「私、セックスはしないよ」 そう言い切った彼女の瞳は、背後の夜と同じ色をしていた。 「どうして」 なるべく平静を装いながら尋ねた僕に、「人類を滅ぼしたいから」 真理を告げるように、彼女は答えた。「人類存続の一翼、何なら羽一枚分すら、私は担いたくないの」 そう言って髪をかきあげる彼女の右薬指には、細い銀色のリングが光っていた。 僕と彼女は、狭いホテルの一室にいた。世界から隠れるように灯りを落とした部屋には、時折思い出したかのように月光が差し込んでいた。 『会いたい』 彼女からのそんなメールで、今日、僕たちは落ち合った。彼女は学生時代に所属していたゼミの同期だ…続きを読む
* ――日曜日の朝は、泣きたくなるほど優しい匂いがする。 ホットケーキと柔軟剤と陽光が混ざり合った、クリーム色の匂いだ。 私は布団の中で微睡んでいる。あまりにも心地良い、眠りと目覚めの狭間。 ぱんぱん、布団を叩く音。じゅううと、何かが焼ける音。『ほら、朝よ』 優しい声と共に、そっと布団がめくられた。うっすら目を開くと、視界が淡い光で満ち、その中で、花柄のエプロンが揺れているのが見えた。『まだ眠いの?』 声は私に注がれている。生まれてくるずっと前から知っていたような、懐かしい声。 ううん、と甘えた声を出しながら、私は光の方へ手を伸ばす。しっとりとした柔らかい手が…続きを読む
プロローグ もし、空と海の境目に向かって進んでいったら、 いつか、世界の果てに辿り着けるのだろうか。 白い世界の中をゆっくり進む船の上で、俺はぼんやりと考えていた。 うまくもない煙草を吸い、溜息と同時に吐き出す。空に溶けていく煙を目で追いながら、怠惰に呼吸を続けている自分を少し呪う。 煙草を咥えたまま、海面に目を落とす。人の形をした後悔の塊が、覇気の無い目でこちらを見つめ返してくる。 こんな風に日々を浪費することに、何の意味があるのか分からなかった。考えることにすら、もう疲れ果てていた。心の感度が鈍っていけばいくほど、かなしくなることも、涙が出ることもなくなった。 残…続きを読む
「今度」なんて、何食わぬ顔でやって来るものだと思っていた。 ずっと、その言葉に甘えていた――。* 「最近どう?」「ぼちぼちだよ」 都内で働く僕の、唯一の楽しみ。それは週に一度、幼なじみの君と電話をすることだった。君とは三歳からの付き合いで、家族同然の仲だった。 僕は君のことが好きだった。でも、好きと伝えることが出来ずにいた。いつも言い訳ばかり並べて、伝えることを先延ばしにしていた。 今度こそ、と思っていた。今度こそ――。 しかし、得体の知れない新型ウイルスの流行で、僕は君と会うタイミングを逃し続けることになった。*「会社、クビになっちゃった」…続きを読む
あなたの傘になりたかった。 あなたを傷つけるものすべてから、あなたを守りたかった。 たとえ、晴れたら傘置き場の中に置き去りにされてしまうような、ビニール傘と同じ存在でも構わなかった。 必要な時に、あなたが私の手を求めてくれるのならば。*** 彼と出会ったのは、冷えた雨の日だった。 新宿駅の片隅で、彼は濡れた身体を小さく丸めて震えていた。「大丈夫ですか」 そう声をかけてから、明らかに大丈夫ではない人に対してかける大丈夫という言葉には、何の意味もないことに気がついた。 彼は怯えたように顔を上げた。目が合った。 夜を水晶の中に閉じ込めたような藍色の瞳の中に、そこから…続きを読む
「泣き止み方が分かんなくなっちゃったの」 そう言って微笑む彼女の瞳からは、絶えず涙が流れ続けていた。 彼女が纏う白い病衣は風にはためき、薄い翼のようだった。線の細い身体は、触れようものなら砂糖菓子のようにほろほろと崩れ落ちてしまいそうだった。「それでも私は生きたいんだよ」 今にも飛び立ちそうな小さな小鳥は、涙を流したまま、俺の手をそっと握った。 守りたかった。彼女を苦しめている、形のない闇から。 彼女の身体に絡みつく幾つもの管を片っ端から引きちぎって、彼女を解放してあげたかった。けれど少し間違えれば、管の一つが彼女の細い首を絞めてしまうような気がして怖かった。「一緒に…続きを読む
僕思えば僕たちは、16歳の頃からずっと、死にたがってばかりだったね。あの田舎町にいた時も、東京に初めてやって来た時も、東京に埋もれて生きようと決めた時も。二人で死んじゃおっか。何回そんな話をしたっけ。でも、本当はそんなこと出来やしないことを、僕たちは分かっていた。本当に死を選択出来るほど、僕たちは強くないということも。だから僕たちは、互いの立てる波形と波音がずれていかないように、ずっと、手を繋いでいようと決めた。二つの寄せては返す波を静かに重ねていれば、どんなことがあっても大丈夫だと思っていた。間違いなく、彼女も同じ気持ちだと思っていた。ずっと、そう思っていた。…続きを読む
『不幸、ダメ、絶対。この街は一人残らずすべての人間が幸せであることを望んでいます』 「全人類幸せ宣言」が出されて以来、この国では「幸せであること」が強制的に求められるようになった。ストレスは数値化されて毎日管理局に送られる。少しでも変動があれば、レベルに応じた薬が処方される。数値の変動は数時間単位で記録され、政府の定めた標準値で安定させることが求められる。人々は否応なく自らの「幸せ度数」を意識するようになり、標準値から逸脱することを恐れるようになった。その結果、ほぼ全員が何かしらの薬を服用するのが当たり前になった。 そのおかげで人々は、どんなにひどいストレスにさらされていても笑顔で生活…続きを読む
やっと分かったの。どうして生きることが辛いのか。それはね、あと何十年も生きられると思っているからだった。この夏が終わるまでの命だと思えば、厭なことはすべて忘れて、海に行ったり好きなだけかき氷を食べたり、線香の匂いのする畳の上で微睡んだり縁側で花火をしたり、ただ、純粋に一瞬を輝かしく生きることが出来る。私ね決めたの。この夏が終わったら、あまりにも輝かしい命のうたを歌い続けた蝉たちと一緒に、藍色の血を撒き散らして死のうと思う。止めないでね。もう決めたの。だからね、あらん限り眩しい夏を、どうか私に下さい。親愛なるあなたへ送るこれは遺書では…続きを読む
「You are very cool.」裸足で林道を歩く私を見て、通りすがりの青年はそう言って笑った。イギリスにホームステイしていた、いつかの夏の夕方のことだった。その日はロンドンへ観光に行っていた。背伸びして買った真新しいパンプスで一日中石畳の上を歩き回った私は、ひどい靴擦れを起こしていた。ロンドンから電車に乗り、バスを乗り継いでホームステイ先に帰る途中、痛みに限界を感じた私は、パンプスを脱ぐことにした。恥じらいよりも苦痛が勝った。リボンのついた黒いパンプスを脱ぐと、驚くほど楽になった。呼吸さえしやすくなった気がした。ホームステイ先へは、静かな林道が続いていた。時折開けた場所…続きを読む