男はその赤い陶器のコーヒーカップを愛おしそうに見つめた。そして、薄く開けた唇から、ちろりと舌を覗かせ、そのコーヒーカップの縁を舐めた。うっとりした顔。コーヒーカップの曲線を指でなぞり、次は大きく開けた口から出した舌でその曲線を、下から上に向かって舐め取り始めた。私の体が粟立った。と、同時に、体の奥底が疼き、蜂蜜のようなとろりとした液体が流れ出るのを感じていた。その液体が零れ落ちたのを合図にしていたかのように、私の指がその蜜を求めた。小さな波が押し寄せてくる。最初はさざ波だった。だけど男が陶器の曲線をに強弱をつけて舐め、持ち手を齧り、湿気を含んだ吐息を漏らす度、その波は大きくなり、その波に合…続きを読む
ショーツに散った茜色を見て、私は溜息をついた。そして、嬉しそうな、でもそれを悟られないように労わるような、そんな顔を浮かべている夫を思った瞬間、吐き気を催した。結婚して10年。初めの内はお互い仕事に趣味に夢中で、子供はまだまだ先でいいよね、なんて笑いあって言っていた。だけど5年を過ぎたあたりからお互いの親からの突っつきが始まったのをきっかけに、私も夫も、子供が欲しいと思った。正直なところ、私は妊娠なんてすぐにするものだと舐め切っていた。したいときにしていた私たちのセックスでは、なかなか妊娠しないことが続いた時、私は食生活を改め、仕事もセーブするようになり、基礎体温を測った。そして、それ…続きを読む
電話ボックスを見かけると思い出す。べたべたと貼られたテレクラのチラシ。分厚い電話帳。蛍光灯に群がる羽虫。忘れられた10円玉。夏はいつもドアが熱くて、少し触れただけで手は汗ばむ。中に入るとこもった熱気が流れ出て、汗をかいた体にまとわりついて不快だった。そんな中で電話をするのがしんどくて、流れる汗が下のアスファルトに零れ落ちていく様子を見ていた。冬は寒くて、下の隙間から風がぴゅうぴゅう入ってきて、いつもガタガタ震えながら受話器を持っていた。透明のアクリルに息を吹きかけて、よくお絵描きをしたっけ。不思議なもので、電話ボックスの中の様子は鮮明に思い出すことができるのに、私は誰に…続きを読む
かちゃり、とドアノブが動いた音がした気がして目が覚めた。饐えた臭いが充満している。目の前には一昨日から動かなくなった妹がいて、その周りにはハエが飛び交っていた。お母さん?最後に母に会った時、大きなコンビニの袋に入った食べ物や飲み物、妹のミルク。確か3つくらい置いていった。母は煙草をふかし、久しぶりの母を見て嬉しそうに拙い足取りで寄ってきた妹を蹴飛ばし、固まっている僕を見て鬱陶しそうに吸っていた煙草を僕に投げた。火のついた煙草は僕の腕に当たって熱かったけど、火事になっちゃう、と、僕は自分の腕よりも先に畳の上に落ちた煙草を拾って、近くにあったおもちゃで火を消した。プラスチックのおもちゃは歪…続きを読む
確かに出て行った。少しだけ君の方を振り返ると、泣きそうな顔をしてたけど、やっぱりこういう時でも、君は泣かないんだね。そういうところが、嫌いだった…僕と夏音(かのん)が出会ったのは、居酒屋のバイト先。大学3年生の夏、夏音が新しいバイトとして入って来た。真っ直ぐに肩の辺りまで伸びた黒い髪と、白い肌に枯葉の粉を撒いたようなそばかす。背が低いのにむちっとした体がなんかエロい、と男どもの間で話題になった。俺はどちらかというと、あの白い肌にあるそばかすが、何か可愛いなって思って見ていた。既視感があるけど、何だっけ。まぁいいや。そう思いながら煙草の煙を空に向かって吐く。まさかこの数ヶ月後、夏音と僕が…続きを読む
スーパーに展示されている、お客様からのコメントカード。いつもは素通りしてしまうが、ふと今日は立ち止まってしまった。大体こういうのってクレームなんだよな。すぐ人の感情に影響されてしまうから、読むのが怖い。その中の1枚に『 1/20の夕方にレジにいた安村さんについて』とある。やっぱりクレームか。『 まず目付き。鋭い。「チッ!そんなに買ってんじゃねぇよブス!」と叫んだ客を瞬殺していた』すごいじゃん安村さん。瞬殺ってあれだよね?生きてはいるよね?社会的に抹殺したとかじゃないよね?『 あと手付き。速い。速すぎる。見えない。なのにキレイに詰められている。怖い』安村さん仕事早いんだ。…続きを読む
私を手に取ったのは、小さな赤ちゃんを抱っこした女の人だった。彼女は抱っこ紐の中で眠る赤ちゃんを揺らしながら、パラパラと私を捲った。どうするのかな。私はドキドキしていた。彼女の頬はほんのりと上気していて、私を捲るたび目を見開いたり、眉をしかめたり。かわいい人。今彼女は私を楽しんでくれているんだということがわかった。彼女はぱたりと私を閉じて、そのままレジの台に置いた。私は彼女だけの私になった。彼女の家は、陽の光がたくさん射し込む明るい部屋で、私はいつもリビングテーブルの真ん中に置かれていた。赤ちゃんが眠っている間、彼女はいつも私を開いた。微笑んだり、眉をしかめたり、涙を浮かべたり。…続きを読む
暗い夜に浮かぶ薄く切ったメロンのような半月が浮かんでいる。あぁ、あの真ん中の薄い部分。闇と光の境目。スプーンで掬って食べたら美味しいのだろうか。とても冷たくて、あの日の母が私に食べさせてくれたような甘いメロン。私が熱を出すと、母は仕事を休んで私の傍にいてくれた。熱さで溶けそうな私の額を、母の冷たい手が覆う。母の白い手はバニラアイスのようで、私は、私の熱で母が溶けてしまうのではないかと不安になった。私が不安そうな目で母を見ていたのがわかったのだろうか。それとも、熱で焦点の合わない私を心配したのか、母は困ったような笑顔を浮かべて、そっと私の髪を撫でた。少し落ち着いてきたころ、母は冷蔵庫…続きを読む