか。「いたずらはやめてください。ブロックしますね」…続きを読む
部屋に足を踏み入れた瞬間、青臭くて甘ったるい匂いが仄かに鼻をかすめた。前にも一度ここで嗅いだ覚えのある匂いだった。 ソファーの上に寝転んでいる草太の目が逆さに俺を捉え、いらっしゃいと間の抜けた声で言った。いが栗頭を撫でつけながらくたくたによれたスウェットを着て気怠そうに体を起こすその姿を見ると、なんだかこっちまで生気が吸い取られていくような気がした。 「俺さ、奥渋にあるセブンっていうバーで働き始めてん。今度仕事帰りにでも遊びにきてや」「え、あの居酒屋は? 辞めたの?」「うん。やっぱ俺は一つの場所に長く腰を据えられへんみたいやわ。それに、新しい店長が売上のことしか頭にない独裁者やって…続きを読む
――私はルポライターの隼田ユウカです。今日はカルト教団「比翼の会」の信者の少女から直接話を聞くため、教団の本部である〇×会館を訪れています。私は独自取材によって、この教団の創始者であり教祖・鬼頭己一郎氏の悪行を突き止めました。教団に潜入して取材を進めていく中で、私は告発に協力してくれるという勇気ある一人の少女と出会いました。私は少女の口から語られる全てをこのICレコーダーに記録し、世間に公表したいと思います。 ……ちょっと待ってね。……大丈夫、ちゃんと録れてるみたい。 それでは始めましょうか。ゆっくりでいいからこの教団について知っていることを話してくれる? あ、そんなにマイクに近づかなく…続きを読む
飼っていたカメレオンが死んだ。長い舌を持つ彼女の名は、べろなが。村上春樹の小説『騎士団長殺し』に登場する異世界への案内人「顔なが」をもじってそう名付けた。先月べろながを動物病院に連れていった時、待合室ではよく躾けられた犬たちが大人しく順番を待っていた。受付の女性は診察の順番を呼ぶ際、飼い主の名前ではなくペットの名前を呼んだ。「モカちゃん、二階へどうぞー」「チョコちゃんどうぞー」「マロンちゃんどうぞー」甘い匂いのしてきそうな洒落た名前が次々に呼ばれていき、ドッグカフェにでも来たような気分に浸っていたところで「べろながちゃん、どうぞ~」という声が待合室の世界観を一変させた。…続きを読む