「またぐんじょうのクレヨンを買うの?」ママは呆れたような顔と声で告げる。「うん」夕方から夜に染まり切る前の、一番星の後ろに広がる空の色。旅行で乗った電車の窓から眺めた晴れた空の下に広がる海の色。雨上がりの道端で濡れながら咲いていた露草の花の色。描きたい絵にいつも使う色がこれだ。黒では完全に夜の空になってしまう。青では海や濡れた花の深みが足りない。紫や灰色とも違う。「ぐんじょうじゃないとだめ」陳列棚のフックには「ぐんじょう」のクレヨンが「あお」や「みずいろ」よりもたくさん下がっている。幼稚園でもこの二つの色と比べると「ぐんじょう」を好きで使う子は少ないからきっと買う人も少…続きを読む
「うちの方が一日遅いはずだったのにねえ」乳臭い甘い匂いが漂う中、ベビーコットの中の赤ちゃんは目を閉じたままニンマリと小さな口の両端を上げる。また笑ってくれた。思わずこちらの顔も綻ぶのを感じる。お乳をたっぷり飲んで寝入ると、この子はよくこんな顔をしてくれるのだ。まだ生まれて五日目の、名前も届けていない、私の赤ちゃん。…続きを読む
「奥様《マダム》はお加減が悪いのでお会い出来ません」本当は別の殿方がいらしているから鉢合わせしないためのいつもの方便だ。この屋敷に来てから何度目か分からない嘘をまた繰り返した私に春のまだ温《ぬる》い風と共に仄かに甘い香りが通り過ぎた。これは庭で咲いた蔓薔薇《つるばら》の匂いだ。咲きかけだからまだ青っぽさを含んでいる。「そうか」初めて目にする相手は浅黒い小さな顔の中の大きな鳶《とび》色の瞳をいっそう丸くすると、まだ声変わり途中と分かるガラガラした声を返した。年の頃は十五、六歳。半月前に十四歳になった私より一つ二つ上だろうか。今まで奥様の下を訪れてきたどの殿方よりも若いというより幼く…続きを読む
「こちらが先日お話しました『罪の女』でございます」男は慎重な手付きで持参した絵を掲げた。さっと前に立つ人々に緊張が走る。絵を示す画商の目にもどこか思い詰めた光が宿った。「素晴らしい!」張り詰めた空気を破《わ》れ鐘《がね》のような声が打ち破った。「今まで目にしたどのフェルメールよりも傑出している」鉤十字の軍服を纏った客は縦にも横にも巨大な体を震わせて笑った。周囲の部下たちも一心に絵に見入っている。画商は安堵した風な笑顔で語った。「閣下のような芸術を深く理解され評価する目をお持ちの方にこそ渡すべき絵だと信じて本日はお持ちしました」肥ったヘリング元帥は鷹揚に顎の二重になった顔を…続きを読む
今まで言えなかったけれど、ずっと好きだった。だから、本当は明日の結婚式、君の花嫁姿を辛くても祝福するつもりだった。でも、君の婚約者であるあの男と親友のはずだったあの女の裏切りを目にしてしまったんだ。僕はいつも手遅れになってから間違いに気付くんだね。これから君が貸してくれたこの本を送ってから車ごと崖から飛び降りるよ。本当は全てを墓場まで持っていくべきなのだとは頭では分かる。でも、君にとって大切な二人を殺した僕が理不尽な憎むべき悪人として記憶されるのはどうにもやりきれないんだ。それでは、貸してくれた本に栞代わりに挟んだこのメモを君が確かに目にすることを願って。さよう…続きを読む
「またか」開いたばかりの新聞をソファに放り投げる。“世界で一番美しい少年”“美しいことは罪ですか”半世紀前から散々聞かされた煽り文句と共に十五歳のあの子がこちらに睨みつける風な眼差しを向けてきた。「いつまでやる気だよ」大写しになった十五歳のアッシュブロンドと陶器じみた滑らかに白い肌のタッジウの下には北欧神話のオーディンさながら真っ白な髪に長い髭を生やした皺深い顔の写真がおまけのように小さく載っている。「すっかり老け込んで」僕より十一歳下だからこの子(という言い方もおかしいかもしれないが)ももう六十六歳だ。だが、この近影だと八十過ぎと言っても通るような老け具合だ。「まだ皆に見…続きを読む
「さて、こちらがこのたび特別公開の運びになった『七日物語(エプタメロン)』の直筆原稿です」照明の強さを一段階落とされた展示室に見物客が全員入った頃合いを見計らって、僕はガラスケースを指し示す。「これは十六世紀前半、ナヴァル王妃マルグリットによって書かれた小説で、ボッカチオの『デカメロン』に倣い、当時の男女の逸話を教訓を込めて鮮やかに描き出した作品です」文化財保護のために明度を落とした照明の下、途中のページを開いた格好で固定された書物は、化石のように古びて変色した紙面に褪せた筆跡を僅かに浮かび上がらせている。率直に言って、物語のどの場面かもこれだけでは判読できないと思うが、部屋中の目がま…続きを読む
"Bonjour(今日は)"若い女性インタビュアーは米語訛りの強いフランス語で微笑みかける。「アロー!」パパを挟んで隣にいるマルトが弾ける風に笑って返した。そうすると、ハーフアップにした金髪がライトを豊かに照り返す。私も同じ髪型にしてはいるけれど、もっと暗くて重たい栗毛(ブルネット)だ。"I'm Martha"マルトは英語だと「マーサ」でまるで違う人に思える。「私も大きくなったらパパみたいにハリウッド映画に出たいから英語を勉強してるの!」マルトだけでなく私も一緒に習ってるけど、言った方がいいのかな?「この子はこの前、『アリス』のアフレコをしたんだ」マルトの金髪を撫でると、…続きを読む
「夏の陽《ひ》燃えて」https://monogatary.com/story/191150…続きを読む