白い軽自動車が夜の闇に浮かぶ。知らないナンバーだ。でも私はその光景を見た瞬間、軽い目眩を覚えた。「お母さん、大丈夫?」横にいた娘の深冬(みふゆ)が小さな手で私の体を支えた。私はその手を握り、「大丈夫よ」と微笑んでみせたが、うまくできたかはわからない。深冬は街灯の照らす光の中で、にっこり笑った。そして、私の冷えた手に自分の手を絡める。温かい手。もう眠いのかもしれない。朝晩は随分冷えるようになった。幼稚園の頃から習っているプールの帰り道、私は深冬の手を気持ち強く握り返す。「早く帰りましょう。今日はお鍋よ」「えぇー?また?」「今日は豆乳鍋だから。豆乳好きでしょう?」「そうだけど。お…続きを読む
羊の睡眠時間は1日3時間程だという。そんな話を、テーブルの向かいに座る彼は思い出したように言う。「なぜ?」「いつ敵に襲われてもおかしくないから、ゆっくり寝られないんじゃないかな」「眠れない時に数える動物が、実は寝ないなんてね」彼はちらりと腕時計を見る。「ごめん、そろそろ行かなきゃ」私はにっこり笑って「わかった」と言った。彼は薄い紙を貼り付けたような笑顔を残し、席を立つ。テーブルに残されたレシートを当然のように置いていくようになったのはいつからだろう。私は水滴を吸って端がよれたレシートを手に取る。コーヒー2杯分。残ったコーヒーに口をつけると、吐き気を催したのでやめた。…続きを読む
会いたいね。その言葉の羅列をしばらく凝視した後、既読にせずにスマホを閉じた。「私も」とも、「そうだね」とも、「いつ会う?」とも返せない。友人に紹介してもらった相手とやり取りをすること数ヶ月。濃い溜息が口をついて出た。そもそも、相手はその言葉を望んでいるのだろうか。いや、望んでいようが望んでいまいが、当たり前のように同意を求めている言葉には同意を返した方が穏やかな関係を続けられるのかもしれない。だけど、そう返せば自分の気持ちが強ばる様子がわかって、考えることを放棄した。固いフローリングの床に寝転び、窓のカーテンの隙間から濡れたように滲む半月を見上げる。田んぼに囲まれた古びたアパート。…続きを読む
「子供同士のキスはカウントされないでしょ」春の柔らかい日差しが大きな窓からカフェの店内を照らす午後2時。女子高生がケラケラと笑いながら話している声に、予定を確認しようとスマホをスクロールしていた手が止まる。その様子に向かいに座っている婚約者である達朗が、「どうしたの?」と優しく尋ねてきた。私は隙のない笑顔で、「何も」と言う。「それで、未散(みちる)はいつが空いてる?」「ええと。今月のこの日はどうかしら」「じゃあ、その日は午後から有給を取って行こうか」未散は頷き、スマホの予定表に「pm結婚式場見学」と入力し、保存した。達朗と3年の職場恋愛を経て、来春に結婚することになった。ト…続きを読む
私の秘密を買い取って貰えませんか。えぇ、もうこの秘密を一人で抱えるのは辛すぎます。日が経つごとに足枷が増えていくような。とにかくもうへとへとなんです。これは私の友人…仮に百合子、としておきましょう。仮の名ではありますが、それはもう百合の花のように可憐で美しい人でした。ですが彼女には特異な癖がありました。それが、詰めるということなのです。とにかく詰めたがるのです。彼女が学生の頃、ケーキ屋でアルバイトをしていたときは、お客様が買ったケーキを箱に詰めた時、そこにできる隙間が許せず、保冷剤をケーキの形が歪になるくらいに詰めていました。お弁当屋さんでアルバイトをしていたときは、お客様に渡すプラ…続きを読む
