"Bonjour(今日は)"若い女性インタビュアーは米語訛りの強いフランス語で微笑みかける。「アロー!」パパを挟んで隣にいるマルトが弾ける風に笑って返した。そうすると、ハーフアップにした金髪がライトを豊かに照り返す。私も同じ髪型にしてはいるけれど、もっと暗くて重たい栗毛(ブルネット)だ。"I'm Martha"マルトは英語だと「マーサ」でまるで違う人に思える。「私も大きくなったらパパみたいにハリウッド映画に出たいから英語を勉強してるの!」マルトだけでなく私も一緒に習ってるけど、言った方がいいのかな?「この子はこの前、『アリス』のアフレコをしたんだ」マルトの金髪を撫でると、…続きを読む
「あの曲をやって」どこで手折ってきたものか、私の衣裳の桃色より一段濃く紅《あか》い梅の花が七分以上開いている枝を一本、傍らの花瓶に挿して腰掛けると、あの人は、蒼白い顔のやや黒目の小さな切れ長い瞳を細めると、低く太い声に反してどこか幼い感じの蘇州話《そしゅうご》で告げた。「ええ」頷きつつ思わずこちらは顔が綻ぶ。二月ほど前からちょくちょくこの妓楼を訪れている日本人のこのお客は、漢文の読み書きはむしろ漢人以上に出来るのだが、いざ話す段になると、まるで十歳くらいの子供のような調子になるのだ。年の頃は三十前後で十六歳の私の倍近い大人だが、この人が語るのを聞くと、何故か生家にいる弟を思い出す。…続きを読む
「さて、こちらがこのたび特別公開の運びになった『七日物語(エプタメロン)』の直筆原稿です」照明の強さを一段階落とされた展示室に見物客が全員入った頃合いを見計らって、僕はガラスケースを指し示す。「これは十六世紀前半、ナヴァル王妃マルグリットによって書かれた小説で、ボッカチオの『デカメロン』に倣い、当時の男女の逸話を教訓を込めて鮮やかに描き出した作品です」文化財保護のために明度を落とした照明の下、途中のページを開いた格好で固定された書物は、化石のように古びて変色した紙面に褪せた筆跡を僅かに浮かび上がらせている。率直に言って、物語のどの場面かもこれだけでは判読できないと思うが、部屋中の目がま…続きを読む
「うちの方が一日遅いはずだったのにねえ」乳臭い甘い匂いが漂う中、ベビーコットの中の赤ちゃんは目を閉じたままニンマリと小さな口の両端を上げる。また笑ってくれた。思わずこちらの顔も綻ぶのを感じる。お乳をたっぷり飲んで寝入ると、この子はよくこんな顔をしてくれるのだ。まだ生まれて五日目の、名前も届けていない、私の赤ちゃん。…続きを読む
はい、本日は「永澤光《ながさわひかる》の世界展」にお越しいただき、どうもありがとうございます。ええ、実質は僕との共同展示ですね。もちろん、他の方が作画を手掛けた作品の展示もありますけど、何せ量が違うものですから。ヒカリとの共同制作を始めたのは、ええ、彼女は本当は「光《ひかる》」と書いて「ひかり」と読ませるんです。出版社が一度、「ひかる」と間違えてルビを振ってしまいまして、本人も特に訂正せずにそれをペンネームとして通しました。――私は原作者で要は黒子だし、女だと世間にあまり知れない方がいい。よくそう言っていました。実際、「原作者:永澤光、作画:藤崎宏美《ふじさきひろみ》」というクレ…続きを読む
「どうして……」病院特有の消毒液臭い一室。既に呼吸も心音も止まってベッドに横たわる瞬《しゅん》は答えてくれない。――今、家にいるの? これからそっちに行くから。――とにかくちゃんと話し合おう。四、五時間前、スマートフォンで告げられたまま、私はまるで囚人のように自分の部屋のソファーに腰掛けて、玄関のベルが鳴るのを待っていた。一時間ほど経って、「やっぱり瞬は嫌気がさして来るのを止めたのかも」と思った瞬間、手元のスマートフォンが震えた。着信の名前は“坂口蓮《さかぐちれん》”。予想していた名前とは一文字違いだ。――もしもし、優衣《ゆい》さん? 兄ちゃんが事故で今、病院に……。…続きを読む
「スーツを受け取りに来ました」カウンター越しに顔を出したのは、予想に反して俺と変わらない年頃の女の子だった。多分、十四、五歳だろう。眉が隠れるほど分厚い前髪を垂らしてきっちりお下げ髪に結った、仕立屋にしては垢抜けない子だ。…続きを読む
「まさか、ここで会うとはね」温かく甘いコーヒーの香りの漂う中、椅子に腰掛けながら、頭にアメリカ先住民風の羽飾りを着けたディエゴは浅黒い顔に朗らかに笑いを浮かべた。そんな風に表情に色が着くと、彼は本当に「トム・ソーヤー」のインディアン・ジョーか「ローン・レンジャー」のトントのように見える。四歳だという隣の息子さんは服装こそ赤帽子のスーパーマリオだが、薄褐色の肌といい、濃い眉の彫り深い目鼻立ちといい、小さな頃の彼そっくりだ。「私もハロウィンイベントのポスター見て偶然こっちに来たんだけど」こちらも隣に腰掛けている娘の朱色ゴムで束ねたお下げ髪の片方を黒ワンピースの肩から後ろに掛け直してやりな…続きを読む
ほら、柿剥いたよ。二日酔いに効くから。今日は君、随分飲んだよね。何で今になって急に……。そうだ、彼と初めてうちに来た時もやっぱり柿と緑茶を出したんだったね。去年の今くらいの時期で、ちょっと寒かったけど、朧《おぼろ》な月が綺麗に見えた。今日の月も綺麗だね。鏡みたいにはっきり明るく見えるから、今、君をおぶってうちに帰ってくるまでも助かったよ。…続きを読む