時刻表が示す次の電車の時間は十分後だ。別に特段長くもないし、スマホでも眺めていたらすぐなんだろうけど、生憎今日はそういう訳にもいかなかった。太一と付き合うことになって一ヶ月、今日初めて一緒に下校することになった。テスト前の部活停止のこの時期じゃないと一緒に帰ることが出来なくて、一緒に下校するってだけで何か特別なことのような気がしていた。付き合いたての二人にはこの数分を各々勝手に過ごそうなんて思いもなくって、二人同じように過ごしていたくて。とはいえ、そんな甘酸っぱい空気感だけで間が持つのはせいぜい最初の三分くらいだった。相手を無視した暇つぶしをする訳にもいかず、この沈黙を打開することも出来な…続きを読む
この街は夜だというのになんとも賑やかで落ち着きがない。ろくに星の見えない暗い空を眼前の絶えない街明かりと対比させ、これはこれで綺麗で落ち着くものだと、一人大通りの端に身を避けつつ、ただぼーっと心を落ち着かせていた。『置いていかれている、そう感じている』ひどく澄んだ声が届く。微かな遠くの一等星の光よりも、目の前の街の明かりよりも、遠くで聞こえる声や嫌でも伝わってくる重苦しい匂いよりも、ずっと速く、ずっと慎重な君の声は僕を、僕と君の二人だけの場所に連れていくような錯覚をもたらした。『自分が感じる孤独だけなら耐えられる、耐えられないのは誰の中にも自分が確固として存在していないこと』この街…続きを読む
藤野と”今度”を語ったのはもう二年も前のことだ。あれは高校三年の進路決定の時期のこと。自分の進路を、将来を、たった十数年の保護された時間だけで見つけられるはずもなく、とはいえ真っ当な進学をするのもどことなく不安で嫌だった。そんな夢見がちで逃げ盛りな僕は、何となく出さずにいた進路希望の件で居残りを食らっていた。似たような思いの人達もきっといただろうが、目先の居残りを避けることのほうが先決だったらしく、早々にこの逃避傾向を切り抜けていた。教室には僕と藤野だけだった。「書かないのか?」藤野が僕に話しかけてきた。そこまで親しいわけでもなかったので、居残りをして尚、手を止めたままの僕に見兼ねて声を…続きを読む
涙を隠すなら、消し去るなら、袖の中だと大昔から相場は決まっていたようで、百人一首の時代から悲しみは袖に宿るらしい。どこかで聞きかじった付け焼き刃の知識、それはきっとこの世の中を生きていくうえではそう役に立たないだろう。まして、眼前の悲しみにくれる見知らぬ人の助けになどなるはずもない。帰り道の小さな公園、見慣れない長髪の女性が俯き顔から覗かせる目はかすかに潤んでいる。泣くに泣けないといったところだろうか。1人にしておくべきだろうか、何も出来ない自分に言い訳をしながらその場を立ち去ろうとするが、間が悪かったようで、こちらに気づいた彼女がそっと顔を持ち上げた。目が合ってしまっては、その場から逃げ…続きを読む
グルメ情報投稿サイト"with food"、このサイトの最大の特徴は、グルメ情報投稿が匿名ではなく、必ず投稿者アカウントと紐付けられて公開される点だ。元々は、悪意ある風評や業者によるステマを排除するためのシステムであったが、利用者の一部は特定の情報提供者の挙動に興味を示している。ラーメン一筋50年の引退した超有名店店主であったり、自分に食べられない激辛料理はないと豪語する女子高生であったり、with food上では名物ユーザーと呼ばれる人達が一定数存在するのだ。まあ僕が働く路地裏の小さなコーヒー豆ショップには縁のない話だ。今日も近所の奥さん数人にブレンド豆を200~300グラムずつ、通りす…続きを読む
君との別れは満月の日だった。それを受け入れられない君と深夜こっそりと家を抜け出していつもの丘にと自転車を走らせる。いつも二人で陰に身を寄せた樹は暗がりの中では不気味にも美しくも見え、夜の街を見下ろす丘は二人だけの別世界にも感じられた。「やっぱり寂しい?」「まだ受け入れられないくらいには」我ながらずいぶんと分かりきった事を聞いたものだ。君が必然の別れを理解とは裏腹に心で拒む事が無ければ、そんな思いを知らなければこうしてここに来ることもなかったのだから。「なら、一つだけ言うことを聞いてあげるよ」いつもの軽口のような言葉だけど、今日くらいはちゃんと君の言うことを聞くつもりだ。「明日の朝…続きを読む
『当店は5月末をもって閉店させていただきます』帰り道、いつもなら素通りするガラス張りの店の前で思わず立ち止まってしまった。この小さな洋菓子店は、店先にまで商品を並べた洋服屋やカントリーな印象のある雑貨屋などが並ぶ通りにあって、ひっそりと存在していた。何かの拍子に一度だけ立ち寄ったことがあったが、それが何のタイミングだったかはもう忘れてしまっている。味も大して覚えてはいないが、また機会があれば来ようとは思うくらいには美味しく感じたことは確かだ。いつでも買いに来られると思ってたんだけどな。一度だけ立ち寄っただけのこの小さな店が閉店することに少し寂しさを感じている。五月までは来られるだろうが、…続きを読む
問3、ハジメが得た教訓とは何か。二十字以内で記述しなさい。プレゼンには理論より感情が大切である。(模範解答より)さて、ここでいう感情とはなんだろうか?プレゼンされる商品の魅力について、理論とはデータや客観的事実のこと、感情とは個人の主観に基づくもののことだろう。しかし、プレゼンする人間が用意する感情とは結局のところ、その人間の想定の領域、詰まるところデータに近い部分に依拠してるのではないか。ならばそこで引き出される感情とは抱いたものではなく抱くべきものなのではないだろうか。そうあるべきであるからそう感じるといったプロセスで生じた感情こそ機械的になってしまわないだろうか。機械的で…続きを読む