ふと気付くと、薄暗い玄関の角に、右足の小指を激しく打ち付けていた。痛みはほとんど感じなかったけれど、せっかくなので、反射的に顔を上げてみる。目の前の姿見に映った私は、まるで証明写真のようだ。特段、苦痛でゆがむこともなく、不自然なほどに無表情を保っている。 いろいろな感覚神経が、お酒の影響で麻痺してくれているのだろう。悪酔いして得した気分になったのは生まれて初めてだ。そう思えば、さっきまでの時間の全てを肯定することができる。私はカルーアミルク味の上口唇をペロっと舐める。 千鳥足で歩き慣れた狭い廊下を進んでいく。途中で後ろをふり返ってみると、たった今脱ぎ捨てたハイヒールが器用にもつれて、あ…続きを読む
「1機目突撃!」突然、甲高い号令と共に飛行機が発進し、一気に加速する。そのままビルの高層階に突き刺さった。 「2機目突撃!」矢継ぎ早に、2号機が飛び立ち、ビルの横っ腹をえぐる。ビルは小刻みに震え始めて、今にも音を立てて崩れ落ちそうだ。その時、ガラガラと天の扉が開き、地上にヒーローが降り立った。飛行機よりも、ビルよりも、ずっと大きくて強そうなヒーロー。うるさい群衆は、静まり返り、みんな同じように下を向く。私は祈る。こんな仕打ちはあんまりです。どうか悪モノをやっつけてください。ヒーローがゆっくりと大股で近づいてくる。そして、2号機を軽く小突いて言った…続きを読む
アラームが鳴っている。 本能的に人に危険を察知させる 高くてよく響く異常を伝えるこの音。 異常とはなんだろう? 繰り返されるこの音は 鼓動の奥を通り抜けて脳になじむ。 これは私の夜明け前の、日常の音。じんわりと背中に汗がにじみ、息が上がり始めた頃、アラームが止まった。部屋に入ってきた上川先生が、冷静な口調で1つの命の終りを決めた。「もう充分だ。止めようか。」私は肋骨の浮き出た青白い胸から目を離す。心電図モニターに目を向ける。さっきまで私が心臓マッサージをして荒れ狂っていた波は、嘘のように一瞬で止み、凪が訪れる。…続きを読む