多かれ少なかれ、1日というものは絶望と希望によって成り立っている、などと思う。隕石でも落ちたのかと思うほどの輝きを放つ朝日が、カーテンの隙間から差し込む。まだ休日の7時なのに、地球に起こされる。朝日という美しい産物は、ある人にとっては希望となりある人にとっては絶望の光と化す。目が醒めた瞬間にこんな哲学めいたことを悶々と考えている自分に少々の嫌気を感じながら彼はゆっくり起き上がる。例えば、自分で入れたコーヒーが美味かったとき。これは希望である。例えば、会社について水筒の中身がカバン中に漏れていることに気づいた時。これは絶望である。そしてこの二つは、毎度不思議なことに、同じ…続きを読む
午前11時、パソコンに向かっていると、ふとオムライスのような香りを鼻に感じた。おかしな話である。もっとも、この家には自分しかいないのであるから。誰が料理をしているわけでもない。窓も締め切っているはずなのに、家のどこかに実は知らない隙間でもあって、隣の家の昼食の匂いがこっそり入ってきているのだろうか。そんなことを考えながら再びパソコンに向かう。不思議とノスタルジーを感じていた。なんというわけでもない日常。中学生の頃、学校の都合でたまに発生する平日の休みの日。なんの休みなのかは全く思い出せないが、そういう謎の休日が発生した時は決まって、清々しいほどに天気が晴れやかだったのを覚えている。…続きを読む
新しい本を買うと、決まってぱらぱらとめくりながら匂いを嗅ぐんです。彼女は目を輝かせながらそう話した。新品の紙の香りって、その本が新鮮だって感じさせてくれるんです。なんでそんなおかしなことするかって?昔通っていた予備校の先生が、新品のテキストを配った時にいつも言ってたんです。君ら、まず匂いを嗅ぎなさい、ってね。変な人でしょう?でもね、何故だかわからないけど、今では嗅がずにはいられないんです。嬉しそうにコーヒーを見つめた。そして話し続けた。昔仲の良かった子がね、中古で本を買う人だったんです。その頃はその子の影響を受けて古本を買い漁ったなあ。なんとも言えない古本の香りは嫌いではなか…続きを読む
太陽が昇る頃彼女の心は殺される。毎度、そうである。眩しく煌めく太陽の光でベッドに横たわる彼女の影は深く色濃く伸びていく。カーテンを閉めて寝ればよかった。朝日が昇る度に彼女はそう思うが夜になるとカーテンを開けて寝たいと思ってしまうのだ。月の光は彼女の影を優しく包み込み闇へ馴染ませる。そんな柔らかな暗闇が好きだった。毎朝訪れるこの灼熱の光は彼女の心を憂鬱にする。太陽がこの世界の空に馴染むまでしばらくの間布団に籠る。そのうち自分に嫌気が差して真っ黒な影を引きずりながら用を足しに行く。ああ、重たい。この影を切り離せたら。何度そう思ったことか。気づけば朝だ…続きを読む
Kは愛を感じていた。これまでにないほど美しく、これまでにないほどに見えない愛を。あの人は帰っていった。1人になった部屋でカーテンを閉じる。暖房の効きの弱い閑散とした部屋でコップに冷たい水を注ぐ。ひと口とも言えないほどの量を飲み込みKは読みかけの本を開く。並んだ文字を読み解こうともせずページを進める。いつもそうだ。Kは何も感じていない。あの人もいつも笑っていて、機嫌が悪そうで、何も感じていない。昔も、今も。薄暗い地下道を共に歩き朝まで語ったあの日から今日まで、何ひとつとして読み解いてはいなかった。まるで映画で起こる一連の恋模様をなぞっていくように、Kと…続きを読む
横顔が好きだった。屋上にたった1人。いやまるで世界にたった1人で立っているかのようなあの人の横顔が。その人に気がついたのは雪の日だった。大雪でもなく粉雪でもなく、それでも服に落ちた雪の結晶は、たしかに模様を成している、そんな美しい雪の日だった。チラつく雪の中、なぜ屋上に行ったのかは覚えていない。導かれるがまま、その日その場所でその人に出逢った。「君も好き?」唐突にその人は言った。「あ、えっと、好きって...」「冬」その人は言った。「冬は好き?」「ああ...嫌いじゃない...です」「そっか」それっきりその人は何も言わない。2人で雪を見ながら…続きを読む
私は鼻毛になりたかった。何度も何度も崖から飛び降りてある日遂に私は鼻毛になった。嬉しくて嬉しくて風に乗って飛び回った。ひとしきり飛び回ると、私は根元を地面に落ち着け、誰の鼻に入るか考えた。まずは公園を走るあの男の子。すうっと近寄り右の穴へ。寒い冬、少し湿った穴の中が心地よい。毛の茂みの中に、意志を持つものは1本も存在しなかった。1人きり、1本きり。孤独に浸っていると唐突に嵐は訪れた。くしゃみである。再び私は外へ投げ出される。ああ、夢が叶ったのに何故こんなにも孤独なのだろうか。満たされることも無くさまよい続ける私に、雨が降り注ぐ。人間だった頃は感じなかっ…続きを読む
眩しい。そう思いながら目を開けると、カーテンの隙間から煌々と光る月が見えた。夜か。そう思いながら目を閉じると、何やら腹の辺りが重たいことに気づく。上半身を曲げ、起き上がろうとするが、まるで何かにのしかかられているかのように、動けない。月明かりに照らされた部屋の中で、視線を腹へ移す。カバンである。大きな革の鞄が、腹の上にのっぺりと乗っかっているのである。重い、重い。その鞄はどんどんと重くなっていくように感じられた。起き上がれない状態で、中身を確認しようものにも、どうしようもない。得体の知れない鞄への恐怖は、暗闇の中で募るばかりである。額にじんわりと汗が流れる。月明かりだけが、心…続きを読む
下へ、下へ。ああこれで、幸せになれる。彼女は窓を開けた。いつも通りの朝である。クラクションの音。止まる歩行者。運転手と歩行者は当たり前のようにアイコンタクトを取り、にこりともすることなく互いの歩みを再開させた。朝のこの街には、胸焼けがするほど焼きたてのパンの匂いが立ち込めている。凹凸のはっきりした顔に薄化粧をし、桜色のワンピースをふわりと身につける。周りの全てを映し込むかのように磨きあげられたピンヒールを履き、彼女は外へ出た。颯爽と歩く人々は皆、美しい。この街のアスファルトは、この先永遠に黒ずむことは無いかのように光り輝いている。「ああ、今日も...」パンを買い、コー…続きを読む