「約束」12月。午後3時も過ぎると、海岸線の砂浜にはほとんど人の姿はなく、波音だけが僕のことを気にかけている。見ている人などいないのに立っているのが恥ずかしい気がして砂浜を掌でならしながら座る僕の襟元に潜り込もうとする海風も冷たく感じる。僕だけが一人、誰もいない星に降り立ってしまったかのような絶望した宇宙飛行士のようだ。目の前には海。生命を育む大海が地平に伸びる。君を待つには、あと何千何万の時間がかかるのか途方に暮れる迷子のような気分だ。大学に入り君と出逢った。どちらかと言えば、大人しく引っ込み思案な君が「落としましたよ」と、俯きながら消え入りそうな声…続きを読む
「手紙」ー女は自分が不幸だと思った時に、別れた人を思い出すと聞いた。ー前略貴方が好きだった歌の歌詞とは違い、今、私は幸せにしています。じゃ、なぜこんな手紙なんか書く気になったか?自分でもよくわかりません。もっとも、貴方の家の番地までは覚えてなかったから、封筒には貴方の住む地区までしか書けなかった。だから、この手紙は届くかどうかもわかりません。多分、書きたかっただけ。貴方に向けて。そして、私に向けて。今は、仕事も変えて、東京に住んでいます。やり甲斐のある仕事です。そこで知り合った人と、秋に、結婚することにしました。貴方に似て、優しい人です。…続きを読む
「桜」あの日、昨日まで当たり前のようにいた貴方は、目には見えない何かに絡め取られた。「心配しないで」そう言った貴方のか細い声が、今も耳にはっきりと残っている。すがる思いで呼んだ救急車への同乗も出来ず、病院での世話はおろか、面会さえも許されなかった。季節は春。今が盛りと言わんばかりに音を立てるように咲いた桜たちが、堰を切ったように舞い散る風の午後、貴方は、私を置いたまま、遠く手の届かない所へ逝ってしまった。ただただ泣く私に、桜の花びらが降りしきったあの日。私の時間は、今も止まったまま動き出す気配がない。暖かな日だった。遠くに聞こえる般若心経の中…続きを読む
「前略」突然の手紙、すみません。福祉事務所の方から、連絡を頂きました。48年ぶりになりますか。貴女の生活保護の申請にあたり、扶養の意思確認の手紙が届きました。ー扶養は出来ませんー理由の欄には、ー本人に扶養されていないためーと、書きました。すみません。貴女もきっと、望んではいないでしょう。私が4歳の頃、貴女は私と1歳の弟を置いて、家を出て行きましたね。私も弟も涙が枯れる程泣きました。父と3人の暮らしでは、父がしばらく居なくなる時に、決まってテーブルの上に10,000円札が2枚が置いてありました。5歳と2歳の私達は、店の日除けが色褪せてしまった雑貨屋で…続きを読む
今生最期の一息その男は待っていた。住み慣れた部屋で倒れてから一昼夜。心許なくなった呼吸の中でその時がくるのを。この一息が、今生最期の一息となるか。出来る事ならそうなって欲しいと。願いつつも数える時が、先程来、無常にも繰り返されていた。死ぬことさえ願っても叶わぬ。その男の絶望だけが、弱々しく吐き出されていた。一息毎に視界が白く霞んで行き、見慣れた天井や蛍光灯がぼやけて見えた。その度毎に、昔愛した人や、今も憎んでいる者が現れる。皆、口を揃えてその男を許さないと言う。死んでしまえばいいのだと罵る。その男を憎まない者は誰一人いなかった。孤独。おそらく…続きを読む
コスモス*貴方に病が見つかった冬。心配ないと私に言っては、無理に元気を繕っては、仕事へと向かう貴方を毎日送り出した。貴方のパソコンの履歴から貴方の病名の検索を見つけて、私も一緒に貴方と闘おうとした。誰も傷つけることなく、誰も陥れることのない貴方。この世に神など居ないと知ったあの日。ならばなろうと決めた。私が貴方の神に。*貴方が入退院を繰り返すようになった春。貴方は家に居ることが多くなり、庭で過ごす事が多くなった。一回り小さくなった肩で小さく息をしながら、花を植え、雑草を摘み、水を遣る。時をかけ庭を花で飾っていく。時折辛そうな表情をしながらも、雨の…続きを読む
欠片(かけら)*今でも、僕の部屋には君の欠片が落ちている。それは、君と出かけた時のシャツであったり、君から誕生祝にもらった、もう壊れて動くことのない腕時計であったり。あれから、この腕時計のように僕の周りだけ時間が止まり、あるいは遡り、ただ、先に進むことだけがない。まるで、行き止まりの道に気づいて振り返った時に、今来た道さえ消えており、自分の靴底にだけ地面があるのか、それともふわふわと宙に浮いているのか、全くわからぬように。*忙しく暮らすことで居場所があると思い込もうと、仕事だけにしがみつくことがただ一つの方法だと信じて疑わず、他人にも強制し、多くの人に囲まれていると勘違いしながら、…続きを読む
「下弦の月」*今、君もこの月を何処かで、誰かと一緒に見ているだろうか。仕事帰り、ネクタイを少し緩めながら空を見上げた。今では、ものすごくお互い遠くにいるにもかかわらず、僕にも君にも見えているのは、満月に向かおうとする同じ上弦の月だ。月は、約29.5日の周期で新月から上弦、上弦から満月、満月から下弦、下弦から新月へと繰り返す。*少なくとも君と特別な呼び方の関係でいられたあの時間、月は何度巡りきて、僕らを照らしたかあの頃は考えもしなかったが、今となればあの頃の生活には、空を見上げる余裕などなく、君ばかりを見つめていた気がする。おそらく、その時だって僕の頭上には、今みたいな美しい…続きを読む
「背中」*偶然の産物なのか。私の席はいつも貴方の後ろ側。遠い時もあれば、真後ろの時もあった。3年間、貴方と同じクラス。これが偶然だと言うならば、敢えて私は奇跡と呼びたい。高校生の私は、常に貴方の後ろ姿を見つめ続けた。授業中、私がとる大学ノートには、黒板の板書を写した文字と、貴方の後ろ姿の素描(デッサン)があった。*一度だけ、貴方と隣り合わせた3ヶ月。右側にいる貴方を見ることが出来ず、目の前の黒板と、左側に見える校舎の外を眺めた。代わり映えの無い景色に飽き飽きした頃、ガラスに映る貴方を見つけた。それからは、少し猫背気味になり、窓ガラスばかり見ていた気…続きを読む
「図書館」*君の横顔を見つめていた。紺色のスクールバッグを傍らに置き、まるで自ら決めているかのようにいつもの同じ席に座る。息を飲む程に美しく輝く長い髪は、図書館の天窓から差し込む斜光に照らされている。1枚の絵画のような凛とした気高さ。それはまるでソフィーアンダーソンの「少女の肖像」のようだ。柔らかに差す光に包まれた君を、少し離れた席から見ている。それだけで僕は幸せだった。制服から学校はわかった。でも、名前も歳もわからぬまま、僕だけの図書館での逢瀬は続き、君は僕のことなど意識もしていない。それが僕には寂しくもあり、安心でもあった。*ある日、君の見えな…続きを読む