雨はフロントガラスを激しく打ちつけていた。忙しなく動くワイパーがそれを追いやることができるのは、ほんの一瞬に過ぎない。 やっぱり乗るんじゃなかった。 モカが助手席に座ったときからずっと、拓真はなんとか会話を弾ませようと努力している。そんな拓真に申し訳ないと思う気持ちもないわけではない。けれど、それを通り越して苛立たしい気持ちのほうが大きかった。 仕事帰り、雨がひどいから送ってくれると言ったこの人を困らせたいわけではなかった。ただ、二人きりのこの状況を楽しもうとは思えなかったし、この善良そうな人に早く諦めてほしかった。自分など相手にしていてはいけないと、気付かせたかった。 次々に…続きを読む
「へえ。いいとこじゃない!」 小さな駅から30分。 俺が住んでいる借り上げ社宅までのドライブに、美沙も子ども達も上機嫌だ。「まあな。緑は豊かだし、海は綺麗だし、子どもの夏休みにはもってこいだよな。 仕事に通うだけの単身赴任者には、なーんもないとこけど」 4ヶ月暮らした俺の弱音に、助手席の美沙は笑った。「ねえ、パパ。あとどのくらい? トイレ行きたい」 突然、ナオトが言い出す。そうだ、こいつはいつもそうだったっけ。「まだ20分くらいはあるぞ。ガマンできるか?」「無理ー!」 小学生になったっていうのに、変わらないな。 俺は車を停めた。「誰もいないから、その辺でして…続きを読む
沈んだ夕陽はまた昇るあなたは今日も眠りと目醒めを繰り返す花は咲き実を結ぶ鳥は囀りやがて渡る季節は今年も繰り返すあああなたはまだ気付かないこの城のすべては絡繰魔法をかけられあなたは絡繰人形になった魔法を解いてこの繰り返しから解き放たれたならあなたはどこへ行くのでしょうあなたはそこで自由の光を見ることができるでしょうか夕陽の後には朝日が昇ることも散る花の後には実がなることも渡った鳥が還ってくることも何一つ約束されないこの世界で…続きを読む
私は雨女だ。 そんなこと、子供の頃から知っていたけれど、今日ほどそれを恨めしく思ったことはない。「天気予報チェックしてから誘えばよかったね。ごめん」 申し訳なさそうな三島くんの言葉に、私は首を横にふる。「遊園地が好きって言ったの、私だし」 雨女なのも私だし。 霧雨の中、傘もなく待っている時間、会話を弾ませることができないのも私だし。 ちょっとはりきりすぎて、まだ6月だというのにノースリーブなんか着てきてしまったのも私だし。 三島くんが後悔してるのは、天気予報をチェックしてこなかったことじゃなくて、きっと私を誘ったことに違いない。 * * * 「明日、空いてる…続きを読む
休日の朝。放っておくと、歯を磨かずにいる確率の高い息子。「歯、磨いたの?」聞いた瞬間、私は気がついた。息子の口の周りには、今日も歯みがき粉の跡が白く残っている。「……あ、磨いたのね。顔、もう一回洗ってらっしゃい」大きくなってもなお、毎日のように歯みがき粉を口につけていることに呆れつつ、ま、歯は磨いてたのね。と思った私に、息子は言った。(コンフィデンスマンJPのタイトルコール風に)「目に見えるものが真実とは限らない。 この歯みがき粉は、今朝ついたものなのか? それとも、昨日の夜からついているものなのか? ○○○(息子の名前)の世界にようこそ!」…続きを読む
初めてここを訪れたのは、11月の雨の日だった。 麻実が行ってみたいと言ったことがきっかけだった。結婚する友達にプレゼントしたいから、と。「結婚のお祝いにドライフラワー? もっとフレッシュ感のあるものにしたら?」 そのときの私は、思わずそう言ってしまった。ドライフラワーと聞くと、私にはなんだか「枯れた花」という印象で、正直なところ、あまり好きではなかったのだ。 そんな私に麻実は言った。「どうして? ドライフラワーって『永遠』ていう感じがしない?」 へえ、そういうものなのか。 麻実の言葉にすこしは納得したけれど、私のイメージを一変させたのは、その言葉ではなかった。 その店はビ…続きを読む
今日、陵は青森に発つ。 推薦で勝ち取った、陵にはもったいないような大学で陸上を続けるために。「10:28分東京発のはやぶさだから。見送り、よろしく」 きのうの夕方、陵はふらっとうちの玄関に現れて、そう言った。「は? 行くわけないじゃん。美菜ちゃん、来てくれるんでしょ?」「ああ、来るって言ってたけど」 陵はいつもの調子で飄々と言う。「もう、ほんとにバカじゃないの? なんでそこに、私までいなきゃなんないのよ」「美菜は美菜。岬は岬」「はいはい。そんなデリカシーのないことばっかり言って、美菜ちゃんに愛想尽かされないように、せいぜい遠距離がんばってください」 陵のこの調子にいつ…続きを読む
いつか砂場で あの子が言ってたっけ「この砂をずっと掘っていったら 地球の反対側に出られるんだよ」 地球の反対側を見てみたくて 一緒に夕暮れまで掘ったよね いつか教わったっけ「地面のずっとずっと下は とても熱くて 人は生きられない」と それからしばらく 土を掘るのが怖かった 今は知っている 土の下には 本当は何もないんだってことを それに気付かないふりをして 人は土の上を歩くんだ それでも 私は土を掘る いつか 手が無に触れることを怖れながら 土の中に埋められた種は 無に向かって 根を伸ばす それなのに どうしてだろう …続きを読む
疲れた。 乗り換えの駅で一人になったとき、ふとそう思った。 なんだか急に、悲しくなった。 どうしてこんなに疲れてるんだろう。 ひさしぶりに履いたハイヒールのせい? それともワインに酔ったから? 着飾って出かけることも、懐かしい友達に会えることも、楽しみにしていたはずなのに。 陽菜のウェディングドレス姿、すごく綺麗だった。 初めて会った陽菜のダンナ様も素敵だった。 十年ぶりに会う友達もいて、高校時代の思い出話に花が咲いた。 子供のいる子もたくさんいたから、ママトークでも盛り上がった。 みんな笑顔だった。 私もずっと、笑顔だった。 だけど。 本当に楽しかっ…続きを読む
私は水曜日が好きだ。 ノー残業デーの水曜日、私たちは17時を過ぎると、課長に急かされながら帰り支度をする。 共同作業の多い部署だから、一緒に片付けをして、一緒にエレベーターに乗って、一緒にオフィスを出る。 そのくらいの仲のよさ。 でも、そこから「飲みに行こう!」とかいう流れになることは、めったにない。 みんなそれぞれ、自分のプライベートを大切にしている。 あくまでも仕事の仲間だから、相手のプライベートに踏み入ることもない。 そのくらいの仲のよさ。 7人で市ヶ谷駅に向かい、4人はJRへ。 柏原さんと新田さんと私は地下鉄へ。 そして、有楽町線に乗る新田さんと別れると、私は…続きを読む