強いラベンダーの香りに、脳みそがクラクラする。似合わない柔軟剤の匂いは女の影をちらつかせていて、じぃっと黒縁メガネの奥を覗き込んでしまった。「どうした?」 人懐っこいいつもの笑顔。かちゃりとメガネを押し上げた姿も、かっこいいより可愛い。「なんでも?」 強がりな私の言葉を笑ってから、また資料に目を通してる。たぶん、気づかないうちに一滴こぼしたコーヒーシミをつけた資料に。 そういうドジなところも、私の胸をくすぐる。すぐ、きゅんっとしてしまうこの胸をぶん殴ったら……この気持ちは止まるのだろうか。「言いたいことあるなら、言ってよー!」 無遠慮な視線を投げすぎてしまったよう…続きを読む
彼氏から貰ったネックレスをしたら、息が止まりかけた。 今では笑い話になった、この出来事はしばらくの間私の心を落ち込ませた。クリスマス限定の可愛らしいハートがついた、ピンクゴールドのネックレス。その一回以来見ることもなく、箱の中に押し込んで押し入れの奥の方に突っ込んだ。 首にチェーンがグッと刺さった私を見た彼氏が大爆笑したのも、なおさら私の心を痛めつけた。もう別れよう、その時は本気で考えていた。人の痛みに無頓着な人だって元々思ってたのもあるけど。「別れよう」 ネックレスを外して箱に押し込んで、彼の手に突き返しながら言った言葉は意外だったようで。「笑ったから? 俺がプレゼント…続きを読む
待ち合わせ場所で空を見上げる。濃紺に染まりかけている空の下、彼を待つ時間すら愛おしい。不意に懐かしい故郷の香りがして、頬が緩む。香りがする方に顔を向ければ、花束を抱えた彼が居た。「待たせてごめん」「ううん、そんなに待ってない」 恥ずかしそうに花束を抱えた姿にまた頬が緩む。花束なんて柄じゃないくせに、何でもない日に買ってきちゃうところとか、また胸をくすぐる。「どうしたの、それ」「散歩してたらドライフラワーショップがあったから」「珍しいね、ドライフラワー」 そっと渡される花束を受け取る。胸いっぱいに香る香りは、故郷で咲き誇るラベンダーの香りのようだ。小さい紫色の見慣れた花…続きを読む
声が、文章が、瞳が、笑った時にできる目の横の皺が、全部が好きだった。今でも頭から離れないくらい好きだった。なのに今、君はどうしてそんな綺麗な笑顔で誰かの横に立ってるの。「来てたんだ」 嬉しそうな笑顔に頭が錯覚する。変わらずに刻まれた目の横の皺は、少しだけ濃くなった気はするけど。まだ、あの時で時間が止まっているみたいな、ふわふわとした淡い期待感。いっそ、君の言葉をあの時信じきれなかった私を責めてくれれば、やり直せたのかもしれない。 歯痒さに唇を噛み締めて、ワンピースの裾を握りしめてぐちゃぐちゃにした。ガヤガヤとした店内なのに私の声は一際大きく聞こえて惨めだ。「そりゃあね、みんな…続きを読む
あの時の選択肢が正解だとは、今はもう思っていない。いや、思えなくなっていた。それでも、あの時はそれが正しいと思い込んでいた。だから、咲希に言われた一言にドキッとした。「人を殺したとき、どんな気持ちだったんですか?」 薄暗いパソコンの前で今までの推理を並べ立てる。ハーレクインの正体は恵美で間違いない。そこまではいい。 でも、ここまで回りくどいことをして俺に恵美はどうしたいんだろうか。あれだけ探し回っても、いくら連絡しても返信は無かった。もし俺に会いたかったのであれば、会いに来れば良いだけの話だ。 パソコンを立ち上げて、ゲームを起動する。変わらずにいつものメンバーが集合してチャ…続きを読む
