夢を見た。 私はいつしかの記念日にもらった黄色いセーターを着ていて、家のリビングで、一人でオセロをやっていた。今のところ白と黒がトントンである。 パチンパチン、パチン。白黒、白。 私は、何故一人でオセロをやっているのか分からなかった。楽しくも退屈でもなく、ただ息をする様に私はオセロを打ち続けた。夢だからだ、と私はどこかで納得していたのだろう。 パチンパチン—— あれ、と思った。 突然、黒いオセロを持っていた指に誰かの指が触れた。「せーんぱい」 そして懐かしい声がする。声だけでは輪郭がはっきりしないが、それでもこの声は確か・・・・・・「先輩、お疲れ様です。手伝います…続きを読む
パリン、と表現するには少し重すぎる音がした。白い陶器のカップが、台所の床にたたきつけられている。「ごめん、本当にごめん」 私が数年来大事に使っていたマグカップを、奏人が割った。 膝をついた奏人が上目遣いに私を見上げて泣きそうな顔をしている。「ごめん」「奏人が怪我してないならいい」「いや、イケメンすぎかよ」 慌てて奏人が白い破片を拾う。カチャカチャと耳障りな音が鳴る。「怒らないの?俺が言うのもなんだけど。だってこれ……大事だろ」「物は壊れるからものだから、いい」「いや、でも」「うるさいな、いいんだって」想像よりとがった声が出た。目に見えて怯んだ彼に慌ててごめん、と…続きを読む
「11:00の日比谷駅着、三号車で。青いスカートはいていくね」私はLINEのトーク画面を見つめる。揺れる車内に、「次は日比谷、日比谷」とアナウンスが入った。もうすぐ、彼女が乗り込んでくる。彼女のことはたくさん知っている。なんども話したし、一緒に課題をやった。——画面越しで。大学に入学して、パソコンの奥で出会って一年と七ヶ月が過ぎるだろうか。今日、初めて合う彼女は、一体どう見えるのだろう。どう笑うのだろう。電車が駅に滑り込む。手土産を握りしめる。減速していく景色を見つめて、ホームに青い面影を探す。まだ見えない。まだ、まだ。 必死の浪人生活を終えてやっとつかんだ大学生活は、コ…続きを読む
私はよく、夢を見る。「うなされてた?」 叫んでいたのか喉だけがヒリヒリ痛んでいた。洗面所の水道で水を飲む。痛みがゆっくり治まっていった。ついでに顔を洗えば、後を引いていた夢が過去に収まる感覚がした。暗闇に悪夢が溶けていく。 彼が言う。「ものすごい叫んでたんだよ、止めてーって。慌てて揺すり起こしちゃった。それなのになんでそんなにケロッとしてるのさ」 そんなこと、なんでかって。「だって、いつものことでしょう?」 午前二時半を回った洗面所は妙にひやりとしていて、まるでいつもの場所ではないようだった。天井のライトの色が寒々しくて、なぜだか異常に浮世離れしていた。 寝室からつい…続きを読む
「ほーんと東京ってビルしかないんだ」 もうそれしか出てこなかった。自分でも笑っちゃうくらいの現実逃避。 今日は本当に厄日だ。さっきもバスで知らないおじさんに怒鳴られたし、それに今は初めての土地で迷子になってる。「……最悪」 ただいまの所持品、自由行動予定表、筆箱、旅のしおり、東京乗り放題一日切符、そして4000円。 あたしは右も左も分からない東京の交差点で一人制服を着たまま空を見上げていた。 修学旅行なんてくそ食らえ。ほら、やっぱり何にも楽しくない。 2日目、自由行動。 朝9時にホテルを出発して、夕方6時にホテルへ戻る。 事前に班で作成した行動表に従って公共機関を使いつ…続きを読む
雨宿りをしている。 我ながら完璧な、誰が見ても100点満点の非常に古典的な雨宿りだと思う。 ゴールデンウィーク最初の行事として猫を動物病院に連れて行った。といってもそれくらいしかやることがなかった。だって仕事も休みだし、コロナのせいで遊びにもいけない。だいたい誘ってくれる友人も……この話は止めようか。 今日は春の陽気だった。だから自分の散歩がてら猫をリュック型のキャリーに入れて歩いて病院に向かい、そして診察台の上へ猫を乗せた。定期診断はつつがなく終わり――聴診器を嫌がる猫にしこたま引っかかれて手の甲に血がにじんでいるが――まあ、良いとしよう。ついでにノミよけの薬を貰い、病院を後にする…続きを読む
定期をポケットにしまって、午後9時の人気の無いコンコースに降りる。家に帰る。 駅前のタワーマンションから風が吹き下ろしてきて、ポニーテールにくくられた髪が私の顔に当たった。春風は案外痛い。 スカートを翻して、ヒールををコツコツ鳴らして、歩く。 もし、もしもの話。 手のひらに白い錠剤が現れたら。小さくて丸くて、すべすべしていて、そしてそれを飲み下せば柔らかく風が吹くように死ぬことができる毒薬。 私にとってたわいもない空想の一つだ。死というものに対する重さはもちろんないし、そこからある種の甘やかな響きや救いを得ようとしているわけでもない。 だって私はいまずんずんと家へ向…続きを読む