ゴオと風を残して通り過ぎる列車。出勤ラッシュの駅のホームでは、誰も音も風も気にすることなく、スマートフォンの小さな画面を見ている。俺は、今日もここまで来たのか。朝、同じ時間に起きて、同じような朝食を食べて、昨日と違うスーツを着て、半分死んだように出社する日々。テンプレートすぎて夢と現実の境目も見えない。駅までやって来ると、電車の通り過ぎる音が、俺を現実へ戻す。今日も地獄の日々が始まる。ぎゅうぎゅう詰めにされて、行きたくもない会社へ向かう。逃げたい、苦しい、もう死にたい。ここ数ヶ月で一気にそんな感情に支配されるようになった。数分走ると、多くの人が電車から降りる。俺も降りなければ。分かっているの…続きを読む
「バスケ部、写真、撮りますよー!」まだ開かぬ桜の木の下で、胸に花を咲かせた卒業生達を閉じ込めるようにシャッター音が響く。私は、ちらと愛貴《あき》を目で追った。この3年間ですっかり癖になっていた。3年生の愛貴よりも、後輩たちが泣いているものだから、卒業するのはどちらだか分からない。後輩たちとは反対に明るく笑う愛貴。別々の大学へと進む私たち。制服姿を、いや、こんな近くで愛貴を見るのも今日が最後か、と散々この日が来る覚悟はしていたのに胸がぎゅうっと縮む。3年間飲み込み続けた気持ちは、喉元まで出てきていた。「あき……」「愛《あい》くん!」私より通る声。愛貴は私とは逆方向へ振り向いた。だめだ、今…続きを読む
夏が始まった。まだ太陽が憎くはない程度に地球を照らす。高校最後の夏。特別なことが起こると期待させて、主人公じゃない俺たちには何も起こらずに終わる夏。 進学クラスではない教室は、この時期が一番受験シーズンを感じさせる。所謂AO入試希望者が多く、面接の練習時間が増えた。俺は、進学クラスにいくまでもない偏差値の大学希望だからそこにいるだけで、AO入試もないので早くて公募推薦から受験が始まる。なので、とりあえず土曜の午前講習にも参加していた。同じクラスの奴は、美大希望の東だけだ。進学クラス以外をひとつの教室に集め、ゆるめの講習が終わった。「広瀬ー、帰ろ」イヤホンを付ける手を止めるように、俺を呼…続きを読む
季節の変わり目だとか、気圧だとか、ストレスだとか、疲労だとか、水樹に会えてないだとか。色んなことが重なって、もう何年も見ていなかった温度を体温計はたたき出した。「38.3……」最後に熱を出したのはいつだっけ。学校を休めて嬉しかった気がするから、小学生……? 熱を出すとゼリーや缶詰めの果物なんかが食べたくなるのは本当らしい。生憎、家にはそれらはない。いつもより重たく感じるスマートフォンの画面に指を滑らせた。「……今日、お互い休みでよかったぁ」病院は休み。駆け込む場所はなく、私はここで1日寝るしかない。代わりに駆け込んできてと呼べるのが、日曜日のいいところだ。ガチャリと鍵の開く音で目が…続きを読む
何があったわけでもないけど、気分が乗らない朝はある。課題も終わってるし、小テストの勉強もした。インスタのDMもちゃんと「また明日!」で終わってる。寝癖も酷くないし、朝ごはんは大好きなスクランブルエッグだ。珍しく寝坊もしていない。いつもうるさいお兄ちゃんは先に出たようで、穏やかな朝。なんとなく重たい心以外は、すっきりした朝。寝不足だったかも……と自分を納得させる言い訳を考えながら歯を磨く。気分が落ちたときは、好きな色のリップを塗ったり、好きな匂いの香水を付けたりして自分の機嫌をとるのだが、今日は水曜日。「学校だもんなあ……」先生にバレたら面倒だし、登校中に近所の人からチクられても面倒だ。口…続きを読む
16時の教室は、生徒の声が窓の外から聞こえてくる。笛の音、ボールを打ち返す音、掛け声、それらを聞きながら、誰もいない教室、窓側の席で密やかに物語を紡ぐのが、俺の楽しみだ。受験生にも関わらず、ノートに数式や化学式、筆者の考えなど書いてはいない。書きかけの物語に目を落とし続きを考えていると、珍しく教室のドアがガラリと開いた。反射的にそちらを見ると、幼なじみのクラスメイトが立っている。「鈴(りん)……?」鈴は、ポニーテールを揺らしながら、小走りでこちらに近づいてくる。俺の前にピタリと止まると、マスク越しに咳をした。「おい、今日は早く帰ろよ。喉、治らないぞ」大きな目が睨むように俺を捉える。声…続きを読む
彼、友成くんと付き合い始めたのは、大学2年の夏だった。1年生の頃、第二外国語の講義が一緒で、そこで知り合った。同じ文学部だったが、学科が違ったのでお互い言語を取っていなかったら接点はあまりなかったかもしれない。先生に指示された通りに席に着くと、隣の席に友成くんがいた。190センチ近い巨体に最初はビビってしまったが、中身は犬のようだった。よろしくね〜、とふわふわの髪と大きな手を揺らしていたのを今でも覚えている。 友成くんは物に執着していなかった。しょっちゅう忘れ物をしていて、シャーペンを貸すのは当たり前、電子辞書を一緒に覗いたり、ルーズリーフをあげたり、スマホ貸してと言われたときはさすがに気…続きを読む
ニュースなんかを見てると、既婚者を好きになっちゃうのなんて今は当たり前な気がする。もっと近しい話をすれば、Twitterでは不倫してますって公言してる人もいるし、友達の友達はインスタのストーリーで不倫を匂わせている。「何を撮っている」「何も?」ベッドの上で、男が眉間にシワを寄せる。「こちらにカメラを向けるな」「何もしないってば。ほら」SNSを見ているだけだと証明するため、彼にスマホの画面を見せた。彼は興味なさげにそれを見つめると、早々に返してくる。「信じてくれた?」何も答えずに、彼は全裸のままバスルームへ消えていった。かっこわる、と思いつつも私も全裸だったな、と床に散らばった…続きを読む