真っ白い雲が流れ行く、よく晴れた日のこと。「おばあちゃん、人生って坂道みたいだよね」「コウちゃんどうしたんだい、急に」 おばあちゃんは飲んでいた湯呑みをちゃぶ台に置き、僕に微笑みかけてきた。「よく言うじゃない。人生には三つの坂道があるって。上り坂、下り坂。そして……」 まさか。 三つ目の坂は『まさか』。 本当に、『まさか』の連続だったんだよなあ、と振り返って思う。 僕の母は厳しい人だった。家で勉強以外のことをしていると怒られた。 友達と遊ぶことも許されず、そのせいで僕は友達が一人もできなかった。 でも、勉強ばかりしていたお陰で、県内トップの進学校に合格すること…続きを読む
23時を回った。 私はもう一度、スマホを確認する。 ……彼からの連絡はない。 最近やりとりが減っていたから、期待なんてしていなかったけど。 今年の4月に、1つ年上の彼が就職した。学生と社会人のカップルだから、生活リズムも話も合わなくなった。しかも、片道4時間の遠距離恋愛。 分かっているはずだった。彼が慣れない仕事で忙しいことも、今まで通りに二人で逢ったり、連絡をとったりできないことも。 それでも、今日くらいは。私の誕生日くらいは、おめでとうって言ってほしかった。 思い返してみると、もうずっと前から、私たちの関係は終わりに近づいていた気がする。 日付が変わった。…続きを読む
30年近く生きていれば、「あのときこうしておけばよかった」と後悔することなんて、数えきれないほどある。大半のことは、割りきって考えることができるようになったけれど、1つだけ、どうしても忘れられない出来事がある。 小学校6年生のときのことだ。 当時の担任は、強面の、熊のような体型の中年男性、Y先生だった。見た目に反して優しい……なんてことはなく、見た目通りの性格で、怒るととても恐いことで有名だった。 4月の始業式でY先生が担任だと分かったとき、逃げ出したい気持ちになったのを覚えている。 小学校では、日直が朝の会の司会をするのだが、司会の声が小さいと、Y先生は何度もやり直しをさせてい…続きを読む
私の長所は、記憶力が良いところだ。 一度会った人の顔と名前は忘れないし、暗記科目の成績はずっと学年トップだった。本の内容も、身の回りで起きた出来事も、スポンジが水を吸うようにするすると頭に入ってくる。 記憶力がいいなんて羨ましい、私の脳と交換してほしい、とよく言われる。 覚え方のコツはあるのかとよく訊かれるけど、あまりぴんとこない。頑張って覚えるというよりは、自然に頭の中に入ってくる感じだ。 例えるならば、頭の中のビデオカメラが見たものや聞いたものを記録していて、そのデータが頭の中の引き出しにぎゅうぎゅうに詰め込まれている感じだ。そのおかげで、◯年◯月◯日に自分が何をしていたの…続きを読む
「大人になれない」https://monogatary.com/story/168030…続きを読む
私の母は、物書きだった。 24歳で新人文学賞を受賞し、作家デビューした。31歳という若さでこの世を去るまで、小説を書き続けたそうだ。 母が亡くなったとき、私は1歳になったばかりだった。だから、母の記憶はない。母がどんな人だったのか、真実を知ることはできない。…いや。 知りたくないと、思っている。 そう思い始めたのは、私の10歳の誕生日の誕生日の頃からだ。 毎年、誕生日には母からの手紙が届く。母が生前に書きためていたものを、父が私に渡してくれるのだ。「2さいのゆかこへ おたんじょうびおめでとう。ままはゆかこのことがだいすきです」 2歳の誕生日から、毎年届いている。 5歳…続きを読む
6月28日土曜日、大安吉日。 ジューンブライド。 舞台を完璧に整えた姉のアイナは、今日結婚する。 6月28日という日付に、姉はかなりこだわったらしい。 6も28も、完全数という数字なのだそうだ。 自然数nの、nを除いた約数の和がnに等しい場合、自然数nは完全数という、らしい。今までに51個しか見つかっていない、かなり珍しい数字だと、昔から理系科目が得意だった姉は嬉しそうに話していた。私にはさっぱり分からなかったが。 完全数、パーフェクトナンバー。 姉にぴったりの数字かもしれない。 姉は一言でいうと、持っている人だった。 最初にそう思ったのは、小学校時代の夏休み…続きを読む
『天手古舞』という言葉を聞くと、OL時代の、年度末初めのことを思い出す。 勤め先の官公庁は、ギリギリになるまで内示が出なかった。4月1日付けの異動が3月20日くらいに発表されるとか、そんな感じ。 異動する人は、2週間弱の超短期間で引継書を作らないといけないわけで……当然、天手古舞になる。 私は退職するまでにあまり異動しなかったが、総務を担当していたときはかなり忙しかった。 総務は、一言でいうと『なんでも屋』だ。「新しい座席表って、もうできてる?」「新しい内線番号表って、いつできる?」「新任の部長名のゴム印を作らないと」「○○庁舎に異動したら、通勤手当の額も変わるんだよ…続きを読む
小学校1年生の頃、生活の授業で朝顔を育てていた。 ペットボトルで作った如雨露で、毎日水やりをしていた。少し成長してから支柱を立てると、蔓がくるくると絡まりながら伸びていって面白かった。『えんどう なつみ』というネームプレートが立てられた自分の鉢植えを、宝箱のように大切にしていた。 先週、ホームセンターで朝顔の苗を見かけて、懐かしさから思わず購入した。 今は本葉から蔓が伸び始めたところだ。 くせっ毛のような蔓に指先で触れる。 青くて、みずみずしい。 こんなに力強いのにな、と昨日のことを思い出す。 ため息が出た。※※※「そんな葉っぱなんか育ててないで、早く孫の顔を見…続きを読む