ブラックを飲めるようになったら、教えてあげる。そう言って彼は笑って湯気の立つブラックコーヒーを飲む。私は彼を睨んだ。うそつき。教える気なんてないくせに。湯気の奥に見える彼の目は私を見ていない。私を通り越して、別の誰かを見てる。「南乃花(なのは)、起きなさい。遅刻するわよ」母の起こす声と同時に、瞼を明るい陽射しがさしてくる。思わず眉間に皺を寄せ、うっすらと目を開けた。カーテンを開けた母は、もうキッチンへ姿を消している。「また遅くまでゲームしてたんでしょ。起きれないんだから、早く寝るようにしなさい」寝起きに親の小言ほど鬱陶しいものはない。南乃花は母の小言を無視して背伸びした。…続きを読む
僕にとって、薄荷の香りは始まりと終わりを感じさせる。あれから何年経っても、君のことを思い出す。ミツキはいつも腰の余ったジーンズの右ポケットから薄荷の飴玉を取り出す。いつからかそれが合図のように、僕たちの秘密が始まる。海の底のような部屋で、僕たちは手探りでお互いに触れ合う。何度もこの部屋で、僕たちは体の隅々まで味わっているはずなのに、始まりはいつもおぼつかなくて、ミツキの薄荷の味がする口元に唇を寄せるのさえ躊躇われる。その度ミツキは、見えない闇の中でいたずらっ子のように笑って、僕より先にキスをする。それからシーツの波に紛れて、僕らはもうどっちがどっちの体なのか、どっちの体から染み出た液体…続きを読む
am5:30。墨汁を零したような空に浮かぶ北斗七星を、ヒナは見上げた。昼間は春めいた気温なのに、朝はまだ吐息が白く寒い。ヒナは散歩に連れてきたチワワのコロッケを抱き直した。結婚から離婚を経験するまで別の土地に住んでいたヒナが地元に戻ってきた時、西に行けば行くほど多かった田んぼや畑が姿を消し、その代わりにセンスのいい戸建てや、小洒落たアパートやマンションが並んでおり、蛙の声や虫の音の代わりに、子供の声や車の行き交う音が増え、帰ってきた当初は異世界転生でもしたかと思う程様変わりしていた。憔悴しきっていたヒナを心配して、母が一緒に住もうと言ってくれたが、自分の生活スタイルを確立していたヒナに…続きを読む
「猫舌なんだよね」地下鉄の改札前にある、カウンター6席しかない細長い穴ぐらのようなカフェで、先程注文したばかりのホットミルクを前に彼女は言う。間接照明に照らされた湯気はきらきらと光の粒子を飛ばし、白い陶器のコーヒーカップをセピア色に浮かばせる。ぼんやりとした温くて薄暗いこの場所は、いつも僕を安心させる。母親のお腹の中ってこんな感じなのかな。そう思いながら猫舌とは無関係の僕は、淹れたてのブレンドに口を含み、ゴクリと飲み込んだ。「すごいね。ふーふーせずに一気に飲めるんだ」「猫舌の人は、最初舌先で触れるから熱さに敏感になるって聞いたよ」「みんな舌先からじゃないの?」「舌の真ん中辺り…続きを読む
男はその赤い陶器のコーヒーカップを愛おしそうに見つめた。そして、薄く開けた唇から、ちろりと舌を覗かせ、そのコーヒーカップの縁を舐めた。うっとりした顔。コーヒーカップの曲線を指でなぞり、次は大きく開けた口から出した舌でその曲線を、下から上に向かって舐め取り始めた。私の体が粟立った。と、同時に、体の奥底が疼き、蜂蜜のようなとろりとした液体が流れ出るのを感じていた。その液体が零れ落ちたのを合図にしていたかのように、私の指がその蜜を求めた。小さな波が押し寄せてくる。最初はさざ波だった。だけど男が陶器の曲線をに強弱をつけて舐め、持ち手を齧り、湿気を含んだ吐息を漏らす度、その波は大きくなり、その波に合…続きを読む