罪悪感ばかり募る恋をした。初恋だった。死ぬ間際に思い出すのはきっと、この恋のことだ。そう思えるくらいに強い思いだった。 しおんはずっと、親友で。関係性は平行を保ったままで一生交わらない。そんな変わらない関係性に胸の奥は痛みを覚えている。 しおんとの日々が、思い出が増えるたびにしおんへの思いは強まると共に罪悪感も胸の中で増していく。しおんのキラキラと輝く笑顔を見るたびに、胸の中に叶わない恋の痛みと罪悪感ばかりが蔓延っていく。「なに、そんなに飲みたいの?」 じいっと無意識に見つめていたらしい口元に差し出されるのは、しおんの飲みかけのミルクティー。無遠慮に一口飲み込めば、甘さと紅茶…続きを読む
寝顔をこっそり盗み見て、胸の奥の想いから目を背ける。どうしても目を、心を奪われてしまう。 彼が動いた気配にさっと目を閉じて、布団に潜り込む。狸寝入りにも気づかない彼が起き上がって、部屋を出ていった気配がした。 目を閉じて思い出を振り返れば、自分が捨てたくせに苦しくなってしまう。ごめんなさい、と小声で呟いたら涙が一粒流れ落ちた。「おはよう」 彼が部屋に戻ってきた気配と共に優しい声で起こされる。強く揺すらない暖かい掌にまた、じわりと涙が溢れてきた。ぐっと飲み込んで今起きたふりをする。「おはようございます」「朝だから、そろそろ出たほうがいいよ」 こくんっと頷いてから、起…続きを読む
幼少期の忘れられない美味しい記憶がある。それは、ただの腸詰めで至って普通のものであった。あふれ出る野性的な味に私は魅了され、狂ったように口に運んだのだ。 一緒に遊ぶ友人も居ないような陰鬱な子供だった。一人で庭で泥んこになりながら、泥遊びをしていた私を見つけて隣の家の綺麗なお姉さんは手招きした。 少しの恋心を抱いていたお姉さんは、私に時々食べ物をくれる。それは、飴だったり、作りすぎた夜ご飯のおかずだったり、多岐に渡っていた。その日も何かくれるのだろうとワクワクしながら、隣の家に入り込んだのを覚えている。「今日も作りすぎちゃったから、しゅんちゃんに食べさせたくて」 はにかみながら…続きを読む
しおっからくて、チョコレートというにはあまりにも苦いそれを、難なく飲み込む喉仏の上下をただ、黙って見つめていた。 ぽつり、と落ちる涙にふと思い出す。君との最初で最後の約束は、今でも私の足枷になっている。足がもう動きそうにないくらいガチガチに絡め取られてしまった。 それが、嫌じゃなかった自分を思い出して、またぽつりと涙をこぼした。「どうしたの」 私の両目から絶えずこぼれ落ちる涙を、不器用な太い人差し指が掬う。君のその不器用な指に救われていたことを思い出して、また涙をこぼす。「止まらないねぇ」 少しふざけたような口調に、私の心は追い討ちを掛けられる。私が悪いんだ。約束も、…続きを読む
パリンっとご気味いい音で弾けたチョコレートの中から、甘ったるいキャラメルが溢れ出る。「ホワイトデーのお返しって、意味があるの知ってた?」 綺麗にラッピングが施されたチョコレートの箱は今は跡形もない。乱暴に剥がされた包装紙をそっと畳んでポケットに突っ込む。一粒口に放り込んでから、潤んでしまった瞳を見られないように伏せた。 同じ想いだなんて、思い込んでいた。だから、少しだけ痛かっただけ。別に傷ついてなんかいない。でも、ちょっとだけ痛かった。うん、ちょっとだけ。「知ってるから、それ……」 聞きたくない言葉に、潤んだ瞳を無理くり拭う。いつもの笑顔を貼りつけて笑う。「そっか! …続きを読む