とても暑い、夏の日だった。 夏休みが始まる前の、期待に胸が膨らんだ浮き足立つ季節に、彼と再会した。 『一緒にバンドやろう』 彼から久しぶりに連絡が来たときの感動と指先の震えをを、今でも鮮明に覚えている。彼も私も軽音楽部に所属していて、同じライブイベントに参加したのがきっかけだった。私はライブイベントの運営スタッフも兼ねていたので、ライブが終わってからも密に連絡を取り合うようになった。 幼稚園からの幼馴染だった彼は、中学を卒業して引っ越してしまい、疎遠になってしまっていた。 あの日、これからコピーするバンドのCDを貸してもらう約束をしていた。放課後、お互いの家の中間地点にあるコン…続きを読む
普通だったら、朝出かけるときの玄関から出るタイミングが一緒で挨拶を交わしたり、ゴミ捨て場に行ったら偶然会って寝起きのひげ面を晒したり、そういう小さな出会いを重ねてはじめて深い仲になるもんなのだろうけど、夜のベランダで醤油越しに俺の心臓の震えが伝わっていやしないかとびくびくしているこの状況はそれらをすっ飛ばして突如訪れた非常事態だ。 風に乗った彼女のサボンのいい香りが俺の鼻腔をくすぐる。彼女の瞳を見ることすらできない俺はただひたすらその華奢な指先の薄桃色をじっと見つめていた。 「あの。」わかりやすく肩が跳ねてしまった。「手、離してくれません?取れないんですけど」「あっ、すいませんっ」…続きを読む
鼻の奥がツーンとする。わさびを塗りたくったお寿司を食べたみたい。サーモンのように脂の多いネタだったら辛さも中和されたんだろうけど、あたしの心は油不足でギシギシ音を立てている。それでもって視界はゴーグルの中に水が入ったようにうるうるとぼやけて、少し先にある信号機の赤色が金魚みたい。 まさかこんなことになるなんて思ってもみなかったと言いたいところだけど、この結果は付き合い始めたときから、いやもっと言えば付き合う前から安易に想像できていた未来だった。 裸足の足の裏から混凝土の硬さがダイレクトに伝わってくる。何にも考えずに家を飛び出してきちゃったもんだから、夜だというのにカーディガンも羽織らずよ…続きを読む
高校三年生の2月、学校のマドンナが自殺した。 いつも一番に登校する僕が教室に入ると、開け放った窓にもたれかかり、風にその長い黒髪をなびかせている彼女と目が合った。彼女の眼に僕は映っていない。彼女の机には科学室で見かけた茶色の瓶と、中身の水がほとんどこぼれたペットボトルが転がっていた。水が机の脚をつたって木目の床を濡らしていた。 再び彼女に視線を戻す。やはり彼女の眼には僕はおろか、他の何も映っていなかった。 その後、学校の応接室に呼ばれた。僕は第一発見者ということで、警察や先生にいろいろ聞かれた。僕が教室に入ったときにはもう彼女は死んでいた、もちろん僕が殺したのではない、と何度も何度も…続きを読む
小学生のとき、100点満点のテストで30点をとった。 自分でも問題を解きながら、「これはやばい点数になるな」と思っていたけれど、想像以上に悪い結果だったことに自分でも驚いた。 こんなテストを見せたら、きっとお母さんは怒るだろう。「なんでこんな点数しかとれないの!」「まったく馬鹿なんだからアンタは!」「お兄ちゃんを見習いなさい!もっとちゃんと勉強しなさい!」そう言って怒鳴り散らかして、僕を家から締め出すのだろう。『馬鹿な子は私の子じゃない』という母の口癖が頭の内側をガンガン叩いてくる。 あーあ、僕はどうしてこんなに馬鹿なのだろう。お兄ちゃんはあんなに頭がよくて、私立の中学校に合格したのに…続きを読む
