彼の生家は、奈良県香芝市にあった。最寄り駅は近鉄下田駅で、物心つく前から大阪線の電車に揺られていた。大阪方面に出る時、彼の母親はいつも反対方向へ一駅乗り、五位堂駅で大阪上本町行きの快速急行に乗り換えていた。 それが「折り返し乗車」と呼ばれる不正の一種であると知ったのは、彼が小学校二年生の時だった。担任が授業中にした小話に過ぎなかったが、彼は激しく動揺した。「普通にやってる人もいるけど、犯罪は犯罪なんよ。見つかったら三倍の運賃を払わなあかんし、警察に捕まることだってある」 その日の帰り道、彼は駅へ寄って、運賃の書かれた路線図を見上げた。大阪上本町や鶴橋までの小児運賃は230円。いつも買う…続きを読む
金色の雪https://monogatary.com/story/162673…続きを読む
かつて飛鳥に巣食った悪党は、ムジナと呼ばれていた。人を騙し、傷つけ、時に殺した。現れては奪い、去っていく。百年生きているだとか、獣に化けるだとか、妖怪じみた噂が立っていた。 そのムジナが、入り込んだ集落であっけなく捕まった。駆け付けた役人たちに脚を折られ、私刑とばかりに殴っては蹴られ、地面をあちこちに転がっては、血や砂にまみれていった。しかし当のムジナは悪名に似合わぬ無抵抗な様子で、場には次第に苛々とした空気が漂い始めた。なんとか弱音を吐かせようと、暴力は激しさを増していった。 役人たちの動きが止まったのは、ムジナの身体から膿が飛び出した時だった。痣や瘤に紛れていた赤い腫れの正体が流行り…続きを読む
オレオレ詐欺、振り込め詐欺、特殊詐欺……。呼び方はいろいろ変わったが、俺がやってきたことは一つ。電話でカネを騙し取ることだ。 きっかけは高校一年の時にツレたちとやったイタズラだった。テレクラを使って、声の高い奴が女のフリをして男を呼び出す。自分もガタイのわりには声が高かったから、その中に混じった。男だとバレたら切ればいい。次の客は直ぐに現れる。三、四人を同じ場所に呼び出して、近くのファミレスから笑いモノにした。そんな思い出が、俺の人生を左右することになった。 つまらない大学を出て、小さな保険会社に就職した。営業に配属されたが、仕事の内容は取引先への挨拶と連絡調整ばかり。相手の機嫌をとって…続きを読む
灰色の六角形に、黄色い鍵がドット絵で描かれている。クラシックゲームの「たからのかぎ」をモチーフにしているらしい。特定NGO法人Keymakerは、日本の量子暗号通信を管理統括する組織だ。 2000年代はキャッシュレスの時代と呼ばれたが、それは同時に暗号化技術の時代でもあった。『解読困難な暗号から、解読不能の暗号へ』 従来の暗号化技術には、秘密鍵の解読リスクがあった。しかし量子暗号では、盗聴しようとすれば秘密鍵が破壊される。送信者と受信者で秘密鍵の整合性が保てない場合は、新しい秘密鍵を作成して通信を試み、正しく到達した時点で暗号化したデータを送信する。盗聴が必ず発覚するシステムによって、…続きを読む
一度目の婚約破棄は二十歳の時だった。社会人だった年上の彼は、チュニジアに転勤することになった。ついて行くという選択肢もあるにはあったが、短い話し合いの末、彼だけがチュニジアに行くことになった。 二度目は大学を卒業して美術商で働き始めた時だった。相手は画家だった。個展を担当したのがきっかけで付き合い始めた。「必ず成功してみせる」と言った彼は、私に指輪を渡した翌日にイタリアへ行ってしまった。四ヶ月位経った頃、ごめんなさいというような趣旨の手紙が届いた。絵葉書だった。 三度目は忘れた。 四度目も画家だった。過去の失敗を教訓に、「インドに行く」と言われた時には、彼より先にインドに入って生活を始…続きを読む
八月一日、学生自治会が管理する物置の一室で、会長の中ノ瀬と副会長の池屋は、文芸部二回生の高尾と相対していた。壁に並ぶ看板の群れ、簡素な木材で組まれた棚には草刈り用の機材と、イベントで使う小物が所狭しと並んでいた。 その一角、作業用のスペースで高尾は床に正座し、中ノ瀬がウロウロとその周りを歩いていた。池屋は一つしかない出入り口の前に立っている。「今鳴いてる蝉、なんて蝉か分かるか?」 中ノ瀬の言葉が意外だったのか、高尾はビクッと反応したまま口を開かない。「蝉の名前くらい、いくつか知ってるやろ、なんでも言うてみ」「勘弁してください。もう絶対にしませんから。許してください。尻拭いは自分でや…続きを読む
2019年にmonogatary.comを席巻した物語がある。「タイトル勝負」というお題で書かれたmahipipa様の『君は胃カメラを飲んだことがあるか』である。お題回収の見事さに圧倒されたことを今も覚えている。 しかしその時はまだ山羊文学と胃カメラは遠い存在であったし、まさかその物語を読んだ2年2ヶ月2日後に自分が受けることになろうとは思ってもいなかった。 妻は人生のサバイバーで、私の健康にも非常に気を使う。食事や生活習慣のマネジメントに労力を惜しまない。胃腸の不安を訴えた私に受診を勧めるのは当然の流れだった。そしてどうせならと、胃カメラと大腸カメラを強く奨めた。妻の言い分は、「胃…続きを読む
「お疲れ様です」 何気ない挨拶に嘘が混じる。心臓の鼓動は速く不快で、この場所にいることを身体が拒絶していた。クッション性を失った回転式の事務椅子。愛嬌の無い灰色のデスク。明るさの融通が効かないディスプレイに頭が痛くなる。 二階から忙しい足音が響いてきた。誰か暴れているのだろうか。現場に駆け付けたくなるが、そこへ行くための鍵はない。 四年前、統括主任というよく分からない肩書きを与えられた。世の中でコンプライアンスが叫ばれ始めた頃、常態化していたサービス残業に福祉事務所から注意が入って、急遽用意されたポストだ。全員で残業しながらこなしていた事務仕事を一人に集中させて、業務の効率化を狙ったらし…続きを読む
「613番」 名前を呼ばれた。「お前は……、コオロギのところか。これ、新しい職員証。知ってると思うけど、忘れていくと殺されるから気を付けろよ。あとはまぁ、適当に死ぬな」『会員制BAR 蟋蟀』 これでコオロギと読むんだろう。渡された鍵を使って教えられた手順通りにドアノブを操作する。ドアを開けると中は真っ暗だった。後ろ手にドアを閉めると、腹部に衝撃を受け、身体が壁まで飛んだ。「最初の蹴りを避けられた奴は今までに24人。避けられなかった奴は2人」男が独り言の様に呟きながら近づいてくる。「だが、避けなかった奴はお前が始めてだ」「手加減を感じたので。挨拶かと思って受けました」「大した…続きを読む