どうしよう、まだどきどきしている。自分の心臓の音がこんなにも大きく聞こえるなんて、生まれて初めての経験だった。彼の声がまだ耳の奥で反響している。優しい声、少し緊張した声、大好きな声。その声で、わたしに向かって愛を告げてくれた。場所はいつもの夜の公園。ブランコに彼と二人、並んで腰掛ける。キイキイと少し軋むブランコをそっと前後に揺らしながら、とりとめのないお喋りをする。まるで世界に二人きりになったかのような、かけがえのない時間。でもいつもは饒舌な彼が、今日に限っては妙に無口で、視線をあちこちに彷徨わせていた。私が不思議に思っていると、ふいに今まで見せたことのないような真剣…続きを読む
憎らしくて愛しい彼の顔を思い浮かべながら、私は胸元で輝くネックレスにちらりと視線を送る。喜びと切なさが入り交じった曖昧な感情を抱えながら、待ち合わせの駅前広場へと向かって歩く。今日は十二月二十二日。クリスマスイブにもちょっと手前の中途半端な日付だけど、私にとってはとても特別な日。待ち合わせ場所に現れた智則はいつもの元気がなさそうだった。しきりに両手をこすりあわせて寒そうにしている。調子が悪いのだろうか。聞くところによると今日のためにずいぶん無茶なスケジュールでバイトを入れていたらしい。「悠香、お待たせ。ごめんちょっと遅くなった」「ううん、気にしないで。私もいまさっき着いたとこだから…続きを読む
次々と打ち寄せる波は、波打ち際に立っている私の足元の砂を攫っていく。砂が攫われるたびになんとなく不安定な気持ちになって、私はその都度立っている場所を移動する。それでも波が来るたびに、足元は常に覚束なくなってしまい、それは今の私の置かれている状況そのもののように思えた。隣を見れば、琉莉は揺れる足元に怯えることなく、しっかりと砂を踏みしめて立っている。その姿はたとえようもなく眩しくて、私は思わず目を細めた。琉莉と私は学校帰りにこの砂浜に立ち寄るのが習慣だった。偶然見つけたこの場所は、道路からは大きな岩に隠されて、ここに砂浜があることに気がついている人はほとんどいなかった。…続きを読む
その日はとても蒸し暑い夜でございました。仕事の都合で遅い時間となった私は銀座の大通りを足早に歩いておりました。銀座の大通りといいましても、まだ戦後の復興のさなかでございます。通りのあちこちに勝手に出ていた違法露店がつい先日一斉に撤去された所で、かえって夜の銀座は人通りも少なく、都会だというのに妙な静けさに包まれておりました。だからでしょうか。ふとすぐそこの路地裏から、小さく女の声がしたような気がしたのでございます。それも普通の話し声ではなく、「ひっ」という、飲み込むような悲鳴でした。私も女ですから、なにができるという訳ではございませんが、思わずその場で立ち止まっておりました。お…続きを読む
「今夜お月見をしようよ」という彼女からの突然の誘いが来たのは、最後の有休を使って荷造りをしているときだった。部屋の雑巾がけをしている手を止めて、返事を打つ。「月見って、どこでさ」「展望台」「ああ、あそこの?」「そう、そこ。あ、やっぱり引っ越し準備で忙しいかな……」「いや、荷造りも済んだから、今夜はもうやることもないし、構わないよ」「じゃあ会社が終わったら、展望台の階段の下で待ち合わせね」「了解」代名詞でやりとりが完結するくらいには彼女との会話は気の置けないものになっていたけれど、たぶん彼女と会うのもこれが最後になる。明日には僕の部屋に業者が荷物を取りに来て、僕はこの街…続きを読む
「うわ、ここもかよ」ぼやきながらブレーキを踏んで車を停車させる。フロントガラス越しの目の前には工事中の看板が立っていた。とぼけた顔でヘルメットを脱いで頭を下げる人のイラストが描かれているそれを、今日はもう何度見た事だろうか。舌打ちをしながら後ろを確認し、効きの悪いハンドルを回して何度も切り返しながら元来た道へと車の向きを変える。今日はついてないな。一人きりの車内をいいことに大声でぼやきながらUターンしてすぐに車を道端に寄せた。今日はいつも営業ルートとして使っている住宅街の裏道が軒並み工事中で通行止めになっていた。ポケットから私物のスマホを取りだして、現在地と目的地を確認する。会社か…続きを読む
えー、ツンデレという言葉もひところに比べますとずいぶんと一般のね、オタクではないカタギの方々にも伝わるようになりまして、時代の流れを感じる次第でございます。さてツンデレと申しましても定義がいろいろとございまして、なかなか統一した見解はないようなんでございますな。いわく、出会った頃はツンツンしているのに付き合いが長くなってくるとデレデレしてくる、いわゆる時間経過とともにツンからデレへ変化するのがツンデレだ、という話もあれば、皆のいる前ではツンツンしているのに二人きりになると急にデレデレする、これをツンデレと呼ぶのだと申す向きもございまして、このあたりはどうにも人によって曖昧なようでございます…続きを読む
きっと、バレンタインのせいだ。二月になると教室の空気がなんだかそわそわしてくる。他愛ないおしゃべりだったり、視線を交わす仕草にもなんとなく緊張感が漂っているみたいに感じる。でも、私は正直に言うとみんながなんでそんなにバレンタインに必死になっているのかが分からないのだ。同級生の男子がなんだか子供のように思えてしまって、よっぽど仲の良い女友達と話している方が楽しいと思うんだけど、みんなはそうじゃないのだろうか。そんな感じで浮き足だった教室の雰囲気とは一歩引いた立場に立っていたつもりの私に、メッセージが届いたのはバレンタインの前日のことだった。…続きを読む
二月の澄み切った空気は嫌いじゃないけど、今の私には少し冷たすぎる。どこまでも透き通っていく空は、私の心まで見透かしているようで、なんだか不安になってしまう。ふと自分の手を見ると小さいささくれが出来ていて、見ているうちに私の心もささくれてくるのが分かる。「……いや、なに浸ってるのよ透子」「いいじゃない、ちょっと浸るくらいさせてよ」郊外のアウトレットモールに併設されたお洒落なカフェで過ごすひととき。はりきってオープンテラスの席についたはいいものの、思いのほか寒いことにちょっと後悔し始めて、ホットチョコレートのカップを掴む手もだんだんと冷たくなってきている。「ほら、また浸ってる…続きを読む
今年のバレンタインデーは日曜日になった。ということは、当日に学校でチョコを渡すわけにはいかないということ。「土曜日を使って手作りの準備ができるのはいいけど、渡し方に悩むよね」「そうだねー」週末の金曜日、学校帰りのマックで友達と作戦会議。だらだらと関係ないおしゃべりもしながら作戦会議をしたけれど、結局は当日にLINEで相手を呼び出すか、当日に渡すのは諦めて週明けの学校で渡すしかないという結論になった。気になるポイントは何を作るかだ。友達も気になっているのか、私に尋ねてくる。「それで、佳奈ちゃんは何を作るの?」「うーん、あんまり難しいのに挑戦して失敗しても嫌だから、簡単なのに…続きを読む