突き刺すような冷たい風が歩く私を包み込んでは、背後へと抜けていった。すれ違いざまに見えた風の表情は淋しそうだった。その理由に何となく察しがつく。あの季節にしか逢えない甘いやつ、香ばしいやつ、体に悪そうなジャンキーな奴たちが居ないからだろう。 夏は屋台でひしめきあう通りはすっからかんだった。冬だから当然だ。しかし、通りには多くの人がいる。子供たち、家族連れ、カップル、老夫婦様々な人々がマスクをつけて黙って歩いている。薄暗さも相まって皆亡霊のように見えた。 あぁ、騒がしい声も今年はいなかったね。 私は心の中で風に話しかけた。風は答えない。 屋台もなかった、神輿もなかった、バーベキ…続きを読む
志島は悪夢を見ているようだった。目を覚ましたら、歩道の真ん中に立っていて、街の風景の色はネガポジ反転しており、街にいる人々全員がパルプーランドのマスコットキャラクターのチェ・ラクーンの着ぐるみを着ていた。それ以外は全て普段と変わらず、日常が正常に動いている。 ただし、志島はこの状況にパニックになっていたわけでも動揺していたわけでもない。一ヶ月のうちに一回起きるその一回が今日来ただけの話だった。志島はいなくなった彼の彼女を、春香を探しに探しに歩き出した。もう見当はついている。 今日は二人にとって久々の外出だった。雲ひとつない夏空で、建ち並ぶ高層ビルや舗装されたアスファルトが太陽の光を…続きを読む
しとしと降る糸のような雨が地面のかおりを吸い込み、私の鼻をくすぐる。 毎週土曜日、朝早くに家を出た私は電車とバスを乗り継ぎ、さらに最寄りのバス停から歩いて二時間かけてここ永雨町にやってくる。永雨町という名前の由来は読んで字のごとく雨が永久に止まないからである。どうして止まないのかと尋ねられても、私は答えられない。子供の頃、祖父が丁寧に説明してくれた気がするけど興味がなかったからちっとも覚えていない。 町といっても名ばかりで、ここには誰一人として住んでいない。昔は正常な町として栄えていたのかもしれないが、祖父と一緒に初めて来たときにはすでに人の気配がなかった。この町に漂う空気の肌をなぞる…続きを読む
蒼太と香織は堤防沿いを並んで歩いていた。部活終わりの香織を蒼太がいつものように誘ったのだ。 僕は高校に入学した時から、香織に一目惚れしていた。しかし、奥手な性格のせいで声をかけるのに一年を費やし、ようやく下校に誘えたがこの夏の学園祭終わりからだった。そして、スムーズに話せるようになる頃には季節は冬になっていた。 今日も他愛もない話に盛り上がって終わるんだろうな。だらだらと間延びした関係はいっときの高揚感と満足感を与え、止んだ夕立の寂しさを残していく。それに甘んじて本当の想いを見て見ぬ振りをする自分に腹が立つ。だけど、寂しさと情けなさが募ろうとも今の関係を壊したくない。 つがいのカ…続きを読む
まどろみの中で微かな音が波紋のように広がる。 千秋は記憶という名の夢を見ていた。 初めはからかっていると思った。 3年の夏休み明けのある日、いつものように「喫茶モンブラン」で閉店時間までだらだら過ごし、一人家路についていた。ソフィアとは中学を卒業するまでは一緒に放課後を過ごしていたが、高校入学後のある日に「飽きた」と言われてから放課後と下校は別々になった。高校でできたオタク友達を誘ってみたが、みんな塾や部活動で忙しいと断られてしまった。結局一人になったが、問題はなかった。 ボカロ曲を聴きながらスマホで来月から始まるアニメをチェックしていたら、突然背後から肩を叩かれた。色々な想像が…続きを読む
今日でこの独房に入って何日になるだろうか、記憶が吐瀉物のようにごっちゃに混ざってぜんぜん思い出せない。壁がどんよりした灰色のコンクリートだったら爪でも歯でも血でも何かしらで記録をつけられそうなものだが生憎特殊素材のようで傷も血痕もない。床も同じ素材のようで少し黄ばんだ歯が二本転がって、血液が血液のまま滴って何日か前の自分の足掻きが生々しく残っていた。空腹と喉の渇きは清々しいほどに無く、皮膚はウェットスーツのように骨と血管を締め付けその輪郭をはっきり浮かび上がらせている。そして、五感は明らかにその役割を放棄してサボタージュを決め込んでいる。死が寄り添っているように感じた。生まれてから何千年と経…続きを読む
秋が日本にちゃんと居座ってから朝はすっかり肌寒くなり、何年も使ったランニングシューズの靴紐を結ぶ指先の動きがぎこちない。左右均整の取れた蝶々結びを結ぶのに5分もかかってしまった。 「もう手袋が必要だな」 昼神逸人はそう言って口元に両手をあてて息を吹きかけた。何回か吹きかけると手のひらがじんわりと温まってくる。そして、冷たく乾いた風に熱を奪われないよう手を握って開いてを繰り返し、手のひらに馴染ませる。レースのスタート直前に行っていた逸人のルーティーンのようなものだった。 念入りにストレッチをして、いよいよ走り出そうとしたとき、イヤホンが無いことに気づいた。 「ミスった。学校のバッ…続きを読む
8月1日 日曜日。 いつもなら日曜日の渋谷駅の交差点は人で溢れかえるのに今日は異常に少なかった。それもそのはず、今日は特別暑いだった。 めまいを起こしそうな日差しがサンサンと降り注ぎ、コンクリートに跳ね返った熱波によって僕は灼熱のオーブンの中にいるようだった。さらに絶え間ない車や電車の走行音がより暑さを煽る。顔中から滝のように吹き出す汗が首筋を伝い、許容オーバーな襟を素通りして背中を流れている感覚がはっきりとわかった。 —はやく、変わんないかな 僕はまったく点滅しない信号機を睨みつけた。僕を含め周りの人々は暑さにまいっているのに、一番体内に熱をもっているアイツが平然と立ってい…続きを読む
六月一日、学校や会社では衣替えが始まる日とされている。 「また、今日も雨かぁ」 君島紗江は毎日のように降る雨が屋根を打ちつける音にうんざりしていた。一昨日から会社の制服が夏服になったものの肌寒くて仕方がないのだ。 「どうしよかっな」 リビングのソファに寝転がりながらクローゼットの方を眺め、ため息をついた。うんざりした気分にさせる元凶はむしろこっちの方かもしれない。紗江はクローゼットに眠る段ボールに入った大量の夏服をどうするか迷っていたのだ。 正直、去年の夏服はあまり着たくない。どれも時代遅れに感じるからだ。かと言って、全部フリマアプリで売ったとしても同じ量の新しい服を買う…続きを読む
「鏡よ、鏡よ、私の次に美しいのはだぁ〜れ」 月が輪郭をぼやかしながら輝く夜、美琴は池の水面に向かって唱えた。美琴の言葉に呼応するように無風にもかかわらず、細く波立ち波紋を描いた。美琴は水面に映る自分の顔が崩れて別の女性の顔が現れる瞬間を、愉悦と不快の入り混じった感情で待っていた。 この池は「かがみ池」と呼ばれていた。呼ばれていた、というのはこの池の名前がある時期から伝えられなくなったからだ。この池はとある公園の鬱蒼とした木々が茂る立入禁止地域の奥深くに存在している。なぜ立入禁止地域になったのか定かではないが、その立地から自殺志願者が集まって自殺の名所になったからと言われている。今では…続きを読む