目覚めるといつも隣にいる貴方は、私に背を向けたまま夢の中を彷徨っている。 物音を立てないようにそっと身体を起こし、貴方の髪を指先で梳いてからベッドを降りた。気怠い身体を引きずって浴室に向かう。 浴室の鏡に映る私はひどく疲れた顔をしていた。無理矢理口角を上げて貼り付けたような笑みを浮かべ、そんな自分を肯定するために小さく頷く。首筋に咲く赤い華は、かつては女の勲章として誇らしく思っていたけれど、今では貴方の一時的な欲望によって付けられた無責任な独占欲の象徴でしかない。冷たいシャワーを頭から浴びて熱帯夜の余韻を冷ます。貴方に見て欲しくて染めた爪紅が、貴方に気付かれないまま剥がれかけていた。 …続きを読む
( )…ファンの掛け声織田信長『俺は不動のセンター信長様だ!己の役割を全うせよ!(兵農分離ー!)』豊臣秀吉『私は陰の策士、秀吉だ。武器はスタッフに預けたか?(廃刀令ーっ!)』徳川家康『僕は平和主義者の家康だよ!食料蓄え農業して待て!(天下統一ー!)』信長『最後に、三人で決め台詞だ!いくぞ!よーーおっ!』信長『鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス!』秀吉『鳴かぬなら、鳴かせてみせよう、ホトトギス!』家康『鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス!』(ぜんぜん揃わないじゃないかーーいっ!!!)※この「不如帰(ホトトギス)」の掛け声の際、ファンはそれぞれ自分の…続きを読む
私の地元はコンビナートの町だった。朝から晩まで煙突から吹き出た黒い煙が空を覆っていた。そしていつも、埃っぽいような油っぽいような独特の臭いが漂っていた。それらは町全体を飲み込み、いつしか私たち住人の心にまで侵食するような感覚があって、私はすぐにでも町を飛び出したいくらいだった。 小学四年生の夏、私は教室の窓からなにとはなしに遠くの煙突を眺めていた。そこから出る煙がいつもより若干黒っぽいような気がしていたけれど、そのときは自分の勘違いだと思っていた。もうすぐ帰れるという浮き足だった雰囲気が教室に充満して、先生の声をかき消さんばかりにクラスメイトの賑やかな声響き渡っていた。 帰りの会が始まろ…続きを読む
このまま死んでなるものか、と小柳は思った。 庭に咲く向日葵や太陽を乱反射させるゆるやかな川、三両編成の汽車。小鳥のさえずり、農家の掛け声、学校の鐘の音。それら全てが筆の進みを遅くする。 正面の窓を開け放っているから外界の音が煩いのだと気付いてはいるが、襦袢に染み込む冷たい汗を無視することはできなかった。鬱陶しく揺れる前髪を掻き上げると、額が空気に触れて気持ちよかった。徹夜続きの顔色は悪く、深く沈んだ眼窩は骸骨のようだった。 先程からいっこうに埋まらない原稿用紙のマス目を睨み、書いては丸め捨て、書いては丸め捨てを幾度となく繰り返していた。半分以上がまっさらな紙が床に転がっている。それらを…続きを読む
それが正しい恋かどうかなんて、一体誰が決めるのだろう。世間体か。世間て誰だ。家族か。友人か。他人か。内なる自分か。黒のスカートの下から伸びるすらりとした脚は、日焼けを知らぬ真っ白な陶器のようだ。上半身の膨らみはそれほど大きくはないけれど、彼女らしい、厳かで可憐な印象を受ける。長く黒く艶やかな睫毛が彼女のまだ幼さを残す顔に影を落とし、その隙間から依子を見上げる黒目がちな瞳は黒曜石の如く深い輝きを秘めている。「あなたがいけないのよ、私をこんなにさせて。責任をとって頂戴な。」彼女の細い指が私の髪を梳く。「あなたももう、我慢ならないのでしょう?」「そうね。私のせいよね。ちゃんとするわ。」…続きを読む