行き過ぎたジンクスは病気である。ラッキーアイテムやラッキーカラーなんてのは程度の差はあれ誰でも意識するものだ。しかし拗らせるとどうなるだろう。靴下は右から履くだとか、階段は右足から上るだとか、それをしないと悪い一日になるだとか、あるいはそうすることで良い一日が訪れるだとか、縁起の悪い言葉は口にしないとか、嫌なことがあった日に通った道は避けるとか、自分の中の決めごとがウィルスのように増殖していって、頭では意味のない行為とわかっているのにそれをやらないと気が済まない。結果として生活に支障が出る。こうなってくるとだいぶ怪しい。これから登場するFのような悲劇を招きかねない。7月…続きを読む
「結婚してくれ」それは不躾で、場違いな、空の上でのプロポーズだった。Hの恋人はCAだった。最近は生活のすれ違いから会える時間が少なく、やっと会えたと思っても彼女の口からは仕事の話ばかり。しかも決まって登場するのは機長の名前だ。こうなると機長との仲が怪しく思えてくる。我慢の限界だった。これ以上は待てない。そんな焦りがHを大胆な行動に走らせ、恋人が搭乗する機内に乗り込んで公開プロポーズをするに至ったのだった。Hの言葉を聞いた彼女は考え込んだ。そして何か口にしようとした瞬間、プロポーズの返事の代わりに機内に響き渡ったのは爆発音だった。Hは悪寒を感じて目覚めた。最初彼…続きを読む
校舎裏に一組の男女。紙袋を手にした男が女と向かい合っている。「ホワイトデーだからお返しのクッキー。お菓子作りなんて初めてだから一日かかった」「作りながら思ったよ。時間ってあっという間に過ぎるって。きっと人生もあっという間だ。だったら、その貴重な時間を大切な人のために使いたいと思った。1日24四時間、1分1秒たりともごまかしの利かない時間の中で一緒にいるなら君がいい」「これまで別々だった道がこれからは一つになるんだ。道ばたで嬉しいことや楽しいことを共有するだけのあの頃には戻れない。辛いことも苦しいこともどんなこともこれからは二人で乗り越えるんだ。夫婦というのはそういうことなんだ」…続きを読む
「あー。またウマ娘ですか?」教習の仕事から戻ったFが休憩所でスマホをイジっていると声がした。Fが顔をあげるとついさっきまで車に同乗していた高校生の少女が笑顔で立っていた。窓の外には何台もの教習車が走っている。「ああ」Fは白い歯をみせて笑う。「そうなんだよ。試しにやってみたらハマっちゃってさ」「競馬ってマークみたいのがあるじゃないですか。○とか△とか」「予想印か。本命は◎、対抗は○、大穴は▲だけど」「ふうん」と少女はいう。「そういえば今日ってバレンタインですよね。よかったら受け取ってください」少女は甘い香りの漂う紙袋をFに渡すと、休憩所から去っていった。紙袋を覗いたFは苦笑いを…続きを読む
一通りのことはやった。後悔のない人生だった。一つ心残りがあるとすれば愛する家族のことだ。妻は運命の人だった。大恋愛の末に結婚し、生まれた息子は今年小学校に入ったばかりだ。神に授かった天命が尽きるのは受け入れるが、自分の死が与える家族の悲しみを思うとこの身が引き裂かれそうになる。そこでNは影武者を雇うことにした。遺伝子学と整形技術が進歩した現在、金さえあれば誰でも影武者を入手することができる。科学技術によって生身の人間をクローンよろしく完璧な影武者に仕立てあげる。それが"影武者システム"だった。 この"影武者システム"の登場によって別れにまつわる不幸がこの世から消え…続きを読む