ボクはここよりも広い場所があるということを知った。聞かせてくれたのは先輩だった。「いいか、俺たちはこんなところで日々を過ごして、楽してちゃいけないんだ」「どうしてですか?住むところがあって、食事もくれて、みんな優しいじゃないですか。こんなに良いこと尽くめはないですよ」「それがダメだと言ってるんだ」 先輩はボクの身体、特にお腹の部分をチラリと見た。 「そんなに肥えて、みっともなくないか」「いやー、ついつい。美味しいもので」ヘラヘラと応えるのが気に障ったのか先輩は顔を真っ赤にする。 「馬鹿野郎が。俺たちは本当なら人の手なんて借りずに生きるんだぜ」そんな冗談、つまらないですよ…続きを読む
「お前とはやってられない」突きつけられた言葉は刃物のように鋭くなって、突き刺さったままだ。何度もその言葉が頭の中を駆け巡る。同時に、雄一の血走った目、大きく開かれた口、怒りに満ち満ちた表情。忘れようにも、忘れられなかった。 「なぁ、このままプロになってみないか」高校の軽音部でバンドを組んだ俺たちは青い夢を見た。雄一からそう言われたときは流石に冗談だろうと思った。雄一はいつも軽口を叩き、ヘラヘラと笑い、人を食ったような態度をとる。そんなアイツが真剣な顔をしていた。 「本当なのか?本気なのか?」「 俺たちなら出来るさ」高校からの付き合いのはずなのに、それ以上に長い年月を…続きを読む
午前9時00分。目の前のモニターに注意事項等が表示されている。携帯電話、タブレット等の端末の電源を切ること。私語禁止。カンニング等の不正行為の禁止。など……。 いわゆる一般的に不正とされている行為の一覧が表示されている。何十年とも変わっていない基本的なルールだと思う。誰かの回答を真似る、誰かからの助けを聞く。誰かの答えではなく、自分の答え、自分の実力を発揮するのがこの場である。上手くいかない、分からないのは誰かのせいではなく、自分のせいだ。しくじるのは自分が悪いからだ。高まる緊張を押しつぶすようにぐっと握った拳に力を込めた。午前9時10分。 わたしの両親のころの試験と…続きを読む
「うわー、広ーい。綺麗だね」目の前に広がる海に圧倒され、思わず声が漏れた。 「ははは、はしゃぎすぎ」彼は笑いながら、まるで子どものようなセリフを吐いてしまったことを突っ込んだ。「いや、海とかすっごい久しぶりだからさ。テンション上がっちゃって」「確かにね。考えてみれば俺も2、3年ぶりくらいだ」 海へ行こうと言い出したのはこちらからだった。夏休みが重なり、どこかへ出かけようという話になり、暑すぎる日々のせいで碌に思考もまとまらず、だったら海へ行こうと提案した。シーズンということもあり、大勢の人が来ていた。我々のようなカップル、学生グループ、親子、家族。夏といえば海という私の安直な…続きを読む
目の前に壁のように立ち塞がっている段ボールの山を呆然としながら見つめる。「何なんだ、これは?」腕組みしながら、イライラを体現するように人差し指を小刻みに動かす。「いやぁ、何でしょうねー」俺はヘラヘラと知らないフリをする。「お前の発注だろ!なんで、こんな……壁のように積み上がってるんだ!」目の前の男、店長になるわけだが、分かりやすく怒っている。 俺は段ボールの壁を見上げる。アルコール用品在中と書かれている。 俺はというと開き直っていた。完全に自分の責任だ。自分の考えで自分の責任で発注し、自分で確認した。完全にどうあがいて俺の責任だ。人間とんでもないミスをしたときというのは、色々な…続きを読む
モノには必ずといっていいほど取り扱い説明書、いわゆる取説が付属している。テレビ、冷蔵庫、電子レンジ等の家電製品。Tシャツやカバンなどの衣類品の選択表示も取説といってもいいだろう。さらに言えば、食料品の保存方法や調理方法といったものも取説に当てはまるだろう。とにかく、この世のモノというモノには取説が存在している。 だがしかし、人には取説がない。 教師という職業に就いて、もう何年も経った。当たり前だが、一年経てば、送り出さなければならない生徒たちもいれば、また新たに迎えなくてはいけない生徒がいる。新しい学年、クラスになるたびに生徒達の情報を更新しなければならない。その度に私は心…続きを読む
一人息子であったということもあって、他の人と比べると自分は大層甘えられて育てられたと思う。 小学生の頃、欲しいおもちゃ、ゲームなどはすぐに買ってもらえた。人気のものもわざわざ母親が店に朝一番で並んで買ってきてくれるなんてこともあった。友人達からは大層羨ましがられた。いいな、いいなと羨望の目を向けられた。学校から帰って、そのことを母に言うと、母は喜び、また何でもいってねなどと気を良くしていた。 中学生になった頃、僕は体調を崩しがちだった。何だか最近身体がおかしいなと思い、軽い気持ちで病院へ行くと入院し、手術を勧められた。その時の母の表情は忘れられないくらい真っ青だった。あとで…続きを読む
先程から何者かがついてくる気配がする。背後を振り返ると、小学生くらいの少年が佇んでいた。 「君は一体どこの誰かな」 鶴見雄一郎(つるみ ゆういちろう)は目の前の少年を見つめる。少年は何も答えない。それどころかただじっと置物のようにピクリとも動かない。その様子におーい、と鶴見は少年の目の前で手を振る。少年は瞬きこそするものの微動だにしない。鶴見は少年を無視することにして、歩を進めた。やはり、少年は後をつけてきた。 「何だよ、俺に用があるのかよ。だったらさっさと言えよ。無いなら、ついてくるんじゃねぇよ」 鶴見は2メートル近い身長に、恰幅の良い出立ちで目つきが鋭い。子供が好んで近づいて…続きを読む
私の職業は「人間」をつくることだ。人間の大部分は水、他には炭素、酸素などの原子で出来ている。だからこれらを満たして、人造の人間をつくっている云々などという漫画じみたことではない。私の仕事は言わば、人格をつくってあげることだ。 優しい、気がきく、空気を読むことができるなどの能力を持つ人は「人間が出来ているね」などという評価を貰っている。裏を返せば、それ以外の人は人間にも関わらず、暗に人間でないと蔑まれている。あえて表現するなら、「人でなし」だ。私たちは人間に生まれたはずなのに、人ではない、という烙印を押される。でも、人間そう単純ではないはずだ。人間が出来ている人と人でなしの両極端の…続きを読む
退屈だ、気がつくとそう溢していた。変化しない毎日。というよりも悪い方に悪い方に変化している気がする。嬉しい、喜ばしい、微笑ましい、そんなニュースは入らない。恐ろしい、憎たらしい、苦々しいニュースばかりが目立つ。気がする。 何をしても満たされなかった。「疲れ切った現代人。私は誘いますよ、楽園へ」耳元でそう囁かれた。振り返ると、上下真っ赤なスーツ、黒いシルクハットを被り、おまけにステッキを手にしている奇妙な男がいた。「楽園?あれか?風俗とか宗教とかか?全くそういうの興味ないので」「とんでもない。楽園ですよ。楽園。パラダイスです。私はあなたをそちらに招待しますよ」ニヤニヤと笑う…続きを読む